2025年3月7日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話16 豐木入日子

  初代の得玉彦(美知能宇斯)は丹波の河上の摩須郎女、すなわち、丹波大彦(大伊賀彦)の娘の大伊賀姫を妃に4児を生む。比婆須比賣の夫は八坂入日子、弟比賣(飯野眞黒比賣)の子が須賣伊呂大中日子と考えられる。飯野眞黒比賣の父は杙俣長日子でその父が遠津氏の息長田別子だ。しかし、杙俣長日子の孫が応神天皇の子の若沼毛二俣で世代が異なり、須賣伊呂大中日子の娘が纏向日代天皇妃である。

須賣伊呂大中日子の妃は柴野入杵の娘の柴野比賣で、柴野入杵は豐鋤入日賣で、夫が美濃(三野)の八坂入日子、妹の弟比賣は大根の娘が弟比賣なので大根の妃、道主の跡取り、朝廷別が師木宮の分岐朝廷纏向天皇の豐木入日子なのだろう。

息長田別や杙俣長日子は後代の倭建の子孫だが、同一地域、同一氏族の王の名は継承されるので、違う時代には違う人物が同一の名を冠した可能性が高い。幾人もの垂仁朝、景行朝、成務、応神朝の弟姫、弟彦が存在し、同じ弟国の違う人物には弟に修飾語が付くように、また、兄弟姉妹の弟なら、もっと多くの名に兄を付加される。

建諸隅と伊迦賀色許男の子が互いに婚姻し合えば、名は建諸隅のままだが、尾張氏の建諸隅は名が倭得玉彦に変わった。崇神六十五年以降も建諸隅の名は継承されているのだから、倭得玉彦も実質は建諸隅だった。美知能宇斯は遠津氏の娘と考えられた息長水依比賣の子だったので、遠津氏の娘の遠津年魚目目微比賣の子の豐木入日子の可能性が高い。遠津氏は木国造の荒河刀辨なので、豐木入日子は木国造の子でもあった。共に彦狹嶋の祖父なので豐木入日子イコール大入杵、大入杵は木国造の建諸隅を継承した。

豐木入日子は東国を任され、孫の彦狹嶋は東山道十五國都督、上毛野國造能等國造の祖であり、東国の甲斐國造の祖は沙本毘古や建諸隅の後裔の尾張氏でもある大八椅、沙本毘古の曾孫の知津彦が甲斐國造、大八椅は斐陀國造に賜姓されている。豐木入日子が尾張氏を継承し、子達も八坂入日子の子達と婚姻していることがわかる。

建沼河別が丹波道と東方十二道を攻め、子の纏向王の豐木入日子が丹波道と東国を得、倭者師木登美豐朝倉曙立王の品牟都和氣が引き継ぎ、子の彦狹嶋が東山道十五國の都督、その子達が東国の國造に賜姓されたと考えられる。甲斐國造の祖の沙本毘古は品牟都和氣の義父の可能性が高い。

2025年3月5日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話15 纏向と師木の天皇

最初に大和の纏向を首都にした人物は建諸隅である。その頃の建諸隅は豐木入日子が襲名していて、崇神六十年に纏向朝廷を開き、垂仁二十三年に大新河が継承した。豐木入日子は沼名木之入日賣の婿と想定され、沼名木之入日賣は大國魂神を祀った纏向の女王で大和神社を創建したと伝えられる。通常、姫が王位を継承し、皇子が王位を継承する時、新しい王朝として史書に名が記述される。

そして、師木天皇は伊迦賀色許男(日子坐)の娘婿の建新川が継承したが、建新川は倭志紀縣主の祖なので、師木宮天皇を継承した。師木が首都でないなら、祖ではなく師木縣主と呼べばよい。『日本書紀』は磯城が首都としないので波延を磯城縣主と呼んでいる。師木宮天皇は崇神朝、垂仁朝、その後も、垂仁九十九年まで継承され、垂仁八十一年の大連就位の日干支は間違いで崇神六十八年、紀元前30年に即位した初代の十市根(大根)が『舊事本紀』の天皇だったようだ。

建諸隅を継承したのは師木宮に婿入りした倭得玉彦で、妃は淡海國谷上刀婢(タニカミのトベ)、すなわち、丹波河上(タニハカハカミ)の摩須郎女と名が似通っていて、その夫の丹波比古多多須美知能宇斯の可能性が高い。すなわち、大縣主の娘の竹野比賣の子の比古由牟須美(襲名した大毘古)である。『古事記』では四道將軍ではなく三道だが、それは、建沼河別と美知能宇斯が同一人物だったからと考えられる。崇神朝は崇神六十年に豐木入日子が纏向朝廷を開いたので、比古由牟須美の子と大伊賀姫の婿の垂仁朝時の師木宮と纏向宮の2代の記述が必要だった。

豐木入日子は荒河戸畔の娘と思われる遠津氏息長水依比賣の子で、妃は春日宮天皇の孫娘の佐波遲比賣である。日子坐は師木宮朝の4代がいつも木国造に婿入りし、木国造はいつも日子坐の娘に婿入りする。すなわち、沙本毘古が師木宮天皇で、垂仁五年に纏向朝の豐木入日子に殺害された。佐波遲比賣は沼名木之入日賣と考えられ、大國魂神を祀らせようとしたが、沙本毘古と共に薨じたので、祭れなかった。沼名木之入日賣神社は大國魂を祀る大和神社から離れて纏向宮に近い位置にある。

2025年3月3日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話14 意富阿麻比賣の子達

  彦坐の妃の意富阿麻比賣(母弟袁祁都比賣)の男子は八坂入日子(?山代之大筒木眞若)で、同母弟の伊理泥の娘を妃にしている。しかし、伊理泥の娘婿が八坂入日子では、世代が異なる。伊理泥と義兄弟の八坂入日子と伊理泥の娘婿の山代之大筒木眞若と考えないと理に適わない。

八坂入日子が丸迩臣の祖の袁祁都(木國造)の娘に婿入りし、その息子の山代之大筒木眞若が袁祁都の子の伊理泥(大根)の娘の丹波能阿治佐波毘賣に婿入りした。これで、世代も名前もスッキリし、伊勢神麻績連の祖の八坂入日子の妃は天照大神を託した木國造の孫の豐鋤入日賣(氷羽州比賣)で、伊理泥の妃は丹波道主の娘の弟比賣、その娘が阿治佐波毘賣なら理解できる。

八坂入日子の義兄弟の大入杵は、妃が不明な2代目美知宇斯ならば、妹が豐鋤入日賣、婿が水之穗眞若の八坂入日子は理に適う。初代美知宇斯の子が豐木入日子、八坂入日子の義妹の十市之入日賣の婿が名前から神大根である。

大根には兄比賣・弟比賣という娘が存在したが、十市根は八坂之入日子の娘に婿入りした。同じ師木宮に八坂之入日賣と弟比賣が存在し、十市根は八坂之入日賣を、大筒木眞若は大根の娘の弟比賣(丹波能阿治佐波毘賣)を妃にした。

品遲部君の祖が比古由牟須美なので、丹波道主は娘竹野比賣の婿で、子の豐木入日子は佐波遲比賣を妃にして、その子が品牟都和氣である。比古由牟須美は初代の丹波道主である。

豐木入日子の妃の佐波遲比賣は春日の建國勝戸賣の娘、春日宮王朝の孫に当たり、春日宮王朝の子の比古由牟須美の娘ならば理に適う。大俣の子は曙立で、倭者師木登美豐朝倉の王、後に倭と呼ばれ、淡海の師木と長髄彦の居た仲国の登美と筑後の朝倉の倭王となったと記述する。この倭は大海の野洲の倭で、伊勢の品遲部君の祖、品牟都和氣はよく符合する。

2代目美知能宇斯の弟の水之穗眞若は安直の祖なので、海直の祖の内色許男、その娘の伊迦賀色許賣、その子の比古布都押之信、子の日子坐、その子の八坂入日子である。十市根は師木朝大連だが、垂仁八十一年、大連に賜姓され、物部武諸遇の娘を妃にしているので、世代は景行朝と同時期の天皇である。天皇十市根の妃が八坂之入日賣と考えられ、子の五百木之入日子は太子である。

2025年2月28日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話13 伊迦賀色許男の家系

  開化朝の比古布都押之信・伊迦賀色許男の子が崇神朝の伊迦賀色許男の日子坐だった。竟富那毘の本家、葛木の婿の比古布都押之信の子の日子坐が師木に婿入りした竟富那毘の娘に婿入りして師木宮の天皇になった。2朝続く場合、『古事記』や『舊事本紀』は2つの名を記述することが解る。父が不明な六人部連の祖の妙斗米は蝿伊呂杼の子の大綜杵と考えられ、そして、六人部連の祖は伊迦賀色許男の子の安毛建美である。すなわち、大綜杵と内色許男の娘の伊迦賀色許賣の子が比古布都押之信で、姉妹が伊迦賀色許賣である。

