2025年10月27日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 仁徳天皇1

 西暦313年仁徳元年春正月丁丑朔己卯は正しい日干支で、「大鷦鷯尊即天皇位尊皇后曰皇太后都難波是謂高津宮」と難波高津宮で意乎巳が大臣になったのだろう。尾綱根と高城入姫の子で、仲姫の娘の婿になる。武内宿禰が平群県紀里に婿入りし、紀角(木菟)宿祢となり、318年、大臣位を意乎巳と交替し、これが名の交換である。

314年、仁徳二年春三月辛未朔戊寅は3月2日の日干支で、「立磐之媛命爲皇后」は九州の暦、で西暦371年3月2日の可能性が高い。去來穗別の崩御は432年、母の婚姻が60年程度前なら相応しい。すると、正しい日干支の314年に皇后を迎えた政権が存在していることが想定でき、和珥大臣の菟道稚郎子の政権が西暦291年から継続していることを示す。難波朝は和珥氏が権力を握り、大別が八田皇女を妃に迎えた、印葉大臣の政権である。

仁徳四年春二月己未朔甲子も三月己丑朔己酉も正しい日干支で、「於茲三年」、「悉除課役」と即位後三年経っても税収が無く、これ以降も税が入って来ないと記述している。正しい日干支なのだから、和珥大臣の菟道稚郎子の記事で、大鷦鷯の難波朝に徴税を邪魔されているようだ。

仁徳七年夏四月辛未朔の「遠望之烟氣多起」は九州・河内の日干支で、菟道稚郎子が敗北したのだろう。正しい日干支を探すなら、西暦350年仁徳卅八年春正月癸酉朔戊寅の「立八田皇女爲皇后」が該当し、八田皇女の兄弟の大別が難波の王になったならば、相応しい。『舊事本紀』は仁徳天皇を大別と記している。

 

年候補

229日が晦日で辛未32 128 247 314 371 438

辛未4月朔日 226 350 412年  

2025年10月24日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 応神天皇2

応神十九年冬十月戊戌朔の「幸吉野宮時國樔人來朝之」は正しい日干支である。國樔人を接待するのだから、この吉野宮は首都近辺で、奈良県の吉野ではなく、私は日吉大社を想定した。応神廿二年春三月甲申朔戊子の「天皇幸難波居於大隅宮」、秋九月辛巳朔丙戌の「天皇狩于淡路嶋」も正しい日干支である。この時期は新羅との戦乱が続いているので、倭に対する警戒が不要の為、平穏である。

西暦306年応神卅七年春二月戊午朔は間違いの日干支で、「由是得通呉呉王於是與工女」と呉との通商だ。神功皇后の外交史は神功皇后元年を西暦321年としないと朝鮮史と合致しない。東晋も西暦317年建国で、306年はまだ晋朝でなければ相応しくないが、西暦399年ならば、合致する。阿知使主は去來穗別の即位時に近くで仕えたのだから、西暦399年はよく符合する。倭も朝鮮で戦うには、畿内とは和平が必要だったのだろう。

応神四十年春正月辛丑朔戊申の「立菟道稚郎子爲太子之情」は正しい日干支だが、『舊事本紀』は三十年春正月辛丑朔戊申と記述される。皇太子を決めた記述は倭王朝の交代を示していた。本来は西暦299年応神三十年の1月8日に印葉が大臣になった記録なのだろう。

応神四十一年春二月甲午朔戊申は九州や吉備・河内の暦である。「天皇崩于明宮・・・一云崩于大隅宮」とあるように、大隅宮なら応神廿二年春三月甲申朔戊子の「天皇幸難波居於大隅宮」と符合する。西暦291年に尾綱根の豐明王朝から大隅宮朝廷になったことを示し、豐明王朝は丸迩の比布禮大臣の王朝になったと考えられる。

 

年候補

戊午2月朔日 156 213 280 337 399 523

2025年10月22日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 応神天皇1

  西暦270年応神元年春正月丁亥朔は正しい日干支で「皇太子即位」、『舊事本紀』は「皇太子尊即天皇位都輕嶋地謂豐明宮」と記述される。高島の輕嶋豐明宮なのだから大連は、「品太天皇御世賜尾治連姓爲大臣大連」の尾綱根が即位した。

応神二年春三月庚戌朔壬子は間違いの日干支で、「立仲姫爲皇后」と仲姫が皇后なので、襲津彦の家系が仲国王になった記録だ。襲津彦を貰った纏向朝時なら西暦191年以降、西暦266年が相応しい。応神尾綱根皇后は高城入姫で、大山守(尾治弟彦・稚彦連)が二代目応神、皇太弟の額田大中彦が尾治針名根だろうか。意乎巳連が大萑天皇で、大萑は仲姫の娘の磐之媛の婿である。

応神三年冬十月辛未朔癸酉の「東蝦夷悉朝貢」、応神五年秋八月庚寅朔壬寅の「令諸國定海人及山守部」は正しい日干支である。応神九年夏四月、甘美内宿禰が許されて「賜紀伊直等之祖也」と紀伊直の祖を賜っている。将来紀伊直を賜姓すると口約束され、それが賜ったなどと、とても奇妙だ。『紀氏家牒』にある、紀伊国造の宇豆彦道彦男の娘婿になって、平群県紀里を与えられて、木菟宿祢(紀角直)を賜姓されたと考えられる。紀伊国造が御真木入日子なのだろう。

そして、これ以降、武内大臣は記述されず、武内宿禰は河内・山背・琵琶湖南部の大臣の地位を丸迩の比布禮(多遅麻)に奪われたのだろう。大伴氏の諸縣君牛諸井、葛木氏、和珥氏が揃った。紀武内宿禰(若帯日子)は318年に葛城国造荒田彦と姻戚になり、葛木王になったようだ。

応神十五年秋八月壬戌朔丁卯の「百濟王遣阿直岐貢良馬二匹」も正しい日干支だが、前月は小の月で、八月壬戌は晦にあたり、九州の暦と言える。この後、新羅と倭・百濟が戦い、西暦284年は相応しい。

 

年候補

庚戌3月朔日 80 147 204 209 266 333

2025年10月20日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 神功皇后4

  前項で、七支刀の記録が旧暦372年の記録としたが、その他の朝鮮関連の記録も神功元年が西暦321年とするとよく符合する。神功五十二年の七支刀は372年近肖古王27年に阿莘王が生まれた記念に作成したと考えた。近肖古王27年28年は「遣使入晉朝貢」と晋に朝貢し、倭には七支刀をプレゼントしたのだろう。阿莘王は枕流王が崩じた385年、「太子少故叔父辰斯卽位」と若かったため王になれなかった。太子なのだからこの時13歳以上20歳未満、392年に阿莘が20歳以上なので王になれたのだから、371か372年に阿莘王が生まれたのならよく符合する。

神功皇后五十五年は375年に当たり、「百濟肖古王薨」、そして、神功皇后五六年は376年に当たり、「百濟王子貴須立爲王」と記述されるが、『三国史記』「近仇首王一云諱須近肖古王之子」と須(近仇首王)が即位した。神功皇后摂政六四年も384年に当たり、「百濟國貴須王薨」とあるが、近仇首王が崩じ、神功皇后摂政六五年も385年に当たり、「百濟枕流王薨」とあり、枕流王が崩じた。

すると、神功皇后四十七年夏四月の「百濟王使久氐」は367年、神功四十九年春三月の「撃新羅而破之因以平定比自南加羅喙國安羅多羅卓淳加羅七國」の記事も369年の可能性が高い。同様に390年即位の応神が存在し、392年に応神天皇三年、「百濟國殺辰斯王以謝之」記事、405年に応神天皇十六年の「百濟阿花王薨」記事、420年に応神天皇二五年、「百濟直支王薨」記事と記述された。

