2023年12月29日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』と『古事記』の国

  『三國志』に対して、『古事記』の『三國志』までの頃までと比較しよう。游斯呂和気以前に出現する国は次のようだ。游斯呂和気までは、薨去日がはっきりしない、記録の無い世界のためだ。戊寅年318年から乙卯年355年の就位した若帯日子以降は王位の就位期間が解っている。なぜなら、干支で薨去日を示すのは、その間隔が60年以内だからである。それ以上なら、干支は意味をなさない。役職に60年以上就くと、80歳を超えてしまい、古代ではまずない。

また、意祁王が記述した国生み神話の部分は、意祁王の時代を背景にした大八嶋と考えられる。讃岐國造や阿波國造は履中天皇期より後に造られる。阿波國の初出は允恭期の「狹磯是阿波國長邑之海人」である。そして、綿津見神は阿曇連の祖、履中天皇の時の阿曇連濱子が初出である。同様に、豊國別王の日向國造の祖の様な説明文の国も除く。

出現國は「出雲國、伯伎國、黄泉國、葦原中國、食國、刺國、大國、宇都志國、木國、根堅州國、高志國、倭國、常世國、近淡海國、豊葦原之水穂國、天津國、美濃國、科野國、韓國、若國、豊國、阿岐國、紀國、起國、針間國、稲羽國、旦波國、山代國、但馬國(多遅麻國)、三野國、尾張國、科野國、弟國、大倭國、相摸國、東國、河内國、安國」である。

美濃國と三野國は同じ読みだが、私は三野國が三国ではないかと思っている。食國は隠洲国、安國は野洲国、根堅州國は淀川河口、宇都志國は菟道の津の大津の志木と考える。気づくところは、日向國や熊襲國、筑紫國、奴國、伊都國をはじめ、九州の国が含まれていない。九州は、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連と『古事記』記述時に書かれた。熊曾建は敵国に入って、暗殺した人物である。豊國は安芸國が豐の秋津と呼ぶように、東の「拘奴國」で関門海峡を渡った東だ。

神武東征で日向や竺紫は記述される。宇沙は豐國の宇沙、『古事記』の神話では、日向や竺紫は勢力範囲外の権威が届かない国だ。日向や竺紫は国と認めていないことを示している。『古事記』の出現國には壱岐国もない。しかし、対馬と考えられる国があり、それが、天津國と黄泉國だ。『三國志』の「對海國」は「方可四百餘里」、20㎞四方と記述する。しかし、実測は最長72㎞、3国分の距離である。すなわち、水葬で対馬海流の最下流に死体が流れ着く「黄泉國」、もう一方が「天津國」なのだろう。そして、もしかしたら、もう一国、「對海國」も有ったかもしれない。倭国と畿内政権は別国なのだから。

2023年12月27日水曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』と『古事記』の国

  『三國志』に対して、『古事記』の『三國志』までの頃までと比較しよう。游斯呂和気以前に出現する国は次のようだ。游斯呂和気までは、薨去日がはっきりしない、記録の無い世界のためだ。戊寅年318年から乙卯年355年の就位の若帯日子以降は王位の就位期間が解っている。なぜなら、干支で薨去日を示すのは、その間隔が60年以内だからである。それ以上なら、干支は意味をなさない。役職に60年以上就くと、80歳を超え、古代ではまずない。

また、意祁王が記述した国生み神話の部分は、意祁王の時代を背景にした大八嶋と考えられる。讃岐國造や阿波國造は履中天皇期より後に造られる。阿波國の初出は允恭期の「狹磯是阿波國長邑之海人」である。そして、綿津見神は阿曇連の祖、履中天皇の時の阿曇連濱子が初出である。同様に、豊國別王の日向國造の祖の様な説明文の国も除く。

出現國は「出雲國、伯伎國、黄泉國、葦原中國、食國、刺國、大國、宇都志國、木國、根堅州國、高志國、倭國、常世國、近淡海國、豊葦原之水穂國、天津國、美濃國、科野國、韓國、若國、豊國、阿岐國、紀國、起國、針間國、稲羽國、旦波國、山代國、但馬國(多遅麻國)、三野國、尾張國、科野國、弟國、大倭國、相摸國、東國、河内國、安國」である。

美濃國と三野國は同じ読みだが、私は三野國が三国ではないかと思っている。食國は隠洲国、安國は野洲国、根堅州國は淀川河口、宇都志國は菟道の津の大津の志木と考える。気づくところは、日向國や熊襲國、筑紫國、奴國、伊都國をはじめ、九州の国が含まれていない。九州は、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連と『古事記』記述時に書かれた。熊曾建は敵国に入って、暗殺した人物である。豊國は安芸國が豐の秋津と呼ぶように、東の「拘奴國」で関門海峡を渡った東だ。

神武東征で日向や竺紫は記述される。宇沙は豐國の宇沙、『古事記』の神話では、日向や竺紫は勢力範囲外の権威が届かない国だ。日向や竺紫は国と認めていないことを示している。『古事記』の出現國には壱岐国もない。しかし、対馬と考えられる国があり、それが、天津國と黄泉國だ。『三國志』の「對海國」は「方可四百餘里」、20㎞四方と記述する。しかし、実測は最長72㎞、3国分の距離である。すなわち、水葬で対馬海流の最下流に死体が流れ着く「黄泉國」、もう一方が「天津國」なのだろう。そして、もしかしたら、もう一国、「對海國」も有ったかもしれない。倭国と畿内政権は別国だから。

2023年12月25日月曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』と景行紀

  南の「狗奴國」との戦いで、不戦の国と、交戦した国がなぜ有ったのか。そして、『後漢書』の東の「拘奴國」はどのようにして『三國志』の南の「狗奴國」となったのか。豊後や日向は敵の熊襲ばかりなのに、菟狹川下、日向高屋宮では戦いが無い。理由は思い当たる。高千穂宮の人物、神武(おそらく豐御毛沼)の東征である。最初に向かったのが、「速吸之門」、関門海峡である。そこに「曲浦」を統治する、珍彦を配下にする。元々は配下でなかった、「拘奴國」の人物だろう。

そして、同様に、菟狹へ侵略すると、菟狹津彦がいた。菟狹津彦は破れて、侍臣天種子を菟狹津媛に迎え入れ、配下になった。天種子の子は安芸で、豊秋津国の中臣となった。この、三地点の内側が『後漢書』の東の「拘奴國」である。この結果、『後漢書』の東の「拘奴國」は『三國志』の南の「狗奴國」になったと考えられる。すなわち、豊国が東の「拘奴國」だった。

日向は日本童男が川上梟帥を殺害し、さらに、弟彦達が「悉斬其黨類」と殲滅した。童男は諸縣君牛諸井の祖先なのだろう。弟彦は景行天皇だった。おそらく、子達は御刀媛や日向髪長大田根を妃にして、阿牟君の始祖の日向襲津彦や、日向國造の始祖の豐國別を生む。

そして、『三國志』の南の「狗奴國」を掃討して、物部印岐美が「久努直」と「狗奴國」王となったようだ。印岐美、壹君とも書け、熊襲討伐の先遣の物部君の祖の夏花の子の可能性がある。さらに、橿日宮の卑弥呼は松峽宮へ、「熊鷲」と「御笠」で戦った。そして、朝倉の夜須、山門縣の『三國志』の南の「狗奴國」を滅亡させた。『晋書』以降、「狗奴國」は記述されない。『晋書』に泰始二年十一月己卯「倭人來獻方物」、義熙九年「倭國・・・獻方物」と倭は引き続き朝貢している。しかし、親晋倭王ではない。晋にとって、倭の重要性が減った。その結果、倭は畿内政権にすり寄っている。「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」である。

2023年12月22日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』 「拘奴國」から「狗奴國」

  『三國志』は倭国の構成国の30国を「此女王境界所盡」と記述した。「斯馬國」、「巳百支國」、「伊邪國」、「都支國」、「彌奴國」、「好古都國」、「不呼國」、「姐奴國」。そして、「對蘇國」、「蘇奴國」、「呼邑國」、「華奴蘇奴國」。更に、「鬼國」、「爲吾國」、「鬼奴國」、「邪馬國」、「躬臣國」、「巴利國」、「支惟國」、「烏奴國」、「奴國」である。そして、南に「狗奴國」が有って、「不屬女王」に対抗した国である。「狗奴國」は『後漢書』に「女王國東度海千餘里至拘奴國」と女王国の東、海を渡った場所に、その首都が有った。

「拘奴國」は「千餘里」50㎞、海も渡って彦島辺りが国境だ。景行天皇は周芳娑麼から「南方烟氣多起」と南方に戦乱を見た。『三國志』と同じ南である。すなわち、それ以前に、東の「拘奴國」を南に追いやった。その地を得たのは、久奴(拘奴)直の祖の物部大小木連だろう。「志賀髙穴穗宮御宇天皇御世侍臣」、150年頃で、時代も合う。兄弟の大小市連は小市直の祖、嘉穂郡に小市神社が有り、小市という地名が有ったのだろう。大倭王の淡海の天皇の配下が「大倭王居邪馬臺國」と筑紫か宗像に居たと思われる。

それで、「桓靈間倭國大亂更相攻伐」後、「一國之魁帥」と壹国の頭領がいた。景行12年の九月甲子朔は206年の日干支だろう。景行天皇は根の纏向王で、大倭王は但馬・丹波・若狭・敦賀・淡海道・野洲・大津の王だ。「神夏磯媛」の神の那津伊襲媛、那珂河河口の伊襲国女王で一大率を置いていた。伊都と呼んだのは、首都の高千穂宮が有るからなのだろうか。「神夏磯媛」と景行天皇によって「邪馬壹國」は落ち着いたが、首都を移動して南の「狗奴國」はまだ存在する。領域は菟狹川上、三毛、碩田、速見、直入、來田見、竹田市の稻葉川、大野、直入、熊縣、玉杵名が敵国である。日向國、葦北、八代縣、阿蘇、大牟田の筑後國の御木、八女、浮羽は友好国のようだ。阿蘇を含む友好国、そして倭国の中の蘇を含む女王国の構成国がよく合致する。すなわち、「南至投馬國」と「投馬國」へ行く途中、九州西岸の肥前・肥後の国が21国と考えられる。倭は『山海經』の「海内東經」に記述される。「海東經」は黄海、東シナ海を指す。「草野姫」の草は天草の草だろうか。

2023年12月20日水曜日

最終兵器の目  新しい古代 『梁書』が見た「倭國」

  間違い説は『梁書』を引き合いに出すかも知れない。しかし、『三國志』の里単位を隋や唐の里単位の8倍になった目で書いたからと私は考える。『四海華夷総図』と同じ目を文書にしたのだ。日本に行ったことが無い、唐初の権威の「姚思廉」の「私選」の、『梁書』の常識なのだろう。梁朝以外の北朝の資料も使用して、余計な知識を使っているのだろう。

『隋書』は「夷人不知里數但計以日其國境東西五月行南北三月行」と記述する。倭人は里数を知らないと。しかし、『日本書紀』は雄略天皇が創らせた崇神紀で記述して「任那者去筑紫國二千餘里」と。垂仁紀にも田道間守が「受命天朝遠往絶域萬里蹈浪」と短里で言った。『三國志』は対馬を「對海國」と呼んだ。いかにも「狗邪韓國」と対の国で、「狗邪韓國」は倭領だ。任那は「狗邪韓國」と思われ、「對海國」の対馬が統治したから、対馬までの距離100㎞なのだろうか。

そして、大化の記事には「三十里以下四里以上爲中郡三里爲小郡」と記述する。天武・大化の記事は元明朝が記述している。里単位を知っているから、唐朝に合わせて、1里400mの長里に変更している。150m四方の国は有り得ず、1.2㎞四方なら有り得る。隋朝は自分たちが使う里単位と違うから、倭人は里数を知らないと言ったのである。

「扶桑國」の人は短里を使っていた。雄略紀に東漢掬直が「方今區宇一家烟火萬里」と言った。長里だったら、中国を通り越す虚言、短里なら500㎞である。倭国が宋朝に主張する「萬二千里」の領域なら妥当である。

慧深又云扶桑東千餘里有女國」と記述する。『梁書』の倭国の、梁朝以前の記述の多くが慧深の言葉だ。官位の「對盧」を使い、高句麗と関係が深い扶桑国の慧深の言葉を、北朝の長里の単位と考えた。南朝の齊・梁は短里を使う慧深の隋にあった記録を長里と考え、8倍して短里に変換し64倍に。計三万二千里は九州からフロリダまでの距離、短里なら根室までの距離に相当する。書籍の『四海華夷総図』の目の『梁書』が出来上がった。南朝の記録のインドは「中天竺國在大月支東南數千里地方三萬里」である。ブータンからカシミールの間は千五百㎞で短里表記だ。

2023年12月18日月曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』が見た「倭國」2

 「邪馬壹國」までの、足りないと言われている35㎞は、「伊都國」と「不彌國」の領内の距離である。「末盧國」は船行途中での記述で領内に入らず、「末盧國」は東南端の国境松浦川で、船を降りたと思われる。「不彌國」は陸行と記述しない。船行で領内を、立ち寄って通過したので、詳述されていないようだ。そして、「不彌國」と「邪馬壹國」の国境の河に到着する。国境は唐原川だろう。1国の領内の距離は「對海國」と「一大國」で記述した、3~4百里(15~20㎞)である。「奴國」を「陸行」せず、行っていない。だから、能古島・志賀島・海の道の博多湾北岸の遊覧の旅である。

能古島・志賀島・海の道の南には、「奴國」と「邪馬壹國」がある。「不彌國」の「千餘家」に対して、「奴國」が「二萬餘戸」、「邪馬壹國」は「七萬餘戸」である。千対九万の90倍の人口の土地、横幅が20㎞で、南北が2㎞対20㎞の土地である。住民比でも合致する。「伊都國」と「奴國」の国境は三瀬峠越えの「百里」で5㎞、「伊都國」と「不彌國」の国境は海を隔てて田尻、能古島間の、「百里」で5㎞である。陳寿は事実を記述し、後代の権威は、無い「景初三年」が有る、と記述した。

最初から解っていた。韓国から「一大國」まで、対馬の島内を通らないと、船行二千里の100㎞で行けない。約150㎞、三千里になる。『三國志』は95パーセント以上正しいのだから、正しくなるように理解した。正しく無かったら、考えるのも無駄だ。東でなく南なら、北や西かも、船で無く、筏で流されたかも。船行が10年でも何でも有り、万里と書き間違えても、だ。ご当地だと主張できても、証明できないから、首都遺跡の証拠がある纏向で決定だ。

2023年12月15日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』が見た「倭國」1

  倭人伝の里程の合計が合わないと権威は主張する。7百里35㎞、または、千四百里70㎞足りないと言う。「四海華夷総図」を知っている権威は、『三國志』などあてにならないと言う。真実は権威の頭にあり、足りない35㎞、70㎞を陳寿は船行と陸行に置き換えたことに決めた。35㎞でフィリピンまで行かなければならないのだから、誇張したと。船行と陸行で、距離も自由だから、どこにでも行けると権威は考えた。

