君子国は周饒国を「衣冠帶劍」という武力を担う「於漏知」を使って侵略した。黄帝は『山海經』に「天地鬼神是食是饗君子服之以禦不祥」として、不運を避けるために鬼神を祀り、君子も鬼神に服したとされている。日本人は「木神」を祀る国が君子国と理解したので王に君の文字を使ったと思われる。ここでの鬼神とは、木根(幹)を神として祀る対象にしていることを指していると思われ、遼東半島にあった「鬼国」もまた、君子国の兄弟国であったと考えられる。この鬼国の本家が「於漏知」であり、三国の君子国がその鬼国を統治していた。
周朝は、東の「周饒国」(隠岐・あまねく豊かな国)に対し、西の周を名乗った。これは、後の殷を継いだ西周の話ではなく、黄帝が活躍した夏朝が開かれる前の出来事だ。
紀元前660年以前には『日本書紀』の内容を記録した文字に類するものがすでに存在しており、九州では延光四年、125年に篆書体を交えた文字が発見されている。篆書体が使われたのは秦までで、それ以前から文字を使用していたことを示す。正しい日干支とそれに付随した記事があるのだから、漢字でなくとも文字に類するものが無ければ記録を残すことは不可能だ。
隠岐の「食国」は、月讀や於佐の神が統治していたが、君子国に敗北した。『伊未自由来記』は交易によって、収まったと述べるが、実質は敗北と思われる。そのため、月讀や蛭子の説話がほとんど残されていないのではないだろうか。
対馬から遣って来た「津見」の一族、大山津美や加須屋の海祇(海の神)は牟遲や産巣日などの地名を持って移住してきた。アカホヤの噴火で逃げた人々も多く存在し、その一部が蓋州や朝鮮北部に逃げ、他の人々は黄海の朝鮮半島西南岸や済州島に逃れた。これが天(吾魔・倭)であり、日本海や太平洋沿岸に逃れたのが阿蘇(吾祖・委奴)であったと考えられる。天橋立にも阿蘇海が存在するのは、阿蘇の名を持って遣って来た痕跡かもしれない。
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