比古布都押之信は建宇那比の妹の宇那比姫の婿で、子が日子坐、日子坐は建宇那比の娘の袁祁都比賣・大海姫の婿である。大海姫の一男は八坂之入日子、二女の婿が大入杵と大根と想定された。豐木入日子の孫は大綜杵と考えた彦狹嶋と同名で、大入杵の孫でもあるので、豐木入日子と大入杵は同一人物であった。すなわち、娘婿の豐木入日子が狹嶋を継承している、本家筋である。

豐木入日子は東国を任され、孫の彦狹嶋は東山道十五國都督、上毛野國造能等國造の祖であり、東国の甲斐國造の祖は沙本毘古や建諸隅の後裔の大八椅、沙本毘古の曾孫の知津彦が甲斐國造、大八椅は斐陀國造、彦狹嶋や子の御諸別の後裔と考えられる建許侶の子達が須恵國造、石背國造、道奥岐閉造、道奧菊多國造、馬來田國造に賜姓されている。すなわち、豐木入日子と沙本毘古は義兄弟、豐木入日子が纏向天皇で、皇后が佐波遲比賣だったから、その子供達も互いに婚姻して東国の王になったと考えられる。

また、品遲部君の祖が比古由牟須美、品牟都和氣のために品遲部を造ったのだから、品牟都和氣が品遲部君で、曙立王が伊勢の品遲部君の祖なのだから、品牟都和氣の本人か子が曙立王で、曙立王は倭者師木登美豐朝倉を支配した王、すなわち、師木宮の王の天皇である。

さらに、淡海の王の祖は海直の祖の日子刺肩別(内色許男)で娘婿は日子寤間(大綜杵)、その子が比古布都押之信だ。坐王の子の近淡海の安直の祖の水穗眞若(八坂入日子)、子の八坂之入日賣の子の海部直の祖の兄彦、成務朝に首都の淡海國造になったのだから、穴穂宮天皇の大陀牟夜別と継承されている。

2025年2月26日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話12 和迩大臣の祖

  八坂之入日子は伊勢神麻続連を賜姓される祖なので、伊勢麻績君に婿入りしたと考えられ、崇神六年に「拝祭伊勢大神之宮」の豐鋤入日賣に婿入りしたと考えられる。荒河刀辨の娘の息長水依比賣の娘が豐鋤入日賣、和迩臣の遠祖の母弟袁祁都比賣で、婿が八坂之入日子と考えられ、八坂之入日子の子が山代之大筒木眞若と考えられる。

山代之大筒木眞若は八坂之入日子の義弟の大入杵すなわち伊理泥の娘を妃にし、その孫の息長宿禰は遠津臣の娘を妃にした。古代の姻戚関係である。『舊事本紀』には、「上毛野國造・・・豊城入彦命孫彦狹嶋命初治」、「能等國造・・・大入來命孫彦狹嶋」とある。東山道十五國都督の彦狹嶋が能等國造が大入杵の孫、上毛野國造が豊城入彦の孫とある。すなわち、大入杵は豊城入彦である。

また、息長水依比賣の子になっている御井津比賣が息長氏の後継者、孝昭天皇和知都美が生まれた淡道の御井宮の比賣で、伊勢への分家の豐鋤入日賣が水穗五百依比賣、水之穗眞若が八坂之入日子という関係なのだろう。『舊事本紀』では建膽心大祢が御井宮の王の大祢を継承したと考えられる。すなわち、御井宮の比賣の御井津比賣の夫と思われ、神大根が豐鋤入日賣の前任者、崇神六年(?垂仁六年)大祢を継承した人物だったのだろう。

水之穗眞若が八坂之入日子に推定した理由は、八坂之入日子の娘の八坂之入日賣の子が五百木之入日子で、水穗五百依比賣の名を引き継いでいるからである。そして、五百木之入日子は穴穂宮太子だったのだから、父の十市根が穴太足尼である。その娘が比咩古、婿は膽咋大臣で、足尼は、宗教上の天皇と同等の地位、彦根の王の大祢、神大根を引き継いだ大国の王である。

八坂之入日子の姉の沼名木之入日賣の婿が大入杵と考えられ、その娘婿が八坂之入日子の子の山代之大筒木眞若、和迩臣を引き継いだと考えられる。大筒木眞若の曾孫の大多牟坂が和迩大臣と考えられる。

2025年2月24日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話11 伊迦賀色許男と建諸隅

  丸迩氏と木國造の接点が丸迩臣の祖の孝安天皇の子の建斗禾、その子で木國造を襲名した竟富那毘の娘達は城嶋(木国)連の祖、すなわち、木国の王家の姫となった。城嶋(木国)連は、建斗禾の子の建宇那比、孫の建諸隅に受け継がれた。従って、丸迩臣の祖の日子國意祁都は竟富那毘の子の建諸隅、妃は「葛󠄀木直祖大諸見足尼」の娘の諸見巳姫で、大諸見足尼は天皇を意味し、葛木に住む天皇は葛城の高千那毘賣に婿入りした比古布都押之信と考えられる。

比古布都押之信の娘婿が建諸隅、その妹の意祁都比賣の婿は恐らく、味師内宿禰なので、味師内宿禰が荒河刀辨の可能性が高い。建諸隅の子は妹の意祁都比賣、意富阿麻比賣を妃にしたと考えられる。意祁都比賣は父が野洲の大海宿禰、義父が葛木天皇である。比古布都押之信の子と建諸隅の子は開化朝60年、崇神朝65年の間、交互に婚姻した。従って、意祁都比賣と弟意祁都比賣の間には数代の意祁都比賣が存在したはずだ。安曇川沿いの葛川と琵琶湖の対岸の野洲の王家の相互の婚姻だ。

建諸隅の子が婿入りして襲名した開化朝では葛木宮大臣が比古布都押之信(初代伊迦賀色許男)、崇神朝では師木宮大臣が日子坐(2代目伊迦賀色許男)である。そして、比古布都押之信や日子坐の子が建諸隅の娘に婿入りして建諸隅を襲名した。代々の日子坐の子が苅幡戸辨、沙本之大闇見戸賣、息長水依比賣、母弟袁祁都比賣に婿入りして、分家を造った。『舊事本紀』での名は建諸隅の名が長溝、娘は真木姫、荒姫、玉手姫、倭志紀彦の娘の真鳥姫も伊迦賀色許男の子が建諸隅の娘婿で、師木玉垣宮天皇なのだろう。

弟袁祁都比賣が意富阿麻比賣で、比古意須と伊理泥、すなわち、沼名木之入日賣、十市之入日賣の婿である。意富阿麻比賣の子が『舊事本紀』では「一男二女」、八坂之入日子、沼名木之入日賣、十市之入日賣である。『古事記』の大入杵は婿と考えられ、野洲に入町が存在し、大入杵と十市根、世代的に大根が婿と考えられる。そして、襲名した建諸隅・荒河刀辨の大入杵の娘の中日女に大新河を婿に迎えて分王朝の纏向朝廷を開いた。

2025年2月21日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話10 和迩臣と紀伊國造

  「わに」の地名の初出は神武東征の時の曲浦で、そこで釣りをしていた木国造の祖の珍彦が海導者となり、賜名されて倭国造の祖の槁根津日子に名を替えた。『日本書紀』では倭国造に賜姓され、倭国が大和や淡海なら、首都の王の天皇になってしまうので、『古事記』の倭国造の祖が正しく、『日本書紀』の倭国は九州の倭国の可能性が高い。

199年に神功皇后(拘奴國王)が周芳の沙麼から筑紫に行幸した時、岡縣主の祖の熊鰐が洞海(久岐の海)で王を迎えた。熊鰐が『日本書紀』の倭国造、『舊事本紀』の和迩君なのだろう。

『日本書紀』は卑弥呼を神功皇后、男弟王を建内宿禰と想定し、首都は香椎宮だったので、槁根津日子はその倭国の王、『後漢書』の大倭王を意味する。『日本書紀』は「槁」を「椎」と書き換え、椎根津が香椎の津、香椎宮の主と考えられ、また、邪馬台国女王の壱与は市鹿文、火國造に賜姓した。椎・香椎は中国の文字をそのまま使っている中国人か邪馬壹國人が使用した地名だ。

和珥津は神功皇后が新羅征伐に出港した場所である。対馬とされるが、出向前なので、糟屋の宇美近辺である。実際の邪馬壹()國女王卑弥呼は「一國之魁帥」の夏磯媛である。

『古事記』の「うづひこ」は後代の建内宿禰の祖父の宇豆比古である。木国造は天道根で、和迩臣の祖の彦國押人の子の建斗禾が紀伊國造智名曽の妹の中名草姫に婿入りし、子の竟富那毘も城嶋連の祖の節名草姫に婿入りし和迩臣の祖を継承した。

