2025年12月12日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 清寧天皇2

清寧三年九月壬子朔は九州や吉備の暦で、倭王武が巡視したのだろう。冬十月壬午朔は正しい日干支で「犬馬器翫不得獻上」と生き物を献上するなと命じた。

清寧三年十一月辛亥朔と四年春正月庚戌朔は九州や吉備の暦で「宴臣連於大庭賜綿帛皆任其自取盡力而出」とあるように、倭王武が征東大將軍に昇進して、祝いの品が届いたのだろうか。四年春正月庚戌朔も九州や吉備の暦で、「宴海表諸蕃使者於朝堂賜物各有差」と倭王武が朝堂に海岸沿いの王を集めて、賜物した。朝堂は643年皇極二年、660年斉明天皇六年の倭国の時代や690年の大宰府に存在した。鎮東大将軍武の朝廷にはピッタリだ。

483年清寧四年九月丙子朔も九州の日干支で、「天皇御射殿詔百寮及海表使者射賜物各有差」と賭射を行ったと述べている。倭王武は478年升明二年に「東征毛人五十五國西服眾夷六十六國陵平海北九十五國」と216国を勢力下にしたと宣言した。それらの国からの贈物を自国の配下に湯水の如く分け与えたのだろう。毛人の海岸は4つ有り1国15㎞とすると、吉備が境界になる。

清寧四年秋八月丁未朔癸丑は正しい日干支で、「天皇親録囚徒」とあるように、天皇自らが囚人から聞き取りを行い、それによって、蝦夷や隼人を配下にしたと述べている。『宋書』を見て、毛人を蝦夷ととらえたのだろうか。

清寧五年春正月甲戌朔己丑は九州や吉備の暦で、「天皇崩于宮」と記述される。この崩御した天皇は皇太子星川の兄の磐城(?大伴談)と考えられる。484年清寧五年冬十一月庚午朔戊寅は正しい日干支で、「河内坂門原陵」と河内に葬られ、この王が河内で生まれた天皇だったことが解る。『舊事本紀』に「六年十一月庚午朔戊寅葬于河内板門原陵天皇無胤」とあるように、後継女王が無く、分家の丘稚子の娘の難波小野王を妃にした億計が後継者だったが、弘計に譲った。

2025年12月10日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 清寧天皇1

  『古事記』では伊波禮甕栗宮で即位した天皇が「無皇后亦無御子故御名代定白髪部」と記述され、皇后がいなかった。そして、女国天皇は飯豊王で首都は「葛城忍海之高木角刺宮」と高島にあったようで、兄弟が平群志毘臣だろう。489年に真鳥と同時に崩じたと考えられる。清寧天皇は前皇后の草香幡梭媛の姪と考えられる吉備上道臣の娘の稚姫で、婿の星川が実権を握ったと考えられる。

磐城が『舊事本紀』に「皇太子雖是我弟」と言うように、星川が皇太子であり、大蔵を管理するのは当然である。星川は草香幡梭媛の子、星川は栲幡娘姫の婿と考えられる。

雄略二三年冬十月己巳朔は正しい日干支で、大伴室屋(?磐城が襲名)大連が「率臣連等奉璽於皇太子」と皇太子に天皇の璽を渡し、皇太子の星川は殺害され磐城が皇位を継承した。そして、清寧元年春正月戊戌朔も正しい日干支で、「設壇場於磐余甕栗陟天皇位・・・以大伴室屋大連爲大連」、すなわち磐余甕栗宮の天皇の位に就いた。大連は談(磐城皇子)が室屋を襲名したのだろう。「平群眞鳥大臣爲大臣」は男浅津間若子が454年甲午年正月十五日に崩じ、女国は平群大臣が継承した。

清寧元年冬十月癸巳朔辛丑も正しい日干支で「葬大泊瀬天皇于丹比高鷲原陵」と河内に埋葬しているので、河内出身の王だったことが解る。埋葬されたのは星川皇子か。清寧三年春正月丙辰朔は正しい日干支で、磐城王と考えられる大伴談が億計と弘計を迎え入れた。弘計は磐城皇子の孫娘の婿で、皇位を継承した。

清寧三年夏四月乙酉朔辛卯も正しい日干支だが、「以億計王爲皇太子」とあり、これまでは、倭国の王朝交代だった。しかし、倭王武は少なくとも、477年から502年天監元年「倭王武進號征東大將軍」まで、王位にあった。従って、億計が実際に太子になったか、後の倭国王となる、蘇我氏が分身国王に即位した可能性がある。

2025年12月8日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 雄略天皇4

  雄略十八年秋八月己亥朔戊申も正しい日干支、目連は磐余甕栗宮大連で布都久留連の弟の清寧天皇である。目連の妃は記されないが、稚姫に婿入りした星川皇子なのだろう。反乱を起こした伊勢朝日郎は女国の王と考えられる。

雄略十九年春三月丙寅朔戊寅も正しい日干支で、穴穗部を置いた女国の真鳥の説話だろう。室屋の力を借りて伊勢朝日郎に勝った真鳥が穴穂の王だったと考えられる。勝利した後の説話で負けた王が大津の自領に新たに穴穂部を置く必要がない。室屋の協力が必要なほど、真鳥の勢力がまだ弱かったのだろう。伊勢朝日郎は圓の子の可能性があり、娘が伊勢の女王の稚足姫と思われる。

478年雄略廿二年春正月己酉朔は九州の暦で、「白髮皇子爲皇太子」とあるように、倭国の王朝交代だろう。『宋書』の、478年順帝昇明二年に「安東大將軍倭王」、「興死弟武立・・・安東大將軍倭國王」と記述される。弟が王位を継承すると言うことは、分家に王権が遷る、皇后が代わる、王朝交代である。ただし、雄略朝以降は倭王馬子が記述しているので、蘇我氏の王朝交代を記述した可能性も否定できない。

『舊事本紀』には「物部布都久留連公為大連」と記述されるが、二代目大長谷若建が即位したのだろう。大長谷若建の在位は454年から489年までの36年間、2から3代の大長谷若建が存在する。

雄略天皇二三年秋七月辛丑朔も八月庚午朔丙子も正しい日干支で、室屋が崩じ、室屋を襲名した談連と東漢掬直が遺言を代読したのだろう。遺言の中の「四夷賓服」は四方志の対象国の文身国・大漢国・倭国・女国なのだろう。大泊瀬幼武の薨去日は489年仁賢二年己巳年八月九日なので、大伴氏の雄略天皇陵の丹比高鷲原、河内の朝廷だった。古代は母が葬られている土地に葬られたようだ。

2025年12月5日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 雄略天皇3

  雄略天皇十年秋九月乙酉朔戊子と冬十月乙卯朔辛酉は正しい日干支だ。水間君が呉から献上された鵝を死なせてしまい、鳥養人と鴻十隻を輕村と磐余村に置いた説話である。この水間君は継体紀に水間城之王と呼ぶように、318年に薨じた御間城入彦の後裔が磐余に住んだようだ。女国の倭直から磐余の倭へ、倭を持って移住し、娘が大長谷若建の皇太子の婿、それが三尾(御大)君、娘が倭媛だ。

雄略十一年夏五月辛亥朔の川瀬舍人の説話、十二年夏四月丙子朔己卯と十四年春正月丙寅朔戊寅の身狹村主の説話、十二年冬十月癸酉朔壬午の秦酒公の説話は正しい日干支である。葛木氏に代わり、平群氏が台頭したことを示しているのだろう。

雄略十四年夏四月甲午朔は九州の日干支、根使主の誅殺の記録なので、吉備の記事だろう。根使主に「自今以後子子孫孫八十聯綿」と以後、孫子を登用しないと言いながら、子の小根使主は三野縣主である。大伴室屋大連と敵対し、平群真鳥大臣の配下だったことが解る。根使主は平群氏に婿入りして、坂本臣を賜姓される。

雄略十七年春三月丁丑朔戊寅は正しい日干支で、贄土師部の賜姓説話である。摂津國、山背國、伊勢國、丹波、但馬、因幡を領有する朝廷、すなわち、平群真鳥の朝廷の説話である。

2025年12月3日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 雄略天皇2

    室屋は安康元年に、目は雄略十八年に大連を賜姓され、目は甕栗宮大連なので、この時、皇太子の年齢に達したのだろう。目大連は清寧・継体・欽明の大連、すなわち、目大連は大伴室谷の後継者で、金村の皇太子も目大連だったのではないだろうか。天皇室屋・金村大連、太子目大連だ。

雄略二年冬十月辛未朔癸酉は正しい日干支で、「幸于吉野宮」の吉野宮は日吉大社の気比宮と考えられる。同じく「行幸吉野宮」の四年秋八月辛卯朔戊申は九州の日干支で、8月1日が7月晦に当たる。「行幸」はこの日と安閑元年閏十二月己卯朔壬午に記述されるのみで、行幸したのは大伴大連金村である。すなわち、室屋と金村と日向出身の大連の「幸」を「行幸」と記録したことが解る。雄略五年六月丙戌朔も正しい日干支で、「筑紫各羅嶋産兒仍名此兒曰嶋君」とあるように、武寧王が加唐島で生まれた。