ところが、陳寿は、通過した場所の紀行文を記述した。「對海國」は「島方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴」。「一大國」は「方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴」。「末盧國」は「有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之」。「伊都國」は「千餘戸世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐」。「不彌國」も国内の様子を記述しない。陸地がほとんどない、海岸線自体が領内なのだろう。「末盧國」は、陸地に入れないからと海岸線の様子を船から見て記述した。一度は接岸して、「草木茂盛行不見前人」と様子を見たのだろう。そして、また船に戻るという、沿岸船行を示している。すなわち、「末盧國」以外の国々は領内を通過していることを示している。

そして、「度一海千餘里至對海國」、「渡一海千餘里名曰瀚海至一大國」、「渡一海千餘里至末盧國」。「對海國」と「一大國」は国の中を歩いたはずなのに、渡海して至ったとだけ記述している。さらに、「陸行五百里到伊都國」、「行至不彌國百里」と行き至っている。そして、「至奴國百里」、「至投馬國水行二十日」、「至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」は「着きますよ」の意味だ。百里で、水行二十日で、水行十日陸行一月で「着きますよ」と記述している。しかし、「邪馬壹國」の様子を記述しているのだから、実際に行っている。すなわち、「不彌國」から「邪馬壹國」まで、行く必要が無い、0里で行けることを意味する。「奴國」から「邪馬壹國」も那珂川か御笠川が国境と思われる。

2023年12月13日水曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』と朔の日干支

『三國志』の年号を検証しよう。233年「青龍元年閏五月庚寅朔」は朔の日干支。239年「景初三年正月丁亥朔」は前年12月30日晦日の日干支。242年「正始三年九月辛未朔」の注記は間違いで、241年の日干支である。ところが、261年の注、「景元二年八月丙子朔」は朔の正しい日干支である。すなわち、正始元年は239年である。「松之桉魏武以建安九年八月定鄴文帝始納甄后明帝應以十年生」と記述される。建安九年は204年、8月に后を迎えたので、翌205年以降の生まれと述べた。その為、「計至此年正月整三十四年耳」、239年正月なら35歳なのに34歳と記述する。この原因は、「景初三年正月丁亥朔」が原因だろう。本来は景初2年12月30日丁亥、34歳である。

ところが、「其以建寅之月為正始元年正月」で、正始元年1月30日丁亥と変化する。さらに、「以建丑月為後十二月」と「時改正朔」で1月は後の12月、後の12月は29日までである。その結果、「景初三年正月朔日丁亥」で、正始元年1月は存在しない。239年閏2月1日が丁亥朔であるが、238年12月に「帝寢疾不豫」なので違うだろう。実際の人々は、正始元年12月まで景初三年12月と思って記録したと考えられる。そのため、『梁書』も「至魏景初三年公孫淵誅後卑彌呼始遣使朝貢」と記述される。『日本書紀』の「明帝景初三年六月倭女王遣大夫難斗米等」も同じ感覚の中にいる。松之も当然、その範疇の人物だろう。

陳寿は明帝には「景初三年丁亥」、齊王には景初三年丁亥朔」と記述を書き分けた。239年の記録は、齊王の景初三年の記録と、正始元年の記録が記述されたようだ。その中に、倭国記事があったと思われる。正始元年記事の内容は、まだ改元されていなくて、倭人には皇帝が交代したことを知っているが、それでも景初3年である。12月に「詔書報」、明帝は危篤状態で皇后が代行している。正始改元は12月、日本人が知ったのは正始4年の使者が帰国後である。景初4年鏡が存在しても矛盾はない。

2023年12月11日月曜日

最終兵器の目  新しい古代 『三國志』と地図

  『三國志』の信頼度が95パーセント以上正しく、グーグルマップで、距離が正確にわかる。3百里の壱岐は16㎞、1里約50mだ。しかし、1里50mでは唐津から、皆が想定する場所に届かない。合計「萬二千餘里」にも足りない、不明の足りない千四百里の問題だ。正しいはずなのに。また、「不彌國」と「邪馬壹國」間の距離記述がない。95パーセント以上正しい『三國志』、抜かりが無いはず。そこで、距離の記述がないから、理解できた。「不彌國」から「邪馬壹國」の首都までの距離ではなく、国境間距離だということが。両国間は0里、川が国境だ。国境の両岸が「不彌國」と「邪馬壹國」なのだ。足りないのは、領内の広さ、しかし、それはもう書いてある。壱岐や対馬の方三百里と方四百里だ。1国の領内の広さは15~20㎞である。「末盧國」は海岸線を船行する途中の様子である。「末盧國」の領内を通っていない。「末盧國」国境から歩行、記述は国境間である。記述が無いのは、「伊都國」と「不彌國」の領内の三~四百里である。足りない距離が埋まった。この結果は95パーセント以上の確率で『三國志』が正しいと、数値で示された。

対馬は縦長で70㎞、方四百里20㎞と矛盾する。しかし、対馬には、少なくとも、複数国があり、特定できないと思われるからだ。対馬は『山海經』で「女子國」とされる国で、「兩女子居水周之」と島に二人の女王が居た。月神と日神と考えられる。現在も上下の県郡が知られていて、国境が解らない。しかし、『三國志』は95パーセント以上正しい。すなわち、対馬内にある、三分の一の距離の国だ。『三國志』の距離認識を否定する根拠が、朝鮮や明の古地図である。朝鮮の1402年作と言われる『混一疆理歴代国都之図』や1532年作と言われる『四海華夷総図』などだ。日本が巨大だったり、北が南だったりしたので、海洋民族の日本人には奇異に見えただろう。

しかし、海を知らない騎馬民族の人々にとっては、『三國志』の記述をもとに描く以外方法が無い。日本は「有侏儒國在其南・・・去女王四千餘里」と記述されている。四千餘里、200㎞位で、沿岸船行で国東半島あたり、侏儒の土蜘蛛が居る土地だ。『日本書紀』に「到碩田國・・・茲山有大石窟曰鼠石窟有二土蜘蛛」、碩田は大分市だ。ところが、明の人々は、1里400mなので1600㎞、フィリピンに届く。北方騎馬民族の距離感と、歩行漢民族の距離感の違いである。里単位の違いを知らない地図を、愚かな日本の権威者が見た。中国人への侮蔑が生み出した錯誤だ 。




2023年12月8日金曜日

最終兵器の目  新しい古代 日本の古代史研究

日本の古代史は、「まずは『日本書紀』ありき」で、言わば「国定教科書」と言えた。『日本書紀』が正しく、それ以外は間違い、国家という権威の当然な在り方であった。古代8世紀の国家の有力者の中には、『日本書紀』と異なる歴史を持つ人々が多数存在する。其々、氏族毎に、其々、氏族毎の歴史観が有ったはずだ。それらの人物が『舊事本紀』や『古事記』を記述したと思われる。国家の権威はそれらを偽書と扱った。

ところが、江戸時代に、国学者の本居宣長は『古事記』が正しいと考えた。『古事記』と『日本書紀』は相違点が多数あり、権威を否定したのである。そして、その頃、「邪馬台国論争」が勃発していた。新井白石は『古史通或問』で大和説を主張して朝廷のことだとした。日本に権威は大和朝廷だけと考えたのだろう。しかし、新井白石は「外国之事調書」では「筑後国山門郡説」を説いた。複数の権威が、古代には存在したと主張したわけだ。そして、本居宣長も『古事記』が正しいのだから、『馭戎概言』で、九州の熊襲による「偽僭説」を提唱した。大和朝廷が中国に朝貢して、配下になるなどとんでもないと考えたのだ。日本は建国以来、畿内以外の首都は存在しないのだから、当然だと考えたのだろう。

「邪馬台国論争」は、権力が複数あったか、畿内だけかの論争だ。『三國志』が正しければ、複数の権力、間違いなら、畿内政権だ。『三國志』の間違い論争が高まれば高まるほど、畿内政権が勝つ論争である。「東か南か」、「陸行か船行か」など意味がないのである。首都の遺跡は纏向に有る。年代の測定結果など、100年近い幅があると主張して問題なし。もし、「親魏倭王」の金印が出土しても、常套手段の偽造や盗難とすれば良い。権威が主張すれば、みな黙る。

 しかし、本居宣長の「『古事記』が正しい」は、衝撃を与えた。『古事記』が正しければ、『日本書紀』に間違いがある。『日本書紀』の元明朝の官僚の偽作説が誕生することとなった。『三國志』も作者の陳寿の信頼性を貶め、誇張だ、間違いだと主張した。「邪馬台国論争」は罪作りな論争だ。現代の何でも有りの歴史観と違い、古代はまじめな人々だ。『三國志』は晋朝の目で見た事実だ。『舊事本紀』や『古事記』も、その時代にあった『日本書紀』を基に、その氏族の目で見た事実なのだ。『三國志』が正しければ、必然の結果が導かれる。すると、誰も儲からず、マスコミも飛びつかない。

2023年12月6日水曜日

最終兵器の目  新しい古代 はじめに

  私は、これまで、『日本書紀』の矛盾を考え、一書群(中国・朝鮮史書、古事記、舊事本紀等)と比較し、検証してきた。始まりは古田氏の「『三國志』は正しい」だった。しかし、私は失望した。古田氏は卑弥呼の墓を須玖岡本遺跡にしたいだけだった。そのため、1里を70mにして、奴国を女王国とした。これまでの、古代史の権威と全く変わらず、頭の霧は晴れなかった。ところが、世の中が変わった。誰もが簡単にネットに繋げられ、『日本書紀』をはじめ、『三國志』も『古事記』も原文で読めるようになった。それまで私たちが読めたのは、権威が書き換え、解説した『日本書紀』や『古事記』しかなかった。しかし、最も書き換えが無い『日本書紀』などの原本が国会図書館の電子ライブラリーで読めるようになった。中国史書は「維基文庫」や「中國哲學書電子化計劃」で原文が読めた。そして、グーグルマップで、簡単に正確な距離が算出できた。

そして、私は自動カレンダー作成ソフトを創った。月齢や二十四節気も、旧暦も表示させた。そして、その計算のため、フリーの、「朔・節気」計算ライブラリーを手に入れた。ユリウス数を使った高度なライブラリーだった。しかし、西暦0年が在り、その他の朔の間違ったユリウス日を返すバグがあった。それで、異常値は、集計して朔の個数で検証して修正した。修正が終わった朔や節気を使って、ユリウス数と旧暦の月日を対応させて、日干支を算出した。現代の日干支は簡単に検証でき、古代の日干支は、史書の「日蝕があった日干支」を使って検証した。検証結果は『漢書』・『後漢書』の誤った答の割合が172中7件だった。(一件、月食を記述していたと思われるので省いた。)7件は晦日か2日の間違いで、伝聞の間違いの可能性が高い。統計的に95パーセント正しければ、有効な数値と考えられる。従って、中国史書や三国史記の記事は95パーセント以上の記事が事実だと考えられる。ちなみに、『日本書紀』は日蝕記事がほとんどなく、全ての朔の記事で77パーセントの正確さだ。4分の1の記事が朝廷以外の記事と推定できる。中国史書は、晦日が朔だったりしたため、全朔で83パーセントの正確さだ。17パーセントの多くは違う暦を使った王朝の変換ミスだろう。

そして、新しい古代史の究明が始まった。今まで、どれが正しく、どれが間違いか解らなかった史書が、どの程度正しいか解った。晋・宋の歴史家の裴松之さえも、『三國志』を間違って解釈した。それより後代の歴史家など、真実をどれほど記述したのだろう。原文の史書が一番の資料、そこに、真実が八割もある。残りの2割の八割は、朔日を晦日に移植したりしたなどの間違いなのだろう。実際の錯誤は5分程度と考えられる。証拠が全くない権威者と比べ物にならない、それが、数値で示された史書群であり、『日本書紀』なのだ。

2023年12月4日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 まとめ

  『日本書紀』は藤原氏も含めて完成させた史書である。正史と異なる記述は当然別資料があったことを示す。『家傳』は、俀国の年号での記録だろう。白鳳や斉明の年号と倭国の元号の白雉や日干支での記録とを対応させた。同様な方法の結果が『日本書紀』だった。それぞれの王家にはそれぞれの基準年号がある。大神の宮には、日干支で書かれた、宮の行事、礎石(底津石根)に宮の大黒柱を立てる「宮建立」から始まる。そして、宮の神、前女王の皇太后を祀り(死者の神を合祀)、新しい女王が即位する。皇太后()を迎えるので、前宮は廃宮となり、女王が絶えると、最有力者(皇后の兄弟)の姫()を迎える。「栲幡娘姫皇女侍伊勢大神祠」や「離天照大神於豐耜入姫命」である。年中行事のため、朔の日干支は必ず記録される。それぞれの王家は、おそらく、相対的年数や日付を記録(墓誌の年干支)、冬至から、立春から何日後という日付なのだろう。

そして、「最終兵器の目」が登場した。ユリウス数から算出する朔の日干支である。陳寿は信頼できないと軽んじられた『三國志』をはじめとする、中国史書の日蝕の日干支が正しかった。少なくとも、中国史書の日干支が正しいことを証明した。中国史書の年数や朔の日干支の矛盾も、改暦の為であったことも証明した。偽書なら、暦も嘘を作ればよい。だが、暦は正しい。暦が正しければ、記事も正しいと考えられ、中国史書は正しいことが前提になる。

『日本書紀』は正しい日干支と間違いの日干支がある。すなわち、日干支が正しい記述は記録、間違いの日干支は寄せ集めてきた、記録と証明できる。そして、間違いの日干支はいつの日干支を持ってきたかが解る。残念なのは、寄せ集めなのだから、正しい日干支も違う場所からと頭の片隅に。そして、私の新『日本書紀』は天文学的数値で裏付けた歴史だったのである。辛酉の年干支で1月朔日が庚辰の日は紀元前660年だけだ。建国の日は正しかった。

疑問があるのなら、晦日や2日に日蝕が起こる大発見を証明してほしい。ユリウス数無しで、正確な朔を算出できる方法を教えてほしい。奈良時代に千年以上前の朔を算出できる計算式を示してほしい。太陽と月と地球の位置関係を定数で算出するのは不可能だ。地球は楕円に公転し、地軸の「ズレ」、長軸と短軸の速度は異なる。奈良時代の人々は、このような天文知識がない。もう止めよう。権威ある歴史学者の頭の中にしかない歴史から抜け出そう。『日本書紀』は偽書、『三國志』も信用できない、『野中寺銅造弥勒菩薩半跏思惟像本像台座の框』も偽造と権威は言う。偽書や偽造はどこから証明したのか。偽書という『日本書紀』をもとにした研究のなれの果てである。嘘から出た嘘だから本当のはずがない。非主流の研究者には宝の山がここに眠っているから、ここからが出発点だ。

私は、まず、『日本書紀』の矛盾を考えた。そして、『日本書紀』をもとに、他書との矛盾を、考えた。最後に、他書をもとに、『日本書紀』を考えた。次は真実の日本の古代史を考えよう。

2023年12月1日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 『古事記』『舊事本紀』「帝皇本紀」より後2