天道根がいつ木国造になったかは不明だが、高倉下が天皇の璽を得て、孝昭天皇が淡道の御井宮から葛木に遷都した時、襲名した天道根が前の首都の淡道の御井宮(天忍人の妃の角屋姫が居たところ)で木国造になったのなら相応しい。天忍人の祖母は天道根の娘か孫娘で、天忍人の妃の角屋姫も大物主や天道根の後裔にあたる。

素戔嗚の子の大屋姫、饒速日の妃の御炊屋、御炊屋は天道日女の姉妹、天道根の子か妹で、香語山の妃は天道根の娘か孫の穗屋姫、天忍人の妃の角屋姫は名前から同じ氏族と考えられる。男神は地名を背負って移動したが、女神は土地を守り、野洲の女神は土地を移動しない八上比賣から始まる「ヤ」比賣、漢字の無い大倭国の世界で「ヤ」と言えば野洲である。

2025年2月19日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話9 國造

   師木縣主も十市縣主も首都があった地域の王が縣主と呼ばれた。元々は地域名が付かない縣主が後の天皇と呼ばれる存在だった。師木から首都が代わると、その地には残った王が存在し、師木縣主と呼ばれることになる。『日本書紀』の最初に記述される弟猾が得た猛田邑、その邑の王の弟猾が猛田縣主である。猾は宇迦能山に建国された王で、その場所の王が猛田縣主で猛田に首都があった。それ以外にも、春日縣主も記述されるが、開化朝の首都は春日だった。

猛田縣主と同時に記述されるのが、釼根の葛城國造と珍彦の倭國造である。それまでの官位に「国造」は無く、『古事記』・『日本書紀』では、崇神朝以降に荒河刀辨から記述される。『日本書紀』には首都倭に倭王を賜姓するという矛盾した倭国造や、『古事記』に記述されない葛城国造が記述されている。すなわち、首都だった場所の王を師木縣主と同じように国造と呼んだものと考えられる。唯一人の王が国造、首都が移動すると、国造が残って葛城国造、新しい首都の王が唯の国造、国造がインフレで価値がなくなり、王は天皇や大連と呼ばれるようになる。

『日本書紀』の綏靖朝以降の実在した初出の美濃国造は三野国造で、現代の美濃とは異なる、琵琶湖周辺の地域と考えられる。長浜に「三野之宇泥須別」の宇根があり、三野前国造が開化朝、三野後国造は成務朝、美濃国造は応神朝で景行朝の大碓と共に記述できるのは三野前国造である。開化朝の首都は春日、長浜を春日と推定出来たが、春日縣主も『日本書紀』は記述している。

『舊事本紀』では最初の地域名が無い国造が國造大穴牟遅なので、大国を造った王だ。神武朝に賜姓された國造は大倭國造、凡河内國造、山代國造、伊勢國造、素賀國造、紀伊國造、宇佐國造である。『古事記』において、孝元朝に、木國造の祖の宇豆比古、崇神朝に木國造の荒河刀辨なので、『舊事本紀』の神武朝の國造は崇神朝に賜姓した、インフレの國造なのだろう。

すなわち、崇神天皇の時、これらの国に崇神朝以前に首都を持つ国があったことを示しているのだろう。『舊事本紀』の神武天皇は狭野尊で、父は「御生一兒則武位起命矣初豐玉姫命別去之時」・「武位起命大和國造等祖」の武位起と記述され、大和國造は椎根津彦ではなく、椎根津彦は倭()國造と解る。大和國造の祖は反正天皇が河内に遷都した時、磐余若櫻宮の飯豊皇女の夫が祖だったのだろう。大和國造は首都が河内の時に初めて賜姓できる。

2025年2月17日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話8 縣主波延

  天戸目は葛󠄀木避姫を妃にして「生一男」、一男をもうけたと記述されているが、建斗禾と妙斗米が生まれたと記述しているので、一方は婿と考えられる。史書は女児をほとんど記述せず、妃を記述するのみである。男児は死亡率が高く、女児が多く残るのが本来の姿である。ところが、史書は女児を記述していないということは、本来の女児を男児と表現していると思われる。すなわち、男児は婿を記述していることが予想される。妙斗米は六人部連の祖であるが、六人部連の祖は伊香色雄の子の安毛建美で伊香色雄と妙斗米は同一の血筋である。

すなわち、天戸目の子の建斗禾が木国造の婿なので、妙斗米は物部氏、若倭部連や葛󠄀木尉直の祖の建箇草命は健額赤の子だから、健額赤は葛木彦・奧津余曾の妹の余曾多本毘賣の夫の御眞津日子(?多藝志比古)と考えられる。従って、余曾多本毘賣が葛󠄀城尾治置姫、建箇草が大倭帯日子国押人の可能性が高い。

『日本書紀』は孝霊を除いて綏靖から孝元天皇まで、皇后を磯城縣主や磯城縣主の弟の娘と記述した。安寧天皇の子が師木津日子とあるように、師木に皇太子がいる首都だった。彦湯支が(師木)縣主波延であり、彦湯支の妃は日下部の馬津の姫、吾田彦の子の日下部連使主は阿多氏である。安寧皇后の阿田都久志尼の娘の渟中底姫も阿多氏と考えられるので、ピタリと当て嵌まる。

宇摩志麻治の母は三炊屋姫で、三国の川神の師木の八姫を意味し、彦湯支は磯城八十梟帥と考えられる。子の大祢・師木津日子の妹が倭志紀彦の妹の真鳥姫で、その婿が出雲醜、出石心は世代が違うので、大祢の婿が和知都美・出石心なのだろう。大祢は現代の彦根の王、淡海の「ネ」は彦根と考えるのが理に適う。

孝安天皇の皇后に磯城縣主の娘と共に十市縣主の娘が存在するが、孝霊天皇の皇后では十市縣主の祖の娘とあるように、十市縣が消失して、孝霊皇后の父が磯城縣主大目となっている。これは、波延の住む宮から首都が十市縣に遷ったため、十市縣の主が天皇になったからと考えられる。すなわち、孝安天皇は葛木に婿入りした波延の分家の目だったが、目の分家の細比賣に孝霊天皇が婿入りしたことを示す。細比賣の兄は建斗禾で、孝安天皇・天戸目(磯城縣主大目)の子だ。栗東市に目川、愛知川の傍の愛荘町に目加田がある。

2025年2月14日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話7 大連誕生

  孝昭天皇の娘婿が大倭帯日子国押人だと考えられ、孝安天皇も娘婿の彦国押人・天戸目で、意富夜麻登玖迩阿禮比賣と蝿伊呂杼を生む。孝昭天皇・和知都美も二人の姫を生んだのだから、『日本書紀』の孝安皇后も、『古事記』の大倭帯日子の妃も姪、すなわち、孝安天皇と大倭帯日子は共に、孝昭天皇の娘婿(某姉・某弟)である。安寧天皇の曾孫なら孝昭天皇の子、考安天皇の子では世代が合わない。

孝昭天皇の義兄弟が奧津余曾と御眞津日子、孝昭天皇の娘の忍鹿比賣の婿が御眞津日子の子の大倭帯日子国押人、孝昭天皇の娘の押媛の婿が奧津余曾の子の彦國押人である。押媛は忍日女、忍人と対の天村雲の娘と同名の襲名した尾張氏の継承者である。

『日本書紀』に「觀松彦香殖稻天皇一云天皇母弟武石彦奇友背命」とあるように、多藝志比古は孝昭天皇の母・天豐津媛の弟である。そのことから、多藝志比古は奧津余曾の母の賀奈良知姫の弟で、息石耳の子なので、懿徳天皇や天忍男や天忍人の義兄弟である。奧津余曾大連は息石耳から継承したようで、息石耳の娘の天豐津媛の夫・出雲大臣の娘の子の建甕槌から天皇の璽の韴霊剣を得た。

天忍人は出石心大臣と記述したが、大臣は政策上の責任者で、宗教上の天皇が存在しない。『舊事本紀』は奧津余曾を大連と記述し、孝昭三十一年に大臣に賜姓と記述されている。これは、大連奧津余曾の子が出石心の婿になって大臣に、出石心の子が奧津余曾の娘婿の大連になったのではないだろうか。孝昭朝は83年続いているので、4代程度が交互に婚姻しあって王朝が続いたのだろう。

宗教上の権威は比賣・日子・大祢・大連・根子と呼ばれ、政権の実力者は政大夫・足尼(縣主)・大臣と呼ばれたようだ。宗教上の権威の天皇の史書の『日本書紀』と大連の史書の『舊事本紀』が似通って、政権の実力者の蘇我大臣の史書が異なる理由である。三種の史書は三氏族の王朝が存在したことを示す。

