2024年11月27日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話9 大神君

  『日本書紀』には、安寧朝から孝安朝まで、1云で波延の娘が天皇の皇后で、孝霊天皇妃も磯城縣主の大目の娘と書き直している。そして、和知都美の子は蝿伊呂泥と蝿伊呂杼であり、和知都美が安寧天皇波延の継承者である。孝昭天皇は、奧津余曾の子と和知都美の娘が皇位を継承したと考えられ、和知都美の娘が『日本書紀』に記された波延の娘・渟名城津媛であろう。

安寧皇后渟中底姫は建飯勝の妹、その子の師木津日子の娘、和知都美の兄弟のもう一方の名前が不明の人物は、渟名城津媛の夫に奧津余曾大連がピッタリだ。沼河耳が建飯勝ならば、妹が渟中底姫、夫は安寧天皇波延、安寧天皇の娘も懿徳朝の波延の娘も「渟」の名を継承したのだろうか。

建飯勝の子の建甕槌の妃である伊勢幡主の娘の賀貝呂姫は、伊勢主の娘であり、伊勢神麻績連の祖である八坂彦が子孫だろう。八坂彦の母は尾張連の祖・意富阿麻比賣である。建甕槌の子は豊御氣主であり、孝昭天皇の皇后には、倭國豐秋狹太雄の娘・大井媛が記述されている。

孝昭天皇の在位期間が83年にも及んだため、5代程度の継承が行われたと考えられる。和知都美の娘と奧津余曾の娘、そして建甕槌の孫娘がそれぞれ皇位を継承していったのだろう。それが、一云の皇后なのだろう。

豊御氣主は、大伴氏の祖の忍日と丸迩氏、天豐津媛の兄と共に筑紫を攻撃し、王となった。そのため、「豊」の名を持つようになったと考えられる。豊御氣主と紀伊名草姫の孫である阿田賀田須は、和迩君の祖であり、曲浦の王になったようである。孝昭天皇の皇后の父である倭國豐秋狹太雄の存在も、この点で一致している。

忍日が造った高千穂宮は西暦125年に室見川の沿岸に永宮が建てられたため、その頃に滅びたと考えられる。高千穂宮の歴史は580年続いており、紀元前460年より前の孝昭天皇の時代に宮が開かれていたと考えられる。建甕槌の後裔である大御氣持は、出雲鞍山祇姫を妃にしており、出雲臣の祖である出雲主振根は筑紫国との往来があり、神寶を崇神朝に渡さなかった。この後、『後漢書』の時代に和迩君が筑紫の大倭王であったなら、これらの姻戚関係は理に適っていると考えられる。

0 件のコメント:

コメントを投稿