『家傳』「大師伝」は「簡授錦冠」の後、「俄而崗本天皇崩」と記述される。『日本書紀』では645年「大錦冠授中臣鎌子」で654年に「天皇崩于正寢」、9年後に急死ではなく正寢である。斉明天皇も七年皇位に就いていた。そして、665年白鳳五年秋八月、「大綿冠内臣中臣連・・・超拝紫冠」とある。『日本書紀』では654年白雉五年正月、「紫冠授中臣鎌足連」とこれも異なる。そして、「俄而天萬豐日天皇」なので、665年、「已厭萬機登遐白雲」と崩じた。665年に官位授与と天皇崩、確かに俄かである。そして、皇祖母尊が「再應寶暦」と再登板し、「悉以庶務委皇太子」と、皇太子が摂政である。白鳳5年は『日本書紀』を引きずった年号で、実際は白鳳4年のことだ。

『野中寺銅造弥勒菩薩半跏思惟像本像台座の框』という遺物がある。「丙寅年四月大旧八日癸卯・・・中宮天皇大御身労坐之時」と666年の天皇は中宮天皇である。『薬師寺東塔の擦管』に「庚辰之歳建子之月以中宮不悆」とある。680年11月に中宮天皇が治らなかったと記述されている。『日本書紀』も680年十一月、「後岡本天皇之喪而弔使」と660年崩じたとした天皇の弔使が記述される。660年ではなく680年の弔使だ。中宮即位は天智天皇が20歳になっていないので、即位できなかったからだ。661年、天智が13歳で皇太子、668年、天智が20歳になり、即位した。694年、天智は46歳で崩じ、鎌足は692年、56歳で薨じた。

『日本書紀』の白雉4年「發遣大唐」に定惠が唐に出発した。そして、一行が唐での死や海死したが、白雉5年「定惠以乙丑年付劉徳高等船歸」と記述される。貞恵は鎌足31歳の長男、不比等は46歳の次男である。しかし、『家傳』「貞恵伝」には、「白鳳5年随聘唐使到于長安・・・時年十有一歳矣」と記述される。「則唐主永徽四年」と記述し、「歳次甲寅」と653年、白雉2年が654年の干支で矛盾だらけだ。614年生まれの鎌足は高齢出産だが、637年生まれなら、鎌足19歳の子、不比等は23歳の子である。そして、白鳳16年、676年に「其年十二月廿三日終於大原之第春秋廿三」と廿二歳、春秋の数えで廿三歳の早逝だった。

629年から、実質の天皇は倭国王の吉備嶋皇祖母だった。飛鳥岡本宮は嶋大臣が生まれた「飛鳥河之傍」だった。貞観五年631年に、高表仁と対応したのは倭王だったことからも解る。そして、天智三年に「大紫蘇我連大臣薨」・「嶋皇祖母命薨」と乙巳の変で倭国は664年に崩壊した。665年麟德二年の封泰山で唐の天子と会った倭國の酋長は中宮天皇だった。670年咸享元年に『新唐書』「號日本國」と俀国は国号を変えた。しかし、大化6年、「長安元年其王文武立改元曰太寶」と文武が即位した。持統十一年697年即位ではなく700年だ。『古事記』は「飛鳥清原大宮御大八州天皇御世潜龍躰元洊雷應期」、すなわち、大化年中だ。文武は潜んでいたがクーデタで新政権を樹立した。実質、襲名した馬古、文武の義父の不比等が天皇と同等だ。

2023年11月29日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 『古事記』『舊事本紀』「帝皇本紀」後1

  「帝皇本紀」に推古廾二年六月丁卯朔己卯に「物部恵佐古連公為大連」と記述されていた。この朔の日干支は640年の日干支である。恵佐古は「小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連」と記述される。皇極天皇は小治田天皇、豐財重日の母の吉備姫は高向王と舒明天皇の妃だった。この前年、舒明十一年七月に「今年造作大宮及大寺・・・百濟川側爲宮處」と、百濟川辺に大宮を造った。翌年四月丁卯朔壬午、この日干支は九州の日干支で、「便居廐坂宮」と廐坂宮に居住した。さらに、七月「徙於百濟宮」に遷って、十三年十月己丑朔丁酉に、「天皇崩干百濟宮」と恵佐古百濟宮大連天皇が崩じた。おそらく、廐坂宮にいた恵佐古が田村王の死後、小治田に遷ったが、蝦夷に敗れて百濟宮で薨じたのだろう。

そして、「大臣病臥之・・・辛丑薨」、「阿須迦天皇之末歳次辛丑」と641年に豊浦大臣が薨じた。吉備姫も飛鳥から小治田に遷った。実際の首都がどこなのかは解らない。皇極期から天智天皇たちが記述したため、664年からの事績を混入させている可能性が高い。但し、大化期の記事は元明天皇たちの記事で、695年以降の記事があると思われる。

また、守屋の子の雄君は、「飛鳥浄御原宮御宇天皇御世賜氏上内大紫冠位」とある。世代的にも飛鳥天皇の豊浦大臣の事だろう。「目大連女豊媛爲妻生二兒」と記述されるように、目大連の娘を妃にしている。目大連は大伴金村の事、恐らく、『古事記』に記述しない大伴糠手の娘の崇峻妃の小手子のことだろう。また、紫冠位を授けられたのは、「私授紫冠於子入鹿」と「紫冠授中臣鎌足連」だけだ。大紫は蘇我連大臣とやはり入鹿、入鹿は物部連入鹿大臣と自称していた。それ以外は元明天皇たちが記述した人物で、解らない。

同じく、目大連の子の馬古連が「難波朝御世授大華上」、恵佐古大連の子の荒猪連も「同朝御世賜大華上位」と記述される。大華上を授与された人物は『日本書紀』に無い。大錦上授与が「遣大唐押使高向史玄理」「大錦冠授中臣鎌子連」である。鎌足は『家傳』「大師伝」に「母曰大件夫人」と、恐らく、大伴夫人、目大連の家系で、馬古連が合致する。恵佐古は智奴王、母は漢王の妹、智奴王の妃の吉備姫が橘豊日の孫の高向王だ。その子が漢皇子、高向玄理は漢王の兄弟の可能性が高く、荒猪がよく合う。そして、その兄弟、天智天皇の太皇弟が「淡海朝御世爲大連」の多都彦だろうか。

2023年11月27日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 推古天皇4

『隋書』に「至竹斯國」と目的地の俀国の首都の筑紫に到着したと記述した。そして、さらに、「又東至秦王國」と秦王国に到着したと。それ以降、「達於海岸」まで到着点の至が無い。秦王国の到着地は難波を経て推古十六年の「秋八月辛丑朔癸卯唐客入京」と小墾田だろう。「同於華夏」と秦王国の様子は中国人と変わらないと記述する。そして、「復令使者随淸來貢方物此後遂絶」と、また両国共に朝貢してきなさいと命令した。しかし、拒否したので、断絶したと記述した。これ以降、中国は俀国も秦王国も記述しないで、倭国のみ記述する。すなわち、俀国も秦王国も隋朝より上位と思っていたので、朝貢するように命じたから、断絶したのである。二十二年六月丁卯朔己卯の「遣犬上君御田鍬矢田部造於大唐」も、三一年の「大唐學問者僧惠齊惠光及醫惠日福因等並從智洗爾等來之」も当然倭国が対象だ。そのため、舒明二年の「大仁犬上君三田耜大仁藥師惠日遣於大唐」の御田鍬が倭国の代表である。唐時代には秦王国が存在しない、旧日本国である。隋との交渉は俀国と秦王国なので、推古期を記述した倭国は隋を認めず、唐と記述したのだろう。

二二年の「大臣臥病爲大臣而男女并一千人出家」記事は卅四年の嶋大臣の死亡記事と思われる。『上宮聖徳法王帝説』に「曾我大臣推古天皇卅四年秋八月嶋大臣爲大臣之男女并一千人」と記述する。すなわち、千人出家と大臣薨は、ほゞ、同時で、『上宮聖徳法王帝説』は続けて、「廿二年甲戌秋八月大臣病臥之卅五年夏六月辛丑薨之」と記述する。『日本書紀』は「夏五月戊子朔丁未大臣薨」と八月では無く、八月は「千人出家」の月である。すなわち、卅五年の「辛丑薨」は嶋大臣ではないと思われる。卅五年の薨は廿二年の薨から13年後の卅五年に薨じた、豊浦大臣の薨と思われる。『船王後墓誌』「阿須迦天皇之末歳次辛丑」、奇妙な『上宮聖徳法王帝説』の「辛丑薨」は641年、舒明十三年だろう。『上宮聖徳法王帝説』の「本云」以外は原則『日本書紀』と同じで、「本云」は別資料である。

推古元年は593年ではなく、592年冬十二月壬申朔巳卯に「皇后即天皇位於豐浦宮」と即位した。推古元年は592年で、1年前倒しである。すなわち、推古年は1年前、聖徳太子の薨は正しい日干支だ。法興31年の「明年正月廿二日」と翌年の622年の1年前だった。従って、嶋大臣薨も正しい日干支だから、実際は翌年627年の薨が正しいと思われる。そして、推古年は推古天皇でも嶋大臣の年号でもない、法興帝の年号だったのだろう。

聖徳太子薨去以降から、朔の日干支は正しい日干支が、大臣薨去以外無い。嶋大臣は倭国豊浦宮王である。そして、629年から、640年小治田宮の恵佐古大連即位まで小治田宮天皇は名目上、空位だ。そのかわり、嶋大臣が生まれた飛鳥岡本宮の吉備嶋皇祖母が舒明元年に即位した。そして、推古三六年の三月癸丑に「天皇崩之」、75歳で、『古事記』も「戊子年三月癸丑」である。

2023年11月24日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 推古天皇3

  『隅田八幡神社人物画像鏡』の大王の日子人太子は癸未年八月までは、生存した。皇太子も大王である。また、卅二年十月癸卯朔記事の「天皇詔曰今朕則自蘇我出之大臣亦爲朕舅也」の天皇は田村皇子の説話のようだ。小治田王の娘婿だ。嶋大臣を舅と呼べる天皇は「夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛」の法提郎媛の夫のみ、舒明天皇だ。すなわち、田村王は10歳代の小墾田宮皇太子で、623年、癸未年の八月以降に天皇と同等の日子人皇太子は薨じたようだ。秦王国の倉椅柴垣宮の天皇は推古、小墾田宮天皇の皇太子が田村王である。皇太子は天皇と同等だが、未成年のため、麻伊古大連を襲名できない。小墾田宮天皇不在のため、暦を扱う朝廷が飛鳥岡本宮に遷ったのだろう。『隅田八幡神社人物画像鏡』は田村王と法提郎媛の婚姻祝いなのだろうか。

すると、十一年十月己巳朔壬申の「遷于小墾田宮」の遷都によって、初代麻伊古が大連になったといえる。日子人が大連皇太子になった。推古5年の皇太子の竹田皇子死後、日子人が成人するまで、大連皇太子が不在だった。竹田皇子は推古元年20歳未満だったのだろう。成人していたら、推古天皇ではなく、竹田皇子が即位すればよい。豊浦宮は竹田皇子が皇太子で、廐戸皇子も成人前で、弟の嶋が大臣になった。

二年春二月丙寅朔の「皇太子及大臣令興隆三寶」は竹田皇子、九年春二月の「皇太子初興宮室于斑鳩」は廐戸皇子のことだろう。十一年十月己巳朔壬申に「遷于小墾田宮」と日子人皇太子が麻伊古大連皇太子に即位した。斑鳩には日子人の庶妹玄王や刀自古郎女が居住して共に山代王が生まれた。摩理勢臣が「赴干斑鳩住於泊瀬王宮」とあるように、斑鳩に泊瀬王の宮があった。そして、皇后の小治田王に田村王が婿入りした。十一年十一月己亥朔、11月2日に九州の技術者に蜂岡寺を建立させたようだ。十二月戊辰朔壬申の「始行冠位」も十二年四月丙寅朔戊辰の「作憲法十七條」も日子人皇太子だろう。

『隋書』の冠位と小仁より後が異なり、俀国の聖徳帝に対抗したのだろう。十三年夏四月辛酉朔の「造銅繍丈六佛像」も日子人皇太子で、高麗國大興王が「日本國天皇」と、秦王国の天皇と呼んでいる。『舊唐書』の「日本舊小國」は旧俀国、後の日本が小国だったの意味。「併倭國之地」は倭国が元々の日本を併合し、それを俀国が併合したという意味。「日本國者倭國之別種」は後の日本、旧俀国が倭国から分裂した国だとの意味。小国の俀国が倭国の領土を併合して、新しい日本を建国した。仁賢六年の「倭國山邊郡額田邑」までの倭国は淡海の倭国の可能性が高い。しかし、欽明七年の「倭國今來郡」などは、新漢を「いまき」と訓読し、倭が畿内に変化しだした。

2023年11月22日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 推古天皇2

  三六年九月己巳朔は、日干支に該当する日が無く、598年の日干支と考えられる。推古5年、「卅九年當于泊瀨部天皇五年」と泊瀨部が殺された597年の年齢と間違えている。「便宜葬于竹田皇子之陵」と天皇が皇子の陵墓に埋葬は逆で奇異である。すなわち、馬子の子の後継者竹田皇子が597年推古5年に崩じた。翌年、馬子の陵墓に埋葬、そして、推古天皇も崩後、同じ陵墓に埋葬されたのではないだろうか。

馬子の実際の薨去年が『舊事本記』の推古5年の597年か、『日本書紀』の崇峻5年の592年か解らない。推古三二年の蘇我大臣が葛城縣の領有を求めた時、天皇が大臣を叔父と言っている。この天皇は豊御食炊屋比売では無く、記事も624年ではなく623年の記事である。『日本書紀』は法興帝の記事をもとに推古記事を記述して、混乱している。しかし、『日本書紀』が正しそうだ。『古事記』も592年壬子の崩だ。597年は竹田皇子の薨去だろうか。

三六年三月丁未朔戊申に「日有蝕盡之」と日蝕があるが、この表記では2日に日蝕があって天体異常だ。しかし、この朔の日干支は2月29日晦の日干支で、戊申が朔で正常な天体ショウーだ。しかも、この日蝕は畿内で観測されず、九州で観測できた。新旧の『唐書』に「貞觀二年三月戊申朔日有蝕之」と記述される。廿九年二月己丑朔癸巳の聖徳帝薨、三四年五月戊子朔丁未の「大臣薨」も正しい日干支である。すなわち、この頃の間違いの日干支は九州や任那の資料の日干支と考えられる。

卅二年四月丙午朔は31年4月1日朔、卅二年九月甲戌朔も31年9月1日朔で1年違う。十月癸卯朔も31年10月1日朔、卅三年正月壬申朔も32年1月1日朔と同じく違う。623年624年である。623年は癸未年、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』を作成した年である。王后即世日の二月廿一日癸酉の日干支は622年2月21日、聖徳帝の薨去日はその翌日である。それを、621年にしたために挿入が間違ってしまった。聖徳太子薨の法興32年(622年)記事を推古29年(621年)に挿入したために、間違った。法興帝が豊御食炊屋比売より1年後に薨じたのだろうか。