2025年2月12日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話6 天忍人

  天村雲の子である天忍人の妃は異妹の角屋姫で、別名を葛󠄀木出石姫という。角屋姫は母の阿俾良依姫の姉妹の娘にあたるので、葛木氏か阿多氏の娘であり、名前からも野洲国の津に関連し、天道根が祀る大屋姫とも関連していることがわかる。大屋神社の創建の大屋首は天村雲と思われる比古麻夜真止の後裔である。阿俾良依姫は阿多氏の王朝の分王朝の女王の名である。

天村雲の母の異妹の穗屋姫は天道根の娘と思われ、角屋姫も天道根の孫で従妹、初代の天忍人が出石姫、2代目が角屋姫に婿入りしたと考えれば、理に適う。天忍人は懿徳・孝昭朝の名なので2世代存在する。天道根は高御産巣日の子で、大物主の妃の三穂津姫(勢夜陀多良比賣)も兄妹で、同じ地域、三野穂国(?長浜)に居住していたようだ。

葛川近辺には、堅田に伊豆神社が有り、大原に読みが異なるが小出石がある。同世代に出石心と出石姫、ピタリと当て嵌まる。この時代に出石といえば誰もがその氏族を知っていた。

そして、彦湯支の妃である野洲の河が砂に染み込む河口の姫の淡海川枯姫の娘が新河小楯姫、その婿が大祢だろう。愛知川は天井川で、中流以降水面は土砂の下で涸れ(枯れ)ていたそうだ。出石心の妃は新河小楯姫で新川神社が野洲にあり、角屋姫の名も十分当て嵌まる。すなわち、天忍人と出石姫の子の出石心が淡海川枯姫の娘の新河小楯姫の婿(大祢)になって、和知都美を生んだと考えられる。

彦湯支は国名の無い彦の天皇で、また、国名の無い縣主の天皇(安寧)の縣主波延と同世代、妹の河俣毘賣は神沼河耳の妃で同世代にあたる。すなわち、彦湯支と縣主波延は同一人物と考えられる安寧天皇である。神沼河耳の兄弟が意富臣や阿蘇君の祖である神八井で、尾張氏意乎巳連大臣の祖先である。神沼河耳の兄弟とされたのは、神沼河耳の妹の婿だったから、すなわち義兄弟だったからだろう。

尾張氏は物部氏との兄弟と記述されているが、実際には饒速日と天火明は別人であり、香語山と宇摩志麻治は兄弟ではなく、香語山でない他の高倉下が物部氏の兄弟と考えられる。『舊事本紀』では香語山が高倉下とされるが、高倉下は世代的に劔根の娘婿の天忍男と考えられる。従って、高倉下である天忍男の兄弟で、葛木の出石姫の婿の天忍人は孝昭朝大臣の物部氏の出石心であったと考えられる。

2025年2月10日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話5 香語山と村雲

  天香語山は別名として手栗彦や髙倉下を持つが、天香語山と劔根との接点はなく、髙倉下は世代が異なり、劔根の娘婿の天忍男が髙倉下に相当するようだ。香語山については高浜に香山神社があり、手栗彦の「手」はナンバーツー、「ク」は久州、「リ」は天降った日神の子で九州から天降ったナンバーツーを意味していたのだろう。

天香語山の子である天村雲も、天五多底と別名を持ち、「出雲國五十田狹之小汀」とあるように、五十田を支配した手すなわちナンバーツーであったと考えられる。権力構造から考察した朝廷は、神武天皇が媛蹈鞴五十鈴で最高実力者が政大夫の宇摩志麻治、綏靖天皇が伊須氣余理比賣の婿と考えられる日子八井で、2代目の政大夫天日方奇日方と考えられる。しかし、日子八井は多藝志美美に皇位を奪取され、綏靖天皇が空位になってしまう。多藝志美美も皇位継承権があるが、名前は臣下の名である。安寧天皇が綏靖朝の足尼で政大夫だった縣主の波延・彦湯支であったので、日子八井の後の綏靖朝の皇位が空白になってしまう。

ところが、一人、天道根の孫の比古麻夜真止という人物が存在する。村雲は天道日女の孫にあたり、父の香語山の妃は異妹、母方の香語山の従妹と考えられる。すなわち、天道根の娘の穗屋姫で、その子が天村雲、妃が阿多君の家系の阿俾良依姫で、天村雲が比古麻夜真止という可能性が高い。

そして、皇位は倭志紀彦の妹の真鳥姫の夫の出雲醜が政大夫、さらに、懿徳朝大臣となって、師木津日子は天皇の名ではないので即位できなかった。食国の臣下の政大夫が上位者の存在しない大臣になったが足尼になっていない。大臣は統治の責任者で、神の神託を受ける、宗教上の責任者の足尼が存在するはずだ。それが大祢で、懿徳朝では彦根と呼ばれたと考えている。

出雲醜大臣の後継者が義弟の孝昭朝出石心大臣、すなわち、師木津日子にあたるが、1世代違うので、師木津日子の子の和知都美が出石心孝昭朝大臣と考えられる。そして、神の神託を受けるのは、足尼から大連に変わり、劔根の孫の奧津余曾が就位した。

2025年2月7日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話4 兄妹と罪

  火明の子である天香語山は、異妹である穗屋姫を妃にしている。異妹とは、母の天道日女の姉妹の夫の血統を持つ娘が穗屋姫と考えられる。異妹は母方の義妹、異母妹は父方の姉妹の義妹と考えられる。

伊波礼毘古は阿多小椅君の娘の阿比良比賣を妃にし、子の多藝志美美が大物主の娘の伊須氣余理比賣を妃にした。天村雲は阿比良比賣の娘か姪の阿俾良依姫を妃にしたのだから、父の香語山の妃の穂屋姫は大物主の妃の三穂津比賣の姉妹の可能性が高い。事代主は三穂津比賣の居る出雲國三穗之碕で薨じ、天道根は大屋彦・大屋姫を祀っている。すなわち、天道日女の姉妹や姪も天道根の出身地の三穗の姫であることを意味し、事代主の妹の髙照光姫も三穗にいたと考えられるので、天道日女の兄の天道根は髙照光姫を妃にした可能性が高い。三穗は三野穂国のことだろう。

異母妹や異妹の婚姻は、一王朝が100年以上続くことがある一世代なので、この婚姻は個人の兄弟姉妹の婚姻の意味ではありえない。いくら古代でも、血縁親族間の婚姻は遺伝に悪影響を及ぼすことを理解していたと思われる。氏族間の兄弟関係である。

『おお祓い』の祝詞には「己が母犯罪」と「己が子犯罪」を国津罪に入れている。しかし、木梨輕皇子と同じ母を持つ妹である輕大娘女との恋が「畏有罪而黙之」とされるように、この恋は罪と理解されている。つまり、同父母の妹である輕大娘女は母と同じと思われ、母は神であり、自分の娘も同じ神なので、娘も母の娘も祖神と一体であり、自分の神を犯すことになるから罪なのである。したがって、輕皇子がもし輕大娘女の娘である姪を犯すなら、子を犯す罪になる。ただし、輕大娘女は妹ではなく、母の妹の叔母の田井中比賣(弟比賣)のことである。

古代の王朝は、王と王妃、王妃の弟と王の妹が婚姻し、次世代はその従弟同士が婚姻するのが基本なので、王朝は長くて100年程度で崩壊する。だから、他氏の血を入れるため、婿や嫁の姉妹と婚姻する。すなわち、庶妹や異妹や異母妹は異なる姻戚氏族の娘を意味するのだろう。敏達天皇の子である小墾田皇女と彦人大兄皇子が婚姻しているが、実際は兄妹ではないため罪にならない。

史書の兄妹の婚姻は最低でも従妹や義妹の婚姻を示し、姉妹の婿の名が兄弟として記述されている。兄弟の記述でも男子が極端に多いのは、婿を記述しているからと考えられる。

2025年2月5日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話3 お天道様

  尾張氏の祖の天火明の妃は天道日女であり、天道日女は高御産巣日の子である天道根の妹と考えられる。名前は人物を特定する重要なもので、天道と言えばだれもが知っている、恐らく、淡海の道の王で、紛らわしい人物が存在しない人物だろう。

「国造本紀」に、紀伊國造は天道根が賜姓されたとあるが、『日本書紀』の紀伊国荒河戸畔、『古事記』の木国造荒河刀辨が説話での初出で、遠津年魚目目微比賣の父である。遠津氏は天狹霧の娘の遠津待根、天照大神の化身の狹霧から生まれた子である。

