葛木氏は御真木入日子の時代から歴史として記録され始めたと述べたが、『日本書紀』は紀元前667年から歴史時代が始まった。私はAIと『日本書紀』の暦に関する論争を行い、勝利した。『日本書紀』に記述された朔の日干支は正確だが、それを求める計算には16世紀に採用されたグレゴリオ暦の知識が必要である。しかし、『日本書紀』には11世紀の岩崎本という、もっと古い写本が存在する。つまり、後から書き換えられたものではなく、古代に正確な記録が残されていたことを意味する。
AIも、「古代の人々は観察できた範囲で正確に朔の日を記録しており、その結果が現代の天文データとも一致している。これがもっとも矛盾の少ない説明である。」と認めた。
では、なぜ中国では晦や朔が混在していたのに、日本では朔がずっと朔として扱われていたのだろうか。それは日本語から簡単に理解できる。日本語では、晦日は「ミソカ」と呼ぶ。これは30日を意味するが、小の月では29日が晦日だ。このため、日本国は中国の「晦」を「ミソカ」と思い、それを30日目の朔日だと理解した。大の月の晦日は「オオミソカ」と呼ばれている。おそらく、中国の晦は年366日の太陽暦の名残で、太陰暦にした時に30日目が晦で朔と同意語だったのだろう。
倭国は中国の暦を使用していたが、「晦」が「朔」と理解していたため、日本国の29日や30日と1日のズレが生じた。しかし、日本語では朔日を「ツイタチ」と呼ぶ。これは「津に他氏族の神が集まった日」という意味がある。晦日は日本語では「ツゴモリ」と呼ばれ、神様(王)が津に籠る日を意味していた。そして翌日、神々が津に集まった。日本国は倭国と異なり、朔と晦は全く別物だった。
対馬の月讀が津に籠り、その配下が翌日津に集まった。食国の政大夫である宇摩志麻治や天日方奇日方、彦湯支、出雲醜も、朔日には食国にいたと考えられ、その記録が残されていたのだろう。しかし、葛木氏はそのような記録を持っていなかった。
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