西暦313年仁徳元年春正月丁丑朔己卯は正しい日干支で、「大鷦鷯尊即天皇位尊皇后曰皇太后都難波是謂高津宮」と難波高津宮で意乎巳が大臣になったのだろう。尾綱根と高城入姫の子で、仲姫の娘の婿になる。武内宿禰が平群県紀里に婿入りし、紀角(木菟)宿祢となり、318年、大臣位を意乎巳と交替し、これが名の交換である。
314年、仁徳二年春三月辛未朔戊寅は3月2日の日干支で、「立磐之媛命爲皇后」は九州の暦、で西暦371年3月2日の可能性が高い。去來穗別の崩御は432年、母の婚姻が60年程度前なら相応しい。すると、正しい日干支の314年に皇后を迎えた政権が存在していることが想定でき、和珥大臣の菟道稚郎子の政権が西暦291年から継続していることを示す。難波朝は和珥氏が権力を握り、大別が八田皇女を妃に迎えた、印葉大臣の政権である。
仁徳四年春二月己未朔甲子も三月己丑朔己酉も正しい日干支で、「於茲三年」、「悉除課役」と即位後三年経っても税収が無く、これ以降も税が入って来ないと記述している。正しい日干支なのだから、和珥大臣の菟道稚郎子の記事で、大鷦鷯の難波朝に徴税を邪魔されているようだ。
仁徳七年夏四月辛未朔の「遠望之烟氣多起」は九州・河内の日干支で、菟道稚郎子が敗北したのだろう。正しい日干支を探すなら、西暦350年仁徳卅八年春正月癸酉朔戊寅の「立八田皇女爲皇后」が該当し、八田皇女の兄弟の大別が難波の王になったならば、相応しい。『舊事本紀』は仁徳天皇を大別と記している。
年候補
2月29日が晦日で辛未3月2日 128 247 314 371 438年