雄略六年春二月壬子朔乙卯は正しい日干支で、「天皇遊乎泊瀬小野」と国見を行った。雄略六年三月辛巳朔丁亥は九州の日干支で、「賜姓爲少子部連」と九州出身の少子部の賜姓説話なのだろう。雄略七年秋七月甲戌朔丙子は正しい日干支で、少子部連蜾蠃に「欲見三諸岳神之形」と三諸山の神を連れてくるように指示した。蜾蠃は蠶と嬰兒を聞き間違える、九州出身の人物の説話だからだろう。

雄略九年春二月甲子朔は正しい日干支で、「凡河内直香賜」と香賜の誅殺の説話である。『古事記』の「志幾大縣主」の説話の続きなのだろう。雄略天皇は丹比高鷲原陵に埋葬されるのだから、河内の天皇で、凡河内直は大草香の後継者と考えられる。眉輪は安康三年に7歳なのだから、雄略九年は16歳で、大草香の後継者の眉輪の姉の婿の凡河内直香賜が既に成人している可能性が高い。秋九年七月壬辰朔も正しい日干支で、河内国の誉田陵の埴輪の馬の説話だ。凡河内直を剥奪され、後継者の小根三野縣主が継承した。

2025年12月1日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 雄略天皇1

 456年安康三年冬十月癸未朔は正しい日干支で、磐坂市邊押羽と平群真鳥が王位を争った。後継者の大前の弟の小前(磐坂市邊押羽)、履中天皇の姪の荑媛を妃にした人物である。大前・圓が失脚し、女国の後継者は大津の小前と圓の娘婿の平群真鳥が皇位を争った。大長谷若建は伊莒弗の娘の童女君の婿、布都久留に相当する。455年に大前から皇位を継いだ大泊瀬幼武は大伴室屋に追い出され、河内から朝倉に首都を変えた。

『舊事本紀』の元年十一月壬子朔甲子は安康三年で、「天皇令有司設壇於泊瀨朝倉即天皇位」とあるように、天皇が即位した。天皇は大伴室屋で「還定謁宮」と朝倉から帰って謁宮を定めたと、朝倉とは異なる場所が首都になった。これは、河内に遷都、皇后が代わった、稚姫に代わったことを意味する。

元年春三月庚戌朔壬子は正しい日干支で、「立草香幡梭姫皇女爲皇后」とあるように、大伴室屋が河内王の難波の志幾の大縣主の大草香の妹の草香幡梭姫を皇后にした。依羅連柴垣の娘の太姫の名は大縣主の姫に相応しい名前で、婿が大長谷朝の布都久留大連である。室屋の甥にあたる。雄略天皇の陵が丹比高鷲原なので、扶桑国河内の天皇で、「東千餘里有女國」と記述されるように、扶桑国難波・女国琵琶湖間は約50㎞で、短里では千里だ。

『舊事本紀』は二年丁酉春三月庚戌朔壬子のように元年が二年と1年のズレが有るが、『舊事本紀』の元年は安康三年である。すなわち、457年雄略元年に、「平群真鳥臣為大臣以大伴連室屋物部連目為大連」と真鳥が女国王に即位した。

2025年11月28日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 安康天皇2

  『舊事本紀』に安康元年十二月己巳朔壬午」に「物部木蓮子連公為大連」とあるように、天皇は木蓮子となっている。しかし、木蓮子は「石上廣髙宮御宇天皇御世為大連」とされているので、「大長谷朝御世為大連」の布都久留が即位したのだろう。布都久留は依羅連の娘を妃にしているので、太姫が草香幡梭姫である。実質は初代布都久留が天皇だったのだろうか。454年1月に男浅津間若子は薨じ、圓大臣が穴穂で継承したようで、薨去日が記述されない。伊豫に流されたのが圓・木梨輕と考えた。葛城氏は倭直の孫?の童女君が長谷に逃れ、女国は427年崩御の大雀(大別)の後を継ぐ平群氏が支配した。

安康二年春正月癸巳朔己酉も正しい日干支で、「立中蒂姫命爲皇后」とあるように、穴穂は中蒂姫を皇后にした。去來穗別の娘となっているが、世代的に初代大草香の娘の中磯媛と中臣烏賦津使主との娘の可能性が高い。中磯媛は仲国の女王のようで、その婿が中臣氏で仲国王になり、その娘が中蒂姫と考えた。『日本書紀』は安康皇后を去來穗別の娘とするが、履中(反正)天皇伊莒弗の妃の玉彦媛(津野媛)が初代忍坂大中姫なのだろう。

安康三年秋八月甲申朔壬辰も正しい日干支で、穴穂が眉輪に殺害された。大前は眉輪や圓(木梨輕)の後ろ盾になって大泊瀬幼武に殺害され、陵は大和の菅原伏見、首都大和石上なので相応しい。

2025年11月26日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 安康天皇1

允恭四十二年春正月乙亥朔戊子は正しい日干支で、「天皇崩時年若干」と記述されるが、78歳で年若干は奇異である。木梨輕は圓大臣と考えられるが、大前の兄弟の小前は顕宗天皇(大連)で世代が異なる。すなわち、市邊押磐(小前)が453年允恭四十二年に崩じた允恭天皇の後継者だったが、雄略天皇に殺害され、即位期間が年若干だったと考えられる。皇太子は允恭天皇麥入の子の大前と荑媛の婿の小前が允恭天皇の後継者だったが、共に、雄略天皇に殺害された。

允恭四十二年冬十月庚午朔己卯も正しい日干支で、「葬天皇於河内長野原陵」と河内の天皇、すなわち、二代目大草香の陵墓である。十二月己巳朔壬午も正しい日干支で、「穴穗皇子即天皇位」と安康天皇大前が石上に遷都した。穴穂宮と呼ぶのは、大津の穴穂の姫の津媛の後継者の香火姫を妃にしたからと考えられる。

穴穂の妃は「去來穗別天皇女曰中蒂姫皇女更名長田大娘皇女也」とあるように中蒂姫・長田大娘である。しかし、長田大娘は允恭朝の姫なので別人で大前の皇后である。この時期は雄略天皇が記述しているので、近い時期、誤差は少ない。

ここまでの『日本書紀』の編者は真鳥の可能性が高い。天皇の名が葛城氏の系図なのだから。ただし、葛城氏の知っていた内容は『古事記』。物部氏と尾張氏や4つの国、倭、文身・大漢・扶桑の『四方志』から引用したのだろう。

2025年11月24日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 允恭天皇3

  允恭七年冬十二月壬戌朔も正しい日干支で、「妾弟名弟姫」と弟姫を妃にしようとした説話である。『日本書紀』「弟姫焉・・・時人號曰衣通郎姫」とあるように、弟姫が衣通郎姫、『古事記』「輕大郎女亦名衣通郎」とあるように、弟姫が輕大郎女、大后の弟は田井中比賣である。すなわち、皇太子の木梨之輕王と田井連の祖の娘婿の反正天皇の説話を併せた記述である。古い話なら、これら全てを纏めて、一人の皇后の説話。それが、雄略朝で編じ、また、仁賢朝の『古事記』、最近の話だから、矛盾がでる。

允恭十一年春三月癸卯朔丙午も正しい日干支で、「室屋連依勅而奏可則科諸國造等爲衣通郎姫定藤原部」とあるように、藤原に住む衣通郎姫の為に藤原部を定めた。しかし、大伴室屋は雄略朝の大連なのだから、大伴室屋の記録で、允恭三十七年448年閏2月1日の可能性が高い。閏月は政権によって決め方に差があり、3月朔日の穀雨の決め方で中国式なら閏2月30日晦穀雨、すなわち、3月晦となる。

実質天皇は木梨輕、衣通郎姫は輕大娘で、恐らく、木梨輕と輕大娘は同じ宮に住む従妹だろう。『後漢書』に「大人皆有四五妻」とあるように、王は皇后忍坂大中姫の姉妹や従妹を総取りで妃にして纏めて忍坂大中姫と呼んでいたと考えられる。天皇も代々、木梨輕だ。

允恭十四年秋九月癸丑朔甲子は正しい日干支で、「天皇獵于淡路嶋」と淡路島に出向いている。伊豫國に流されたとされるのが木梨輕、すなわち圓大臣で、その途中の記録と考えられ、允恭十四年秋九月癸丑朔が456年ならば、良く合致する。圓が弟媛の子、輕大娘が圓皇女で、弟媛を継承したと考えれば、理に適う。456年ならば、木梨輕の後ろ盾の安康天皇大前も同じ歳に崩じている。この允恭朝の皇后は弟姫、忍坂大中姫も弟姫、太子は木梨輕、圓大臣だったのだろう。女国の女王と大臣の説話だ。女国は400年頃から雄朝津間稚子が崩ずる454年まで、弟姫の王朝だったようだ。

 

年候補

癸丑9月朔日 332 425 456 482

2025年11月21日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 允恭天皇2

允恭二年春二月丙申朔己酉は正しい日干支で「立忍坂大中姫爲皇后」と忍坂大中姫が皇后になった。実際は忍坂大中姫ではなく、年齢から考えると、二代目去來穗別の皇后と考えられ、允恭()妃は瑞齒別の妃の津野媛の娘の圓皇女なのだろう。二代目は弟姫の娘の衣通郎姫(弟姫)である。去來穗別の崩御が432年、瑞齒別の崩御が437年、雄朝津間稚子の崩御が454年で雄朝津間稚子は一代後でなければ奇異である。

允恭三年春正月辛酉朔は正しい日干支で、「遺使求良醫於新羅」と医師を求めた。八月に新羅から医師が遣って来たが、新羅は女国との交流を倭国に叱責されたようで、翌年、実聖尼師今十四年夏415年に「遣使倭國送白綿十匹」と倭国に遣使を送っている。よく合致する。倭国は新羅、扶桑国は高句麗、女国が百済と友好関係があったと考えられる。好太王が新羅を侵略し、友好国の扶桑国に助けを求めたか?