神功六十九年夏四月辛酉朔丁丑の「皇太后崩」も、冬十月戊午朔壬申の「葬狹城盾列陵」も正しい日干支である。『舊事本紀』には「追尊皇太后日氣長足姫」と、既に皇太后の氣長足姫に皇太后を追号と矛盾がある。矛盾は皇太后が崩じたのではなく、崩じたのは天皇で、埋葬場所が成務天皇と同じなのだから、木國の徳勒津宮天皇の品陀真若だろう。皇太后になったのは金田屋野姫、神功皇后は卑弥呼と壹輿を『日本書紀』は想定している。西暦289年、『晉書』の「東夷絶遠三十餘國、西南夷二十餘國來獻」が新しい倭王の誕生と考えられ、その前年に壹輿は崩じたのだろう。王が交代した時に遣使するのは理に適う。

2025年10月17日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 神功皇后3

神功五年春三月癸卯朔己酉の日干支は間違いの日干支で、新羅王が汗禮斯伐を派遣した。この日干支に相当するのは西暦112に祇摩尼師今が新羅王に即位している。前王の人質を返してもらうように、新しい王が使者を派遣するのは当然のことだ。その記録に西暦355年に襲津彦を百濟に送った記録を併せた可能性がある。

神功十三年春二月丁巳朔甲子も間違いの日干支で、内容は「命武内宿禰從太子令拜角鹿笥飯大神」である。息長帯日売の伊奢沙和氣大神と御食津大神の名前交換の説話の時の内容と考えられる。二月丁巳朔の日干支は西暦363年が相応しく、帶中津日子は361年壬戌年の六月十一日に崩じ、河内惠賀長江に葬られた。神功二年冬十一月丁亥朔甲午の「葬天皇於河内國長野陵」は正しい日干支だったが、吉備や九州の暦なら西暦362年10月30日に当たる。

西暦246年神功四十六年春三月乙亥朔の「遣斯摩宿禰于卓淳國」は九州の暦の日干支で、正始六年西暦245年に『三國志』「倭難升米黄幢付郡假授」と印を仮授された。翌年、魏朝配下の王として、対朝鮮外交を推し進めるのは、理に適う。

神功五十二年秋九月丁卯朔丙子「七枝刀」説話は間違いの日干支で、朝鮮説話の神功五十二年は西暦376年にあたる。9月30日なのだろうか。「四年十月十六日丙午正陽造百錬七支刀」の泰四年十月十六日を日本の元号秦和四年、旧暦372年七月十六日丙午の日に作刀したと考えた。日本は既に元号を持っていて、376年に九州倭国から石上神宮に奉納されたと考えられる。268年の秦始も369年の太和も7月16日は丙午でない。神功皇后の朝鮮記事は西暦321年を元年として記述されている。『二中歴』の継体元年以降は俀国の元号、紀元前53年から始まって西暦71年に改元したのは畿内の元号だったのでは?

 

年候補

癸卯3月朔日 45 112 169 236 355 422

丁巳2月朔日 177 239 306 363 430

丁亥1030 238 269 362 393 486

 

376丁卯朔候補日 9月晦日30 12月朔日(2528月晦日)

2025年10月15日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 神功皇后2

  西暦201年神功摂政元年冬十月癸亥朔甲子は正しい日干支で、「尊皇后曰皇太后是年也太歳辛巳則爲攝政元年」と神功元年と呼んだ。しかし、『舊事本紀』は十月丁巳朔甲子と間違いの日干支で、「改為攝政元年」は「大歳辛巳」の十月の日干支ではない。正しくは西暦202年壬午年である。『舊事本紀』の元年は「物部多遅麻連公為大連」の記録で、多遅麻纏向天皇元年である。西暦201年三月丙申朔庚子は正しい日干支で、武内宿禰と和珥臣の祖の武振熊が山背から菟道で忍熊と戦い、その結果、勝利した。そして、翌年、多遅麻が大連天皇になったのだから、忍熊が纏向天皇か纏向皇太子だった。多遅麻は纏向天皇の五十琴彦(五十功彦)の娘の安媛の婿の多遲摩國造の祖の大多牟坂である。多遅麻の孫は莵道稚郎で、莵道稚郎の祖父は丸迩の比布禮大臣なので、多遅麻は和珥大臣である。すなわち、多遅麻と莵道稚郎の母の山無媛の間の90年程度の何処かで和珥臣の祖の武振熊の子達と婚姻関係を結んだと考えられる。

神功二年冬十一月丁亥朔甲午は正しい日干支で、「葬天皇於河内國長野陵」の被葬者は難波根子と考えられ、弟媛の父の大酒主、恐らく、武内宿禰の義父の珍彦と考えられ、木国造が山代に移住したと考えられる。

神功三年春正月丙戌朔戊子は間違いの日干支で、「立譽田別皇子爲皇太子」は卑弥呼の死後3年間、男王が倭国を治め、男王に替わって壹輿が王になったことを示す。この正月丙戌朔の日干支は234年の日干支で、纏向朝廷から磐余稚櫻宮朝廷に替わった。天皇は「都於磐余謂稚櫻宮物部五十琴宿祢為大連」と五十琴宿祢で、多遅麻の娘の香兒媛に婿入りしたとある。しかし、名前や世代から考えると五十功彦の娘、香坂の妹ではないだろうか。

 

年候補

丁巳10月朔日 109 166 202 233 290

丙戌1月朔日 43 110 167 234 296

2025年10月13日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 神功皇后1

  仲哀八年秋九月乙亥朔己卯は九州の暦の日干支で、新羅國侵攻説話である。西暦198年頃は、倭国は大飢饉、千人以上が新羅に食を求め、帯方郡に属した後だ。西暦13年垂仁四十二年ならば、『三国史記』に翌14年、新羅南解次次雄十一年の記事「倭人遣兵船百餘艘掠海邊民戸」がある。この侵略が新羅に対する最初で、穴門の王が新羅の内情を知らないと述べるのは、理解できる。それ以降に、新羅が解らないと言うことは有り得ない。仲哀九年夏四月壬寅朔甲辰は西暦14年4月2日(3月は小月)、秋九月庚午朔己卯、冬十月己亥朔辛丑、十二月戊戌朔辛亥も西暦14年の新羅國侵攻説話である。

仲哀九年春二月癸卯朔丁未は正しい日干支で、「天皇忽有痛身而明日崩」と天皇が崩じた。『舊事本紀』では天皇が崩じる前、武内宿禰に進められて天皇が琴を彈き、翌朝天皇が崩じていたが、『日本書紀』では仲哀九年三月壬申朔、武内宿禰に琴を彈かせ、天皇が崩じた後なのに吉日と記述する。『舊事本紀』は皇后と武内宿禰の呪い、『日本書紀』は天皇の崩御を感謝している。すなわち、実際は仲哀九年春二月癸卯朔丁未の『舊事本紀』記事だったと考えられる。

『日本書紀』は、その後、中臣烏賊津使主の記述があって、吉備臣の祖の鴨別と共に、熊襲國を撃退した。これは、神武東征の天種子が菟狹津彦を破った202年に充てた神武即位前紀甲寅年冬十月丁巳朔辛酉の発端記事と考えられる。安芸王になる襲津彦と菟狹津媛を妃にして菟狹王になる天種子(中臣烏賊津使主)、吉備國高嶋宮の王となる吉備臣祖の鴨別と考えられる。仲哀九年3月25日、「山門縣則誅土蜘蛛田油津媛時田油媛之兄夏羽」と卑弥呼・夏磯媛の兄と考えられる夏羽や義姉と考えられる田油媛を撃ち夏磯媛が邪馬壹國の女王となったのだろう。

しかし、仲哀九年三月壬申朔は17日の御笠、20日の安の説話は奇異である。邪馬壹國の南方で戦うのは南にある狗奴國で卑弥呼の生存中は対峙していて、勝利していない。すなわち、この三月壬申朔は西暦257年が妥当である。3月25日の記事は西暦200年の卑弥呼(夏磯媛)を壹國の魁帥と認めた記録と西暦257年市鹿文を火國造にした記録を併せた記事だろう。

 