『舊事本紀』では紀伊国造の初出が天道根、次が建斗禾の義兄の智名曽であり、最後が『古事記』の伊勢大神の宮を祀った豐鋤比賣の祖父だ。そして、紀伊国造は野洲の神の大屋彦と大屋姫を祀る伊勢遺跡の人物である。野洲近辺の日野町に大屋神社があり、創建が『新撰姓氏録』には「大屋首ハ天道尼乃命孫比古麻夜真止乃命之後也」のように天道根の孫の比古麻夜真止の後裔の大屋首と記述されている。

『古事記』では木國造の祖を宇豆比古、『日本書紀』では珍彦に椎根津彦の名を与え、『古事記』では槁根津日子を倭國造の祖と記述している。倭國造は仁徳朝の比香賀君も祖としており、それ以前は倭國王が天皇であったと考えられる。倭國造が賜姓されるのは雄略天皇の時代であり、吾子篭が大倭國造として登場している。仁徳朝の時代には、倭屯田が山守の領地であり、山守を滅ぼした麻呂が倭直の祖と記述されるように、大山守が倭国を支配していたと思われる。

この倭、大屋神社がある夜真止の中に木国があった。大和は天皇が治める首都があり、その首都に国造を任命するのは矛盾している。実際は扶桑国大和の天皇が女国(淡海)の倭の天皇を名目上任命したと述べられているのだろう。大海姫を『舊事本紀』は尾張大倭媛と記述し、倭が海を意味することが解り、倭国造は海(淡海)国造である。女国の大臣は比布禮で、木国造が大臣になり、丸迩臣である。

高浜の皇子である天火明は、紀伊国造になる天道根の娘を妃にしたが、高御産巣日の子の天道根が高浜に縁がないのは奇妙だ。しかし、高浜の名を持ちながら婚姻が記述されていない人物もいる。事代主の妹である髙照光姫である。髙照光姫は天照大神と考えられ、私たちは日神を「お天道様」と呼んでいるが、天道根の名は偶然とは思えない。

2025年2月3日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話2 狹霧

  尾張氏が祀る神と考えられる尾羽張が八柱の神を生み、天照大神も八柱を生んだ。八国は八氏族の集まりだったから八国と漢字を当てたのだろう。誓約によって生まれた八柱は、天照と須佐之男が生んだことになっているが、実際には婚姻していない。実際に生んだのは氣吹の狹霧であり、これは天之狹霧と國之狹霧、つまり若狭国()の港に天降った天之狹霧と、氣吹(?伊吹山)を祀る神の國之狹霧と考えられる。八国の神の山は伊吹山であり、倭建は「伊服岐能山」の神に勝てず、多賀(當藝野)に逃げた。

正勝吾勝勝速日天之忍穗耳は速日別の国から来た皇子であり、天之菩卑は若狭の出雲に降った神である。天津日子根はおそらく大津の王(琵琶湖が天になった)、対馬の神なら天は不要と思われる。活津日子根は三方の生倉の王、熊野久須毘は小浜(久須夜神社)の王だろう。多紀理毘賣は但馬から隠岐に遷った周饒國女王、市寸島上比賣は狹依毘賣と書き換えられた女王であり、壱岐から若狭に来た女王の狭毘賣(狭霧)の分家の娘、多岐都比賣は但馬か多賀の女王だろう。狭霧神は若狭姫と若狭彦と考えられ、市寸島上比賣が亦の名が狹依毘賣とされたことから、若狭の分家で、高御産巣日の妃である可能性がある。

出雲の大乱で天照大神が大国主に国譲りをさせようとした際、天之菩卑や天若日子を派遣したが失敗した。次に尾羽張を派遣しようとしたが、尾羽張はこれを断り、代わりに建御雷之男を送った。建御雷之男は韴霊剣、すなわち尾羽張の劔を持って国譲りを成功させた。そして、尾張氏の天皇の璽は高倉下が受け取り、即位した。高島が高木神の国、その末裔の劔根の国であるため、尾張氏の出身地は高浜である可能性が高い。

高浜の王は高日子と高比賣兄妹と考えられ、高日子は多紀理毘賣の子の阿遅鍬高日子根、妹は高比賣、亦の名が下光比賣であり、天津國玉(?天津日子根)の子である天若日子の妃の下光比賣である。若日子が若狭彦、下光比賣が若狭姫と考えられ、狭霧神を祀った神である。そして、高浜の神が大山津見を降伏させた高御産巣日と考えられる。高御産巣日の子が天道根、香語山の母は天道日女で、高御産巣日は尾張氏の始祖でもある。

2025年1月31日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 尾張氏の神話1 韴霊剣

  尾張氏の始祖について、『日本書紀』では彦火火出見の弟である火明を「是尾張連等始祖也」としている。『舊事本紀』は天香語山(高倉下)、『古事記』では火明が迩迩藝の兄で、奧津余曾を尾張氏の始祖としている。『古事記』の火明を『舊事本紀』は饒速日と同一視し、『日本書紀』の火明と別人で、各史書まちまちだ。

しかし、それ以前の説話として、伊邪那岐が迦具土を切った十拳劒を天之尾羽張、別名を伊都之尾羽張と呼び、その劒で迦具土を切った際に血から建御雷之男、別名建布都が生まれた。これは高倉下が得た韴霊剣と同名である。後の段では、建甕槌之男が天之尾羽張の子とされ、大国主に国譲りを迫る。

すなわち、これらの説話は高倉下が祀る神の神話と考えられる。迦具土、迦は恐らく河神である「カ」を意味し、対馬出身の河神の「香久」と、対馬の黄泉の神(月讀)を撃つために香久山に集まった石拆、根拆、石筒之男、甕速日、樋速日、建御雷之男、闇淤加美、闇御津羽の八柱の神々によって勝利を収めたのだろう。火の神とする迦具土は、九州の神である加須屋の大海祇、大山津見の一員と思われ、香久山の神に対応するように八柱の山津見を生んだ。香久山は久須夜岳の住人で、久須夜岳は小浜の内外海半島に住む神の久が祀られる巣の八国の山という意味なのだろう。小浜の隣には高浜町があり、高倉下の出身地と考えられる、高浜の倉主なのだろう。

破れて生まれ故郷の対馬の黄泉の国に返されたと考えられる神は、比婆に葬られた伊邪那美とは別人の黄泉津大神である。黄泉で雷を追い返した意富加牟豆美の名を継承したのは、建御雷之男の末裔であり、出雲鞍山祇姫の子である。したがって、尾張氏は賀茂君や大神君の祖神からの分祀と考えられる。このように、武力の象徴である刀の尾羽張という尾張氏が祀る神を配下にした多賀の葛木氏の祖でもある伊邪那岐も、尾張氏が祀る神と理解できる。奧津余曾・葛木彦は尾張氏の祖でもある。

2025年1月29日水曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話24 磐余稚櫻宮王朝

  志賀高穴穂宮では多遅麻の子である印葉が大臣位を継いで、高穴穂、磐余、難波の三王朝が鼎立する形となった。そして、磐余若櫻宮は西暦400年まで、五十琴宿祢が大連である。

多遅麻の娘の山無媛が輕嶋豐明宮天皇妃とされるが、磐余若櫻宮の香兒媛と世代が異なる。香兒媛は纏向日代宮の多遅麻大連の娘、山無媛は輕嶋豐明宮大連の妹で、間に成務・神功が挟まる。磐余若櫻宮遷都の神功三年の日干支は西暦234年、神功三十四年の日干支で、纏向遺跡の桃の種と同じ頃である。輕嶋豐明宮天皇は尾綱根が大臣なのだから、尾張氏の朝廷であり、琵琶湖西岸の大荒田の娘の子なので、尾綱真若刀婢も「しこぶちさん」の安曇川近辺の輕島の姫と考えられる。

そして、尾綱根は大臣に就いても妃が記述されないが、印葉にも記述が無く、私は印葉が兄ではなく妃が物部山無媛と考える。そして、その娘の物部氏の八田若郎女の婿が大別で、大別は物部氏に記述された。物部氏から見ると大別、尾張氏から見ると意乎巳(大臣)連ということになる。329年に的臣の祖の葛木氏の砥田宿禰や賢遺臣が新羅人を連れて貢獻しているが、この貢献は葛木氏が難波朝天皇との友好関係の発端なのではないだろうか。

輕嶋豐明では五百木之入日子が大荒田の跡取り娘の玉姫の娘の尾綱真若刀婢(仲哀朝時)を妃に迎えられた。刀婢は木国造の王后名で高穴穂王の分王朝のようだ。子の品陀真若王は、やはり玉姫の娘の金田屋野姫(神功朝時)を妃に高城入姫、仲姫、弟姫を生み、その婿が尾綱根大臣と考えられる。

若帯日子命與倭建命亦五百木之入日子命此三王負太子之名」と三王が太子ということは、三王朝の太子を示している。五十琴宿祢の稚櫻宮は履中朝まで続き、400年から伊莒弗が大連になって、物部氏の神話は終わり、歴史時代に突入する。大連は大和の扶桑国王、大臣は淡海の女国王と『梁書』は記述している。また、若帯日子の宮は帯中日子の宮が閉じる、362年まで続いている。