2023年11月20日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 推古天皇1

593年、推古元年四月庚午朔己卯の「立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子」は九州の暦である。俀王の東漢直駒が殺害され、法興帝の弟の漢直の聖徳帝が皇太弟になった。568年に太子になったのが「東漢直駒東漢直磐井子」と磐井の子の駒なのだろう。駒に譲位された子の法興帝が30年以上帝位に就いているので、即位年は若く、子が13歳以下なので、弟が太子になった。斉明朝に、東漢長直阿利麻、東漢草直足嶋と分岐した家系を記述し、天武期に東漢直等とある。東漢直は463年、雄略七年に興・東漢直掬が初出である。雄略期以前に漢直の祖と記述されるので、漢直祖阿知使主から始まる、本家の漢直が存在したと思われる。そして、東漢直は677年以降も、「小墾田御世至于近江朝常以謀・・・今以後若有犯者必入不赦之例」と存在した。

東漢直に代わって倭漢直が、その後記述される。俀国は隋外交に失敗したのが608年、法興18年に遣隋使の一行に学生の倭漢直福因が存在した。年齢から、日子人の妃の大俣王の兄の漢王は聖徳帝の子の倭漢直福因と思われる。さらに、聖徳帝の子と思われる高向王は倭漢直比羅夫、豐財重日の兄弟の漢皇子が倭漢直縣・萬豊日・筑紫君薩野馬と考えられる。そして、天武期に東漢直を許したのは、「不欲絶漢直之氏」と漢直に類が及ぶからだろう。その結果、「川内漢直・・・賜姓曰連」、「倭漢直等賜姓曰連」と九州と難波の漢直は認められた。皇室の直系なので当然である。そして、2代目豐財重日の小墾田天皇の子の、蘇我豊浦大臣の孫を妃にした天智が即位した。

推古元年春正月壬寅朔丙辰の「以佛舎利置于法興寺刹柱礎中」は、法興帝の事績だろう。『法隆寺金堂釈迦三尊像』はその法興寺に安置されたものを、法隆寺に移設したと考えられる。倭王が俀王の名を冠した寺を建立する謂れが無い。聖徳帝漢直は川内漢直と呼ぶように、川内に基盤を持ち、川内難波の荒陵に四天王寺建立も理に適う。年齢的にも廐戸皇子と同年代である。二年春二月丙寅朔の皇太子や大臣が「競造佛舎」の記事の大臣は嶋大臣、皇太子は小墾田皇太子日子人だろう。池辺宮は穴穗部間人皇后の薨と豐聰耳は子の山背大兄が推古末20歳程度、豊浦大臣より若いので、豐聰耳は嶋大臣より若い。守屋の子の豐聰耳は嶋大臣の皇弟で、倭国太子、日子人は秦王国太子だ。

2023年11月17日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 推古天皇前紀4

推古天皇の継承者を選ぶとき、豊浦大臣にとっての叔父が存在する。「大臣曰傳聞之叔父以田村皇子欲爲天皇」と記述する叔父は誰なのだろうか。『隅田八幡神社人物画像鏡』は「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念」と記述する。すなわち、癸未年の623年まで、太子日子人が生存し、その男弟王が存在する。斯麻は嶋大臣で、626年、推古三四年に薨じて、豊浦大臣の父の嶋大臣と日子人皇太子は義理の兄弟である。日子人皇太子が生きていればすんなり日子人天皇だが、太子不在である。そして、日子人は天皇になっていないから、日子人の皇太子自体が存在しない。事実上の秦王国の実力者は意柴沙加宮の男弟王で、甥の田村王を推した。当然だが、日子人の妃の庶妹の田村王は小治田王と考えられる。しかし、秦王国天皇は名目上の天皇で、実質は吉備嶋皇祖母と豊浦大臣が飛鳥岡本宮で統治した。『船王後墓誌』に「乎娑陀宮」の時に生まれ、「等由羅宮」、「於阿須迦宮」で「才異仕有功勲」と記述される。「阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月」と641年が飛鳥末年、智奴王が崩じた。わずか1年で崩じて、秦王国は完全に滅亡した。

『舊事本紀』の史書はここで終わるが、「天孫本紀」はまだ続く。皇極天皇は天智天皇が記述したのだから俀国の女王だ。倭国は吉備嶋皇祖母、嶋皇祖母が天皇で、大臣が統治したようだ。「天孫本紀」にはもう一人、大連が存在する。史書が続いていたら、「帝皇本紀」に続いて667年、天智六年三月辛酉朔己卯にこう記述するだろう。「遷都于近江」、恵佐古大連の子の豊日すなわち荒猪の弟の多都彦連が「淡海朝御世爲大連」と。すなわち、多都彦は天智朝の大皇弟になったと記述するのだろう。吉備姫の子の葛城皇子は萬豊日と考えられる。大海皇子は653年、白雉四年「遷于倭京」の時、天皇・皇太子・皇祖母・間人皇后・皇弟が揃っている。実際は白鳳4年、俀国が皇位を奪取した初代天皇の崩。皇弟は天皇の弟、皇太子の弟ではなく、天智天皇の時は大皇弟、先代の皇弟の古人太子の意味だ。

また、守屋大連の子の雄君という人物が存在する。「飛鳥浄御原宮御宇天皇御世賜氏上内大紫冠位」とある。世代から、飛鳥朝の綬号だろう。紫冠を授けられた人物は、「私授紫冠於子入鹿而」と「紫冠授中臣鎌足連」の二人だ。どちらも飛鳥浄御原宮の人物ではない。鎌足は、『家傳』「大師伝」に645年、白鳳五年に「故遷大紫冠進爵爲公」と「天萬豐日天皇已厭萬機登遐」後に授かった。すなわち、雄君は守屋の子の嶋大臣の家系の名で、643年、皇極二年に「私授紫冠於子入鹿」と大臣蝦()が授けた。642年、皇極元年に「天皇遷移於小墾田宮」と遷都した後である。飛鳥天皇死後も飛鳥に吉備嶋皇祖母が643年まで存在した。吉備嶋皇祖母が臥せっていたから、蝦夷が仮授した。654年、白雉五年、「以紫冠授中臣鎌足連」。これは665年の白鳳5年、鎌足だ。654年は鎌足18歳、不比等は659年生まれ、理に適う。

2023年11月15日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 推古天皇前紀2

640年まで大連天皇が存在しなかった。それまで、推古天皇は誰が後継したのだろうか。簡単である。推古三四年五月戊子朔丁未に、「大臣薨・・・家於飛鳥河之傍乃庭中開小池仍興小嶋於池中故時人曰嶋大臣」とある。舒明天皇時は飛鳥岡傍の岡本宮に首都がある。嶋大臣が生まれた宮殿であり、推古末には首都が飛鳥にあり、そこの皇后は飛鳥宮皇后である。そして、飛鳥宮には吉備嶋皇祖母が存在し、吉備嶋皇祖母は643年、皇極二年に「吉備嶋皇祖母命薨」と薨ずる。580年頃の生まれなら、576年18歳の推古天皇の娘に合致する。

600年頃豊浦宮で、嶋大臣田眼(豊浦)皇子の妃となったと思われる、吉備嶋皇祖母。皇祖母なので、舒明天皇の母だ。田眼皇女は「是嫁於息長足日廣額天皇」と記述する。息長足日廣額天皇は飛鳥天皇、豊浦皇子と考えられる。年齢から矛盾し、田眼皇女が石寸名、皇祖母天皇なのだろう。稲目大臣の娘ではなく馬子大臣の娘と考えられる。そして、皇祖母を継承した嶋皇祖母は664年、天智三年6月に「嶋皇祖母命薨」と薨じた。真の乙巳の変で薨じている。吉備嶋皇祖母の後継者、舒明前紀に記述する「蘇我蝦夷臣爲大臣」の蝦夷の妃が嶋皇祖母だろう。嶋皇祖母は贄古の娘の鎌媛大刀自だろう。贄古は厩戸豐聰耳、嶋大臣と同年代なので、嶋大臣の子の豊浦皇子の妃に適応する。そして、大臣は馬子、593年から嶋大臣、626年から豊浦大臣と継承された。

それに対して、640年即位と思われる岡本宮天皇は智奴王・恵佐古で大連天皇に即位した。皇極天皇は吉備姫と考えられる。すると、628年の推古崩から誰が継承したのだろうか。推古朝は豊浦から小墾田に遷都したので、小墾田天皇だ。『日本書紀』に「小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子」と記述される。すなわち、彦人が娘婿の皇太子である。そして、『古事記』に「日子人太子娶庶妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇」と記述する。しかし、太子の彦人は薨じ、子の若い2世麻伊古の崗本宮天皇が即位したと思われる。その後、日子人の子の2世麻伊古の弟の智奴王・恵佐古が640年に即位した。しかし、実権は、倭国の吉備嶋皇祖が手中にしたようで、飛鳥天皇と呼ばれる。

豐財天皇は「初適於橘豐日天皇之孫高向王」と高向王の妃である。高向漢人玄理とあるように高向王は漢王、子が漢皇子、東漢直の分家の聖徳王の子が高向王と考えられる。そして、智奴・恵佐古大連天皇の妃は吉備姫の皇極、高向王との子が漢王2代目皇極の斉明天皇である。智奴王も、聖徳帝の子の漢王高向王の妹の大俣王の子である。恵佐古の子の荒猪が「難波朝御世授大華上」、難波朝は蝦夷・入鹿の朝廷で、天萬豊日が榎井臣の祖の荒猪の可能性が高い。

2023年11月13日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 推古天皇前紀1

  推古天皇は『舊事本紀』「帝皇本紀」に、587年(泊瀨部五年)冬十二月壬申朔巳卯の記事がある。「皇后即天皇位於豐浦宮」で、推古皇后が大連ではなく天皇になった。天皇は『舊事本紀』にとって、神、皇后が神の言葉を聞き、大連にそれを伝える。神は宮そのもので、その宮が続く限り、天皇も続く。皇后の名前も、大連の名前も襲名されて、同じ名前である。すなわち、推古天皇は倉梯宮皇后なので、倉梯天皇を名乗るべきである。しかも、神となったので、倉梯宮そのものである。ところが、その首都の宮が、推古朝では、豊浦宮、小墾田宮と遷り、岡本宮で天皇が代り、矛盾している。その矛盾の原因は、推古天皇が倭国天皇、そのほかに、守屋や穴穂を継承した、秦王国の天皇が存在するからだ。

本来なら、592年十二月の「皇后即天皇位於豐浦宮」で豊浦宮皇后に代わる。そして、推古十一年十月の「遷于小墾田宮」に小墾田宮皇后に代わる。そうでなければ、筋が通らない。そこに、推古二十年に「改葬皇太夫人堅鹽媛」の記述がある。堅鹽媛は皇后になったことが無く、矛盾しているのだ。本来なら、小墾田宮皇后の前の豊浦宮皇后が皇太夫人である。しかも、文面は「誄於輕街」と葬儀で、誄者は多数、死後直ぐの様子だ。欽明帝の妃の堅鹽媛なら80歳以上である。やはり、豊浦宮皇后が皇太夫人堅鹽媛である。そして、堅鹽媛はもう一人存在した。

『古事記』に橘豊日の妃が稻目大臣の娘の意富藝多志比賣(石寸名)で、豊浦皇子多米王が生まれている。すなわち、豊浦宮皇后は守屋の妃の意富藝多志比賣の可能性が高い。そして、贄古の娘の鎌媛大刀自が「小治田豐浦宮御宇天皇御世爲參政」と小墾田宮まで生存している。そして、「宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣」と嶋大臣を夫に豊浦大臣を生んでいる。「豊浦大臣名日入鹿連」と矛盾を生じているが、『日本書紀』成立後に完成させたための矛盾だ。蝦夷豊浦大臣が664年まで生存しているのが、645年死亡とされた矛盾である。同様に、豊浦大臣を嶋大臣と考えて、意富藝多志比賣を嶋大臣の母にしたと考えられる。この嶋大臣の母が推古二十年の「改葬皇太夫人堅鹽媛」の堅鹽媛なのだろう。

それでは、小墾田宮皇后は誰かといえば、「是嫁於日子人大兄皇子」の小墾田皇女だろう。『古事記』は桜井玄王と記述しているが、どちらかが厩戸豐聰耳の妃の刀自古郎女である。640年、推古廾二年夏六月丁卯朔己卯、「物部恵佐古連公為大連」の記事がある。「小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連」だが、丁卯朔は640年の日干支である。すなわち、小墾田宮天皇の皇極天皇の夫と考えられる。恵佐古の父麻伊古も大連だが、実際は推古天皇がいるため、大連天皇に即位できない。すなわち、小墾田宮皇后の夫は麻伊古・日子人大兄と考えられる。そして、布都姫夫人の弟の妃が、「弟娣生物部石上贄古」と記述され、布都姫の夫となった。布都姫の弟は守屋で、その妃は間人穴太部王、子は厩戸豐聰耳、それが贄古である。そして、「此連公異母妹御井夫人爲妻」、「小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連」と記述される。おそらく、布都姫の娘の刀自古郎女と考えられる。

2023年11月10日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 崇峻天皇

  大連天皇は『舊事本紀』「帝皇本紀」に、「守屋連公爲大連亦爲大臣」以降記述されない。さらに、『日本書紀』に記述されない朔の日干支。「冬十二月壬申朔」の巳卯に「皇后即天皇位於豐浦宮」が記述される。しかも、九州の暦で、『日本書紀』は推古天皇が主役の推古前紀に記述される。崇峻紀では、この朔の日干支以外は正しい日干支である。そして、馬子は『日本書紀』に「大臣」と記述するだけで、記述されなくなる。『舊事本紀』の廾八年春二月甲午朔甲辰の「勅撰録先代舊事天皇紀及國記」の日干支は間違いだ。620年にこの日干支は無く、625年の九州歴の晦の日干支だろう。『日本書紀』の「是歳」の「嶋大臣共議之録天皇記及國記」の記事で、大臣は嶋で馬子ではなく、襲名した馬子だ。「天皇爲大臣馬子宿禰見殺」は、「大臣馬子宿禰爲天皇見殺」なのではないだろうか。崇峻天皇は既に殺されたと記述され、「見殺す」の表現の主語は上位者の天皇が見殺しにした表現だ

倉梯宮御宇天皇御世立爲夫人」の御井夫人は天皇夫人である。夫人は反正帝の津野媛皇夫人が皇后、星川皇子の母の夫人稚媛は大伴室屋天皇の皇后と証明した。さらに、韓媛皇太夫人は真鳥天皇の皇后、小野夫人は弘計天皇の皇后、飯豊皇女も室屋皇后だ。継体帝は「天皇位尊皇妃立爲皇大夫人媛也」、即位すると妃を夫人にするなど、全て天皇皇后だ。敏達帝の老女子夫人、菟名子夫人は皇妃、大伴狛夫人は金村の妃だろう。皇太夫人堅鹽媛とあるように、御井夫人は堅鹽媛を継承したのだろう。以降、法提郎媛、氷上娘、大甦娘、阿倍夫人と皇妃が続く。石川夫人のみ大臣妃だが、恐らく、蘇我山田大臣は倭国最後の天皇だったと考えられる。