年候補

庚午9月朔日 -44 14 81 138 143 200

己亥10月朔日 -44 14 81 107 138 231

戊戌12月朔日 -80 14 107 138 231

丁巳10月朔日 -729 -636 -543・・・-16 16 42 109 166 202

壬申3月朔日 14 71 133 200 257

2025年10月10日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 仲哀天皇2

  西暦193年仲哀二年二月癸未朔戊子も九州の日干支で吉備の王が角鹿笥飯宮を訪問したようだ。その王に淡路屯倉を奪われ、太子は九州へ、子の日向襲津彦は安芸で仲国王となり、そして、山代に進出したのだろう。

西暦193年仲哀二年三月癸丑朔丁卯も正しい日干支で、「天皇巡狩南國」、「紀伊國而居于徳勒津宮」、勿論、角鹿から南方の野洲近辺の木国の徳勒津宮、品陀真若の宮に出向いた。そして、協力して穴門へ熊襲を撃ちに出発した。

西暦193年仲哀二年夏六月辛巳朔庚寅も正しい日干支で、神功皇后は穴門豐浦宮に到着した。仲哀二年秋七月辛亥朔乙卯も正しい日干支で、「皇后泊豐浦津」と穴門に滞在していた。景行二七年冬十月丁酉朔は195年の記事と考えられ、「日本武尊令撃熊襲」、と熊襲を撃った。『舊事本紀』の神武前紀の已未年春二月辛卯朔庚辰は西暦197年の記事と考えられ、「道臣命率軍兵而撥伏逆賊之狀奏矣」と大伴氏と日向襲津彦が熊襲の乱を平定したのだろう。『舊事本紀』の神武前紀已未年三月辛酉朔の「自我東征於茲六年矣・・・中州之地無復風」は道臣の安芸平定の説話で西暦197年仲哀六年の説話と考えた。3月2日が辛酉だが、2月は小の月、3月1日が晦日と『日本書紀』の編者は理解したと考えた。

仲哀八年春正月己卯朔壬午の日干支は正しい日干支で、「幸筑紫」との説話があり、岡縣主の祖の熊鰐が記述される。遠賀川周辺が熊国(旧狗奴國)、その王が鰐君(和迩君)なのだろう。遠賀川周辺が筑紫、日向から「天皇將向京以巡狩筑紫國」、この京は京都郡が筑紫に含まれ、筑前・豊前の京都郡の北が元々の筑紫と解る。そして、橿日宮へ向かうが、その地は儺縣で筑紫とは別国、そこの王が夏磯媛、儺津の壹襲の女王の卑弥呼、橿日宮で女王を追認した。すなわち、狗奴国と邪馬台国を大倭王が仲裁したのだろう。

 

年候補

丁酉10月朔日 4年 35年 128年 195年 221年 252年 345年 

辛卯2月朔日 -698 -605 -512 -481 -388 -295 -264 -202 -171 -145 -78 -47 47 73 197 233

辛酉3月朔日 -698 -631 -574 -538 -512 -388 -321 ・・・171 -78 16 47 140 171 233

辛酉230 -786 -688 -662 -569 -445 -352 -228 -104 -42 -11 83 207

2025年10月8日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 仲哀天皇1

  西暦190年政務六十年夏六月己巳朔己卯は正しい日干支で「天皇崩」と高穴穂宮の成務天皇が崩じた。『舊事本紀』も正しい日干支で記述しているので、纏向宮の記録ではないようだ。そして、西暦192年仲哀元年春正月庚寅朔庚子も正しい日干支で、「太子即天皇位」と仲哀天皇が即位した。同年秋九月丙戌朔も正しい日干支で「尊母皇后曰皇太后」と首都が変わって、前の首都の皇后を皇太后と呼んだ。

そして、仲哀二年春正月甲寅朔甲子も正しい日干支で「立氣長足姫尊爲皇后」と氣長足姫を皇后にした。しかし、仲哀朝では、大連も大臣も賜姓されず、武内大臣が記述されるのみである。神功皇后は金田屋野姫、夫が品陀真若で皇位に就いていない。仲哀天皇は襲名した武諸隅と五十琴姫の子の五十功彦の可能性が高い。皇后は「大酒主之女弟媛」と木国造の宇豆彦道彦男(忍山垂根)が平群県の紀里に移住し、その忍山垂根の孫が弟媛と考えられる。西暦201年神功元年に多遅麻が纏向大連を賜姓され、多遅麻は武諸隅の子と記述されるが、武諸隅は襲名した五十功彦、その娘婿である。五十功彦の娘は五十琴彦の娘と記述される安媛と考えられ、婿が多遅麻である。纏向は桃の種の年代測定で240年頃まであった。

仲哀元年冬十一月乙酉朔の日干支は九州や吉備、吉備の勢力下の河内の日干支で、その地域の白鳥の説話である。大帯日子の項に河内舊市邑や河内國の志幾の白鳥御陵の説話があり、この白鳥陵の地域の説話だろう。

帯中日子か息長帯日売かよく解らない崩御年の西暦382年壬戌年の六月十一日に河内の惠賀の長江に埋葬された。帯中日子は直ぐに埋葬できず、その翌年の383年10月30日が仁徳七十一年十一月乙酉朔に、長江襲津彦を埋葬した日ならよく合致しそうである。192年の説話は長江襲津彦の説話の可能性がある。十一月乙卯朔も西暦383年11月1日、10月の晦は29日である。

 

年候補

乙酉1030日 192年 259年 316年 383年 

乙酉11月朔日 223年 347

2025年10月6日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 政務天皇

  西暦128年景行五十八年春二月辛丑朔辛亥幸は正しい日干支で、「近江國居志賀三歳是謂髙穴穂宮」と穴穂へ遷った。西暦130年景行六十年冬十一月乙酉朔辛卯も正しい日干支で、天皇が崩じた。そして、西暦131年成務元年春正月甲申朔戊子、これも正しい日干支で即位した。『舊事本紀』は「物部膽吐宿祢為大臣也都志賀髙穴穗宮」とあるように、天皇は膽吐大臣である。

西暦132年成務二年冬十一月癸酉朔壬午も正しい日干支で「倭國之山邊道上陵」に葬られた。山邊道上陵は崇神天皇と同じ場所で、当然師木にあり、古代の男子は母と同じ土地に埋葬された。西暦133年成務三年春正月癸酉朔己卯、これも正しい日干支だが、「以武内宿禰爲大臣也初天皇與武内宿禰同日生之」、武内宿禰が大臣になった。これは、319年に葛城氏を継承した若帯日子で、292年が相応しい。年齢を比較しているのだから、天皇と若帯日子(武内宿祢)は別人で、天皇は印葉大連だろうか。291年に葉田葦守宮に移っていて、よく合う。

西暦134年成務四年春二月丙寅朔は九州の日干支で、「國郡立長縣邑置首」と各地の首長を決めた。そして、五年秋九月に「則隔山河而分國縣隨阡陌以定邑里因以東西爲日縱南北爲日横」と国境を決めた。縦横の境を決めるためには、鏡での測量が必要で、九州には中国から輸入した漢式・後漢式の鏡があった。畿内は景初四年鏡が有るように、230年代頃から神獣鏡の作成が始まったと考えられ、測量は不明である。九州では国境の線引きを強行したために、戦乱が起こり、「桓霊之間」の倭国大乱に繋がったと考えられる。成務四十八年春三月庚辰朔の立太子も九州の暦で、倭王朝交代の記述だ。

 

年候補

癸酉1230 292年 1月朔日 324年 350

2025年10月3日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 景行天皇6

  日本武は『古事記』の3人の太子や纏向朝・磯城朝の太子を合体させた人物と考えられる。西暦95年景行二十五年に日本武は草薙横刀を受け取り、すなわち、将軍に任命されたことを示す。初代膽咋が日本武ならば、五十琴が生まれているので、二十代後半の年齢で将軍になったようだ。景行五十三年秋八月丁卯朔も正しい日干支だが、「冀欲巡狩小碓王所平之國」が西暦123年では間延びしてしまう。西暦97年景行二十七年ならば東国征服開始に相応しそうである。伊勢から東海へ出発し、十月に上總國、十二月に東國から伊勢の綺宮に帰った。垂仁妃の山背大國の娘の綺戸邊の宮の兩道入姫の宮(母の宮)で寛いだようだ。五十四年秋九月辛卯朔己酉の「自伊勢還於倭居纒向宮」は間違いの日干支で西暦98年が相応しいようだ。

