2024年11月25日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 三国の神話8 懿徳天皇

  政大夫は食国の賜姓を受けていたが、やがて、食国の配下でない大臣に即位することになった。天皇は権力が小さい宗教上の権威だったのだろう。出雲醜の妃は倭志紀彦の妹である真鳥姫であったが、倭志紀彦は師木津日子なのだろう。

鋤友の妃は師木縣主の祖である賦登麻和訶比賣であり、この構図は波延の妹である師木縣主の祖の河俣毘賣の事例に似ている。『古事記』の玉手見の子は鋤友と常根津日子の姉の婿であり、真鳥姫の夫、若しくは、師木津日子が常根津日子伊呂泥に相当すると考えられる。師木縣主の祖の賦登麻和訶比賣の夫の大倭日子鋤友が磯城縣主太眞稚彦であるならば、鋤友の子が出雲醜の娘・沙麻奈姫を妃とした建飯勝、太眞稚彦の娘・飯日媛が懿徳妃となる可能性が高い。

『日本書紀』が記述する「磯城縣主太眞稚彦女飯日媛」とあるように、鋤友の妃は賦登麻和訶比賣なので、鋤友が賦登麻和訶日子であったことになる。そして、その娘・飯日媛が2代目出雲醜の妃であり、義妹が沙麻奈姫である。懿徳天皇の在位期間は34年で2代の天皇がいたと推測され、建飯勝が懿徳天皇を継承したと考えられる。そして、次に皇位を継承するべき人物は、建飯勝と沙麻奈姫の娘であったが、長男の建甕槌が劔根と高倉下と共に反乱を起こしたようだ。

そのため、安寧天皇の後継者であった玉手見の娘の子である世襲足媛が皇位を継承したと考えるのが順当である。このように、初代の建飯勝と沼河耳が同一人物であると考えると、論理的に筋が通り、また、氏族の観点でも神沼河耳の氏は神氏なので、建飯勝の後裔である大友主が崇神朝で大神君を賜姓されている。

鋤友の子には、御眞津日子訶惠志泥と多藝志比古がいるが、多藝志比古は孝昭天皇の母懿徳皇后・天豐津媛の弟、息石耳の子だった。従って、多藝志比古も娘婿の可能性が高く、葛木氏の祖・劔根の娘の賀奈良知姫の夫の天忍男ではないだろうか。

玉手見とともに皇位を交互に継承しあった師木津日子の孝昭世代の子には、二人の王が存在した。一方の王は淡道の御井宮の王・和知都美であり、もう一方は不明であるが、恐らく、多藝志比古の娘婿の奧津余曾、当時の宮は首都を意味し、葛城の掖上宮を指していると考えられる。

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