允恭四年秋九月辛巳朔己丑は正しい日干支で、「誤失己姓」と姓の間違や、失った者がいるので、氏姓を改定したとある。前項で考えたように、権力は難波朝が持っているようで、難波朝が無理やり氏姓を決め、不満を持った。その結果、允恭五年秋七月丙子朔己丑の玉田宿禰の反乱と允恭天皇五年冬十有一月甲戌朔甲申の「葬瑞齒別天皇于耳原陵」と考えられる。玉田宿禰の義子は吉備田狭、子は圓で、圓は河内丹比の天皇の後ろ盾と考えられ、和珥の木事の娘婿と思われる。そして、允恭五年に百舌鳥へ埋葬された天皇は河内の天皇である。七月に殺害された玉田宿禰だろうか?難波朝の後継者尾張連吾襲か?

2025年11月19日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 允恭天皇1

西暦412年允恭元年の「寡人何敢遂辭乃即帝位」とあるように、允恭天皇が即位したが、日干支を記述しない。河内は427年まで大別、崩じた後は大草香が統治した。畿内は反正(伊莒弗)そして、伊莒弗の娘婿の伊莒弗の甥と考えられる麥入が統治した。これが允恭天皇、おそらく、首都は遠飛鳥宮大連なのだから明日香村の遠飛鳥宮と考えられる。そして、432年允恭二十一年壬申年正月三日に大雀の後継者の去來穗別が崩じたと『古事記』は記述する。

允恭二十三年三月甲午朔庚子、「木梨輕皇子立為太子以物部麥入宿祢物部大前宿祢並為大連」とある。この日干支は九州の暦で、倭国の王朝交代の日付、さらに、遠飛鳥宮大連と石上穴穂宮大連が同時に即位するのは奇異だ。麥入は田井連の祖の娘婿で、田井比賣は弟媛なので、麥入は弟媛の娘の財皇女の夫である。434年の大連即位は安康天皇大前が即位したのだろうか。実際に434年に即位した人物は、倭王珍の即位だ。428年に倭国王讃が遣使、438年に讃の弟の珍が安東将軍になっている。434年の王位継承はピッタリだ。

允恭五年に伊莒弗を埋葬し、允恭八年に「造宮室於河内茅渟」と河内に遷都したとある。勿論、首都は遠飛鳥宮なので、允恭五年に難波大草香が河内茅渟宮に遷都したのだろう。麥入天皇は何度も茅渟宮に行幸して、権力的には大縣主と考えられる大草香が強力のようだ。二代目大草香の妃は津野媛の娘の香火姫と考えられる。大草香の子の眉輪の後見人が圓皇女の夫と考えられる圓大臣なので、圓の甥が眉輪なら理に適う。

2025年11月17日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 反正天皇2

  406年反正元年春正月丁丑朔戊寅は九州の暦で、「儲君即天皇位」は皇位を、伊莒弗が磐余から和珥氏に追われた記録だろう。427年まで大別が生存しているので、伊莒弗が大別から王位を奪ったのだろう。『舊事本紀』によると、仁徳天皇紀には「丁卯秋八月十五日天皇大別崩」、『古事記』も「丁卯年八月十五日崩也」と427年まで続いている。しかも、日付の表記法が畿内のものと違う。

伊莒弗の義父は倭国造、おそらく、圓大臣の祖父、伊莒弗の甥が圓大臣、圓の義父が和珥臣木事、圓の父の允恭天皇の妃は弟姫、忍坂大中姫の妹も弟姫、おそらく、忍坂大中姫も弟姫だ。圓の妃は木事の娘の津野媛の娘だろう。和珥臣と葛城氏の結びつきを示している。

反正元年秋八月甲辰朔己酉は正しい日干支で、「立大宅臣祖木事之女津野媛爲皇夫人」と、和珥臣の娘が皇夫人になった。瑞齒別の妃の津野媛と雄朝津間稚子の妃の弟媛で、弟媛は忍坂大中姫の妹、衣通郎姫と呼ばれ、『古事記』の衣通郎女は輕大郎女で娘である。『古事記』の瑞齒別は437年允恭二十六年に崩じ、雄朝津間稚子は454年、子の圓は456か7年に崩じているので、瑞齒別の娘婿は理に適う。

反正五年春正月甲申朔丙午は正しい日干支で、「天皇崩干正寢」と伊莒弗が崩じた。陵墓は『舊事本紀』が毛須野で埋葬年不明、『日本書紀』が同じく百舌鳥耳原へ允恭五年に埋葬している。履中天皇も允恭天皇も崩後すぐに埋葬しており、允恭五年の埋葬は異なる人物の可能性が高い。埋葬場所が百舌鳥なのだから玉田宿禰に殺害された難波大別朝の尾張連吾襲なのだろう。

2025年11月14日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 反正天皇1

    履中六年三月壬午朔丙申は正しい日干支で「天皇玉體不悆水土不調崩干稚櫻宮」は、難波の王の薨去日と考えられる。伊莒弗は柴籬宮時の天皇で、冬十月己酉朔壬子も正しい日干支の「葬百舌鳥耳原陵」と河内で埋葬されている。すなわち、河内の王が若櫻宮に来ていて薨じたのだろう。通常、宮殿で崩御すると、首都を記述しない。天皇が首都で崩御するのは当然のことだ。「立草香幡梭皇女爲皇后」の記事を挿入したのは、大伴氏が河内を掌握したのだろう。崩じたのは日向泉長媛の夫で、跡取りは髪長媛の婿と考えられる。

伊耶本和気は432年崩、反正天皇が伊莒弗で410年崩である。反正天皇の記事を編ませたのは雄略天皇なので、皇后の母親に関する記事を記しても不思議ではない。

『古事記』には2柱の幡梭皇女(波多毘能大郎子と波多毘能若郎女)が存在するが、『日本書紀』は1柱で幡梭皇女だ。従って、この草香幡梭皇后は日向髪長媛の娘ではなく、日向泉長媛の義娘の幡梭皇女で大別の子の妃だろう。泉長媛の子に大葉江・小葉江が存在し、大前・小前と類似している。

もしそうなら、大前・小前は允恭大連麥入の娘婿だろう。麥入の妃は五十琴彦の子の目古の娘、世代が違いすぎる。目大連と大伴大連は全く同時期に出現し、同一人物を思わせる。そして、長目連が目大連の弟、目古連も大伴氏と関係がありそうだ。

2025年11月12日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 履中天皇4

秋九月乙酉朔壬寅は正しい日干支で、伊奘諾神を祀り、河内飼部が従っているのだから、河内丹比の天皇の伊莒弗大連の説話だろう。冬十月甲寅朔甲子は九州の日干支で、筑紫車持君を断罪する説話で、筑紫(豊前・筑前)は和珥君の配下だったと考えられる。車持君は三月に畿内で天皇と会見し、九月に淡路島、10月に宗像近辺着の行程である。

履中六年春正月癸未朔戊子は正しい日干支だが、「立草香幡梭皇女爲皇后」の幡梭皇女は

穴穂の妃の義姉なので、431年允恭二十年が正しそうだ。伊耶本和気は「壬申年正月三日」432年に薨じているので、その直前の王位交代は相応しい。眉輪は7歳で安康天皇を殺害するので、351年生まれ、草香幡梭皇女の孫に相応しい年齢である。

履中六年二月癸丑朔の妃を召しいれる説話は正しい日干支だが、「讃岐國造阿波國脚咋別凡二族之始祖也」とあるように、吉備の説話と考えられる。吉備は九州の日干支を使用していた。死期を迎えた天皇が妃を迎えるのは奇異なので、410年1月30日に讃岐国造の祖なのだから、吉備王の説話と考えられる。吉備臣の初出は雄略妃の稚媛の父である。

神武東征は畿内を一変させた。宗像・宇佐・日向・安芸・吉備の軍が大挙してやってきた。これを、倭王武は東の「毛人五十五國」と呼んだのだろうか。少なくとも、履中天皇の後ろに、倭王阿知使主が、隼人刺領巾がいた。

年候補

 

癸未1月朔日 188 281 374 405 431

壬申年 312 372 432 492

癸丑1月晦日 317 348 410 441

癸丑2月朔日 374 405 467

2025年11月10日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 履中天皇3

履中三年冬十一月丙寅朔辛未は正しい日干支だが、「故謂磐余稚櫻宮其此之縁也・・・號膳臣余磯曰稚櫻部臣」と磐余若櫻の名前の由来を述べている。若櫻宮は242年に開かれていて、膳臣遠祖は景行天皇五三年・123年に「賜膳大伴部」と記述されているので、185年、もしくは、128年の九州の日干支の10月30日が相応しい。もちろん、402年も間違いとは言い切れない。

履中四年秋八月辛卯朔戊戌は九州の日干支なので、大伴氏が434年の記録を挿入した可能性が高い。「始之於諸國置國史記言事達四方志」と倭國、文身國、大漢國、女國の史書を記述させたのだろう。扶桑國は、自国なので、記録の必要も無いし、政権交代した新しい政権で4国史を纏めたものが『日本書紀』の原型となる。