すなわち、倉梯宮皇后だった御井夫人が「皇后即天皇位於豐浦宮」と即位した。従って、崇峻天皇は「守屋大連之妹」の御井夫人の夫である。「蘇我大臣之妻是物部守屋大連之妹也」と記述され、蘇我大臣馬子である。すなわち、用明天皇の崩じた日付は守屋の薨、崇峻の崩が馬子の薨、嶋大臣が継承したと解る。そして、『古事記』の大臣の家系は豊御食炊屋比売に引き継がれた。そして、贄古と御井夫人の娘の鎌媛大刀自は「嶋大臣為妻生豊浦大臣」と記述される。すなわち、『古事記』を完成させ、『舊事本記』「帝皇本紀」までを記述させたのは、鎌媛大刀自と嶋大臣の子の豊浦大臣だろう。

2023年11月8日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 用明天皇

  用明天皇は『舊事本紀』「帝皇本紀」、用明天皇前年九月甲寅朔戊午に奇妙な記述がある。585年に、「物部弓削守屋連公爲大連亦爲大臣」と守屋が大連天皇大臣になった。それ以降、推古廾二年夏六月丁卯朔己卯の「物部志佐古連公為大連」まで、大連天皇の記述が無い。578年、「菟道皇女侍伊勢祠即奸池邊皇子」と守屋は神の朝廷の名目上の女王菟道皇女を妃にした。女王の夫は大臣で、そのため、大臣の史書の『古事記』は守屋を沼名倉太玉敷、3代目稲目の後継者と記述した。馬子も大臣を継承しているので、馬子が倭国王、守屋が秦王国の分王朝の大臣なのだろう。通常、天皇なら大臣は不要だからである。

崇峻前紀に「蘇我大臣之妻是物部守屋大連之妹也」とある。『舊事本紀』では守屋の妹が布都姫夫人で、「倉梯宮御宇天皇御世立爲夫人」と記述する。すなわち、倭国では天皇が皇太后や皇后や夫人で、大臣が最高責任者だったことが解る。敏達五年の「立豐御食炊屋姫尊爲皇后」は倭王馬子の皇后になったのである。馬子が薨じる592年に、御食炊屋姫「卅四年渟中倉太玉敷天皇崩」と、馬子まで渟中倉太玉敷天皇だったと述べている。576年18歳で皇后なら、34歳は592年、崇峻5年にあたる。

実際の用明天皇は穴穗部間人皇后なので、皇后が587年、用明二年(四月)癸丑9日に崩じた。『古事記』は15日だが、暦が異なるのだろうか。用明二年五月、皇后の弟が「穴穗部皇子爲天皇」と即位する。『古事記』は「坐池邊宮治天下参歳」と三年在位になっている。敏達十四年八月に須賣伊呂杼が「穴穂部皇子欲取天下」とある。穴穗部皇子が天皇なら、三年在位で、室屋大臣が2年で辻褄はあう。実権は伊勢王の娘と思われる廣姫から、稲目の孫の泥部穴穗部皇女、皇太子泥部穴穗部皇子兄弟に遷っていたようだ。それで、用明前年九月甲寅朔戊午に「物部弓削守屋連公爲大連亦爲大臣」と守屋の妃の穴穗部皇女が皇后になった。それで、守屋死後、太子の厩戸豐聰耳は成人していないので、穴穗部皇子が即位した。『上宮聖徳法王帝説』「聖王娶蘇我馬古叔尼大臣女子名刀自古郎女生児山代大兄王」とある。すなわち、厩戸豐聰耳の妃の刀自古郎女の父の「馬古叔尼大臣」が大臣を取り返した。そして、穴穗部の王朝は穴穗部死後、皇弟の泊瀬部が継承した。

秦王国の首都の主は間人穴太部(池邊)、御食炊屋(倉梯)、意富藝多志比賣(豊浦)、小治田(小墾田)、多米(豊浦)と稲目の娘や孫が継承した。それ以降、倭国は643年薨の吉備嶋や664年薨の嶋の皇祖母がそれを担う。

2023年11月6日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 敏達天皇2

  敏達七年三月戊辰朔壬申の「菟道皇女侍伊勢祠」で菟道皇女が神の朝廷の名目上の女王になった。神の朝廷は息長眞手王、麻組郎女、佐佐宜郎女、比呂比賣、菟道磯津貝皇女と継承された。豊御食炊屋比売の娘の菟道磯津貝皇女は聖徳太子の妃で、伊勢女王ではない。そして、「即奸池邊皇子事顯而解」と用明天皇の妃になり、用明天皇は名目上大臣となった。そして、池邊皇子の娘の須賀志呂古郎女が伊勢女王を継承した。用明天皇は『舊事本紀』用明天皇前年九月甲寅朔戊午に、「守屋連公爲大連亦爲大臣」とある。用明天皇は守屋大臣である。他田宮と池邊宮の天皇の2朝に分裂した。

敏達十三年に馬子は高麗惠便を探し、善信尼を弟子にした。大別の仏教はインドからの古型の仏教で、中国の新型の仏教と異なったようだ。東倭漢直駒に影響されて、寺を造って任せようとしたと思われる。そして、漢人夜菩の娘、錦織壼の娘、2人を付けた。年齢が記述されないので、解らないが、漢人は、俀国の錦織、筑紫の人物で、既に尼僧だった可能性が高い。太子の日子人の妃は漢王の妹、俀国王と思われる。俀国は次期国王が帰依した「日出處」の跏趺坐の天子、太子は上塔の上宮法皇である。首都には当然、釈迦三尊像を持つ寺が存在し、そこには僧侶や尼僧がいるだろう。鞍部村主の司馬達は釈迦三尊像を鞍首の司馬の止利、鞍首は鞍部の頭領、村主は村長、親子か兄弟だろう。司馬達の娘の嶋は馬子の子の嶋、漢人の娘の豐女も馬子の国と思われる豊国、錦織の娘の石女は石井と、それぞれ同郷なのだろうか。あまりにも偶然過ぎる。

三月丁巳朔は九州の暦で2月晦日の日干支である。585年、敏達十四年八月乙酉朔己亥「天皇病彌留崩」と敏達天皇が崩じた。『古事記』は大臣を記述して584年四月六日に崩じた。『舊事本記』は「卅四年渟中倉太玉敷天皇」、592年の崩御である。「天皇與大連卒患於瘡」、天皇と大連が、伝染病で死んだとある。朝廷は皇后廣姫が継承して、皇太弟の穴穂部皇子が「取天下」と記述される。しかし、九月甲寅朔戊午に守屋が皇位を奪取した。守屋も天然痘に罹患していたなら、「并燒佛像與佛殿」、「棄佛像」、「如中獵箭之雀烏焉」などできない。穴穂部皇子から分裂したと思われる。用明二年五月の「立穴穗部皇子爲天皇」は585年の記事なのだろう。

『舊事本記』の大連は572年に御狩、585年守屋、それ以降は、640年、推古廾二年まで代わらない。御狩死後、弓削倭古稲目の娘の子供たちの朝廷が続いたことを示している。それに対して、『古事記』の大臣の朝廷は、3代目稲目大臣が584年薨じた。初代稲目の孫の守屋が大臣、翌年に穴穂部皇子死後、守屋と長谷部若雀が分王朝を建てたのだろう。

2023年11月3日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 敏達天皇1

572年、敏達元年の「守屋大連爲大連如故以蘇我馬子宿禰爲大臣」は奇妙だ。「如故」ではなく、初出で、物部弓削守屋大連の初出は585年の敏達十四年である。おそらく、橘豊日は2代目稲目の死後、大臣を継承したが、守屋は、2代目尾輿(御狩)死後、物部氏の大連を継いだのだろう。そして、585年、用明前年九月甲寅朔戊午に「物部弓削守屋連公爲大連亦爲大臣」と倭国と秦王国が決裂したのだろうか。592年、推古天皇が卅四の年、「渟中倉太玉敷天皇崩」と592年まで渟中倉太玉敷天皇が継続している。『隋書』には裴淸は秦王国に来ていて、608年まで秦王国が存在する。従って、「如故」は用明で初の天皇即位を受けての、崇峻の記事である。守屋大連天皇、馬子大臣で、すなわち、守屋秦王国天皇、馬子倭王、そして、守屋崩なのだろう。

敏達天皇の頃、中国は混乱の最中で、朝鮮は、「陳朝貢」、「北齊朝貢」、「周朝貢」の朝貢合戦だった。その朝貢先に秦王国もあったと思われる。敏達二年五月丙寅朔戊辰、七月乙丑朔は前月29日晦日の変換間違いだろう。漂流者は九州の那(珂川)の津に留め置かれる。敏達四年正月丙辰朔甲子も12月30日晦日の日干支で、倭国の暦である。575年敏達四年二月壬辰朔「馬子宿禰大臣還于京師」は574年の日干支である。その結果を受けた、十月戊子朔丙申に「遣蘇我馬子大臣・・・田部名籍授于白猪史膽津」なのだろう。575年、敏達四年の「遂營宮於譯語田」は「十一月皇后廣姫薨」で実権が尾輿の家系から、稲目の家系に完全に遷ったのだろう。息長氏の子の押坂日子人が息長足日廣額の父で、推古即位時は20歳以下である。『隅田八幡神社人物画像鏡』に、「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時」と日子人が623年に存在する。推古帝の娘婿なので、合致する。すると、「廣姫薨」は592年崇峻五年十一月に「弑于天皇」と記述され、この時の説話かもしれない。論理的には、皇后が廣姫から豊御食炊屋比売に代わった時期と言える。

敏達五年三月己卯朔戊子の「豐御食炊屋姫尊爲皇后」は御狩の皇后ではない。推古天皇は「倉梯宮御宇天皇御世立爲夫人字御井夫人」とあるように、布都姫夫人である。夫人は皇后と同等だ。御井夫人の夫は御狩の弟の贄古、「此連公異母妹御井夫人爲妻」と記述される。贄古は「小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連」で小治田豐浦大連である。すなわち、小治田豐浦宮御宇天皇御世爲大連は2代目贄古、婿の日子人であろう。また、泊瀨部は「卅九年當于泊瀨部天皇五年」と597年にも生存しているので、馬子の2代目だ。592年11月に薨じた人物は大臣馬子か御井夫人の夫の贄古、恐らく二人共であろう。

2023年11月1日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 敏達天皇前紀

  敏達天皇は『舊事本紀』「帝皇本紀」に、歳次壬辰夏四月壬申朔甲戌の記述がある。572年に、「物部大市御狩連公為大連」と御狩が大連天皇になった記述だ。御狩は弓削連の祖の倭古連の娘の子の阿佐姫か加波流姫の子である。弓削連は室屋大臣、意乎巳連の末裔で、倭古連は稲目の可能性が高い。稲目の名前が建小広国押楯、天国押波流岐広庭、沼名倉太玉敷と名が違うのは、政権と共に役職名を変えたからと思われる。稲目は倭王で大臣、長女が継承する時は宮が同じで名が変わらない。欽明天皇は尾輿だったが、皇后は石比賣から岐多斯比賣に替わった。すなわち、阿佐姫から加波流姫に替り、稲目が皇位を奪取したということだ。

皇位継承は皇后の娘か皇后の兄弟の娘が継承し、皇后の娘に皇后の兄弟の男子が婿入りすることで継承される。欽明天皇は年若干と記述するように、2代目尾輿が早逝だった。それで、皇后阿佐姫と思われる日影皇女の子の2代目尾輿の弟が皇后の兄弟の石比賣の娘に婿入りしていた。そして、御狩が稲目の孫の豊御食炊屋比の婿になり、3代目稲目である。2代目尾輿の陵墓が古市にあり、大市御狩は「大市」と「市」で生まれた皇子である。

欽明天皇は即位時に「天國排開廣庭皇子卽天皇位時年若干」と20代で即位した。そして、欽明三一年、「朕承帝業若干年」と即位後、若干年しか経ていないと記述している。さらに、翌年の欽明三二年、「天皇遂崩于内寝時年若干」と20代の崩御と記述する。すなわち、初代敏達が「年若干」で崩じ、次代の2代目敏達はその弟となる。皇后が廣姫で、4年間、皇位を継承したが薨じたようだ。おそらく、571年時点では、渟中倉太玉敷は20歳未満だったのだろう。稲目(倭古)の娘婿の守屋が同じ宮で皇位を継承した。

皇位は『舊事本紀』推古天皇「年十八渟中倉太玉敷天皇立爲皇后卅四年渟中倉太玉敷天皇崩」と記述される。推古が34歳の時天皇が崩じ、592年のこと、推古天皇即位前年である。崇峻天皇までは蘇我氏が記述させた大臣の記録、『古事記』と同じである。用明・崇峻は大臣ということだ。推古天皇は渟中倉太玉敷天皇の皇后で、皇位を継承したと記述される。敏達五年に皇后になったのは、2代目の敏達天皇の皇后だったと思われる。本来、皇太子は実質天皇だ。推古天皇の娘の小墾田皇女の婿だから押坂日子人大兄が皇太子である。推古天皇の夫の天皇が崩じた時、太子が20歳未満だったので、推古天皇が即位した。皇位継承は皇后の長女が継承する。また、『上宮聖徳法王帝説』に記述されない、「菟道貝鮹皇女是嫁於東宮聖徳」の聖徳妃が「干食王后」だと思われる。

2023年10月30日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 欽明天皇3

東漢直の初出は掬、463年の雄略七年に新漢の技術者を献上したとある。倭王は漢直の祖の阿知使主とあるように、漢直だった。倭王興から武に替わったのは477年、「倭國遣使獻方物」を最後に翌年、昇明二年に武が「遣使上表」と記述される。親族と記述されず、『日本書紀』も「白髮皇子爲皇太子」と記述する。「爲皇太子」は倭国の王朝交代だった。従って、漢直から東漢直掬、武に倭王が交代したことを意味する。そして、仁賢七年に「爲皇太子」、これは、武烈七年505年と考えられ、石井が筑紫君倭王である。証拠は無いが、武王が502年まで出現する。そして、528年継体二二年に石井薨後、「筑紫君葛子恐坐父誅」と、子の葛子が継承した。崇峻五年に「東漢直駒東漢直磐井子也」と記述されている。

そして、556年欽明十七年に、「筑紫火君百濟本記云筑紫君兒火中君弟」と記述される。火君は筑紫君石井の子で火中君葛子の弟、皇太弟なのだろう。554年欽明十五年に、「立皇子渟中倉太珠敷尊爲皇太子」と倭国の王朝交代を記述している。火中君葛子の子が薨じ、火君の東漢直糠兒が皇太弟になったのだろう。そして、568年、欽明廿九年「立爲皇太子」と東漢坂上直が皇太子、子の麻呂が東漢直駒と考えられる。馬子に殺害された駒、その子の法興帝がまだ若く、693年、推古元年に弟の聖徳帝が皇太弟となったのだろう。東漢直駒の妃の馬子の娘の河上娘が鬼前太后だと考えられる。