景行五十五年春二月戊子朔壬辰の「彦狹嶋王拜東山道十五國都督」は<景行天皇4>の項で述べたように、151年成務二十一年であった。翌年「御諸別汝父彦狹嶋王不得向任所而早薨故汝専領東國」と御諸別が受け継いだ。

西暦128年景行五十八年春二月辛丑朔辛亥、この日干支は正しい日干支で、恐らく、初代膽咋の日本武が薨じ、孫の大臣になる二代目膽咋が高穴穗宮の鴨姫に婿入りしたのだろう。成務元年に膽咋が大臣になっているのだから、師木天皇の建忍山垂根が崩じたのだろう。

『舊事本紀』も全く同じで、朔の日干支を使っている。師木天皇の記録であることを示している。

 

年候補

丁卯8月朔日 30年 97年 123年 154年 216年 340

辛卯9月朔日 31年 98年 155年 222年 279年 341

戊子2月朔日 27年 94年 151年 218年 244年 275

2025年10月1日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 景行天皇5

『舊事本紀』の景行三十六年八月の「大臣物部膽咋宿祢女五十琴姫今為妃」の記事は当然膽咋がまだ大臣ではない。初代膽咋と比咩古の娘の五十琴姫が10代半ばである。五十琴姫は膽咋と比咩古の娘の清媛なのだろう。纏向天皇の物部武諸遇の妃である。

西暦110年景行四十年の夏六月に「東夷多叛」、秋七月癸未朔戊戌の日干支は正しい日干支で「今東國不安」東国の現状を記述している。同じく、冬十月壬子朔癸丑も正しい日干支で「日本武尊發路之」と日本武が東国に出発した。<景行天皇4>の項で述べたように、彦狹嶋が151年に東山道十五國都督に賜姓された。そして、彦狹嶋は赴任地に向かう途中に薨じてしまうのだから、110年に10代の彦狹嶋が東国に向かったのだろうか。そして、彦狹嶋に代わって、子の御諸別が受け継いだ。

景行五十一年春正月壬午朔戊子も正しい日干支で、西暦109年景行三十九年に太子が生まれたと述べた。109年景行三十九年生まれなら、西暦121年景行五十一年は13歳、太子になれる年齢である。「時皇子稚足彦尊武内宿禰不參赴于宴庭」と膽咋が纏向の朝廷に仕えた。

景行五十一年秋八月己酉朔壬子も正しい日干支で西暦121年に「立稚足彦尊爲皇太子」は倭国の王朝交代で、それに、日本武に草薙横刀を与えた記事が付加されている。日本武に横刀を渡したのは倭姫だが、116年に五百野皇女に女王は交代している。ところが、景行五十一年秋八月己酉朔壬子の日干支が間違いなら、西暦95年景行二十五年が相応しい。

景行五十二年夏五月甲辰朔丁未は正しい日干支であるが、「皇后播磨太郎姫薨」は吉備の出来事、新しい皇后が秋七月癸卯朔己酉とこれも正しいが、共に吉備の日干支と考えれば、西暦91年が相応しい。91年に大帯彦は師木王朝の八坂入媛の娘を迎え入れた。師木王朝が分家の建忍山垂根(大碓)と妃の弟姫に政権が遷ったことを示しているのだろうか。

 

年候補

己酉8月朔日 2年 95年 121年 245年 281年 338年 369

甲辰4月晦日30日 91年 215

甲辰5月朔日 55年 122年 179年 184

癸卯6月晦日30日 34年 65年 91年 158年 215

2025年9月29日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 景行天皇4

  景行廿年春二月辛巳朔甲申は間違いの日干支で西暦116年景行四十六年と考えられる。「遣五百野皇女令祭天照大神」とあるように、伊勢遺跡の皇大神宮を三尾君の始祖の磐衝別と兩道入姫の子の磐城別の妹、兩道姫の妹の五百野皇女が倭姫に替わって祀ったようだ。

景行廿五年秋七月庚辰朔壬午は正しい日干支だが、武内宿禰は成務三年、大臣になったのであるから、凡そ110年以降でないと理に適わない。「<景行天皇1>の項で西暦109年景行五十年に九州・吉備の暦で武内宿禰が生まれたと結論付けた。それを考えれば、成務元年西暦131年6月30日の日干支が相応しい記事が「遣武内宿禰令察北陸」で、成務三年131年に大臣になった。ただし、実際の大臣は物部胆咋宿祢で、武内大臣なら319年だろう。

景行廿七年春二月辛丑朔壬子の「武内宿禰自東國還之奏言」は間違いの日干支である。東国に関しては、景行五五年二月戊子朔壬辰に東国の都督を賜姓している。この景行五五年二月戊子朔も間違いの日干支で151年成務二十一年が相応しい。すると、景行廿七年二月辛丑朔は128年景行五十八年が相応しく、大臣が128年に東國視察、131年北陸視察、151年に彦狹嶋を「東山道十五國都督」に賜姓した。

景行二七年冬十月丁酉朔己酉も間違いの日干支で、128年と195年とを併せた記事と考えられる。128年に膽咋が弟彦(大玉)を後ろ盾に高穴穗宮に婿入りし、131年成務元年大臣になった。そして、195年に仲哀天皇が「撃熊襲」と熊襲と戦ったと考えられる。

景行廿八年春二月乙丑朔も間違いの日干支で、191年、仲哀元年の前年に日向襲津彦から和訶奴氣が襲津彦の名を襲名して、仲国王・帯中日子になったと考えられる。熊襲建の名前を貰ったのではなく、襲津彦の名を貰ったと考えられる。

 

年候補

癸酉2月朔日 45年 138年 169年 195年 262年 319年 386

辛巳2月朔日 -71年 116年 209

辛丑2月朔日 4年 128年 190年 247年 314

戊子2月朔日 27年 94年 151年 218年 244年 275

丁酉10月朔日 4年 35年 128年 195年 221年 252年 345年 

乙丑2月朔日 67年 124年 191年 248年 377年 

2025年9月26日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 景行天皇3

  景行「十八年春三月天皇將向京以巡狩筑紫國」は西暦181年成務五十一年に日向から京都郡にいったことを記した。京都郡近辺を筑紫と呼んでいるので、筑前を筑紫と呼んだのだろう。日向高屋の王は諸縣君、後裔は諸縣君牛諸井、葛木天皇の後ろ盾である。夏四月壬戌朔甲子は正しい日干支であるが、やはり、西暦181年4月朔の日干支と考えられる。

4月3日球磨郡の弟熊を誅殺して兄熊を配下に、11日水嶋を支配下とした。五月壬辰朔も西暦181年5月朔日で、「市鹿文賜於火國造」とあるように、葦北を首都に市鹿文を国造に任せた。『後漢書』の「女王國東度海千餘里至拘奴國」の拘奴國から『三國志』の「女王之南又有狗奴國」の狗奴國なのだろうか。領地は熊縣、水嶋、葦北、さらに、阿蘇國、御木國、八女國、浮羽も含み、もちろん、元々の領地の追認だろう。

神功皇后は御笠に陣を張って、熊襲(狗奴國)と戦い、層増岐野、山門縣が戦場であった。山門縣は八女の西、御木(三池)の北で、この地が反抗する最後の狗奴國である。六月辛酉朔癸亥の日干支は正しいのだが、「自高來縣渡玉杵名邑」は181年5月30日が相応しい。秋七月辛卯朔甲午の日干支は間違いの日干支で、「到筑紫後國御木」も181年が相応しい。

景行十九年秋九月甲申朔癸卯も正しい日干支であるが、これも一連の説話と考えれば、182年10月か187年9月である。187年では少々間延びしている。213年9月も候補になるが、この場合は卑弥呼の凱旋で日向の高千穂へ行ったことになる。