履中五年春三月戊午朔は正しい日干支で、「筑紫・・・何奪我民矣吾今慚汝於是祷而不祠」とあり、筑紫と朝廷の不和を記述する。『好太王碑文』「十四年甲辰・・・刺倭寇潰敗斬殺無數」と倭は同年に大敗していて、朝廷の援助が無かったため、壊滅したと考えられる。扶桑国は高句麗の官位を導入するなど、友好的なので、当然の対応だろう。日向出身で倭と友好的な大伴氏が政権を奪った原因の一つかもしれない。

同時に大臣と大連が二人、女国と扶桑国ともう一つ政権があってもおかしくない。倭王武は「東征毛人五十五國」、難波・河内まで影響力があってもおかしくない。

 

年候補

丙寅10月晦日30 4 128 195 221 252 345 469

丙寅11月朔日   61 185 278 309 371 402 495

辛卯8月朔日 186 217 243 310 367 434

2025年11月7日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 履中天皇2

  皇后黒媛に対し、履中六年春正月癸未朔戊子は正しい日干支で、奇異だが、皇后が変わる。「立草香幡梭皇女爲皇后」と草香の幡梭が皇后になった。『古事記』には波多毘能大郎子と波多毘能若郎女が記述され、波多毘能若郎女は亦の名が長日比賣や若日下部と記述される。すなわち、草香幡梭皇女が大草香の妃と考えられ、履中六年西暦405年から河内の天皇は大伴氏を背景にした大草香になった。

名だけの天皇だった大草香が河内で朝廷を打ち立てたのだろう。おそらく、草香幡梭皇女が比香賀君の娘の玉彦媛、夫が大草香・伊莒弗だろう。葛城氏と大伴氏に亀裂がはいったのだろう。

履中元年夏四月辛巳朔丁酉も正しい日干支で、「召阿雲連濱子詔之曰汝與仲皇子共謀逆」と、磐余稚櫻宮はまだ不穏だった。秋七月己酉朔壬子も正しい日干支で、「立葦田宿禰之女黒媛爲皇妃」は近江の女国の記録である。

履中二年春正月丙午朔己酉も正しい日干支で、「立瑞齒別皇子爲儲君」と記述される。立太子なので、倭国の賛の王朝が始まったのだろうか。儲君とされるのは瑞齒別、木梨輕、大友皇子の三皇子のみで、木梨輕は太子になって儲君と呼ばれ、瑞齒別は儲君になって太子と呼ばれた。儲君は本来、太子になるべきでない人物が棚牡丹で太子になったので、呼ばれたのだろうか。

 

立太子と倭国王

399 ― 漢直祖阿知使主

401 ― 瑞齒別皇子爲儲君(讃もしくは讃の父が即位)

428年 ― 倭国王()遣使獻方物

434年 ― 木梨軽皇子、太子に(弟珍が即位)

438年 ― 珍(讃の弟)、安東将軍に

451年 ― 倭済(珍の子)進號安東大將軍に

461年 ― 世子興(済の子)、安東將軍に

478年 ― 白髪皇子、太子に(弟・武が即位)

  ― 武王(興の弟)、宋へ上表文を送る

※親子相続の時、立太子が無い。

2025年11月5日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 履中天皇1

  八十七年春正月戊子朔癸卯は九州の日干支で、「天皇崩」とある王が崩じた。九州の日干支なのだから葦田宿禰達の記録で、磐余稚櫻宮の天皇が交代するので、五十琴宿祢の崩御である。冬十月癸未朔己丑は正しい日干支で、「葬于百舌鳥野陵」は場所が異なる。百舌鳥野陵は仁徳六七年(379)の「定陵地」で埋葬された息長帯姫ではないかと考えている。

五十琴宿祢の子が(履中)反正天皇の伊莒弗で、伊莒弗の子が天皇になり、反正天皇の子は天皇になっていない。すなわち、反正の義父の和珥臣許碁登の義子が伊莒弗と考えられる。伊莒弗は和珥大臣比布禮の娘婿の五十琴宿祢の子で、仁徳天皇大別は多遅麻の子となっているが、世代的に孫なので、従弟にあたる。和珥大連印葉(菟道稚郎子)の妃も仁徳天皇大別の妃も記述されないが、理には適う。

履中元年春二月壬午朔は正しい日干支で、「皇太子即位於磐余稚櫻宮」、『舊事本紀』「物部伊莒弗連為大連」とあるように、伊莒弗が名だけの天皇になった。近江女国の天皇は倭國造の祖の比香賀君の葦田宿禰(娘の黒媛)で、比香賀君の娘の玉彦媛が伊莒弗の妃なのだろう。

黒媛は婿が去來穗別、黒媛は皇后ではなく名目上の皇后玉彦媛が居るので皇妃である。履中二年十月に去來穗別は圓大使主と呼ばれ、雄朝津間稚子、更に木梨輕が圓を襲名したようだ。圓大臣は雄略天皇前紀の安康三年に殺害されている。木梨輕は大前安康大連に敗れ、伊豫に流されたとあるが、殺害されていて、流されたのは小前だった可能性が高い。

2025年11月3日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 仁徳天皇4

仁徳卅五年夏六月に皇后磐之媛が筒城宮で薨じ、仁徳卅七年冬十一月甲戌朔乙酉は正しい日干支で、皇后が埋葬された。磐之媛は去來穗別を380年頃に生んでいると考えられる。この死は意乎巳が崩じた可能性がある。仁徳卅八年春正月癸酉朔戊寅も正しい日干支で、「八田皇女爲皇后」と和珥臣木事の父?の大別政権が誕生したのだろう。宮主宅媛の後継者雌鳥皇女が殺害され、若帯日子が女国の政権を奪取した。

『舊事本紀』に、仁徳八十二年春二月乙巳朔の「大別定皇子代后號為氏以為氏造改賜矢田部連公姓」は427年の日干支である。仁徳天皇の崩御日は『古事記』も『舊事本紀』も、丁卯年八月十五日で、丁卯年は427年だ。大別に皇后の矢田から矢田部を賜姓されたのは372年だった。八田皇后が薨じたのだろうか。

仁徳四十三年秋九月庚子朔は間違いの日干支で、「依網屯倉阿弭古捕異鳥」と阿弭古が異鳥を捕まえたが、依網池は紀元前36年に造られた。そして、西暦200年に「和魂荒魂依網吾彦男垂見爲祭神主」と吾彦男が和魂荒魂を祀った。その吾彦の説話が挿入された可能性が高く、西暦205年が相応しい。仁徳五十年春三月壬辰朔丙申は正しい日干支で、「茨田堤鴈産之」と「阿弭古捕異鳥」を対応させたのだろう。

仁徳六十七年冬十月庚辰朔甲申も正しい日干支で、「幸河内石津原以定陵地」と陵を造った。おそらく、初代の大別が崩じたのだろう。前方後円墳などは、用水や溜池の残土を積み上げた場所で、その盛り土を締めて、更に墓穴を掘る必要がある。その間、天皇が生き続ける保証は無い。もしかすると、次代の天皇も崩じる可能性もある。すなわち、古墳は仁徳天皇十一年に掘られた堀江や茨田堤の残土が締まり、小山が出来ていた所に、天皇が崩じたため、墓にしたというのが理に適う。

 

年候補

乙巳2月朔日 303 334 396 427 453

庚子9月朔日  76 205 262 329 386 453

2025年10月31日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 仁徳天皇3

     高麗國貢鐵盾鐵的」の仁徳十二年秋七月辛未朔癸酉は九州の日干支である。『晋書』には七月壬申朔と記述され、晋書に合わせれば七月辛未晦となる。訖解尼師今三年「倭國王遣使爲子求婚以阿飡急利女送之」と倭国は皇女を妃に迎えて友好関係だったのだから、新羅人が朝貢し、勞役させ、高麗との通商の邪魔をしなかった。八月庚子朔己酉は正しい日干支で、「饗高麗客於朝」と高麗の客人は近江朝に遣って来た。

仁徳十六年秋七月戊寅朔は九州や吉備の日干支で、物語も播磨國造の祖の速待と玖賀媛の説話である。仁徳卅年秋九月乙卯朔乙丑は正しい日干支で、「遊行紀國」と紀国に遊びに行き、帰って難波に着いた皇后が上陸せず川を引き返して山背そして倭に向かった。紀国の方に引き返して山背・倭に向かったように、紀国は淀川・宇治川の上流で、近江の暦だから正しい日干支である。

仁徳卅年冬十月甲申朔も九州の日干支で、的臣の祖の口持臣の説話で、口持臣は『百済本記』に記述される人物である。注釈では「和珥臣祖口子臣」と和珥臣とも記述し、仲国王の襲津彦東征の仲間だ。河内には倭国、日向・宇佐・安芸、吉備、但馬の神武東征で稚足彦と足仲彦の軍勢が居た。

仁徳卅年十一月甲寅朔庚申は正しい日干支で、「天皇浮江幸山背」と記述され、皇后は筒城宮に滞在中である。すなわち、天皇は難波から追い出されて、紀角(木菟)宿祢の元に逃れ、難波高津宮には神武東征軍が占拠したのだろう。『古事記』の355年に崩じる若帯日子の時代、武内大臣、おそらく、意乎巳大臣の頃に帯中日子と息長帯日売が難波から女国の宇治川沿いを制圧したのだろう。仁徳卅一年春正月癸丑朔丁卯の「立大兄去來穂別尊爲皇太子」は九州の王朝交代と考えられる。阿知使主が畿内で活躍するのだから、都加使主に王朝交代したのだろうか。