2025年1月27日月曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話23 纏向日代宮の王

 


 

膽咋の娘と物部武諸遇の子である多遅麻は、神功朝202年に大連に就位している。彼は神功元年西暦200年頃に高穴穂に移った纏向日代宮の大連の物部武諸遇の子と考えられ、202年に大連に就位しており、多遅麻は高穴穂宮の皇子であった可能性が高い。彼の妃は、高穴穂宮大臣の膽咋の子である五十琴彦の娘・安媛だった。膽咋は128年に高穴穂宮に入ったとされ、十市根の義子となったのだろう。そして、残った人物が物部武諸遇と考えられる。

また、多遅麻の子の物部山無媛は、輕嶋豊明宮の天皇の妃となり、八田若郎女を生んだとなっている。八田若郎女のために御名代として八田部が制定され、この八田部の首領は矢田部造だった。そして、山無媛の父・多遅麻は『古事記』で「丸迩比布禮意富美(大臣)」と記述されている。

輕嶋豊明宮は安曇川近辺にあって、尾綱根が大臣なので、宮主の権力の背景としての比布禮大臣は別の朝廷と考えられる。すなわち、高穴穂宮は分裂したと考えられる。残った膽咋の娘の清媛の婿が物部武諸遇であった。すなわち、清媛は纏向日代宮皇妃の五十琴姫で、纏向日代宮の大連は多遅麻、多遅麻は物部武諸遇を後継した人物、、安媛は五十琴姫を襲名した人物である。

一方で、『古事記』から考えると、五十琴姫の後継者である五十功彦は、大江王であると考えられる。大江王の母は迦具漏比賣で、師木宮の天皇の娘であり、纏向日代宮天皇の妃(五十琴姫)であった。纏向日代宮の後継者は大中津比賣を妃とし、炭素年代測定によれば、纏向宮は240年頃まで天皇の宮廷であったと考えられる。神功皇后摂政3年に磐余若櫻宮への遷都があったとされるが、この日干支は実際には234年であり、年代測定とも一致する。

纏向宮を滅ぼしたのは、膽咋の子で磐余稚櫻宮大連である五十琴宿祢だ。彼は纏向日代宮の多遅麻の娘である香兒媛を妃とした。香兒媛の名前は香坂に類似しており、纏向日代宮皇子の香坂は忍熊を殺害し、後継者になったと考えられる。史書によると香坂は薨じておらず、五十琴宿祢の別名であった可能性がある。

2025年1月24日金曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話22 纏向朝

『舊事本紀』の物部賜姓の日干支は間違っていて、十市根、実際は大根の賜姓は垂仁即位の前年と考えられる。大新河の物部大連賜姓は十市根が大中姫の婿の皇太弟となった時に賜姓されたと考えられる。首都が変わると名が異なるので、師木宮の名は大根を含めて十市根で、纏向では建諸隅大根と呼ばれたと考えられる。

建諸隅(大根)は崇神天皇65年に新たな纏向朝廷を開き天皇と同等の大連に即位し、十市根の兄弟の大新河を垂仁23年、日干支が間違っているので実際は垂仁54年に大連を任じた。一方、同じく、垂仁81年の間違った日干支を正しく求めなおした、師木玉垣宮遷都前年の紀元前30年に師木宮で建諸隅を継いだ十市根は大新河に物部連という姓を与え、大新河も対抗して十市根に同じく物部連姓を与えた。この結果、纏向と師木の二朝廷に分裂した。

十市根の子の膽咋は穴太の足尼の娘である比咩古を妃とし、高穴穂宮朝の大臣となった。唯一無二の日女の比咩古は天皇と同等の地位であり、その夫が足尼を襲名した大臣である。この足尼が代々大臣を襲名してきた可能性が高い。すなわち、膽咋大臣もそれを襲名したと考えられる。同じ時期の成務三年に大臣になった建内宿禰は景行三年の出生から仁徳五十年まで襲名した。仁徳五十年は西暦362年で『古事記』では帯中日子の薨去年なので、帯中日子まで襲名したのだろう。

一方、大新河の子である物部武諸遇大連は、高穴穂大臣の膽咋の娘・清媛を妃としている。また、膽咋の娘には纏向日代宮の妃である五十琴姫がいる。矢田部造の遠祖である物部武諸遇は、纏向珠城宮大連の大新河の子でありながら、崇神朝の師木水垣宮大連に賜姓されていて、矛盾が生じている。つまり、物部武諸遇(大根)は纏向日代宮大連になったのであり、多遅麻も纏向日代宮大連なので、五十琴彦の娘の安媛が五十琴姫を襲名したと考えられる。そして、崇神朝の師木水垣宮大連は建宇那比の子の建諸隅である。そして、伊迦賀色許男の葛木の宮が併行して存在したと考えられる。

2025年1月22日水曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話21 纏向と師木の宮の併存

山代の姫が苅幡戸辨と呼ばれるように、木国の姫も荒川戸俾と称され、その王は建諸隅だ。木国の王を「トベ゙」と記述されるのは、神武東征時の名草戸畔が最初で、名草姫の名も襲名されている。

十市根は建諸隅の娘を妃にしているが、孝昭朝から建諸隅も襲名されている。そのため、十市根の妃は襲名された建諸隅の妹、八坂入日賣ともいえる。また、大新河は木国造の荒河刀辨の娘である中日女を妃にしている。どちらも、建諸隅大臣の後継者である。

意富阿麻比賣の母が中名草姫から解るように荒川戸俾を襲名していると考えられ、意富阿麻比賣もまた木国造の荒河刀辨といえる。このため、大新河と十市根は荒河刀辨(長溝)の娘を介して同世代の義兄弟、日子坐の子にもあたることになる。

大新河の別名は比古意須、伝統ある食国の継承者であり、伊理泥が十市根(大根)の妃、つまり伊理泥(入姉)が十市根の妃と考えられる。このため、十市根の別名は「入杵」と考えられ、入杵の娘婿が師木玉垣宮の須賣伊呂(皇太弟)の大中日子(2代目十市根)だ。『日本書紀』ではこれを「大中姫」と記述しているため、柴野比賣が大中姫であると考えられる。

一方、『古事記』の大中姫は纒向日代宮の姫で、子には香坂と忍熊がいることから仲哀朝の妃であり、仲哀朝は纒向日代宮を首都としている。纏向日代宮の皇妃は五十琴姫であり、纏向日代宮大連は物部武諸遇の子が高穴穂に逃れた以降は分裂して、力を弱めたと考えられる。

記録が開化期の建諸隅から景行期の物部武諸遇を中心に記述されたため、妹が娘や孫が同じ世代の妃とされており、朝廷が一部で世代をまたいで表現されている。師木と纒向が220年間併存したことを一世代で表現しているため、このような系図の混在が生じている。

纏向珠城宮の大新河、纏向日代宮の物部武諸遇及び202年以降の多遅麻と師木玉垣宮の十市根、志賀高穴穂宮の膽咋の政権は並行して存在した。『舊事本紀』では神功元年は202年、『日本書紀』の201年とズレがあり、共に正しい日干支で、2つの神功朝が存在した。志賀の高穴穗の膽咋は輕嶋豐明宮の印葉まで続き、王名は1つの王朝世代に1つの名が襲名された為の混乱である。

2025年1月20日月曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話20 大新河と十市根

  竟富那毘の子である建諸隅は、葛木天皇の子の大諸見足尼の娘である諸見巳姫を妃とした。諸見巳姫は山代宿祢の味師の妹と考えられるが、同時に山代出身の姫がもう一人おり、それが日子坐の妃である荏名津比賣だ。

日子坐の名前は崇神朝が65年続くのだから、襲名され、継承されている可能性が高い。その襲名された日子坐が意祁都比賣を妃とし、山代の大筒木眞若という子が生まれた。大筒木眞若は意祁都比賣の孫も妃に迎えられているため、世代が混在している。師木朝が水垣宮と玉垣宮が有るからだろう。

大筒木眞若は日子坐の子だが、彼の兄弟には唯一無二の比古の名を持つ比古意須が存在する。さらに、大筒木眞若の子の迦迩米雷は遠津臣の娘を妃にしており、遠津臣は木國造の荒河刀辨の娘にあたる。遠津氏の娘の年魚目目微比賣もまた遠津氏であり、遠津氏の姫の高材比賣と迦迩米雷とが婚姻した。

木國造は智名曽で娘婿は竟富那毘で荒河刀辨にあたり、城嶋連の祖、すなわち、木国の師木宮の王である。その娘の年魚目目微比賣の夫が襲名した建諸隅の味師内宿禰となる。日子坐がその妹の袁祁都比賣(意富阿麻比賣)を妃に生んだ大筒木眞若は八坂入日子で、義兄弟が神大根と大新河である。