仲哀九年に山門縣の田油津媛と田油津媛の兄の夏羽と戦っているが、朔日の日干支が記述されていないため、いつの説話か不明である。夏磯媛・卑弥呼と姻戚関係かと考えられる夏羽との戦いなのだから、熊襲梟と市鹿文の姉の市乾鹿文との戦いの可能性が高い。火國造が夏磯媛卑弥呼の宗家、市鹿文の孫あたりが壹輿なのだろう。

 

年候補

壬戌4月朔日 88年 181年 212

壬辰5月 88年 119年 181年 212

辛酉5月晦日 155529日 181530日 248529

辛卯7月 119年 181年 248

 

甲申9月朔日 187年 213年 244年 

甲申8月晦日 156年 280

甲申朔日 1777月 18210月 1879

2025年9月24日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 景行天皇2

景行十二年秋七月の「熊襲反之不朝貢」は倭國が朝貢しなかったことを意味する。以降は九州の記事である。神武即位前の冬十月丁巳朔辛酉は景行三十九年西暦109年が相応しく、「汝誰也對曰臣是國神名曰珍彦」と、おそらく、倭者師木登美豐朝倉の曙立王が和迩君の祖の阿田賀田須の後裔の武日を従えて、景行三十七年西暦107年、漢に朝貢した倭國王帥升を倒したのだろう。 

神武天皇即位前紀甲寅年十二月丙辰朔の「至安藝國」記事は成務三十六年西暦166年が相応しく、拘奴國王(豐国王)の日臣武日が安芸王になったと考えられる。景行十二年八月乙未朔己酉は正しい日干支だが、『後漢書』の「桓靈間倭國大亂」とあるように、西暦146から188年の間の185年成務五十五年に一旦休戦したのだろう。「幸筑紫」と倭国に行幸した。九月甲子朔戊辰、この日干支は175年8月晦と考えられ、「豐前國長峽縣」を破って、「故號其處曰京也」と拘奴國の首都を遷した。『三国史記』や『後漢書』の卑弥呼記事に符合するように、夏磯媛も記述した。周芳筑紫豊前は方向がバラバラで、理に適わず、首都を遷したあとの休戦交渉で筑紫の倭王と面談したのなら、筋が通る。十二月癸巳朔丁酉も175年11月晦日、「議討熊襲」と熊襲を撃つ相談をしている。「仍以弟市鹿文賜於火國造」は壹輿の祖母か曾祖母、卑弥呼(夏磯媛)の宗家である。

景行十三年夏五月に「居於高屋宮已六年也」と記述するが、戦いが始まったのは景行十二年で景行八年から首都に4年いた。ところが、175年からなら6年で180年、高屋宮に居住し続けたのなら、符合する。そして、景行十七年春三月戊戌朔己酉は正しい日干支だが、実際は成務五十年西暦180年2月30日なのだろう。「故號其國曰日向也」と大伴氏は日向を支配下にした。

 

年候補

丁巳 10月朔 -636 -543 -512 -450 -419 -393 -326 -295 -233 -202 -109 -16 16 42 109 166 202 233 290 326 352

丙辰 12月朔 -636 -512 -450 -393 -326 -269 -202 -145 -16 42 109 166 233 290 352 

乙未 7月晦日 25 118 185 211 

甲子9月晦日 25 149 175 211

癸巳11月晦日 118 175 243

戊戌2月晦日 56 149 180 273

2025年9月22日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 景行天皇1

  『舊事本紀』は西暦71年「元年歳次辛未秋七月皇太子尊即天皇位」と『日本書紀』が元年秋七月己巳朔卯己卯と記述するのと異なり日干支を記述しない。天皇の即位年の基準となる朔の日干支を記述できないのは、異なる王朝の記事だからと考えられる。すなわち、『舊事本紀』に日干支が記述される出来事は、他王朝の記録の可能性が高い。日干支を知っているのに記述せず、気が向くと記述するなどということは考えられない。知識は惜しみなく表記して、優位であることを示す。知っていることはすべて書き、日干支を知らないから書けなかった。

西暦72年、景行二年春三月丙寅朔戊辰の日干支は正しいが、二月は小の月29日までなので、二月の晦日(30日目)が丙寅の吉備・九州の暦だったと考えられる。「立播磨稻日大郎姫」は播磨の姫なのだから、大帯日子の説話と考えられ、吉備・九州の暦である。

西暦73年景行三年春二月庚寅朔も吉備の暦の1月30日の日干支で、「卜幸于紀伊國將祭祀群神祇・・・遣屋主忍男武雄心」と記述される。しかし、武内宿禰は稚足彦の時に大臣になっている。『古事記』の稚足彦は355年崩なので、吉備の暦で290年が相応しい。屋主忍男武雄心は吉備での名が少彦男心で、比古布都押之信の分家と考えられる。

景行四年春二月甲寅朔甲子は正しい日干支であるが、「仍喚八坂入媛爲妃」は世代が異なる。八坂入媛は八坂入彦の娘なのだから、前15年に皇后になった日葉酢媛の娘(大中姫)なので、西暦7年垂仁三十六年が相応しい。纏向朝とは別系統の師木・穴太の朝廷の説話である。垂仁八十七年に十千根が婿入りするまでの51年間は八坂入媛の娘と、五十瓊敷の皇子との婚姻で朝廷を継承したのだろう。冬十一月庚辰朔の正しい日干支の「則更都於纒向是謂日代宮」は前項で述べた景行天皇の遷都、景行元年は穴太への遷都と考えられた。纏向(垂仁・景行)朝は大新河大連が天皇だ。

 

年候補

庚寅

104年 2月朔 ・・・2月朔 290 1月晦 321年 2月朔 347年 2月朔

甲寅

7年 2月朔 74年 2月朔 100年 2月朔 131年 2月朔

2025年9月19日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 垂仁天皇6

天皇崩於纒向宮」、垂仁天皇の崩御の西暦70年垂仁九十九年秋七月戊午朔は間違いの日干支である。『舊事本紀』は西暦70年垂仁九十九年秋七月戊子朔と記述している。異なる日干支を記述していて、『日本書紀』の日干支は西暦73年6月が該当する。そして、『舊事本紀』の日干支も73年の7月の日干支で間違っているが、纏向朝廷は物部氏の大新河の朝廷なので、『舊事本紀』が正確と考えられる。『日本書紀』と『舊事本紀』が異なる日干支を記述するのは2朝廷が存在し、74年に遷都しているので、73年の垂仁天皇の崩御は相応しい。西暦70年垂仁九十九年秋七月戊午朔は73年の8月2日の可能性が高い。7月は29日までの小の月で、8月1日が晦日()、それを2日が朔日と考えたのだろうか。

それに対して、西暦70年冬十二月癸卯朔壬子の日干支が正しい「葬於菅原伏見陵」の記事は対応する73年だった間違いの日干支と矛盾がある。そして、西暦71年景行元年秋七月己巳朔卯己卯も正しい日干支で、「太子即天皇位因以改元」とある。すなわち、師木天皇の五十瓊敷は景行即位前紀に「九十九年春二月活目入彦五十狹茅天皇崩」と6月でも7月でもない2月に崩じた。五十瓊敷を西暦70年12月に陵墓へ埋葬し、十千根大連が天皇になって、穴太に翌年遷都して、改元したのだろう。

『二中暦』に継体元年517年以前に「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干」と記述された。紀元前53年に元号が始まったが、当然、師木朝廷の元号である。埋葬場所は菅原伏見陵で、野洲には古社に菅田神社、現代に菅原神社が存在する。桜井市の菅原神社は山の中だ。

71年 明年(景行天皇元年辛未)春三月辛未朔壬午は九州の日干支で「田道間守至自常世國」と記述する。田道間守が持ち帰った「非時香菓」は萩市に自生している。萩は拘奴國の領域なのだから、九州の暦に矛盾がない。

2025年9月17日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 垂仁天皇5

  西暦58年垂仁八十七年春二月丁亥朔辛卯も正しい日干支で、記事は「五十瓊敷命謂妹大中姫曰我老也不能掌神寶」とある。天皇五十瓊敷(大筒木眞若)が妹の大中姫(八坂八坂入媛)に天皇の璽を委譲した記事だろう。そして、「大中姫命授物部十千根大連而令治」と夫の十千根に天皇の璽を委譲した。十千根が最高実力者になった。