2025年10月29日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 仁徳天皇2

  仁徳四年秋八月己巳朔丁丑は正しい日干支で、「爲大兄去來穗別皇子定壬生部亦爲皇后定葛城部」とあるように、壬生部と葛城部を定めた。壬生部は推古天皇十五年にも定めていて、要するに、政権が追認したことを示す。すなわち、この仁徳時の壬生部は大和以外、葛城と同時に定めたのだから、近江の葛木に定めたと考えられる。そして、大兄去來穗別は次代の天皇、部を造るのは分家ということを意味し、大兄去來穗別が葛木の姫に婿入りしたことを示す。分家の相応しい人物が「葛城野伊呂賣」の()子の伊奢能麻和迦で、黒比賣の婿だろう。仁徳四年秋八月己巳朔丁丑の日干支は九州・河内の暦の西暦386年7月30日が晦の己巳朔が最も相応しい。これなら、襲津彦が30歳代後半、葦田宿禰が伊奢能麻和迦で葛城部を賜姓されても矛盾がなく、黒媛の婿の去來穗別の即位が20歳を超えている程度になる。

仁徳十一年夏四月戊寅朔甲午は閏3月1日で、「是國者郊澤曠遠而田圃少乏且河水横逝以流末不駃聊逢霖雨海潮逆上而巷里乘船道路亦泥」と記述する。この記事は水路を掘り、溜池を掘って、残土で大量の古墳を造った河内を示している。

すなわち、仁徳七年夏四月辛未朔の「天皇居臺上而遠望之烟氣多起」で徴税を始めたのは、裕福になったからではなく、徴税出来る権力を握ったことを示したと解る。そして、河内が正しい日干支を使ったということは、河内の政権が正しい日干支を使う政権に代わったことを示し、仁徳十一年ではなく、西暦354年仁徳四十二年と考えられる。仁徳卅八年春正月癸酉朔戊寅は正しい日干支で、「立八田皇女爲皇后」と皇后が代わり、難波が和珥氏印葉の王朝に代わり、用水や溜池を造ったと考えられる。すなわち、仁徳天皇は河内の志幾大縣主の大別となったようだ。

 

年候補

己巳7月晦日30 169 293 386 510

戊寅4月朔日 230 261 354 421 447

2025年10月27日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 仁徳天皇1

 西暦313年仁徳元年春正月丁丑朔己卯は正しい日干支で、「大鷦鷯尊即天皇位尊皇后曰皇太后都難波是謂高津宮」と難波高津宮で意乎巳が大臣になったのだろう。尾綱根と高城入姫の子で、仲姫の娘の婿になる。武内宿禰が平群県紀里に婿入りし、紀角(木菟)宿祢となり、318年、大臣位を意乎巳と交替し、これが名の交換である。

314年、仁徳二年春三月辛未朔戊寅は3月2日の日干支で、「立磐之媛命爲皇后」は九州の暦、で西暦371年3月2日の可能性が高い。去來穗別の崩御は432年、母の婚姻が60年程度前なら相応しい。すると、正しい日干支の314年に皇后を迎えた政権が存在していることが想定でき、和珥大臣の菟道稚郎子の政権が西暦291年から継続していることを示す。難波朝は和珥氏が権力を握り、大別が八田皇女を妃に迎えた、印葉大臣の政権である。

仁徳四年春二月己未朔甲子も三月己丑朔己酉も正しい日干支で、「於茲三年」、「悉除課役」と即位後三年経っても税収が無く、これ以降も税が入って来ないと記述している。正しい日干支なのだから、和珥大臣の菟道稚郎子の記事で、大鷦鷯の難波朝に徴税を邪魔されているようだ。

仁徳七年夏四月辛未朔の「遠望之烟氣多起」は九州・河内の日干支で、菟道稚郎子が敗北したのだろう。正しい日干支を探すなら、西暦350年仁徳卅八年春正月癸酉朔戊寅の「立八田皇女爲皇后」が該当し、八田皇女の兄弟の大別が難波の王になったならば、相応しい。『舊事本紀』は仁徳天皇を大別と記している。

 

年候補

229日が晦日で辛未32 128 247 314 371 438

辛未4月朔日 226 350 412年  

2025年10月24日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 応神天皇2

応神十九年冬十月戊戌朔の「幸吉野宮時國樔人來朝之」は正しい日干支である。國樔人を接待するのだから、この吉野宮は首都近辺で、奈良県の吉野ではなく、私は日吉大社を想定した。応神廿二年春三月甲申朔戊子の「天皇幸難波居於大隅宮」、秋九月辛巳朔丙戌の「天皇狩于淡路嶋」も正しい日干支である。この時期は新羅との戦乱が続いているので、倭に対する警戒が不要の為、平穏である。

西暦306年応神卅七年春二月戊午朔は間違いの日干支で、「由是得通呉呉王於是與工女」と呉との通商だ。神功皇后の外交史は神功皇后元年を西暦321年としないと朝鮮史と合致しない。東晋も西暦317年建国で、306年はまだ晋朝でなければ相応しくないが、西暦399年ならば、合致する。阿知使主は去來穗別の即位時に近くで仕えたのだから、西暦399年はよく符合する。倭も朝鮮で戦うには、畿内とは和平が必要だったのだろう。

応神四十年春正月辛丑朔戊申の「立菟道稚郎子爲太子之情」は正しい日干支だが、『舊事本紀』は三十年春正月辛丑朔戊申と記述される。皇太子を決めた記述は倭王朝の交代を示していた。本来は西暦299年応神三十年の1月8日に印葉が大臣になった記録なのだろう。

応神四十一年春二月甲午朔戊申は九州や吉備・河内の暦である。「天皇崩于明宮・・・一云崩于大隅宮」とあるように、大隅宮なら応神廿二年春三月甲申朔戊子の「天皇幸難波居於大隅宮」と符合する。西暦291年に尾綱根の豐明王朝から大隅宮朝廷になったことを示し、豐明王朝は丸迩の比布禮大臣の王朝になったと考えられる。

 

年候補

戊午2月朔日 156 213 280 337 399 523

2025年10月22日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 応神天皇1

  西暦270年応神元年春正月丁亥朔は正しい日干支で「皇太子即位」、『舊事本紀』は「皇太子尊即天皇位都輕嶋地謂豐明宮」と記述される。高島の輕嶋豐明宮なのだから大連は、「品太天皇御世賜尾治連姓爲大臣大連」の尾綱根が即位した。

応神二年春三月庚戌朔壬子は間違いの日干支で、「立仲姫爲皇后」と仲姫が皇后なので、襲津彦の家系が仲国王になった記録だ。襲津彦を貰った纏向朝時なら西暦191年以降、西暦266年が相応しい。応神尾綱根皇后は高城入姫で、大山守(尾治弟彦・稚彦連)が二代目応神、皇太弟の額田大中彦が尾治針名根だろうか。意乎巳連が大萑天皇で、大萑は仲姫の娘の磐之媛の婿である。

応神三年冬十月辛未朔癸酉の「東蝦夷悉朝貢」、応神五年秋八月庚寅朔壬寅の「令諸國定海人及山守部」は正しい日干支である。応神九年夏四月、甘美内宿禰が許されて「賜紀伊直等之祖也」と紀伊直の祖を賜っている。将来紀伊直を賜姓すると口約束され、それが賜ったなどと、とても奇妙だ。『紀氏家牒』にある、紀伊国造の宇豆彦道彦男の娘婿になって、平群県紀里を与えられて、木菟宿祢(紀角直)を賜姓されたと考えられる。紀伊国造が御真木入日子なのだろう。

そして、これ以降、武内大臣は記述されず、武内宿禰は河内・山背・琵琶湖南部の大臣の地位を丸迩の比布禮(多遅麻)に奪われたのだろう。大伴氏の諸縣君牛諸井、葛木氏、和珥氏が揃った。紀武内宿禰(若帯日子)は318年に葛城国造荒田彦と姻戚になり、葛木王になったようだ。

応神十五年秋八月壬戌朔丁卯の「百濟王遣阿直岐貢良馬二匹」も正しい日干支だが、前月は小の月で、八月壬戌は晦にあたり、九州の暦と言える。この後、新羅と倭・百濟が戦い、西暦284年は相応しい。

 

年候補

庚戌3月朔日 80 147 204 209 266 333

2025年10月20日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 神功皇后4

  前項で、七支刀の記録が旧暦372年の記録としたが、その他の朝鮮関連の記録も神功元年が西暦321年とするとよく符合する。神功五十二年の七支刀は372年近肖古王27年に阿莘王が生まれた記念に作成したと考えた。近肖古王27年28年は「遣使入晉朝貢」と晋に朝貢し、倭には七支刀をプレゼントしたのだろう。阿莘王は枕流王が崩じた385年、「太子少故叔父辰斯卽位」と若かったため王になれなかった。太子なのだからこの時13歳以上20歳未満、392年に阿莘が20歳以上なので王になれたのだから、371か372年に阿莘王が生まれたのならよく符合する。

神功皇后五十五年は375年に当たり、「百濟肖古王薨」、そして、神功皇后五六年は376年に当たり、「百濟王子貴須立爲王」と記述されるが、『三国史記』「近仇首王一云諱須近肖古王之子」と須(近仇首王)が即位した。神功皇后摂政六四年も384年に当たり、「百濟國貴須王薨」とあるが、近仇首王が崩じ、神功皇后摂政六五年も385年に当たり、「百濟枕流王薨」とあり、枕流王が崩じた。

