2025年6月30日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 まとめ2

古代は末弟が継承すると主張するが、伊邪本和氣→水齒別→男淺津間若子、穴穗→大長谷と兄から即位している。伊邪本和氣・水齒別の在位年数は6年と5年で、兄弟の年齢差とすれば妥当である。

立太子は意味が無く、史書は皇后が決まってから太子を記述しているように、皇后の子が次の天皇になっている。そして、男子が100年後の天皇なのだから、100年間は皇后の娘が皇后の名を継承し、婿を迎えて皇位を継承すれば、皇后の()子が天皇だ。そして、娘が生まれないと、男子が他家へ婿に、または、分家の娘が皇后の名を継承し、婿を迎えれば継承される。

皇后が余曾多本毘賣になった時、余曾多本毘賣の兄の子の数代の國押人が婿に入り皇太子になる。皇后に娘が居ないとき、いつも迎えていた國押人が他家に婿入りして、婿入り先の宮で皇位を継承する。これが、合理的な継承方法だろう。皇后の男子は皇后の兄弟の婿に入って奧津余曾を襲名し、その子も次の太子の國押人である。

そして、王家を形成する人々は、人名を地名や役職名使って名前にした。同じ名前の人物は、同じ家系と考えるのが合理的だ。他家の人物が同名を使うのは、自らのアイデンティティーを捨てることになる。逆に、移住する時は、そのアイデンティティーを持って、地名を持って移住する。

このような原則に立って、神話集である『古事記』を分析した。日子坐のように多くの妃を記述するが、開化朝から崇神朝の120年の間に、何代もの意祁都比賣の子の日子坐が存在し、婿入りして分家を設けたと考えれば理に適う。

120年間あれば、親子の年齢差が20歳とすれば、6・7代の日子坐が存在する。そして、日子坐には4柱(4家)の妃が存在し、80年間、4代の天皇の分家の日子坐が存在したと考えられる。そして、1・2代の日子坐は2・3代の皇后の父だろう。妃の家系の権力を高めるためには、日子坐ブランドは利用価値が高い。

2025年6月27日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 まとめ1

『古事記』には年代や暦の日干支が記述されないため、いつの出来事か特定できない。従って、歴史とは言えないが、親子関係を詳細に語っている。しかし、親子関係は『日本書紀』で解るように、一世代が百年、親子で孝昭・孝安など百八十五年も国を治めている。これを、一部の歴史家はまじめに親子だと考えている不思議な生き物たちである。

しかし、常識的に考えれば、孝昭家から孝安家に政権が遷ったと帰結する。93歳で崩じた前天皇を継いだ子の天皇が123歳まで102年間皇位に就いていたなど有り得ない。孝昭天皇六八年に「立日本足彦國押人尊皇太子年廿」と20歳で太子になって、15年後に21歳で即位など、計算が合わない。

この年齢は異なる意味を持ち、間違いだからと無視はできない。いい加減だと言って、無視して即位期間の平均で1代20年程度とするのは、論理的ではない。20年は親子の年齢差に過ぎない。「太子年廿」は最後の孝昭天皇の太子が婿入りした年齢、93歳は葛城掖上宮が続いた年数と考えた。

もしも、太子の居ない68年間に天皇が崩じたら、皇位継承争いで王朝崩壊するだろう。神武天皇は神沼河耳を太子にしたが、神沼河耳には日子八井・神八井の兄も共に當藝志美美を倒そうと立ち上がり、頼りない兄に替わって即位した。立太子は全く無意味だった。私は立太子が九州倭国の王朝交代と考えた。

478年雄略二二年に「白髮皇子爲皇太子」と記述されるが、翌478年昇明二年に興の弟の武が安東大將軍倭國王を叙された。434年允恭二三年に「立木梨輕皇子爲太子」と記述されるが、「賛死立弟彌」と弟への王朝交代があり、「文帝元嘉十五年夏四月己巳以倭國王珍為安東將軍」と438年に叙された。賛は430年に遣使し、「贊死立弟彌、彌死立子濟濟死立子興、興死立弟武」と記述されるように、弟への王朝交代はこの2回である。弟が即位するというのは、皇后が異なる分家が即位することを意味する。

2025年6月25日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 大倭國造2 

  大和國造の祖は鸕鷀草葺不合の弟の武位起で、『舊事本紀』に「椎根津彦命爲大倭國造即大和直祖」とあるように、武位起が曲浦の王の祖で、紀伊名草姫の子の大御氣主が大倭國の民磯姫を妃にして生まれた阿田賀田須が丸迩君の祖、曲浦の王になった。

民磯姫は卑弥呼の別名の夏磯媛と同じく、熊襲の一員の壹襲(壹国)の姫で、但馬の姫なのだろう。孝安天皇の子の建斗禾の娘が民磯姫と考えられ、建宇那比が大海宿禰(大倭國王)()弟が建手和迩なので、大御氣主が大海宿禰の妹の民磯姫の婿なのだろう。建手丸迩と民磯姫は紀伊國造智名曽の妹の中名草姫の子と義子、大御氣主は紀伊名草姫の子なので、従兄妹同士の婚姻である。