570年、欽明卅一年春三月甲申朔に2代目稻目の天国押波流岐広庭・上殖葉が薨じた。そして、571年、欽明三二年四月是月に「天皇遂崩于内寝時年若干」と記述される。また、敏達元年歳次壬辰夏四月壬申朔甲戌に「物部大市御狩連公為大連」と572年4月に即位している。すなわち、尾輿は桧隈高田皇子の娘日影姫との子に皇位を継承したが若干年の在位で崩じた。そのため、皇太子だった御狩、稲目の孫の婿が敏達5年に即位したと考えられる。在位32年で「朕承帝業若干年」のように若干年とは言わない。欽明即位時にも、「卽天皇位時年若干」と記述するように、即位時に20歳代、欽明三二年なら50代で「年若干」ではない。「若干年」と記述される天皇は清寧天皇が在位5年、若干年で合致する。允恭天皇は大草香と考えられ、長男の目弱王が死亡時七歳で、父大草香も若く、これも合致する。在位四二年で若干とは言わない。

2023年10月27日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 欽明天皇2

  秦王国は反百濟で、任那の秦王国領の継続を願い、倭王稲目は親百濟で、任那を百濟に与えようとした。秦王国は新羅を制御できなくなり、倭王稲目は新羅領の侵犯までの力が無かったようだ。結果的に俀国は親新羅・親唐、倭国は親百濟で、652年、義慈王十三年に「王與倭國通好」と同盟した。すなわち、倭と百濟、対俀と新羅、対任那復興の秦王国との三竦みの状態だったことを示している。

545年、欽明六年「高麗大亂被誅殺者衆」は548年の事のようだ。545年の『三国史記』には「王薨號為安原王」が記述されるのみだ。それに続いて、『梁書』「云安原以大淸二年卒以其子為寧東將軍高句麗王樂浪公誤也」と記述する。大乱など無く、548年、陽原王四年に「以濊兵六千攻百濟獨山城新羅將軍朱珍來援故不克而退」の記事がある。『三国史記』の安原王薨は「是梁大同十一年東魏武定三年也」と東魏の記録と『日本書紀』の記録によるのだろう。550年の欽明十一年二月辛巳朔庚寅は正しい日干支だが、「百濟本記云三月十二日辛酉」は3月11日である。2月1日を1月30日朔と考えた証拠である。

欽明十四年五月戊辰朔の「河内國言泉郡茅渟海中有梵音」は428年の説話と考えている。前年、大雀大別の薨が427年、丁卯年八月十五日だった。そこに寺が在って、大別死後に像が見つかったから、大別の寺に奉納したと考えた。敏達六年十一月庚午朔の「獻經論若干卷并律師禪師比丘尼咒禁師造佛工造寺工六人」の記事も527年の説話の可能性がある。造寺工が来る前に寺があったのは奇異で、大別王に百濟が技術者を送って、寺を造った。しかし、大別王が薨じ、その後の11月に、像を造った寺に安置したと考えられる。

555年、欽明十六年に「吉備五郡置白猪屯倉」と屯倉を置いた。屯倉は直轄地で、日本の統治形態は有力者が各氏族との姻戚関係で影響力を持って、労役させたと思われる。この、吉備の屯倉は稲目と尾輿の配下と思われる穂積氏の直轄地ということになる。127年、景行五七年に「諸國興田部屯倉」と屯倉を置いた。『古事記』は「倭屯家」、『舊事本紀』は記述されない。倭屯家は邪馬台国を統治する大倭王の住む地域に屯倉を置いたということだ。『日本書紀』では「賜膳大伴部」を賜姓され、膳夫は浮羽の人物である。すなわち、九州に屯倉ができたことを示し、倭国の記事と解る。仁徳即位前に額田大中彦が要求したのも、「倭屯田及屯倉」である。同じ頃と思われる、息長帯日売が「百濟國渡屯家」、依網屯倉も置き、日臣が置いたのだろうか。

『古事記』に記述されない、村合屯倉、倭蒋代屯倉など、多数の屯倉が記述され、日臣が侵略したのだろう。まさに名目上倭王武の配下の日臣の「東征毛人五十五國」の結果の55の国の屯倉と考えられる。そして、石井の敗北で、糟屋屯倉、すなわち、倭国の首都を直轄地にした初代稲目の建小広国押楯が倭王となった。そして、536年、宣化元年に論功で、蘇我大臣稻目宿禰、尾張連、麁鹿火を裏切ったと思われる新家連、阿倍臣が得た屯倉から、筑紫に兵糧を集めた。稲目は更に、備前兒嶋郡や倭國高市郡も得たようだ。倭国と畿内政権の統治形態の差が屯倉のようだ。

2023年10月25日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 欽明天皇1

  欽明七年春正月甲辰朔と欽明九年正月癸巳朔は12月晦日、共に百濟との交渉で、九州の記事のようだ。朝鮮半島では、倭国は500年、炤知麻立干二十二年に「倭人攻陷長峰鎭」と侵略後では、608年に隋文林郞裴淸が倭国に向かったことの記事があるだけだ。実質の外交は653年、 義慈王十三年に「王與倭國通好」、そして、白村江の戦乱につながる。500年の倭王は武王で、478年順帝昇明二年に「東征毛人五十五國西服眾夷六十六國渡平海北九十五國」と述べる。九州の眾夷をまとめ、東の毛人五十五国は眾夷の日臣大伴氏を武王の配下と見做したのだろう。しかし、大伴氏が安定を崩し、倭国が分裂した。そして、戦乱の結果、若い継体帝の孫と孫娘の婿が残った。それで、540年に講和し、541年に百濟と新羅もそれに倣った。

倭王武とその姻戚と思われる大伴室屋によって、朝鮮半島と日本列島南部、関東まで、名目上手中にした。478年に『宋書』の順帝昇明二年の「遣使上表」の上表文で宣言していた。ところが、大伴室屋朝廷が崩壊し、意祁は新羅の宗主国としての秦・扶桑国を復興した。新羅は宗主国秦が復興し、倭が新羅を侵略できなくなったようだ。500年炤知麻立干二十二年に「倭人攻陷長峰鎭」以降、倭の侵略が無い。そして、倭王武が502年、天監元年「鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍」と綬号されているので、その後、石井が継承している。石井は綬号されていないので、綬号できる力が無くなったようだ。その結果、新羅は弱い秦と倭を見ると、503年、智證麻立干四年に、「始祖創業已來國名未定・・・號新羅國」と独立した。国号が無かったということは、国家として認められていなかったことを示す。そして、石井が薨じて、倭が分裂した。すると、秦には元号があったので、それに倣って、536年、法興王二十三年に「始稱年號云建元元年」と建元元年を宣言した。しかし、551年眞興王十二年の「改元開國」以降取りやめた。それは、北齊武成皇帝河清四年、565年、眞興王二十六年に「使持節東夷校尉樂浪郡公新羅王」の綬号の為だ。綬号される国に元号は有り得ない。日本では、倭国が綬号した、が、畿内政権は中国と対等だったから、元号が続いたと考えられる。倭国は、大業六年には「倭國遣使貢方物」と朝貢したが、倭が政権に就くと、『舊唐書』貞観五年、「不宣朝命而還」と決裂している。そして、俀国も「法興元」という元号を使い、それは隋に臣従してないから使った。

2023年10月23日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 欽明天皇前紀2

  江田船山古墳から出土した『銀錯銘大刀』の銘文に「治天下獲□□□鹵大王世」と不明な大王の名が出現する。この古墳から、523年に崩じた百済武寧王の陵から出土した垂飾付耳飾りと同型飾りが出土した。当然、被葬者の「事典曹人名无利弖」は百済王→大王→被葬者なので、それ以降の死亡と思われる。この時、江田船山を支配した王が「獲□□□鹵」大王である。九州の大王なので、俀国か倭国の王や皇太子である。蘇我氏倭国王、初代稲目の子に『古事記』に記述されない上殖葉皇子がいる。「かみうえは」・「獲・み・う・え・歯」と考えられる。そして、『古事記』に記述されないということは、何処か他に記述されているということだ。それが、橘仲皇女の娘の石姫に婿入りした天國排開廣庭なのではないだろうか。上殖葉は偉那公の先、稲目も偉那の目大臣で、よく符合する。

日本天皇及太子皇子倶崩薨」を記述した、『百濟本記』と『梁書』が食い違っていた。『三国史記』内でも525年の聖王三年「春二月與新羅交聘」と541年眞興王二年「春三月百濟遣使請和許之」と食い違う。百濟の525年の資料が違うようだ。500年、炤知麻立干二十二年「倭人攻陷長峰鎭」以降、倭王武が新羅を制圧した。倭は百濟の宗主国、そして、新羅も破り戦乱が無かった。そんな中で、交聘・請和は奇妙だ。541年なら、盟主倭が破れ、百濟に後ろ盾が無くなった。それに対して、力を付けた新体制倭国が調停者となって、講和したのなら理解できる。元年の「高麗百濟新羅任那並遣使獻並修貢職召集秦人」は新体制倭国王の稲目から見た記述だ。秦人は秦王国の秦人を意味し、秦王国が名目上の中心となって、講和したと考えられる。

九月乙亥朔己卯に「遂不爲罪」と、襲名した大伴金村を不問にした。539年12月以前、恐らく3月に「難波祝津宮」に尾輿が継体帝の領地の難波に出向いた。そして、継体帝金村大連天皇を追い詰めたようだ。理由は、男大迹天皇六年の任那四縣の制圧に新羅と宗主国の旧倭国が怒った。それで、石井との戦乱を引き起こしたのは、金村継体帝の責任と追い詰め、殺害したと思われる。そして、山田皇后が尾輿に皇位を譲り、大臣も稲目が継承した。大伴目大連は、539年12月以降は大臣である。そして、大伴氏は許されて、欽明二三年に大將軍大伴連狹手彦と活躍した。539年頃は若かったと考えられ、山田皇后の孫、539年3月に薨じた皇太子の子なのだろう。

2023年10月20日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 欽明天皇前紀1

欽明天皇は『舊事本紀』「帝皇本紀」に539年歳次巳未冬十二月庚辰朔甲申に記述がある。「尾輿連公為大連物部目連公為大臣」と、尾輿が天皇で、目が大臣である。『日本書紀』には欽明天皇即位前紀に「大伴金村大連物部尾輿大連爲大連及蘇我稻目宿禰大臣爲大臣」とある。すなわち、539年11月から12月に、大伴金村目大連天皇から尾輿大連天皇への継承があった。また、()目が大臣だったと記述している。そして、539年12月に、尾輿大連天皇、目大臣、すなわち、稲目大臣の体制になった。

539年に大伴金村目大連天皇と荒山が崩じた。そして、皇太子の荒山の子の尾輿が大連天皇に即位した。また、荒山の婿の2代目の目連の天国押波流岐広庭が目大臣、2代目稲目になった。このように想定できる。荒山の姉妹の橘中比賣を初代稲目の建小広国押楯が妃にし、娘石比賣と小石比賣を荒山の子の尾輿が妃にする、皇位奪取の常套手段だ。金村の妃の山田皇后が、金村崩後も実権を持ち、自ら皇位を継承しようとした。娘婿の初代稲目の建小広国押楯の天国押波流岐広庭に天皇を引き継ごうと考えたと考えられる。それで、即位前の荒山が薨じ、初代稲目の建小広国押楯も同時期に薨じた。

『舊事本紀』「天孫本紀」に尾輿の母の記述が無い。しかし、『古事記』に無く、『日本書紀』に、広国押建金日の妃が記述される。『古事記』に無く、『日本書紀』に記述される人物は継体帝本人やその子の妃と考えられる。億計の娘の「春日山田皇女」、物部木蓮子の娘の「宅媛」である。許勢男人の娘の「紗手媛、香香有媛」は『日本書紀』にも『古事記』にも記述されない。従って、継体帝目大連の娘で、袁本杼の子の広国押建金日が婿入りして、大臣を継承したのだろう。

継体帝目大連の娘の紗手媛、香香有媛の子は広国押建金日と建小広国押楯と考えられる。目子郎女の娘婿となり、意乎巳連を引き継いだ大臣である。そして、継体帝目大連の子の荒山は麁鹿火の本家の木蓮子の娘の宅媛に婿入りした。すなわち、荒山は秦王国と扶桑国の後継者である。金村天皇、荒山皇太子は戦乱での死亡したため、当然尾輿は若く、子は13歳以下だったと思われる。そのため、皇后の兄弟の稲目が皇太子になったと考えられる。

稲目の孫の豊御食炊屋比売は628年戊子三月十五日癸丑に崩じている。豊御食炊屋比売は559年生まれ、敏達五年、18歳で皇后だ。すると、初代稲目の娘の堅鹽媛は欽明元年、540年に18歳程度である。堅鹽媛の兄弟の2代目稲目大臣は10代、欽明尾輿天皇は20代だろう。

2023年10月18日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 宣化天皇

宣化天皇にも大連を「帝皇本紀」は記述しないが、「天孫本紀」は押甲と荒山を記述する。『日本書紀』は宣化天皇元年二月壬申朔「以大伴金村大連爲大連物部麁鹿火大連爲大連並如故又以蘇我稻目宿禰爲大臣」と記述する。すなわち、秦王国金村大連天皇、扶桑国麁鹿火大連天皇、女王国稻目大臣である。すなわち、麁鹿火を襲名した押甲大連扶桑国天皇、すると、荒山大連は女王国天皇以外残っていない。押甲は麁鹿火の弟、荒山は目大連金村の子、もしくは、婿である。目大連の子に金連が存在し、借馬連の祖だが、目大連の弟にも記述される。また、金連は尾張氏にも存在し、曾孫が紀伊尾張連の祖である。広国押建金日・建小広国押楯は尾張氏の祖の妹の子である。尾張氏は既に存在し、この祖は紀伊尾張氏と考えられ、金連を襲名したようだ。

また、建小広国押楯は袁本杼の子で広国押建金日の兄弟、すなわち、巨勢大臣の子でもある。『古事記』は大臣の系図だったが、広国押建金日の後継者が沼名倉太玉敷だった。すなわち、意祁の娘の手白髮は、前項で倭比賣が袁本杼の子の妃と述べたように、広国押建金日の妃の可能性が高い。それは、目子郎女の兄の尾張連の祖の凡連が意乎巳連を引き継いだと考えられるからである。そして、広国押建金日から沼名倉太玉敷が大臣を継承した。しかし、沼名倉太玉敷は49年も大臣として生きていて、奇異である。当然3代程度の襲名があったと考えるべきだろう。

『日本書紀』は大臣を稻目と記述している。すなわち、初代稲目が女王国大臣に就位したと考えられる。3代目が沼名倉太玉敷なのだから、2代目が天国押波流岐広庭、初代は建小広国押楯である。建小広国押楯の妃は意祁の子の橘中比賣、『古事記』に記述されない。すなわち、橘中比賣は意祁の子ではなく大伴金村大連天皇の子だ。その義子が建小広国押楯、初代稲目である。そして、橘中比賣の娘が石比賣、岐多斯比賣や小兄比賣も弓削連の祖の倭古連の娘達と思われる。倭古連は目大連の子で建小広国押楯と考えられ、孫が守屋弓削大連である。