すると、神功皇后四十七年夏四月の「百濟王使久氐」は367年、神功四十九年春三月の「撃新羅而破之因以平定比自南加羅喙國安羅多羅卓淳加羅七國」の記事も369年の可能性が高い。同様に390年即位の応神が存在し、392年に応神天皇三年、「百濟國殺辰斯王以謝之」記事、405年に応神天皇十六年の「百濟阿花王薨」記事、420年に応神天皇二五年、「百濟直支王薨」記事と記述された。

神功六十九年夏四月辛酉朔丁丑の「皇太后崩」も、冬十月戊午朔壬申の「葬狹城盾列陵」も正しい日干支である。『舊事本紀』には「追尊皇太后日氣長足姫」と、既に皇太后の氣長足姫に皇太后を追号と矛盾がある。矛盾は皇太后が崩じたのではなく、崩じたのは天皇で、埋葬場所が成務天皇と同じなのだから、木國の徳勒津宮天皇の品陀真若だろう。皇太后になったのは金田屋野姫、神功皇后は卑弥呼と壹輿を『日本書紀』は想定している。西暦289年、『晉書』の「東夷絶遠三十餘國、西南夷二十餘國來獻」が新しい倭王の誕生と考えられ、その前年に壹輿は崩じたのだろう。王が交代した時に遣使するのは理に適う。

2025年10月17日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 神功皇后3

神功五年春三月癸卯朔己酉の日干支は間違いの日干支で、新羅王が汗禮斯伐を派遣した。この日干支に相当するのは西暦112に祇摩尼師今が新羅王に即位している。前王の人質を返してもらうように、新しい王が使者を派遣するのは当然のことだ。その記録に西暦355年に襲津彦を百濟に送った記録を併せた可能性がある。

神功十三年春二月丁巳朔甲子も間違いの日干支で、内容は「命武内宿禰從太子令拜角鹿笥飯大神」である。息長帯日売の伊奢沙和氣大神と御食津大神の名前交換の説話の時の内容と考えられる。二月丁巳朔の日干支は西暦363年が相応しく、帶中津日子は361年壬戌年の六月十一日に崩じ、河内惠賀長江に葬られた。神功二年冬十一月丁亥朔甲午の「葬天皇於河内國長野陵」は正しい日干支だったが、吉備や九州の暦なら西暦362年10月30日に当たる。

西暦246年神功四十六年春三月乙亥朔の「遣斯摩宿禰于卓淳國」は九州の暦の日干支で、正始六年西暦245年に『三國志』「倭難升米黄幢付郡假授」と印を仮授された。翌年、魏朝配下の王として、対朝鮮外交を推し進めるのは、理に適う。

神功五十二年秋九月丁卯朔丙子「七枝刀」説話は間違いの日干支で、朝鮮説話の神功五十二年は西暦376年にあたる。9月30日なのだろうか。「四年十月十六日丙午正陽造百錬七支刀」の泰四年十月十六日を日本の元号秦和四年、旧暦372年七月十六日丙午の日に作刀したと考えた。日本は既に元号を持っていて、376年に九州倭国から石上神宮に奉納されたと考えられる。268年の秦始も369年の太和も7月16日は丙午でない。神功皇后の朝鮮記事は西暦321年を元年として記述されている。『二中歴』の継体元年以降は俀国の元号、紀元前53年から始まって西暦71年に改元したのは畿内の元号だったのでは?

 

年候補

癸卯3月朔日 45 112 169 236 355 422

丁巳2月朔日 177 239 306 363 430

丁亥1030 238 269 362 393 486

 

376丁卯朔候補日 9月晦日30 12月朔日(2528月晦日)

2025年10月15日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 神功皇后2

  西暦201年神功摂政元年冬十月癸亥朔甲子は正しい日干支で、「尊皇后曰皇太后是年也太歳辛巳則爲攝政元年」と神功元年と呼んだ。しかし、『舊事本紀』は十月丁巳朔甲子と間違いの日干支で、「改為攝政元年」は「大歳辛巳」の十月の日干支ではない。正しくは西暦202年壬午年である。『舊事本紀』の元年は「物部多遅麻連公為大連」の記録で、多遅麻纏向天皇元年である。西暦201年三月丙申朔庚子は正しい日干支で、武内宿禰と和珥臣の祖の武振熊が山背から菟道で忍熊と戦い、その結果、勝利した。そして、翌年、多遅麻が大連天皇になったのだから、忍熊が纏向天皇か纏向皇太子だった。多遅麻は纏向天皇の五十琴彦(五十功彦)の娘の安媛の婿の多遲摩國造の祖の大多牟坂である。多遅麻の孫は莵道稚郎で、莵道稚郎の祖父は丸迩の比布禮大臣なので、多遅麻は和珥大臣である。すなわち、多遅麻と莵道稚郎の母の山無媛の間の90年程度の何処かで和珥臣の祖の武振熊の子達と婚姻関係を結んだと考えられる。

神功二年冬十一月丁亥朔甲午は正しい日干支で、「葬天皇於河内國長野陵」の被葬者は難波根子と考えられ、弟媛の父の大酒主、恐らく、武内宿禰の義父の珍彦と考えられ、木国造が山代に移住したと考えられる。

神功三年春正月丙戌朔戊子は間違いの日干支で、「立譽田別皇子爲皇太子」は卑弥呼の死後3年間、男王が倭国を治め、男王に替わって壹輿が王になったことを示す。この正月丙戌朔の日干支は234年の日干支で、纏向朝廷から磐余稚櫻宮朝廷に替わった。天皇は「都於磐余謂稚櫻宮物部五十琴宿祢為大連」と五十琴宿祢で、多遅麻の娘の香兒媛に婿入りしたとある。しかし、名前や世代から考えると五十功彦の娘、香坂の妹ではないだろうか。

 

年候補

丁巳10月朔日 109 166 202 233 290

丙戌1月朔日 43 110 167 234 296

2025年10月13日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 神功皇后1

  仲哀八年秋九月乙亥朔己卯は九州の暦の日干支で、新羅國侵攻説話である。西暦198年頃は、倭国は大飢饉、千人以上が新羅に食を求め、帯方郡に属した後だ。西暦13年垂仁四十二年ならば、『三国史記』に翌14年、新羅南解次次雄十一年の記事「倭人遣兵船百餘艘掠海邊民戸」がある。この侵略が新羅に対する最初で、穴門の王が新羅の内情を知らないと述べるのは、理解できる。それ以降に、新羅が解らないと言うことは有り得ない。仲哀九年夏四月壬寅朔甲辰は西暦14年4月2日(3月は小月)、秋九月庚午朔己卯、冬十月己亥朔辛丑、十二月戊戌朔辛亥も西暦14年の新羅國侵攻説話である。

仲哀九年春二月癸卯朔丁未は正しい日干支で、「天皇忽有痛身而明日崩」と天皇が崩じた。『舊事本紀』では天皇が崩じる前、武内宿禰に進められて天皇が琴を彈き、翌朝天皇が崩じていたが、『日本書紀』では仲哀九年三月壬申朔、武内宿禰に琴を彈かせ、天皇が崩じた後なのに吉日と記述する。『舊事本紀』は皇后と武内宿禰の呪い、『日本書紀』は天皇の崩御を感謝している。すなわち、実際は仲哀九年春二月癸卯朔丁未の『舊事本紀』記事だったと考えられる。

『日本書紀』は、その後、中臣烏賊津使主の記述があって、吉備臣の祖の鴨別と共に、熊襲國を撃退した。これは、神武東征の天種子が菟狹津彦を破った202年に充てた神武即位前紀甲寅年冬十月丁巳朔辛酉の発端記事と考えられる。安芸王になる襲津彦と菟狹津媛を妃にして菟狹王になる天種子(中臣烏賊津使主)、吉備國高嶋宮の王となる吉備臣祖の鴨別と考えられる。仲哀九年3月25日、「山門縣則誅土蜘蛛田油津媛時田油媛之兄夏羽」と卑弥呼・夏磯媛の兄と考えられる夏羽や義姉と考えられる田油媛を撃ち夏磯媛が邪馬壹國の女王となったのだろう。

しかし、仲哀九年三月壬申朔は17日の御笠、20日の安の説話は奇異である。邪馬壹國の南方で戦うのは南にある狗奴國で卑弥呼の生存中は対峙していて、勝利していない。すなわち、この三月壬申朔は西暦257年が妥当である。3月25日の記事は西暦200年の卑弥呼(夏磯媛)を壹國の魁帥と認めた記録と西暦257年市鹿文を火國造にした記録を併せた記事だろう。

 

年候補

庚午9月朔日 -44 14 81 138 143 200

己亥10月朔日 -44 14 81 107 138 231

戊戌12月朔日 -80 14 107 138 231

丁巳10月朔日 -729 -636 -543・・・-16 16 42 109 166 202

壬申3月朔日 14 71 133 200 257

2025年10月10日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 仲哀天皇2

  西暦193年仲哀二年二月癸未朔戊子も九州の日干支で吉備の王が角鹿笥飯宮を訪問したようだ。その王に淡路屯倉を奪われ、太子は九州へ、子の日向襲津彦は安芸で仲国王となり、そして、山代に進出したのだろう。