そして、大筒木眞若は姪である伊理泥の娘を妃に迎えているため、ここで系図に一世代の矛盾が生じた。また、十市根は物部武諸遇の娘を妃に迎えているため、兄弟の大新河の子である物部武諸遇が義父の関係になってしまった。

しかし、この矛盾は、伊迦賀色許男・日子坐と建諸隅の娘の初代伊理泥との子の比古意須が大新河、姉の伊理泥の婿が建諸隅を襲名した大筒木眞若、その娘婿が神大根の子の十市根と解釈すれば解消できる。

大新河は纏向珠城宮の王であり、その子の物部武諸遇は日代宮の王、十市根は師木玉垣宮末、日代宮と同世代の王であり、間に王が存在しないと合わない。それを埋めるのが、神大根で三野國造、三野國の王の八坂入日子の娘の八坂之入日賣の婿が十市根である。

2025年1月17日金曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話19 木国造は丸迩氏

  伊迦賀色許男の子は大新河で、その妃は紀伊荒川戸俾の娘である中日女である。「木國造荒河刀辨」とあるように、中日女は木国造の娘である。したがって、荒川戸俾は木國造なので、木国造の智名曽の娘であり、木国造の氏族である木島(城島)連の祖の節名草姫に婿入りした竟富那毘も木国造と考えられる。

この竟富那毘の子で大臣となった建諸隅は、紀伊国造の後継者である可能性が高い。紀伊国造の妹の子が建氏の手和迩、同じく孫が和迩君の祖なので、木国造は丸迩氏だった。すなわち、丸迩臣の祖の日子國意祁都は、木国造の建諸隅が襲名した可能性が高い。したがって、建諸隅は孝昭朝の時代から大臣を務めており、木国造の丸迩氏と推測される。

丸迩氏の紀伊國造の智名曽の妹である中名草姫の子の竟富那毘は、城島連の祖である節名草姫を妃としている。節名草姫は紀伊國造の智名曽の子と思われる日子國意祁都の妹である可能性が高く、意祁都比賣であると考えられる。竟富那毘は意祁都の名前を継承し、その後継者は妹の宇那比姫、すなわち意祁都比賣で、その子が日子坐であると考えられる。

比古布都押之信は、高千那毘賣以外に、木國造の祖の妹である山下影日賣を妃としている。山下影日賣もまた意祁都比賣と呼ばれたと考えられ、武内宿祢は建諸隅から武氏を継承し、味師内宿祢から内宿祢の姓を引き継いだと考えられる。武氏は葺不合の妃の玉依姫の兄弟と考えられる大倭国造の祖の武位起から継承されている。大倭国造は木国造の祖の曲浦出身の珍彦が神武東征後に賜姓された。首都が大倭国の時に国造は奇異なので、後漢時の九州か、大倭國造吾子篭の頃で、大和ではなく淡海である。

開化天皇の妃は竹野比賣が大毘古の、伊迦賀色許賣が大毘毘の、意祁都比賣が葛城の垂見宿禰の娘の鸇比賣で建諸隅の妃の可能性が高い。葛󠄀木直の祖の葛木天皇の大諸見足尼の娘の諸見巳姫である。建諸隅は孝昭朝から襲名されているための混乱で世代にズレがあったと考えられる。

2025年1月15日水曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話18 足尼と建氏

  葛木氏の大倭根子天皇の娘である倭迹迹姫を妃にした比古布都押之信は、葛木朝廷の後継者で葛木直の始祖と考えられ、葛木王家の姓が足尼の諸見や宿禰の垂見と呼ばれていた可能性が高い。そして、娘である諸見巳姫は、建諸隅の妃となった。

「諸」は「多くの」、「見」は神を意味し、「垂」は「帯」や「足」と同様に「支配する」を表すのだろう。足尼が同時代に複数人現れて宿禰(王・首領)と呼ばれたのだろう。つまり「足尼」は「宮を支配する王」を指し、春日宮と対立した葛木の輕宮の王家と考えられる。初代の「足尼」は宇摩志麻治で、皇后のそばに仕え、代わりに統治したことからその名を授けられたとされ、大臣そのものの役割を担った人物で政大夫とも呼ばれた。

「足尼」は一王朝に一人の存在で、複数存在する宿祢とは別の、宿祢の最上位の姓である。「足尼」を賜姓されたのは彦湯支が木開足尼、出雲大臣の子の三見宿祢、同一人物かも知れない出雲臣の祖の佐比祢足尼が存在し、以降、成務朝以降に足尼が多数存在し、武内大臣から大臣を区別し、宿祢に近づいた。

比古布都押之信の子は妃の倭迹迹姫の母の内色許賣の内氏を継承する、「山代の内臣の祖」である。また、比古布都押之信の娘婿である竟富那毘の子が建諸隅で、これは古代の王家の互いに婚姻しあう姻戚関係を示している。山代の宿禰の子の内氏の味師は、山代縣主の祖とされる山代の長溝と同一人物と考えられる。

垂見宿禰の娘である鸇比賣と諸見足尼の娘の諸見巳姫は一世代異なる。しかし、建諸隅と諸見巳姫の子は「建()氏」ではない。「建氏」は、豊御氣主(またの名を建甕依)の妃である建諸隅の祖母の姉妹にあたる紀伊の名草姫から受け継いだ氏族と考えられる。すなわち、紀伊の智名曽の娘が宇那比の母の城嶋連の祖の節名草姫の可能性が高い。智名曽と名草姫の宮の子達が互いに婚姻し合っていると考えられるからだ。

2025年1月13日月曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話17 物部武諸遇

  丸迩臣の祖である日子國意祁都は、氏族の中で唯一無二の「日子」の姓を持ち、その称号は他の大臣、大連、天皇、縣主といった位に匹敵する。同様に、大綜杵大臣の子である比古布都押之信も、唯一無二の名をもち、伊迦賀色許男大臣のことである。伊迦賀色許男大臣は開化朝と崇神朝における大臣として襲名されていることがわかる。これにより、2世代にわたって伊迦賀色許男が存在していたと考えられる。

比古布都押之信は日子國意祁都と義兄弟関係にあり、その丸迩臣の祖の妹の袁祁都比賣の子に唯一無二の「日子」の名を持つ日子坐王が存在する。この日子坐が崇神朝で伊迦賀色許男大臣と考えると理に適う。この日子坐王は山代の荏名津比賣を妃にしたが、彼女は世代としては山代王(山代の宿禰)の味師内宿禰の姉妹にあたり、これによって内臣の家系につながる。伊迦賀色許男は山代縣主の祖、すなわち山代王の長溝の娘を三代に渡って妃にしているので、味師内宿禰が長溝である。『古事記』が山代荏名津比賣、弟袁祁都、伊理泥の娘の丹波能阿治佐波毘賣、『舊事本紀』は真木姫、荒姫、玉手姫である。

したがって、崇神朝には襲名した日子國意祁都が存在した。また、木国造の娘である日子國意祁都の妹に婿入りしたのは、比古布都押之信の義兄の竟富那毘であり、日子坐王がその娘、従妹を妃に迎えたのは王朝継承の理にかなっている。すなわち、日子國意祁都は建諸隅として孝昭朝に仕えた大臣であり、世代を考えると、崇神朝にも襲名されたが、これは木国造建諸隅という孝昭朝から継続する姓の継承者だったからだと思われる。

『舊事本紀』では、物部武諸遇が垂仁朝大連の大新河の子であり、また垂仁朝の十市大連の妃の父として記述されているが、武諸遇はさらに成務朝においても大臣の娘を妃に迎え、その名を継承した一族と考えられる。本来、景行朝の人物が崇神朝に出雲の神宝見分を行うというのは矛盾していて、垂仁朝以前の物部武諸遇は尾張氏の建諸隅と考えるのが理に適う。すなわち、尾張氏の建諸隅と物部武諸遇は襲名した同一氏族と考えられる。木国建諸隅は纏向に移住して物部武諸遇、平群の紀里に移住して木菟宿禰と呼ばれたのだろう。師木朝廷の時は、木国が首都なので、木國造の祖の宇豆比古、紀伊國荒河戸畔、山代の大國の淵などと呼ばれている。

2025年1月10日金曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話16 王朝継承の論理

  王朝が続く期間は長ければ100年程度であり、一代を親子の年齢差で約20年とすると、5代ほどが継承していくはずだ。王家の夫婦が次代を残すためには3人以上の子供が必要で、最低でも5代で100人程度の子供が存在していたと考えられる。このようにして、景行天皇は60年で76柱の子と記述しているが、史書には個人名を記述しない。