三月壬寅朔の「有司請立皇后」は541年3月晦日の説話と考えられる。明要改元の年で、前皇后が筑紫で崩じたのではないだろうか。五月辛丑朔「収藏穀稼蓄積儲粮」と筑紫の兵糧を奪ったようで、争いがあったと思われる。そして、七月に「物部麁鹿火大連薨」と扶桑国が崩壊した。二年冬十月壬辰朔は9月晦日で、「天皇以新羅冦於任那」「助任那」と九州の暦だ。

539年二月乙酉朔甲午に大伴金村大連継体天皇が崩じた。おそらく、皇太子も共に崩じたのだろう。「廿五年三月日本天皇及太子皇子倶崩薨」と記述される。初代稲目大臣建小広国押楯も妃の橘中比賣も女王の太郎女、皇太子の太郎子も崩じたのだろう。大倭國身狹桃花鳥坂上陵は野洲近辺のことと考えられる。『古事記』には建小広国押楯も天国押波流岐広庭にも陵が記述されない。襲名した人物は1つの陵墓にまとめられ、末代の一人に代々の霊がある陵墓なのだろう。

2023年10月16日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 安閑天皇

531年の安閑元年夏四月癸丑朔、元年冬十月庚戌朔甲子は534年の日干支である。534年が507年元年の継体28年を示している。すなわち、534年小長谷若雀が「天皇崩于磐余玉穗宮」、535年安閑「天皇崩于勾金橋宮」である。秋七月辛巳朔は534年6月晦日で、九州の暦で俀国か倭国の説話と思われる。

閏十二月己卯朔壬午「幸於三嶋」は恐らく534年10月晦日と考えられる。それ以外なら、529年と539年にあるのみである。九州の暦で三島は三潴郡の三島神社あたりの事だろうか。九月甲辰朔丙午「詔櫻井田部連縣犬養連難波吉士等主掌屯倉之税も8月晦日で九州の暦である。桜井田部連の祖は穴門国造と同祖、犬養部は筑紫、豐國、火國などに置かれた。難波吉士は日香香の子孫、曾都毘古の神武東征の倭國造と同祖で、日臣と考えられる。

安閑二年12月の「以皇后春日山田皇女及天皇妹神前皇女合葬于是陵」は勾金橋宮で戦乱があったのだろうか。広国押建金日は三月十三日、安閑天皇が「十二月癸酉朔己丑」に崩じた。さらに、皇后が同時に、恐らく皇后の後継者の神前皇女も同時に薨じて葬られた。勾金橋宮が落城したのだろうか。

神前皇女は坂田大跨王の娘の廣媛の娘で、おそらく、坂田公の先の中皇子の娘か孫である。袁本杼の妃が多数記述される。しかし、広国押建金日と天國押波流岐廣庭の薨年代の差が1世代以上ある。袁本杼の子や孫の妃が記述されているようだ。すなわち、春日山田皇女や神前皇女の初代袁本杼の娘は、490年の大長谷若建継承から507年の大臣就任までの第一世代の子達だ。そして、507年に倭彦の妹と思われる倭比賣たちを妃にする、袁本杼の子の世代で分けられる。

三尾君の娘の倭比賣の子に大郎女、三尾君の娘の若比賣の子に大郎子を記述するが、名が無い。これは王位在位中に殺害され、後継者が名を付けられなかったことを意味する。すなわち、535年の「春日山田皇女及天皇妹神前皇女合葬」以降に女王国王の大郎女や、その兄弟の大郎子が殺害されたと考えられる。それが、継体25年539年の「日本天皇及太子皇子倶崩薨」の可能性が高い。

535年の「春日山田皇女及天皇妹神前皇女合葬」の春日山田皇女は、2代目麁鹿火の小長谷若雀の妃である。継体帝目大連の妃の春日山田皇后は欽明天皇即位前紀に記述される。欽明の即位の時に山田皇后に即位を請願したが断られている。おそらく、実態は逆で、欽明天皇が奪ったのだろう。後継者の目連は大臣、山田皇后が即位すれば、目大臣が大連になれたと思う。

2023年10月13日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 安閑天皇前紀

  安閑天皇の大連を「帝皇本紀」は記述しないが、「天孫本紀」は麁鹿火と記述する。『日本書紀』は安閑天皇即位前紀に「以大伴大連爲大連物部麁鹿火大連爲大連」と記述する。すなわち、いつ大連になったか記述せず、前代から継続中である。大伴大連は秦王国の継体帝元年「以大伴金村大連爲大連」、539年が継体25年なので515年と考えられる。511年、実際は3年ずれて514年と思われる五年冬十月に、「山背筒城」へ遷都して、根王の娘の廣媛を妃に、そして、515年に朝廷を開いたと考えられる。山代、難波の天皇根子だ。麁鹿火は、扶桑国麁鹿火天皇元年507年に「物部麁鹿火大連爲大連」と天皇になった。

秦王国継体帝は「廿五年歳次辛亥崩者取百濟本記爲文」から、継体25年539年崩である。後継天皇は「歳次巳未冬十二月庚辰朔甲申尾輿連公為大連」、巳未は539年だ。扶桑国麁鹿火天皇崩は「秋七月物部麁鹿火大連薨是年也太歳丙辰」と536年である。536年は宣化元年で、天皇は「帝皇本紀」に無い、物部氏非公認の押甲と荒山である。

すなわち、宣化天皇期は2朝廷以上の分裂ということが解る。荒山は目大連の子、押甲は麁鹿火の弟、すなわち、麁鹿火の後継者、麁鹿火を襲名したと考えられる。それは、1代目麁鹿火の小長谷若雀、2代目麁鹿火の『古事記』に記述されない「春日山田皇女」を皇后にした麁鹿火だ。そして、3代目麁鹿火の押甲は536年に崩じた。1代目麁鹿火の小長谷若雀は534年「天皇廿八年歳次甲寅崩」、甲寅は534年である。すなわち、1代目小長谷若雀が534年、小長谷若雀の妃の皇太后が535年、2代目が536年に相次いで崩じている。まさに、「日本天皇及太子皇子倶崩薨」で、継体帝と子の荒山が扶桑国を滅ぼしたのだろう。

広国押建金日は袁本杼と尾張連の祖の凢連の妹との子だ。『紀氏家牒』に「巨勢川辺宿祢亦曰軽部宿祢家軽里星河辺故名川辺宿祢男巨勢川上宿祢男巨勢男人宿祢」とある。袁本杼・男人は河辺の出身だ。そして、蘇我石河宿祢は「蘇我臣川辺臣之祖也」と後に川辺臣を引き継ぐ、後に川辺が地盤となる。川辺王の巨勢川辺宿祢は亦の名が軽部宿祢、巨勢伊刀は軽部臣の祖である。「木梨之輕太子御名代定輕部爲」とあるように、軽部は允恭天皇時に制定された。そして、「蘇我石河宿祢男奉仕履中反正允恭安康雄賂五代朝」とあるように蘇我石河宿祢より後に川辺臣を賜姓される。

すなわち、蘇我氏は巨勢氏から川辺臣を引き継いだ。それが、広国押建金日か建小廣國押楯ということだ。広国押建金日は「乙卯年三月十三日」535年に薨で、安閑天皇(皇太后)は「十二月癸酉朔己丑」で異なる。広国押建金日は529年継体二三年「九月巨勢男人大臣薨」と袁本杼から大臣を引き継いだと思われる。広国押建金日は470年代の雄略期の生まれと思われる。川辺臣を賜姓される蘇我石河宿祢が統治した、軽里星河辺で生まれたことと符合する。

2023年10月11日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 継体天皇2

  南海中耽羅人初通百濟國」は498年東城王二十年八月の「王以耽羅不修貢賦」のことと思われる。それを、仁賢天皇十一年を意祁天皇(武烈天皇)11年目に記述したのだろうか。朝鮮記事は、原文が年号付き記事でない場合、精査が必要である。

天皇行至樟葉宮」、「遷都山背筒城」、「遷都弟國」は秦王国金村大連天皇の遷都と思われる。『古事記』の袁本杼の扶桑国の首都は伊波禮玉穗宮だろう。「勾大兄皇子親聘春日皇女」は麁鹿火の太子の2代目麁鹿火が春日皇女に婿入りしたのだろう。『古事記』には春日皇女が記述されないから、広国押建金日の妃ではない。

磐井の乱は目大連の子の荒山、孫の尾輿の王朝には影響しなかったようだ。『舊事本紀』には「磐余玉穗朝代石井者從新羅」と磐井が朝鮮で戦っていた人物とだけ記述される。すなわち、石井の乱は麁鹿火、袁本杼、蘇我氏が戦ったようだ。石井の乱で疲弊して、麁鹿火、袁本杼は没落し、目大連と尾輿は漁夫の利を得たことになる。 石井の乱で、袁本杼が527年丁未四月九日に薨じた。「長門以東朕制之筑紫以西汝制之」の長門以東は稲目、筑紫は分割され、糟屋・豊は稲目、筑後と肥は葛子が領有したようだ。

勝てなかった扶桑国は稲目と金村によって、531年「日本天皇及太子皇子倶崩薨」と壊滅状態となったようだ。そして、稲目と同盟した袁本杼の娘婿と思われる広国押建金日が528年、女国王大臣を継承した。小長谷若雀の後継は春日郎子の兄弟が麁鹿火を継承したと思われる。「廿八年歳次甲寅崩」は、その麁鹿火が534年に崩じた記録と考えられる。『舊事本紀』は、物部氏直系の天皇は歳次巳未冬十二月庚辰朔甲申の「尾輿連公為大連」と記述する。すなわち、538年までは、大伴大連の朝廷だったことを示している。

531年「大歳辛亥三月是月高麗弑其王安」は同年『三国史記』「十三年夏五月王薨號爲安藏王」のようだ。しかし、薨じたのは5月で、『梁書』「七年,安卒」『三国史記』「梁書云安藏王在位第八年普通七年卒」と526年である。すなわち、この『三国史記』の531年記事は『日本書紀』からの引用と解る。また、『三国史記』は「十五年春三月王薨號為安原王」と545年に安原王の薨を記述する。『日本書紀』の安藏王薨の三月と合致する。しかし、『梁書』「太清二年延卒」『三国史記』「梁書云安原以大淸二年卒」と548年薨だ。すなわち、『百濟本記』は安原王の記事にあった、継体25年539年の継体帝崩御の記事を流用したのではないだろうか。539年には継体帝もその子と思われる荒山も崩じているようだ。

2023年10月9日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 継体天皇1

499年に意祁の妃の春日大郎女が女王国王になったと思われる。そして、500年に小前から、意祁が扶桑国を継承した。おそらく、小前の後継者が成人していなかったのだろう。そして、489年に真鳥が薨じてから、506年まで真鳥の大臣の継承者は袁本杼になっていた。しかし、金村は大伴朝廷復興のため、丹波國桑田の倭彦を女王国王にして、後ろ盾になろうとしたと思われる。倭彦が小前大宿祢の可能性がある。

しかし、扶桑国の麁鹿火が507年、元年春正月辛酉朔丙寅に袁本杼と倭比賣の娘の大郎女を女国王と承認したようだ。女王国王の父の袁本杼は正式な大臣になった。倭比賣は近江國高嶋郡の三尾君加多夫の妹、袁本杼の母の振媛の姪、袁本杼の従妹と考えられる。袁本杼は大臣、三国と丹波大国王を兼ねた御太君に就位したと思われる。破れた金村天皇は樟葉宮に逃れたと考えられる。畿内は実力者3名が拮抗する状態となった。

507年2月、大伴金村大連は、「乃跪上天子鏡劔璽符再拜」と天皇の璽を手にして即位した。天皇の璽を拝むのは天皇で、517年継体元年2月の事と考えられる。最後に天皇の璽を手にしたのは小前大連天皇の顕宗天皇だ。倭彦から璽を手に入れたようだ。そして、「無嗣」の天皇を嘆くなら武烈天皇が身近なのに清寧天皇を嘆く。それは、小長谷若雀は、「辛亥三月聞日本天皇及太子皇子倶崩薨」と531年崩で子がいるからだ。この時、武烈天皇は「無嗣」でなく、「無嗣」だったのは、大伴室屋大連天皇で、皇后が飯豐郎女、飯豐郎女は子を生まなかった。だから、大伴室屋が「毎州安置三種白髮部」と白髮部を置いた。部を置くのは天皇である。

三月庚申朔の「宜備禮儀奉迎手白香皇女」は袁本杼の説話と思われる。すなわち、手白香皇女の娘婿が天国押波流岐広庭稲目と考えられ、大臣を継承した。手白香皇女の夫の袁本杼は2代目の袁本杼と考えられる。広国押建金日の薨が535年、天国押波流岐広庭が571年と36年の1から2世代差がある。継体八年春正月の「太子妃春日皇女」の記事がある。これは、意祁が麻佐良、すなわち、初代麁鹿火の小長谷若雀が天皇である。その義兄弟の2代目麁鹿火安閑になる皇太子の妃の春日皇女である。廣國押建金日は『古事記』に妃を記述しないので、春日皇女の夫でない。

2023年10月7日土曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 継体天皇前紀3

  袁本杼は大長谷若建の後継者である。春日の袁杼比賣・童女君の甥の可能性が高い。丸迩許碁登臣の子孫なのだろうか。女王国のNo.2で、女王国No.1は真鳥大連である。大長谷若建が489年己巳八月九日に薨じて、大臣の後を継いだ。麻佐良は義兄弟、2代目麁鹿火は甥、3代目麁鹿火は婿で後継者と考えられる。

袁本杼の先祖の若沼毛二俣は息長眞若中比賣の子である。若沼毛二俣は息長眞若中比賣の妹の弟日賣眞若比賣を妃に意富富杼王を生んだ。兄弟に忍坂大中津比賣がいる。しかし、忍坂大中比賣は応神天皇と迦具漏比賣の子で、意富富杼は忍坂大中比賣の姉妹に婿入りしたと思われる。『上宮記』逸文の系図では忍坂大中比賣と娘の衣通郎女が兄弟になっている。しかし、衣通郎女は男浅津間若子の恋愛対象で、忍坂大中比賣の妹と考えられる。すなわち、意富富杼は男淺津間若子宿禰と義兄弟で、波多君の祖、波多臣の祖の波多八代宿禰に婿入りした人物である。その意富富杼と同名なのが大臣を継承する袁本杼で、意富富杼と同地域の人物だ。

袁本杼は近江國高嶋郡三尾の人物で、三尾君加多夫の叔父と思われる。男大迹、すなわち大国の男人、彦太、すなわち大彦、大臣である。木蓮子は御太君の祖の娘を妃にしていている。三国の彦太君の祖の娘、すなわち、年齢からすると、彦太君の叔母を妃にし、麁鹿火は甥にあたる。袁本杼の父の彦主人は振媛の地の三國坂中井の主人、王・主の配下になっていたようだ。袁本杼は女国王と思われる、三尾君加多夫の妹の倭比賣に婿入りして、大郎女、すなわち、女国王を生んでいる。

