孝元天皇の子である少名日子建猪心は、『日本書紀』に倭迹迹姫と言い換えられており、彼が倭迹迹姫の婿であったと考えられる。実際のところ、少名日子建猪心は景行天皇の時に記述されるように、比古布都押之信の後代の野洲王の名前である。少名日子建猪心は「少名日子」という名前の通り、吉備小国の王であり、若建吉備津日子の娘である針間之伊那毘能大郎女に婿入りした、吉備の王であったと考えられる。
御真木入日子の宮は318年まで続き、その後、若帯日子の宮が355年まで続いた。伊久米伊理毘古と大帯日子の宮が並行して存在していた可能性が高い。御真木入日子の宮の後に続いていたなら、王の薨去日の記録があるはずで、それを記述しないのは、傍系の王家だったためと考えられる。
少名日子建猪心という分家が開かれたのは、屋主忍男武雄心と呼ばれていた150年頃までに開かれたと思われる。景行3年西暦73年に屋主忍男武雄心は紀伊国、これは木国に祭祀する宮を造って、武内宿祢が生まれたと記述する。73年では日干支が間違いであり、纏向に首都が在り、その隣国は領域と考えられ奇異である。130年ならば、日干支も正しく、景行天皇は128年に穴穂へ追い出されているので、屋主忍男武雄心が木国に宮を建てるのは理に適う。宮を建てるということは、侵略して、山代の内臣の首領になったことを意味し、それが内臣の宿祢(王)の紀(木国)の武内大臣である。
そして、本家の屋主田心の曾孫が成務天皇の時代に高志国造の称号を授けられたので、少名日子建猪心は屋主田心から分かれた家系だろう。本家である紀氏は仲哀天皇まで仕え、200年頃には葛城国造の庇護を求めて移住した。
少名日子建猪心は若建吉備津日子の娘に婿入りし、その子である小碓が日向襲津彦を殺害し、襲津彦の地位を継承した。建猪心兄弟は、小碓と大碓の可能性がある。紀氏は仲哀天皇まで屋主であり、その名の通り、野洲の王であったが、大和の葛城に逃れた。この時、大臣の地位を武内大臣から丸迩の比布禮能意富美が奪ったと考えられる。
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