天日方奇日方が神武朝と綏靖朝の2世代にわたって存在しなければ、いくつかの矛盾が生じた。天日方奇日方の娘と、媛蹈韛五十鈴命の皇子との間に神武朝最後の天日方奇日方の子の日子八井が生まれた可能性がある。神武朝が76年にわたって続いたため、約4代の世襲があったと考えられるので、日子八井が天日方奇日方の子で襲名したことに矛盾はない。日子八井と伊須氣余理比賣とは従兄妹の関係で、伊須氣余理比賣は分王朝なので、天日方奇日方と呼ばないで日子八井と呼んだと考えられる。
美良姫との子の建飯勝は安寧天皇の皇后の兄なのだから、綏靖朝の鴨王、神武朝の天日方奇日方の子である。天日方奇日方妃の賀牟度氏の姫の子が鴨王なら良く当て嵌まる。日子八井は茨田連の祖であり、仁徳朝において茨田堤を築いた際に茨田連衫子を河神への生贄にした。茨田連は河内に住んでいた氏族であり、天日方奇日方の後裔である大田田根子も河内にいた。このため、日子八井が綏靖朝の天日方奇日方であれば、矛盾は生じない。
すなわち、綏靖朝廷の初期には、日子八井が天皇であったと考えられる。その後、阿多君の妹の子である當藝志美美が、綏靖皇后を妃として即位した。彦湯支は当初、綏靖朝の足尼であり、その後に政大夫となった。このため、綏靖朝の初めには、2代目の天日方奇日方、つまり日子八井が政大夫であり、彼が亡くなった後に彦湯支がその地位を継いだと考えられる。神武朝の時、天日方奇日方は政大夫ではなく、宇摩志麻治が政大夫だった。
その後、綏靖天皇當藝志美美は伊須氣余理比賣の子である沼河耳の反乱により敗北した。これにより、2代目の天日方奇日方の娘である渟中底姫安寧皇后が、夫である縣主波延と共に皇位に就いた。初代政大夫・宇摩志麻治の子(?孫)と義弟の沼河耳と共に、阿多君・鴨王(神君)の三国朝廷から物部氏の朝廷に権力が遷った。
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