十千根は穴太足尼、穴太に遷都した天皇、纏向天皇にとっては足尼である。『日本書紀』では、正統な政権が纏向政権だが、大臣・大連を記述せず、内容は『古事記』と同じように、師木から高穴穂への政権を記述している。景行天皇が『日本書紀』上では、景行五八年に、まだない高穴穂宮に遷っている。『日本書紀』通りなら、何もない高穴穂に行って、3年間掛かって高穴穂宮を造ったことになる。ところが、それ以前に、ないはずの穴太足尼が存在するのだから、垂仁八十七年にまだ首都纏向でない首都穴太宮があっても不都合はない。高穴穂宮は60年より長い107年続いたと『日本書紀』で記述している。すなわち、景行13年から穴太に分家の大玉の宮(高穴穂宮)が存在した可能性が高い。

西暦59年垂仁八十八年秋七月己酉朔戊午も正しい日干支で、「新羅王子天日槍初來之時將來寶物今有但馬」。61年垂仁九十年春二月庚子朔も正しい日干支で「天皇命田道間守遣常世國令求非時香菓」と記述される。正しい日干支なのだから、穴太足尼の外交で、娘が比咩古、纏向皇后の五十琴姫の母である。すなわち、纏向の王の夫である膽咋が穴穂に逃れ、女王比咩古が纏向を治めたのだろう。

その結果が『三国史記』の173年、「阿達羅尼師今・・・二十年 夏五月 倭女王卑彌乎遣使來聘」や『後漢書』の189年以降の「桓・靈閒 倭國大亂・・・有一女子名曰卑彌呼」と考えられる。比咩古という名は『後漢書』の卑弥呼と無関係とは思えない。

2025年9月15日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 垂仁天皇4

西暦1年垂仁卅年春正月己未朔甲子は正しい日干支の、「天皇詔五十瓊敷命大足彦尊曰汝等各言情願之物也」と皇位継承の記述がある。この記事は垂仁廿八年に薨じた倭彦を後継した五十瓊敷入彦が継承したのだろうか。弓矢は天皇の璽の象徴、それを五十瓊敷入彦は大中姫に継承させた。朝廷の統治を五十瓊敷、大足彦が敗れて大国王になった。結果的に大足彦は播磨稻日大郎が住む播磨入りしていて、五十瓊敷に敗れている。大足彦が播磨に入って、大国が琵琶湖から西へ移動した。

西暦3年垂仁卅二年秋七月甲戌朔己卯は正しい日干支で「皇后日葉酢媛命薨」の記事である。それに続く、5年垂仁卅四年春三月乙丑朔丙寅も正しい日干支の「先是娶山背苅幡戸邊」と皇太后が代わった。苅幡戸邊が倭彦の妃、綺戸邊が倭比賣なのだろうか。

西暦8年垂仁卅七年春正月戊寅朔は九州の日干支で、「立大足彦尊爲皇太子」は九州倭国の王朝交代である。

『舊事本紀』の西暦52年垂仁八十一年春二月壬子朔に該当する朔日近辺の日干支は全く無い。記事は「十市根命賜姓物部連公即為大連」、十市根が天皇になった。十市根大連はすでに垂仁二六年にも記述されて、これ以前にある該当する日干支は紀元前30年崇神三十年が相応しかった。『舊事本紀』独自の記述は九州や吉備の日干支は考えられない。

紀元前30年に十市根、世代的に大根が天皇になったのだが、既に、崇神六十五年に武諸隅が大連になっている。ところが、この武諸隅は尾張氏の建諸隅で、物部氏の武諸隅ではないので、『舊事本紀』は十市根を記述し、おそらく、垂仁八十一年に十市根が八坂入媛の婿になったのだろう。紀元前30年は纏向朝と師木朝が分裂した年である。

 

年候補

壬子2月朔日 -221年 -97年 -30年 -4年 28年 95年閏2

2025年9月12日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 垂仁天皇3

    大新河が纏向朝廷を引き継ぐ前の月、前7年垂仁廿三年秋九月丙寅朔丁卯は九州や吉備の暦と考えられ、8月の事績である。「詔群卿曰譽津別王是生年既卅髯鬚八掬」と譽津別の記録だ。ところが、9月に大新河の即位後、冬十月乙丑朔壬申の「天皇立於大殿前譽津別皇子侍之時有鳴鵠度大虚」、十一月甲午朔乙未の「湯河板擧獻鵠也譽津別命弄是鵠」と正しい日干支で記述される。大新河によって、譽津別は師木に追放され、吉備の日干支で亡くなったようだ。

前5年垂仁廿五年春二月丁巳朔甲子は正しい日干支で、「今當朕世祭祀神祇豈得有怠乎」と天皇が交代した。日葉酢媛の夫の八坂入彦が崩じて山代之大筒木眞若(五十瓊敷入彦)が即位したと考えられる。そのため、三月丁亥朔丙申と正しい日干支の「離天照大神於豐耜入姫命託干倭姫命」と、皇后が豐耜入姫(日葉酢媛)から倭姫に交代した。

前4年垂仁廿六年秋八月戊寅朔庚辰も正しい日干支で、「天皇勅物部十千根大連曰屡遣使者於出雲國雖検校其國之神寶」と十千根(大根)が天皇の璽を管理する地位になった。『舊事本紀』には西暦52年垂仁八十一年春二月壬子朔に「五大夫十市根命賜姓物部連公即為大連」との記述があるが、既に大連になっているので、前の項で述べたように、前30年に大連に賜姓されたと考えた方が正しいようだ。

前3年垂仁廿七年秋八月癸酉朔己卯は九州・吉備の日干支なので、大新河の配下の記録で、「令祠官卜兵器爲神幣吉之故弓矢及横刀納諸神之社」と師木朝廷との戦いの準備を始めたのだろうか。前2年垂仁廿八年冬十月丙寅朔庚午は正しい日干支の「天皇母弟倭彦命薨」の記事は、倭が「あま」で尾張大海媛、『舊事本紀』は尾張大倭媛とも記述するので倭彦は大倭媛(大海媛)の子孫だろう。天皇大筒木眞若(五十瓊敷入彦)の母は日葉酢媛(豐耜入姫)であり、御上神社で大神を祀った。弟が倭彦(2代目大根・同母弟伊理泥)、その娘が倭姫で大筒木眞若の妃、『古事記』では丹波能阿治佐波毘賣と呼ばれたと考えられる。十一月丙申朔丁酉も正しい日干支で、「葬倭彦命于身狹桃花鳥坂於是集近習者」と記述され、御上神社の近くに武佐町がある。師木王朝の記録だ。

 

年候補

壬子 -2212月朔日 -972月朔日 -302月朔日 -42月朔日

2025年9月10日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 垂仁天皇2

  前26年垂仁四年秋九月丙戌朔戊申に「皇后母兄狹穗彦王謀反欲危社稷」と記述される。狹穗姫は纏向の皇后なので、大和神社を創建した淳名城入姫に比定される。「皇后母兄狹穗彦王」と皇后の淳名城入姫の母の大海媛の兄の建諸隅が狹穗彦と記述する。

崇神六十五年に大連に即位した建諸隅が狹穗彦だろう。大和神社は大國魂神を祀り、市磯長尾市が大國魂を祀ったので、狹穗姫の子の譽津別の後裔は市師宿祢の祖の穴太足尼、穴太宮天皇と考えられる。

前25年垂仁五年冬十月己卯朔に『舊事本紀』「狹穗彦與妹皇后共死」と天皇の狹穗彦(2代目も)は崩じた。狹穗彦が天皇になっても遷都していないので、狹穗彦は師木の天皇である。しかし、前23年垂仁七年秋七月己巳朔乙亥の「左右奏言當麻邑有勇悍士曰當麻蹶速」とあるように騒乱があった。後継者の八坂入彦が纏向天皇と争ったのだろう。そして、前15年垂仁十五年春二月乙卯朔甲子に「喚丹波五女納於掖庭」、秋八月壬午朔の「立日葉酢媛命爲皇后」とあるように、皇后が代わった。丹波の姫なのだから、首都は師木なので、師木の天皇が交代した。