『三國志』に「大人皆有四五妻」と記されているように、王家の婿は同じ宮に住む出産適齢の姉妹すべてを妃にしたと考えられる。そして男子たちは宮から出され、跡取りが他の宮で子を作った場合でも、その子供は王朝の分家で、庇護者の少ない氏族となる。つまり、複数の妃がいる宮は、他の王家から出された皇子が婿として迎えられた宮と考えるのが合理的だ。そして、有力な王家の皇子は引く手あまたで、競って迎えられたと考えられ、王朝が形成される。

王家と皇后の氏族の首領とは同じ宮に隣接して暮らしたと考えられる。すなわち、若い青年は、交流域自体が狭かったと考えられ、4・5人の皇后や皇后の姉妹や従姉妹の娘達に、皇后の兄弟の王家の皇子が婿入りして、王朝が継承される。

それ以外の皇子たちは別の氏族の宮に婿入りし、それが、史書に記述された複数の妃と考えられる。本来であれば、王家の皇子たちは数十の宮に婿入りしていたはずだが、朝廷の主要な氏族以外の記録は残らないのだろう。もしその宮に後継の姫が無い、若しくは、皇后の兄弟が権力者で無くなると、王朝は滅ぶ。

王朝の記録が途絶えた場合でも、その宮には後継の姫や迎えた王が引き続き存在していた可能性が高い。ただし、権力は分家の女王が新しい王朝を開くか、強力な王家に婿入りした皇子によって移動する。例えば、綏靖朝の依姫のように分家が新たな王朝を築くか、孝安や孝元朝のように、皇子が強力な王家の婿になることで権力が移る。坐王や伊迦賀色許男のように、同じ氏族の複数の姫を妃と記述する王は、複数世代にわたって子孫が相互に婚姻関係を持ったためと考えられる。

宮の姫たちは意祁都比賣のように同じ名で育てられ、姉(根・ネ)姫・妹()姫・東(コチ)・中(南・ハエ)などと区別したのだろう。そして、異なる名が与えられたのは、分家や異なる世代を示している。普通の王家の妃は「兩或三」なので、大人は同じ宮に姉妹の複数の母親が住んで、権力者の後継者の子である従兄の1人が婿いりし、複数の母親の娘を妃にしたのだろう。後継者一家は宮に残り、他の子は宮を出されたと考えられる。

2025年1月8日水曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話15 王朝継承

  波延の王朝は、代々跡取りの男王は波延の某兄、波延の姉の夫と呼ばれ、王が波延を襲名したことから、王位波延は皇后の長女だったことが理解できる。王朝交代は依姫が皇后になった。大綜杵の王家継承も、同様に、長女が母の伊迦賀色許賣の名を継ぐのが王位継承だが、御眞津比賣が新たに王家を開いたため、異なる首都の王家が起こったことがわかる。御眞津比賣の子には春日伊邪河宮にゆかりのある伊邪能眞若や、長浜の伊香具神社の近くにある伊香郡と関連のある地名を持つ伊賀比賣が含まれており、春日宮の継承があったことを示している。

伊香郡には、かつての乎彌神社、大国の臣の神社があり、後に春日神社と名を変えている。つまり、この地域には春日と深い縁のある神社が存在しており、御眞津比賣が春日宮の分家の姫であったことがわかる。開化朝の時代には春日宮を引き継ぐ御眞津と輕宮の安曇川近辺に分かれた二つの王家が存在し、春日・輕両王家が並立していたと考えられる。

すなわち、御眞津や御眞木は現代の「マキノ」と考えられ、琵琶湖の北岸が春日王家、西岸が輕王家だったと比定される。そして、春日王家の比古布都押之信が葛川のある葛木の伊香立に婿入りして、琵琶湖南岸の師木朝廷を開いた。葛木の木は国の岐の意味で、3朝廷鼎立である。

伊迦賀色許男に比定される比古布都押之信は、尾張連の祖である紀伊國造の妹の中名草姫の子の竟富那毘の妹で、実際には大毘古の妃が妹でと思われ、義妹にあたる葛木の輕の高千那毘賣を妃に迎えた。この竟富那毘とは建宇那比であり、義妹の高千那毘賣は内色許賣の娘の倭迹迹姫だった。義兄妹の関係には和迩臣の祖である日子國意祁都の妹である意祁都比賣も含まれる。竟富那毘は大国の那毘、建宇那比は建氏の宇治の那比の意味なのだろう。

2025年1月6日月曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話14 春日宮と輕堺原宮

王朝継承は長女が伊迦賀色許賣の名を継承するものだが、御眞津比賣が皇后の長女でない、新しい王朝を開いたことを意味する。これにより大彦の子による王朝が開かれたことを示している。御眞津比賣の子供には春日伊邪河宮の名を引き継ぐ伊邪能眞若や、長浜伊香具神社が存在する伊香郡の地名と関わると思われる伊賀比賣などがいる。これらは春日宮の継承を意味する。

伊香郡には旧乎彌神社、すなわち、大国の臣の神社があり、それは後に春日神社と改名されたことから、御眞津比賣が春日宮王朝の皇后であったことがわかる。これにより、崇神天皇の時代には、少なくとも、春日と師木の2王朝に分裂していた可能性が示唆される。

春日宮に関しては、内色許男が春日の千千速眞若比賣の娘である春日の千千速比賣(千乳早山香媛)を妃に、その子供として伊迦賀色許賣が生まれたと考えられる。この伊迦賀色許賣は、長浜にある伊香具神社の近くで生まれたのだろう。この伊迦賀色許賣の夫が大綜杵で、孝元朝と同時の春日宮大臣、すなわち、輕境原宮内色許男大臣と同時に大臣だった。分朝廷の大臣だったのが、内色許男と大綜杵が兄弟だった理由である。

また、輕堺原宮では、内色許男の娘に婿入りした比古布都押之信が堺原宮朝廷を継いだ。その妹である伊迦賀色許賣は、春日の伊邪河宮に大毘毘を夫に迎え、そこで朝廷を開いたと考えられる。

また、伊迦賀色許男である比古布都押之信は、尾張連の祖である竟富那毘の妹(実際には義妹)である葛城之高千那毘賣を妃にした。竟富那毘は建宇那比のことと考えられ、義妹の高千那毘賣は倭迹迹姫、琵琶湖に相応しい天の魚が名である。葛城之高千那毘賣は葛木天皇の母の細媛の弟の倭迹迹姫で、十市縣主建斗禾の娘である。大毘毘の妃の姉妹が倭迹迹姫なので、兄妹に記述され、その夫が少名日子建猪心・比古布都押之信である。

2025年1月3日金曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話13 伊迦賀色許賣の子

  『古事記』によれば、比古布都押之信の妹である伊迦賀色許賣が、御眞津比賣と御真木入日子を生んでいる。しかし、『日本書紀』では御眞津比賣が記録されていないため、分家の姫も記述されず、御真木入日子が婿だったのではないかと考えられる。

孝元天皇、開化天皇、崇神天皇の時代はそれぞれ約60年で、3世代くらいの人物が子供を生んでいるはずだが、記録に残っている子供が少ないのは、単に分家の記録がなく、長女が婿を取ったためだと考えられる。記述されるのは分家、違う氏族に婿入りした人物を記述したと考えられる。崇神朝は御眞津比賣の子が6人に対して、孝元、開化朝の皇后の子は2~3人、子・孫だけでも、もう2名程度いてもおかしくない。

開化天皇の時代に、大綜杵の娘である伊迦賀色許賣の夫は大毘毘と記述される。『日本書紀』には「御間城姫大彦命之女也」と書かれているが、これは婿が大毘古の子供とすれば義娘の御眞津比賣と説明できる。実際、崇神天皇の記録には、御真木入日子の妃が御眞津比賣であったことが記され、御眞津比賣は分家で、跡取りは襲名した長女の伊迦賀色許賣と伊迦賀色許男の子から生まれた襲名した伊迦賀色許男と伊迦賀色許賣がいたはずだ。

大毘古は大縣主と同じ意味を持つと考えられ、大縣主は大縣の王、大毘古は大国の彦すなわち大国の王で大縣主に婿入りし、妃は竹野比賣となる。もし、御真木入日子が大毘古の子供であれば、その子が御真木入日子、つまり、御真木入日子は比古由牟須美と同一人物だった可能性がある。

『古事記』によれば、大毘古の子供は建沼河別と比古伊那許士別だ。しかし、国名の付かない唯一無二の「比古」は天皇の称号と考えられ、比古由牟須美と同じ人物である可能性が高いと考えられる。同じ王朝内に2名の天皇は存在せず、由牟須美という名前は、産巣日の神を祀るという意味合いを持っている。また、伊那許士は地名であり、伊邪河宮の近くに位置していた可能性がある。

伊那許士別が御眞津比賣を意味する可能性も考えられる。2名の子がいて、1名のみを記述するということは、一方は別の王家の義子と見做すべきだろう。