扶桑国小長谷若雀天皇は竺紫君石井を荒甲(麁鹿火)に撃たせた。麁鹿火は金村に「長門以東朕制之筑紫以西汝制之」と同盟を迫ったようだ。長門以東は蘇我氏、「磐井掩據火豐」のように、筑紫・豊・肥は石井の領地である。結果、竺紫君は粕屋以東を橘豊日の祖父や父達に奪われた。「東漢直駒東漢直磐井子」、「東漢直駒偸隱蘇我娘嬪河上娘爲妻河上娘蘇我馬子宿禰女也」と記述する。すなわち、石井の子は馬子の娘婿なので、粕屋以東は馬子が手に入れた。年齢的に石井の子は合わないので、石井を襲名した葛子の子と思われ、肥は葛子が継承した。そして、男人大臣が薨じて、女王国が滅びた。そして、後代、巨勢臣藥が豐足臣の子と豐国王になっていて、橘豊日の配下のようだ。巨勢氏は石井掃討の立役者だったのだろう。そして、己未十二月庚辰朔甲申に「尾輿連公為大連」とあるように、尾輿が天皇に即位した。麁鹿火と別系統の金村・目大連の孫のである。

2023年10月6日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 継体天皇前紀2

元号は『二中歴』「年始五百六十九年内丗九年」と記述される。すなわち、継体元年より569年前の前53年から始まった。それを継承した、継体元年である。そして、その元号が大長8年、711年まで継続した。天智天皇が即位しても、天武天皇が即位しても元号は変わらなかった。それは、神の朝廷の元号だったからということだ。そして、文武天皇が大化元号を建元した朝廷を追放して、大宝元号を建元した。

継体天皇は継体二四年に「朕承帝業於今廿四年」と述べている。すなわち、「獲保宗廟」から24年の539年の宣言だ。そして、欽明元年歳次己未539年、十二月庚辰朔甲申「尾輿連公為大連物部目連公為大臣」と政権が変わった。継体二四年の宣言後に崩じたようだ。そして、540年から尾輿が大連天皇で、3代目金村が20歳前で皇太子の大臣である。

意祁・麻佐良の子の若雀は婿の2代目麁鹿火と考えられる。意祁は初代麁鹿火の妹の影媛・春日娘子を妃にし、2代目麁鹿火の小長谷若雀が後を継ぐ。2代目麁鹿火の小長谷若雀の子の3代目麁鹿火も存在すると思われる。袁本杼の娘に婿入りして、広国押建金日と呼ばれたと思われる。2代目麁鹿火の小長谷若雀は、『古事記』に記述されない春日山田皇女を妃にしたようだ。『日本書紀』は武烈皇后にも、『古事記』に記述しない春日娘子、すなわち、春日山田皇女を重複させた。それは、3代目麁鹿火が女国を滅ぼし、扶桑国に統一したことを意味するようだ。丸迩日爪臣の娘の糠若子の夫は初代麁鹿火の妃なのだろう。力のある麁鹿火の妹の皇后影媛の子が、力のある影媛の兄の娘に婿入りして、皇位を継承する。吉備上道臣から物部麁鹿火に権力が遷った。

そして、3代目麁鹿火は大臣家の巨勢氏と尾張氏との娘に婿入りしたと思われる。尾張連の祖の凡連は、すでに尾張連が允恭五年に尾張連吾襲がいて、おそらく、紀伊尾張連の祖の枚夫のことと思われる。紀伊は平群氏に付いて回る地名だ。紀武内宿が「産紀伊国故名」、これは、山代の紀伊で紀伊国造莵道彦の国だ。そして、「家大倭国平群県紀里」とあるように、平群県に「下影媛居地同名紀里」と故郷の地名を持ち込んだ。その紀伊に尾張連が住み、平群氏は意乎巳連の家系で大臣の本家である。

2023年10月4日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 継体天皇前紀1

  継体天皇の大連を『舊事本紀』「帝皇本紀」は欽明天皇元年「尾輿連公為大連」まで記述しない。麻佐良大連より後、尾輿大連まで、物部氏の傍流ということなのだろう。天皇と呼ばれる主要な王族は全て姻戚関係がある。だから、蘇我氏から見ると大臣でも、物部氏から見ると大連の入鹿と同様な物部大連だったのだろう。各国の氏族王も、物部氏や葛木氏、尾張氏などの男子を婿にする。そして、臣や連、直、国造を賜姓され、お墨付きを得る。それによって、地元では大連や大臣や天皇を自称したのだろう。関東の倭武天皇、実際は野洲朝廷()の将軍(都督)武、豐木入日子の子や孫が婿入りした王の子孫だろう。天皇と認められると、より多くの氏族に天皇の氏族が婿入り出来て、影響力が強まる。天皇位を奪われると、次の天皇の影響力のある氏族が取って代わる。

『日本書紀』は507年継体元年二月に「大伴金村大連爲大連」「物部麁鹿火大連爲大連」と記述する。すなわち、麁鹿火は麻佐良の後継の扶桑国王なので、継体天皇は大伴金村ということになる。意祁が法治国家として、中国や高句麗の律令を推進して、不満が高まったので、女王国を復興させたと考えられる。そして、扶桑国王麁鹿火と秦王国王金村と女王国の大臣継承者の袁本杼の三大実力者が神の朝廷の後継を争った。麁鹿火は正当な後継者の麁鹿火が扶桑国王を継承したのは当然だ。金村は倭彦を女王国王にして復権を目指し、麁鹿火は女王国大臣を袁本杼にしようとしたと思われる。

金村は袁本杼の妃の倭媛の義兄もしくは義父の倭彦を女王国王に擁立した。しかし、金村の計略が失敗し、袁本杼と姻戚関係の麁鹿火が連合したようだ。しかし、金村は女王国を自称した。継体七年、513年九月「遷都磐余玉穗一本云七年也」と袁本杼を玉穗宮に追い出して秦王国を建国した。そして十二月辛巳朔戊子に「詔曰朕承天緒獲保宗廟」と宣言した。

ただし、『日本書紀』の継体朝は、「天皇廿八年歳次甲寅崩而此云廿五年歳次辛亥崩者取百濟本記爲文」と3年のずれがある可能性がある。すると、継体七年、513年は3年のずれで516年12月に「獲保宗廟」、翌517年継体年号が発布されたのなら、よく合致する。「巨勢男人大臣薨」も529年ではなく、527年丁未年四月九日である。529年の薨は巨勢男人を襲名した太子だったのだろうか。

2023年10月2日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 武烈天皇

大伴金村連爲大連」は継体七年十二月辛巳朔戊子の「朕承天緒獲保宗廟」で朝廷を開いた。継体二十年、実際は継体七年に「遷都磐余玉穗一本云七年也」と磐余が首都である。そして、517年に継体年号に改元した。おそらく、女王国が崩壊したとおもわれ、女王名が大郎女と役職だけで名が無く、後継が存在しなかったから、命名出来なかったのだろう。袁本杼の義父の三尾君の加多夫は大海部直の祖の尾治多与志連、倭比賣は妹の兄日女と思われる。おそらく、尾治多与志連が倭彦王で、大海部直、すなわち、528年、袁本杼の義子の広国押建金日の大倭王(女王国)の大臣になったと思われる。広国押建金日が勾大兄と呼ばれ、兄日女とよく合致する。そして、507年に、おそらく、麁鹿火大連の妹の影媛・春日娘子を妃に小長谷若雀が継承した。

武烈朝は531年「大歳辛亥三月」に「日本天皇及太子皇子倶崩薨」と崩壊した。『古事記』は武烈朝の小長谷若雀が記述したと考えられる。扶桑国は日干支で暦を記録せず、年月日を使用した。中国の宋朝の影響を受けたのだろう。しかし、年干支が解るだけの記録は、絶対年代が解らず、紀伝体の史書になってしまった。そのため、雄略紀から武烈紀は後から絶対年代で記録した蘇我氏と、理解がずれたと思われる。

そのため、顕宗天皇の意祁は名君だが、武烈天皇の意祁は暴君になる。この意祁は親子、布都久留と麻佐良の違いである。しかし、麻佐良は暴君ではないだろう。法治国家を目指し、理不尽な盟神探湯や骨卜などの宗教的占いからの脱却である。『筑後国風土記』にやはり衙頭で裁判する石井君の説話があり、やはり「暴虐」と記述する。おそらく、処刑方法も中国や高句麗から取り入れたので、見せしめの処刑となり、残虐になったと思われる。ただし、盟神探湯は実行しなかったと思う。もし、実行した後で無罪と解ったら、天皇の権威が失墜する。

武烈六年九月乙巳朔は九州の日干支で、「傅國之機立子爲貴」は倭の武王の石井君への継承と思われる。『梁書』に天監元年502年、「高祖即位進武號征東大將軍」と武王は生存している。そして、王が交代すると訪中して、受号されるが、石井は畿内政権に妨げられて、断念したと思われる。

2023年9月29日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 武烈天皇前紀

武烈天皇は『舊事本紀』「神皇本紀」に二年巳卯春三月丁丑朔戊寅「麻佐良連公為大連」とある。すなわち、500年から麻佐良が大連天皇である。武烈元年は499年なので、麻佐良が武烈天皇ではない。『日本書紀』には武烈天皇即位前紀に「以大伴金村連爲大連」と金村が大連天皇と記述されている。しかし、『日本書紀』の武烈前紀に鮪の説話が記述される。それを、『古事記』は志毘と白髪天皇の皇太子の意祁の記録だ。すなわち、2代目木蓮子の意祁の布都久留が、実際は飯豐郎女が室屋から朝廷を奪ったと思われる。従って、武烈前紀は『古事記』の意祁の説話と小泊瀬稚鷦鷯の説話が入り乱れている。

鮪と小長谷若雀が取り合った麁鹿火大連の娘の影媛は、実際は意祁と志毘の取り合いである。影媛は春日大郎女で、意祁が勝利し、麁鹿火大連の妃は春日山田皇女で、意祁の義子である。

大伴氏は日向諸縣君の家系の人物で、物部氏では、目大連の家系と考えられる。すると、金村・目大連は「継體天皇御世為大連」とあるように、継体天皇ということになる。金村・目大連は539年十二月庚辰朔甲申に「物部目連公為大臣」と政権交代が起こった。室屋・目大連は458年に「神皇本紀」「磐余甕栗宮御宇天皇御世為連」と大連になった。そして、八釣宮から連に降格し、「物部目連公此連公継體天皇御世為大連」と継体大連天皇が復活した。

『梁書』には齊永元元年に「名國王爲乙祁」と乙祁が499年に扶桑国王になっている。すなわち、乙祁・意祁が武烈天皇とわかる。袁祁は磐城王の娘の難波王の夫である。意祁の父の布都久留の妃が飯豐郎女と考えられ、意祁は袁祁の甥にあたる。布都久留・白髪は吉備上道臣の娘の初代難波王の婿で磐城王の可能性が高い。従って、意祁は丘稚子で袁祁の義兄弟にあたる。

雄略天皇は大伴連室屋、458年即位、478年布都久留・飯豐郎女が天皇に即位、480年に真鳥が女王国の天皇になった。485年に小前が2代目室屋から扶桑国の皇位を奪取した。そして、488年には真鳥が扶桑国の皇位も奪取し、499年に皇太子の志毘を殺害して、実質、皇位を奪取した麻佐良・意祁が即位したと思われる。

2023年9月27日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 仁賢天皇

 仁賢天皇は『日本書紀』も『舊事本紀』の「神皇本紀」も大連を記述しない。「天孫本紀」には「物部木蓮子大連公此連公石上廣髙宮御宇天皇御世為大連」と記述されるが、これは、物部氏の当主に過ぎない。顕宗小前大連天皇の後継者は小前を襲名して大宿祢、大国王となったようだ。小前は田部連の祖、田部は許勢男人大臣の娘の紗手媛が給った。489年に袁本杼が大臣を引き継いでいるので、袁本杼が婿になって、小前を襲名したのだろうか。木蓮子は御太君の祖の大宿祢に婿入りしたと思われる。春日袁杼比賣が春日和珥臣深目の娘の童女君、袁本杼の姉と思われ、大臣を継承した。木蓮子の妃、御太君の祖の娘の里媛が袁杼比賣の娘の春日大郎女、子が乙祁だ。

その間、498年仁賢十一年八月に「大臣平群眞鳥臣專擅國政」と国政を担っていたと記述されている。『梁書』に「扶桑國者齊永元元年・・・名國王爲乙祁」と記述され、499年に意祁が畿内の朝廷の王となった。『舊事本記』も500年、武烈二年巳卯春三月丁丑朔戊寅「麻佐良連公為大連」と麻佐良が即位している。女王国王は武烈即位前紀に「以大伴金村連爲大連」だ。

すなわち、498年まで、真鳥が女王国と扶桑国を統治していた、仁賢天皇である。490年に初代真鳥が崩じ、2代目真鳥が継承し、巨勢袁本杼(男人)大臣が女王国を統治したと考えられる。『古事記』では志毘を志毘臣と呼び、志毘の家が朝廷、志毘が皇太子である。「朝廷人等者旦参赴於朝廷晝集於志毘門」と、夜明けまで天皇に、その後皇太子志毘の宮殿に向かう。『隋書』「俀国伝」の「天未明時出聽政跏趺坐日出便停理務云委我弟」と同じである。すなわち、実質の俀国王は太子の利歌彌多弗利、扶桑国王も実質の王は太子志毘だ。同様に、朝廷は夜間の天皇が神とそれに仕える皇后、実質の昼間の天皇は皇后の父や兄弟の大連である。

仁賢元年正月辛巳朔乙酉の天皇即位、十月丁未朔己酉の葬天皇の日干支は九州の暦だ。仁賢朝の大連は真鳥が継続し、木蓮子大連は安康元年から襲名された名だ。小前も大宿祢を継承して、継承された大連に死亡記事や葬送記事は記述されない。すなわち、この即位、葬送記事は他の王朝の説話と考えられる。顕宗朝が崩壊した年なのだから、大漢国の記事の可能性が高い。大漢国王は、吉備上道臣の可能性が高い。『日本書紀』には白髮に武廣國押を挿入しているが、『古事記』には「武廣國押」がない。従って、「難波小野皇后恐宿不敬自死」によって、吉備上道臣没落後の仁賢期と考えられる。

二月辛亥朔壬子の「立前妃春日大娘皇女爲皇后」は2代目真鳥の皇后の記述と考えられる。春日の丸迩佐都紀臣の娘の袁杼比賣の兄弟が深目、深目の娘が童女君、2代目真鳥の皇后と思われる。深目の娘の童女君の女君は女国王大娘女を意味し、初代春日大娘女と考えられる。初代真鳥が480年に即位し、488年2月に2代目真鳥が継承し、489年八月九日に初代真鳥が崩御したと思われる。

仁賢三年春二月己巳朔の「置石上部舍人」は石上王の木蓮子大連の事績なのだろう。仁賢五年春二月丁亥朔辛卯の「佐伯部仲子之後爲佐伯造」は小前大宿祢の記事かもしれないが、2代目真鳥の謝罪なのだろうか。仁賢六年秋九月己酉朔壬子からの「遣日鷹吉士使高麗」がある。これによって、「貴人第一者爲大對盧第二者爲小對盧」の官位を扶桑国が取り入れたようだ。