垂仁天皇の妹の日葉酢媛・豐耜入姫が師木の皇后と考えられ、前5年垂仁廿五年三月丁亥朔丙申の「離天照大神於豐耜入姫命託干倭姫命」の記事は倭姫の夫と考えられる五十瓊敷入彦に天皇が代わったのだろう。豐城入彦は崇神六十五の「武諸隅命為大連」の時に太子、垂仁元年に天皇なので、廿五年後に義兄弟の八坂入彦もかなり老齢になっていたと考えられる。垂仁十五年の日葉酢媛皇后も、2代目なのだろうか。

『舊事本紀』は前7年垂仁二十三年秋八月丙申朔已亥に「大新河命為大臣」、丁巳に「大新河命賜物部連公姓即改大臣号大連」と、纏向珠城宮の大連に就いた。この日干支は7月朔日の日干支、他の候補として、9月2日、紀元25年垂仁五十四年がある。妃が木国造りの荒川戸俾の娘、豐城入彦の母も紀伊國荒河戸畔の娘なので、豐城入彦を継承したのだろう。苅幡戸邊の子の祖別は兄弟に五十日足彦(伊香色雄の後継)が存在し、大新河にピタリの人物だ。豐城入彦の年齢から考えれば、吉備の記録で、垂仁二十三年前7年9月2日の朔の日干支でよさそうだ。(8月は29日までで9月1日が晦日)

 

日干支候補

「垂仁二十三年秋八月丙申朔」-77月朔1日 丙申に対する-789月の日干支

7月晦日30日 乙丑 8月朔1日 丙寅 82日 丁卯

8月晦日29日 甲午 9月朔1日 乙未 92日 丙申

2025年9月8日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 垂仁天皇1

    纒向珠城宮の天皇は豐城入彦だと思われるが、前69年崇神廿九年春正月己亥朔に「生於瑞籬宮」と生まれた。この生まれならば、42歳で皇后を迎え、後継者を生んだことになる。奇異であるが、崇神四十八年春正月己卯朔戊子の太子選びが13歳以上になっていないとまずいからだろう。立太子は倭国の王朝交代で、太子は13歳以上、成人していないと皇位を継承できないからである。

実際は崇神六十五年春正月の武諸隅命為大連の時に太子の豐城入彦は十三歳以上で垂仁元年に二十歳以上である必要があり、崇神五十年以前に生まれていないと理に適わない。私は、四十八年春正月己卯朔戊子の相続競争が生まれた年ではと考えている。それで、前38年に豐城入彦が太子の年齢に、武諸隅が出雲の神宝を得て前29年皇位に、豐城入彦は纒向に王朝を建てたのではないだろうか。

垂仁天皇は前29年垂仁元年春正月丁丑朔戊寅に「皇太子即天皇位」と即位しているが、この日干支は九州や吉備の日干支である。前天皇の埋葬も『舊事本紀』『日本書紀』は「明年秋八月甲辰朔甲寅葬于山邊道上陵」、『日本書紀』では垂仁紀にも「冬十月癸卯朔癸丑葬御間城天皇於山邊道上陵」と2度目の異なる記述をしている。「八月甲辰朔」が九州の日干支ならば、2日が甲辰となるのは10月なので、『日本書紀』の垂仁紀は間違えたのだろうか。さらに、「尊皇后曰皇太后」も垂仁元年十一月壬申朔は晦の九州・吉備の日干支で、纒向珠城宮に遷都するまで豐城入彦の記録は出雲神社の記録だった可能性が高い。

『舊事本紀』の西暦52年垂仁八十一年春二月壬子朔の日干支は間違いの日干支で、「五大夫十市根命賜姓物部連公即為大連」と大連(天皇)に即位したと記述された。しかし、正しい日干支の年は垂仁元年の前年の紀元前30年にあたり、十市根の父の大根(狹穗彦)が師木水垣宮の天皇に即位したと考えられる。

狹穗彦は『日本書紀』に、前33年崇神六十五年秋七月「天皇踐祚」と崇神天皇から皇位を譲られた。そして、豐城入彦は前28年垂仁二年春二月辛未朔己卯に「立狹穗姫爲皇后后生譽津別命」と狹穗姫は纒向珠城宮皇后となった。狹穗姫は大和神社を創建した渟名城入姫である。

 

年候補

己亥 -9612月晦日 -691月朔 -3912月晦日 -331月晦日-121月朔

壬子 -2212月朔日 -972月朔日 -302月朔日 -42月朔日

298月朔日前後

 7月晦日29日壬寅 8月朔1日癸卯 82日甲辰

2910月朔日前後

 9月晦日30壬寅 10月朔1日癸卯 102日甲辰

2025年8月25日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 崇神天皇5

     夢見診断と「豐城命令治東國」は前30年崇神六十八年冬十二月戊申朔壬子の「崩時年百二十歳」の前、特に十一月は相応しかった。前38年崇神六十年秋七月丙申朔己酉の「武日照命從天將來神寶」記事は亀岡の出雲神社から、媛蹈鞴五十鈴媛が宇摩志麻治から受け取った天皇の璽・神寶を「武諸隅而使獻」と武諸隅が得た。勿論、大新河の子の武諸遇や大母隅は生まれていないので、世代的に建宇那比の子の建諸隅が天皇の璽を得た。亀岡の出雲神社の勢力は大田田根子が河内に居て、大物主を祀ったように、河内・纏向を勢力下にしていた。その纏向の勢力の天皇の璽を建諸隅が得て、河内・纏向も勢力下にした。

そして、前36年崇神六十二年秋七月乙卯朔丙辰、吉備の日干支の記事の「河内狹山埴田水少・・・其多開池溝」とある。すなわち、出雲神社の領土だったと考えられる河内を建諸隅が領有して開墾した。

『舊事本紀』は前33年崇神「六十五年春正月武諸隅命為大連」と天皇即位を宣言し、「六十五年秋七月天皇踐祚」と崇神天皇が建諸隅に皇位を譲ったと認めた。豐城入彦が纏向天皇で、遷都していないので、建諸隅は豐城入彦では無かったと解る。

前30年に「豐城命令治東國」と豐城入彦から河内や纏向を奪おうとしたと考えられる。当然、豐城入彦は反発して、前天皇の崇神天皇と建諸隅大連側に勝利して、崇神天皇は前30年六十八年冬十二月戊申朔壬子の「崩時年百二十歳」と崩じた。

明年秋八月甲辰朔甲寅の日干支は九州・吉備の日干支で甲辰は8月2日で、「葬于山邊道上陵」とある。資料には八月癸卯晦甲寅とあったのだろう。すなわち、河内や纏向で権力を持っていた豐城入彦が葬儀を遂行して、皇位を引き継いだと宣言したのだろう。

それに対抗した人物が建諸隅大連、皇后狹穗姫(淳名城入姫)の兄の狹穗彦(おそらく大根)で、崇神天皇の首都の師木水垣宮で政権を維持したと考えられる。


年候補

己卯朔 -454月 -405月 -309月 -3011月 -2510月 -142

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2025年8月22日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 崇神天皇4

  崇神天皇は大彦と旦波大縣主の娘の竹野媛との子の丹波道主、彦湯産隅である。皇后は伊香色雄の義姉妹の木国造の娘で、彦湯産隅の皇子は丹波の姫、伊香色雄の娘を妃にし、伊香色雄の皇子も木国造の娘(真木姫・荒姫・玉手姫)を妃にしたようだ。実質の最高権力者は伊香色雄である。

前86年崇神十二年春三月丁丑朔丁亥は正しい日干支で「詔曰朕初承天位」と四道の侵攻の成功で、領地の拡大を祝っている。崇神十二年秋九月甲辰朔己丑の日干支は1月のズレがあり、10月朔日が正しい。11月に閏月があるので、正しいかもしれないが、保留である。記録は「故稱謂御肇國天皇也」で、初めての天皇だと祝っている。何故即位12年目に宣言するのか不明である。相応しい日干支は前210年、孝元天皇が輕地境原宮に遷都した翌年なら相応しいかもしれない。翌年に孝霊天皇を埋葬し、その翌年に欝色謎を皇后にしている。