西暦193年仲哀二年三月癸丑朔丁卯も正しい日干支で、「天皇巡狩南國」、「紀伊國而居于徳勒津宮」、勿論、角鹿から南方の野洲近辺の木国の徳勒津宮、品陀真若の宮に出向いた。そして、協力して穴門へ熊襲を撃ちに出発した。

西暦193年仲哀二年夏六月辛巳朔庚寅も正しい日干支で、神功皇后は穴門豐浦宮に到着した。仲哀二年秋七月辛亥朔乙卯も正しい日干支で、「皇后泊豐浦津」と穴門に滞在していた。景行二七年冬十月丁酉朔は195年の記事と考えられ、「日本武尊令撃熊襲」、と熊襲を撃った。『舊事本紀』の神武前紀の已未年春二月辛卯朔庚辰は西暦197年の記事と考えられ、「道臣命率軍兵而撥伏逆賊之狀奏矣」と大伴氏と日向襲津彦が熊襲の乱を平定したのだろう。『舊事本紀』の神武前紀已未年三月辛酉朔の「自我東征於茲六年矣・・・中州之地無復風」は道臣の安芸平定の説話で西暦197年仲哀六年の説話と考えた。3月2日が辛酉だが、2月は小の月、3月1日が晦日と『日本書紀』の編者は理解したと考えた。

仲哀八年春正月己卯朔壬午の日干支は正しい日干支で、「幸筑紫」との説話があり、岡縣主の祖の熊鰐が記述される。遠賀川周辺が熊国(旧狗奴國)、その王が鰐君(和迩君)なのだろう。遠賀川周辺が筑紫、日向から「天皇將向京以巡狩筑紫國」、この京は京都郡が筑紫に含まれ、筑前・豊前の京都郡の北が元々の筑紫と解る。そして、橿日宮へ向かうが、その地は儺縣で筑紫とは別国、そこの王が夏磯媛、儺津の壹襲の女王の卑弥呼、橿日宮で女王を追認した。すなわち、狗奴国と邪馬台国を大倭王が仲裁したのだろう。

 

年候補

丁酉10月朔日 4年 35年 128年 195年 221年 252年 345年 

辛卯2月朔日 -698 -605 -512 -481 -388 -295 -264 -202 -171 -145 -78 -47 47 73 197 233

辛酉3月朔日 -698 -631 -574 -538 -512 -388 -321 ・・・171 -78 16 47 140 171 233

辛酉230 -786 -688 -662 -569 -445 -352 -228 -104 -42 -11 83 207

2025年10月8日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 仲哀天皇1

  西暦190年政務六十年夏六月己巳朔己卯は正しい日干支で「天皇崩」と高穴穂宮の成務天皇が崩じた。『舊事本紀』も正しい日干支で記述しているので、纏向宮の記録ではないようだ。そして、西暦192年仲哀元年春正月庚寅朔庚子も正しい日干支で、「太子即天皇位」と仲哀天皇が即位した。同年秋九月丙戌朔も正しい日干支で「尊母皇后曰皇太后」と首都が変わって、前の首都の皇后を皇太后と呼んだ。

そして、仲哀二年春正月甲寅朔甲子も正しい日干支で「立氣長足姫尊爲皇后」と氣長足姫を皇后にした。しかし、仲哀朝では、大連も大臣も賜姓されず、武内大臣が記述されるのみである。神功皇后は金田屋野姫、夫が品陀真若で皇位に就いていない。仲哀天皇は襲名した武諸隅と五十琴姫の子の五十功彦の可能性が高い。皇后は「大酒主之女弟媛」と木国造の宇豆彦道彦男(忍山垂根)が平群県の紀里に移住し、その忍山垂根の孫が弟媛と考えられる。西暦201年神功元年に多遅麻が纏向大連を賜姓され、多遅麻は武諸隅の子と記述されるが、武諸隅は襲名した五十功彦、その娘婿である。五十功彦の娘は五十琴彦の娘と記述される安媛と考えられ、婿が多遅麻である。纏向は桃の種の年代測定で240年頃まであった。

仲哀元年冬十一月乙酉朔の日干支は九州や吉備、吉備の勢力下の河内の日干支で、その地域の白鳥の説話である。大帯日子の項に河内舊市邑や河内國の志幾の白鳥御陵の説話があり、この白鳥陵の地域の説話だろう。

帯中日子か息長帯日売かよく解らない崩御年の西暦382年壬戌年の六月十一日に河内の惠賀の長江に埋葬された。帯中日子は直ぐに埋葬できず、その翌年の383年10月30日が仁徳七十一年十一月乙酉朔に、長江襲津彦を埋葬した日ならよく合致しそうである。192年の説話は長江襲津彦の説話の可能性がある。十一月乙卯朔も西暦383年11月1日、10月の晦は29日である。

 

年候補

乙酉1030日 192年 259年 316年 383年 

乙酉11月朔日 223年 347

2025年10月6日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 政務天皇

  西暦128年景行五十八年春二月辛丑朔辛亥幸は正しい日干支で、「近江國居志賀三歳是謂髙穴穂宮」と穴穂へ遷った。西暦130年景行六十年冬十一月乙酉朔辛卯も正しい日干支で、天皇が崩じた。そして、西暦131年成務元年春正月甲申朔戊子、これも正しい日干支で即位した。『舊事本紀』は「物部膽吐宿祢為大臣也都志賀髙穴穗宮」とあるように、天皇は膽吐大臣である。

西暦132年成務二年冬十一月癸酉朔壬午も正しい日干支で「倭國之山邊道上陵」に葬られた。山邊道上陵は崇神天皇と同じ場所で、当然師木にあり、古代の男子は母と同じ土地に埋葬された。西暦133年成務三年春正月癸酉朔己卯、これも正しい日干支だが、「以武内宿禰爲大臣也初天皇與武内宿禰同日生之」、武内宿禰が大臣になった。これは、319年に葛城氏を継承した若帯日子で、292年が相応しい。年齢を比較しているのだから、天皇と若帯日子(武内宿祢)は別人で、天皇は印葉大連だろうか。291年に葉田葦守宮に移っていて、よく合う。

西暦134年成務四年春二月丙寅朔は九州の日干支で、「國郡立長縣邑置首」と各地の首長を決めた。そして、五年秋九月に「則隔山河而分國縣隨阡陌以定邑里因以東西爲日縱南北爲日横」と国境を決めた。縦横の境を決めるためには、鏡での測量が必要で、九州には中国から輸入した漢式・後漢式の鏡があった。畿内は景初四年鏡が有るように、230年代頃から神獣鏡の作成が始まったと考えられ、測量は不明である。九州では国境の線引きを強行したために、戦乱が起こり、「桓霊之間」の倭国大乱に繋がったと考えられる。成務四十八年春三月庚辰朔の立太子も九州の暦で、倭王朝交代の記述だ。

 

年候補

癸酉1230 292年 1月朔日 324年 350

2025年10月3日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 景行天皇6

  日本武は『古事記』の3人の太子や纏向朝・磯城朝の太子を合体させた人物と考えられる。西暦95年景行二十五年に日本武は草薙横刀を受け取り、すなわち、将軍に任命されたことを示す。初代膽咋が日本武ならば、五十琴が生まれているので、二十代後半の年齢で将軍になったようだ。景行五十三年秋八月丁卯朔も正しい日干支だが、「冀欲巡狩小碓王所平之國」が西暦123年では間延びしてしまう。西暦97年景行二十七年ならば東国征服開始に相応しそうである。伊勢から東海へ出発し、十月に上總國、十二月に東國から伊勢の綺宮に帰った。垂仁妃の山背大國の娘の綺戸邊の宮の兩道入姫の宮(母の宮)で寛いだようだ。五十四年秋九月辛卯朔己酉の「自伊勢還於倭居纒向宮」は間違いの日干支で西暦98年が相応しいようだ。

景行五十五年春二月戊子朔壬辰の「彦狹嶋王拜東山道十五國都督」は<景行天皇4>の項で述べたように、151年成務二十一年であった。翌年「御諸別汝父彦狹嶋王不得向任所而早薨故汝専領東國」と御諸別が受け継いだ。

西暦128年景行五十八年春二月辛丑朔辛亥、この日干支は正しい日干支で、恐らく、初代膽咋の日本武が薨じ、孫の大臣になる二代目膽咋が高穴穗宮の鴨姫に婿入りしたのだろう。成務元年に膽咋が大臣になっているのだから、師木天皇の建忍山垂根が崩じたのだろう。

『舊事本紀』も全く同じで、朔の日干支を使っている。師木天皇の記録であることを示している。

 

年候補

丁卯8月朔日 30年 97年 123年 154年 216年 340

辛卯9月朔日 31年 98年 155年 222年 279年 341

戊子2月朔日 27年 94年 151年 218年 244年 275

2025年10月1日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 景行天皇5

『舊事本紀』の景行三十六年八月の「大臣物部膽咋宿祢女五十琴姫今為妃」の記事は当然膽咋がまだ大臣ではない。初代膽咋と比咩古の娘の五十琴姫が10代半ばである。五十琴姫は膽咋と比咩古の娘の清媛なのだろう。纏向天皇の物部武諸遇の妃である。