前81年崇神十七年七月丙午朔の「造舩舶」は正しい日干支で、崇神四八年夏四月戊申朔丙寅の「立活目尊爲皇太子」は閏三月の日干支である。立皇太子は九州倭国の王朝交代記事は変わらない。しかし、前50年崇神四十八年春正月己卯朔戊子の「不知曷爲嗣各宜夢」記事の夢見で後継者を決める説話が奇妙だ。

『舊事本紀』には崇神「三十八年春正月己卯朔戊子」と間違いの日干支を記述している。当然、夢見で後継者を決めるにしても、崇神四八年は奇異である。立皇太子記事が四月なので、前30年の九月か十一月は朔日が己卯、翌年正月に垂仁天皇が即位している。

夢見で武諸隅大連の後継者を八坂入彦にしようと画策したので、豐城入彦が纏向天皇を名乗った。師木天皇の武諸隅大連は狹穗彦(大根)、妃が十市瓊入姫、豐城入彦の妃が淳名城入姫(佐波遲比賣)、八坂入彦の妃が豐鍬入姫(日葉酢媛)、義兄弟である。

 

年候補

甲辰9月朔 -303 -241 -210 -117 8 101

己卯朔 -454月 -405月 -309月 -3011月 -2510月 -142

2025年8月20日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 崇神天皇3

  崇神六年の「託渟名城入姫」は崇神六〇年に武諸隅が大連(天皇)になって6年目の崇神六十五年、前33年と考えられる。崇神七年秋八月癸卯朔己酉の「祭倭大國魂神之主」の候補に前34年や前29年があった。前29年は垂仁元年で、首都が変わり、祀る神も変わった年である。前33年頃に纏向宮の建設が始まり、豐鍬入姫が伊勢の女王となったのは垂仁六年、狹穗姫死後の可能性が高く、垂仁十五年に皇后になった。

それに対して、前89年崇神九年春三月甲子朔戊寅の記事の「盾八枚矛八竿祠墨坂神祠大坂神」や夏四月甲午朔己酉の「祭墨坂神大坂神」は九州や吉備の暦である。九州の暦は中国の影響下の暦で中国は日干支の暦の最初の記事は『史記』の前179年、「孝文本二年十一月晦日有食之」が最初である。日本の孝元天皇の頃からで、使用量から考えても、朔日や晦日は日本からの輸出、高千穂宮からの輸出と考えられる。琵琶湖の津には神様達が集まるから「ついたち」、神様が居ない九州や吉備は一日から数えて「三十日」である。すなわち、中国は晦日イコール朔日、晦と朔が入り混じる原因なのだろう。

前88年崇神十年秋七月丙戌朔己酉は正しい日干支で、「猶不受正朔」天皇が正しい朔を使っていないと怒っている。正しい日干支で天皇が怒るのだから、朔日を朔と使用する天皇は朔日を晦と使っている氏族に怒りを向けている。その結果、崇神十年九月丙戌朔甲午の九州の日干支を使う「以大彦命遣北陸武渟川別遣東海吉備津彦遣西道丹波道主命遣丹波」の四道を攻めた。北陸と吉備と東海と丹波道が九州・吉備の暦を使っていて、天皇は琵琶湖南部の人物である。

そして、琵琶湖南部にいる天皇は正しい日干支の崇神十年冬十月乙卯朔に「詔群臣曰今返者悉伏誅畿内無事」と勝利宣言を、前87年、九州の暦の崇神十一年夏四月壬子朔己卯に「四道將軍以平戎夷之状奏焉」と九州の暦を使う地域からの報告があった。負けても、記録を持つのは高千穂宮なので、記録は九州の暦なのだろうか。

 

年候補

癸卯8月朔 -158 -91 -34 -29 

2025年8月18日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 崇神天皇2

  崇神七年秋八月癸卯朔己酉の「倭迹速神淺茅原目妙姫穗積臣遠祖大水口宿禰伊勢麻績君三人共同夢」、「大田田根子命爲祭大物主大神之主亦以市磯長尾市爲祭倭大國魂神之主」と大田田根子に大物主を祀らせろと占った。

ところが、前91年崇神七年十一月丁卯朔己卯の「即以大田田根子爲祭大物主大神之主」はこの年にも、それ以外にも相応しい年が無い。前90年の九月朔日が丁卯朔であり、それなら、前90年崇神八年冬十二月丙申朔乙卯の「天皇以大田田根子令祭大神」が一連の流れになる。変えた原因は崇神六年前92年に天照大神と倭大國魂二神を豐鍬入姫と渟名城入姫に託した記事を挿入したためだろう。豐鍬入姫と渟名城入姫は崇神朝末年が相応しく、大國魂を祀るのが市磯長尾市とするために早めたのだろうか。長尾市は垂仁朝で活躍している。丁卯10月晦が前23年、垂仁七年、長尾市が野見宿禰を呼んだ年だ。

1年のズレがまだ続いている。『舊事本紀』の政権と『日本書紀』の政権の統合は、崇神十年の「猶不受正朔」のため、四道侵攻を行うまで、待たなくてはならなかったようだ。大彦が北陸、武渟川別が東海、吉備津彦が西道、丹波道主は丹波、『古事記』は西道を記述しない。それは『古事記』の崇神天皇は吉備出身だったからなのだろう。これら、四道は暦が違っていたことを示す。『二中歴』には「年始五百六十九年」に継体元年(517年)が始まったと記述される。すなわち、前53年、崇神45年に元年が始まった。

前90年崇神八年夏四月庚子朔乙卯の記録の「以高橋邑人活日爲大神之掌酒」は正しい日干支である。活日は御眞木入日子と御眞津比賣の子の伊久米伊理毘古と無関係とは考えられず、伊久米伊理毘古は琵琶湖北部の皇子と考えられる。長浜には高橋や高月があり、天理は大国魂大神を祀る大和神社、創建は渟名城入姫で崇神朝末期の出来事だ。

 

年候補

癸卯8月朔 -158 -91 -34 -29 

丁卯11月朔 -333 -240 -54 4 71

丁卯10月晦 -204 -147 -80 -23 

丁卯朔 -1005月 -958月 -909月 -8512月 -793

2025年8月15日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 崇神天皇1

崇神天皇は師木の水垣宮を首都にする天皇で、『日本書紀』には前95年崇神「三年秋九月遷都於磯城是謂瑞籬宮」と記述される。しかし、日干支を記述しない、すなわち、日干支の記録が無かったのだろう。今まで、記録を持っていた朝廷が滅び、記録を持っていなかった場所に朝廷が遷った。

すなわち、この遷都は記録を持っていた春日宮王朝が滅亡した記録と考えられる。そして、大縣主の大毘古の子が前97年、崇神元年春正月壬午朔甲午に「皇太子即天皇位」と即位した。天皇比古由牟須美、大臣伊香色雄日子坐、最高実力者は木国造の建宇那比である。

崇神元年二月辛亥朔丙寅の「立御間城姫爲皇后」の記事は九州・吉備の暦で1月30日晦が辛亥である。実際の皇后は木國造荒河刀辨の娘の遠津年魚目目微比賣で息長水依比賣と考えた。子は丹波比古多多須道主、旦波大縣主由碁理の娘の竹野比賣の子なのだから、丹波道主は相応しい。

前94年崇神四年冬十月庚申朔壬午の「惟我皇祖諸天皇等光臨宸極者豈爲一身乎」記事は十一月で、ひと月のズレがある。吉備の暦の十月庚申晦(30日目で実際は11月1日)すなわち、十一月庚申朔なのだろうか。

前91年崇神七年春二月丁丑朔辛卯の「昔我皇祖大啓鴻基其後聖業逾高王風轉盛」にも即位の宣言らしき記事が存在する。この時、大物主が現れて、大田田根子に祀らせるように言った。すなわち、吉備や出雲神社の勢力が河内や奈良に進出して、勢力を築き始めたと考えられる。