西暦110年景行四十年の夏六月に「東夷多叛」、秋七月癸未朔戊戌の日干支は正しい日干支で「今東國不安」東国の現状を記述している。同じく、冬十月壬子朔癸丑も正しい日干支で「日本武尊發路之」と日本武が東国に出発した。<景行天皇4>の項で述べたように、彦狹嶋が151年に東山道十五國都督に賜姓された。そして、彦狹嶋は赴任地に向かう途中に薨じてしまうのだから、110年に10代の彦狹嶋が東国に向かったのだろうか。そして、彦狹嶋に代わって、子の御諸別が受け継いだ。

景行五十一年春正月壬午朔戊子も正しい日干支で、西暦109年景行三十九年に太子が生まれたと述べた。109年景行三十九年生まれなら、西暦121年景行五十一年は13歳、太子になれる年齢である。「時皇子稚足彦尊武内宿禰不參赴于宴庭」と膽咋が纏向の朝廷に仕えた。

景行五十一年秋八月己酉朔壬子も正しい日干支で西暦121年に「立稚足彦尊爲皇太子」は倭国の王朝交代で、それに、日本武に草薙横刀を与えた記事が付加されている。日本武に横刀を渡したのは倭姫だが、116年に五百野皇女に女王は交代している。ところが、景行五十一年秋八月己酉朔壬子の日干支が間違いなら、西暦95年景行二十五年が相応しい。

景行五十二年夏五月甲辰朔丁未は正しい日干支であるが、「皇后播磨太郎姫薨」は吉備の出来事、新しい皇后が秋七月癸卯朔己酉とこれも正しいが、共に吉備の日干支と考えれば、西暦91年が相応しい。91年に大帯彦は師木王朝の八坂入媛の娘を迎え入れた。師木王朝が分家の建忍山垂根(大碓)と妃の弟姫に政権が遷ったことを示しているのだろうか。

 

年候補

己酉8月朔日 2年 95年 121年 245年 281年 338年 369

甲辰4月晦日30日 91年 215

甲辰5月朔日 55年 122年 179年 184

癸卯6月晦日30日 34年 65年 91年 158年 215

2025年9月29日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 景行天皇4

  景行廿年春二月辛巳朔甲申は間違いの日干支で西暦116年景行四十六年と考えられる。「遣五百野皇女令祭天照大神」とあるように、伊勢遺跡の皇大神宮を三尾君の始祖の磐衝別と兩道入姫の子の磐城別の妹、兩道姫の妹の五百野皇女が倭姫に替わって祀ったようだ。

景行廿五年秋七月庚辰朔壬午は正しい日干支だが、武内宿禰は成務三年、大臣になったのであるから、凡そ110年以降でないと理に適わない。「<景行天皇1>の項で西暦109年景行五十年に九州・吉備の暦で武内宿禰が生まれたと結論付けた。それを考えれば、成務元年西暦131年6月30日の日干支が相応しい記事が「遣武内宿禰令察北陸」で、成務三年131年に大臣になった。ただし、実際の大臣は物部胆咋宿祢で、武内大臣なら319年だろう。

景行廿七年春二月辛丑朔壬子の「武内宿禰自東國還之奏言」は間違いの日干支である。東国に関しては、景行五五年二月戊子朔壬辰に東国の都督を賜姓している。この景行五五年二月戊子朔も間違いの日干支で151年成務二十一年が相応しい。すると、景行廿七年二月辛丑朔は128年景行五十八年が相応しく、大臣が128年に東國視察、131年北陸視察、151年に彦狹嶋を「東山道十五國都督」に賜姓した。

景行二七年冬十月丁酉朔己酉も間違いの日干支で、128年と195年とを併せた記事と考えられる。128年に膽咋が弟彦(大玉)を後ろ盾に高穴穗宮に婿入りし、131年成務元年大臣になった。そして、195年に仲哀天皇が「撃熊襲」と熊襲と戦ったと考えられる。

景行廿八年春二月乙丑朔も間違いの日干支で、191年、仲哀元年の前年に日向襲津彦から和訶奴氣が襲津彦の名を襲名して、仲国王・帯中日子になったと考えられる。熊襲建の名前を貰ったのではなく、襲津彦の名を貰ったと考えられる。

 

年候補

癸酉2月朔日 45年 138年 169年 195年 262年 319年 386

辛巳2月朔日 -71年 116年 209

辛丑2月朔日 4年 128年 190年 247年 314

戊子2月朔日 27年 94年 151年 218年 244年 275

丁酉10月朔日 4年 35年 128年 195年 221年 252年 345年 

乙丑2月朔日 67年 124年 191年 248年 377年 

2025年9月26日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 景行天皇3

  景行「十八年春三月天皇將向京以巡狩筑紫國」は西暦181年成務五十一年に日向から京都郡にいったことを記した。京都郡近辺を筑紫と呼んでいるので、筑前を筑紫と呼んだのだろう。日向高屋の王は諸縣君、後裔は諸縣君牛諸井、葛木天皇の後ろ盾である。夏四月壬戌朔甲子は正しい日干支であるが、やはり、西暦181年4月朔の日干支と考えられる。

4月3日球磨郡の弟熊を誅殺して兄熊を配下に、11日水嶋を支配下とした。五月壬辰朔も西暦181年5月朔日で、「市鹿文賜於火國造」とあるように、葦北を首都に市鹿文を国造に任せた。『後漢書』の「女王國東度海千餘里至拘奴國」の拘奴國から『三國志』の「女王之南又有狗奴國」の狗奴國なのだろうか。領地は熊縣、水嶋、葦北、さらに、阿蘇國、御木國、八女國、浮羽も含み、もちろん、元々の領地の追認だろう。

神功皇后は御笠に陣を張って、熊襲(狗奴國)と戦い、層増岐野、山門縣が戦場であった。山門縣は八女の西、御木(三池)の北で、この地が反抗する最後の狗奴國である。六月辛酉朔癸亥の日干支は正しいのだが、「自高來縣渡玉杵名邑」は181年5月30日が相応しい。秋七月辛卯朔甲午の日干支は間違いの日干支で、「到筑紫後國御木」も181年が相応しい。

景行十九年秋九月甲申朔癸卯も正しい日干支であるが、これも一連の説話と考えれば、182年10月か187年9月である。187年では少々間延びしている。213年9月も候補になるが、この場合は卑弥呼の凱旋で日向の高千穂へ行ったことになる。

仲哀九年に山門縣の田油津媛と田油津媛の兄の夏羽と戦っているが、朔日の日干支が記述されていないため、いつの説話か不明である。夏磯媛・卑弥呼と姻戚関係かと考えられる夏羽との戦いなのだから、熊襲梟と市鹿文の姉の市乾鹿文との戦いの可能性が高い。火國造が夏磯媛卑弥呼の宗家、市鹿文の孫あたりが壹輿なのだろう。

 

年候補

壬戌4月朔日 88年 181年 212

壬辰5月 88年 119年 181年 212

辛酉5月晦日 155529日 181530日 248529

辛卯7月 119年 181年 248

 

甲申9月朔日 187年 213年 244年 

甲申8月晦日 156年 280

甲申朔日 1777月 18210月 1879

2025年9月24日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 景行天皇2

景行十二年秋七月の「熊襲反之不朝貢」は倭國が朝貢しなかったことを意味する。以降は九州の記事である。神武即位前の冬十月丁巳朔辛酉は景行三十九年西暦109年が相応しく、「汝誰也對曰臣是國神名曰珍彦」と、おそらく、倭者師木登美豐朝倉の曙立王が和迩君の祖の阿田賀田須の後裔の武日を従えて、景行三十七年西暦107年、漢に朝貢した倭國王帥升を倒したのだろう。 

神武天皇即位前紀甲寅年十二月丙辰朔の「至安藝國」記事は成務三十六年西暦166年が相応しく、拘奴國王(豐国王)の日臣武日が安芸王になったと考えられる。景行十二年八月乙未朔己酉は正しい日干支だが、『後漢書』の「桓靈間倭國大亂」とあるように、西暦146から188年の間の185年成務五十五年に一旦休戦したのだろう。「幸筑紫」と倭国に行幸した。九月甲子朔戊辰、この日干支は175年8月晦と考えられ、「豐前國長峽縣」を破って、「故號其處曰京也」と拘奴國の首都を遷した。『三国史記』や『後漢書』の卑弥呼記事に符合するように、夏磯媛も記述した。周芳筑紫豊前は方向がバラバラで、理に適わず、首都を遷したあとの休戦交渉で筑紫の倭王と面談したのなら、筋が通る。十二月癸巳朔丁酉も175年11月晦日、「議討熊襲」と熊襲を撃つ相談をしている。「仍以弟市鹿文賜於火國造」は壹輿の祖母か曾祖母、卑弥呼(夏磯媛)の宗家である。

景行十三年夏五月に「居於高屋宮已六年也」と記述するが、戦いが始まったのは景行十二年で景行八年から首都に4年いた。ところが、175年からなら6年で180年、高屋宮に居住し続けたのなら、符合する。そして、景行十七年春三月戊戌朔己酉は正しい日干支だが、実際は成務五十年西暦180年2月30日なのだろう。「故號其國曰日向也」と大伴氏は日向を支配下にした。

 

年候補

丁巳 10月朔 -636 -543 -512 -450 -419 -393 -326 -295 -233 -202 -109 -16 16 42 109 166 202 233 290 326 352

丙辰 12月朔 -636 -512 -450 -393 -326 -269 -202 -145 -16 42 109 166 233 290 352 

乙未 7月晦日 25 118 185 211 

甲子9月晦日 25 149 175 211

癸巳11月晦日 118 175 243

戊戌2月晦日 56 149 180 273