大御氣主は「拘奴國」を倭國の東から南に追い遣り、子が曲浦や丸津の王で丸迩君の祖と呼ばれたと考えられる。宇豆比古が釣りをしていた浦や神功皇后が新羅に出発した丸津は丸や曲の文字を使うのだから、形状から神功皇后がいた橿日宮の海岸か筑紫の宇佐へ向かった関門海峡が有力である。

迩君は多遲摩國造の祖の大多牟坂、すなわち纏向大連・比布禮大臣の多遅麻と考えられ、娘の弟日賣眞若比賣の婿は曾都毘古の子の葦田宿禰・若野毛二俣だった。葦田宿禰は丸迩臣の許碁登であり、大倭國造は吾子篭で、吾子篭は「吾子篭遣於韓國而未還」とあるように、韓国に出向いたままだった。呼び返したのは兄の麻呂、同じように「襲津彦久之不還」と加羅に出向いたままの曾都毘古と重なり、迎えに行ったのは木菟宿禰(平群氏)と的戸田宿禰(丸迩臣の祖)であった。

兄弟は葦田宿禰と的戸田宿禰で、葦田宿禰は曾都毘古と共に加羅に行っていて、的戸田宿禰は倭直(淡海)の祖、葦田宿禰は倭(淡海)直だ。首都が河内の丹比に遷った時、丸迩の許碁登・葦田宿禰が大倭國造に賜姓されたようだ。丸迩佐都紀臣は深目・意富富杼で、その娘が袁杼比賣・童女君・春日大郎女と考えられる。春日大郎女は倭直の跡取り娘なので、倭比賣が相応しく、袁杼比賣を継承したと考えられる。その婿が袁本杼、すなわち、巨勢男人だろう。そして、倭国に勝利して、九州の倭国は俀国と名を変え、男人の娘婿の仲国王と考えられる広国押建金日が倭国王となった。

2025年6月23日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 大倭國造1 

  倭國造の祖は槁根津日子で、吉備から日下の蓼津に向かう途中の速吸門を進む水先案内を行った国神であり、宇豆比古は木國造の祖である。しかし、『日本書紀』と『舊事本紀』は珍彦が倭國造であり、珍彦は曲浦の漁師で椎根津彦の名を貰う、筑紫國菟狹へ向かう海導者である。

すなわち、木國造の祖の宇豆比古が曲浦の王であり、宇豆比古の協力で「拘奴國」を攻めた。そして、屋主忍武雄心がその娘の山下影媛を妃に紀武内宿祢が生まれた。そして、宇豆比古の子の紀伊国造の宇豆彦道彦男が大荒田の婿と考えられる建忍山垂根で、二代目武内宿禰の若帯日子が生まれる。宇豆比古の跡取りが槁根津日子を賜姓され、九州の倭國造、すなわち、『後漢書』の大倭王なのだろう。

倭直の祖は麻呂、倭直は吾子篭であり、倭國造の祖は比香賀君だ。比香賀君は君だから、倭直を賜姓されている。履中天皇と考えられる稚櫻柴垣二宮大連の伊莒弗の義父、すなわち、黒比賣の父であり弟比賣の父の葦田宿禰、すなわち、丸迩臣許碁登である。許碁登のもう一人の娘は都怒郎女で、その娘の都夫良郎女の婿が紀角宿祢だろう。武内宿祢と宇乃媛の子の紀角宿祢が圓大臣で、娘が韓媛、婿が雄略天皇の一人の平群真鳥大臣である。

すなわち、倭國造の祖は比香賀君、天皇の伊莒弗は稚櫻と柴垣宮の大連・天皇で、伊耶本和気と水歯別は兄弟ではなく矛盾する。ところが、伊耶本和気と水歯別の義父は共通の葦田宿禰なので、葦田宿禰が伊莒弗、伊耶本和気が倭國造の祖の比香賀君ならば相応しい。多遅麻の妃は世代的に五琴彦ではなく同名の五十功彦と弟媛との娘の安媛(弟媛)で、その娘の香兒媛は弟比賣眞若比賣、夫は若野毛二俣・葦田宿禰である。

伊耶本和気の子の市邊忍齒別の子の意祁は大和の石上の廣高宮天皇、すなわち、大和國の王である。清寧伊波禮甕栗宮天皇には子が無く、飯豐・忍海郎女が皇后だったと考えられる。皇后も居ないのに、子が無いことを嘆くのは奇異である。子も妃も無かったのは武烈天皇に敗れた鮪臣なのだろう。

2025年6月20日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 忌部と凡河内國造

  大印岐が大國の領主の印岐という氏姓と考えられる。同じ用法の凡河内忌寸が『舊事本紀』に「凡河内國造即凡河内忌寸祖」と記述される。凡河内國造は凡河内忌寸の祖と同等とするが、他の國造を忌寸と記述せず、祖はその人物、若しくは次代の賜姓を意味することが多い。すなわち、天武朝の忌寸なら遠祖なので、忌寸の祖は凡河内國造が忌寸(印岐)と呼ばれたことを意味する。

師木王の太玉(大国王・大縣主)が大印岐、河内の大縣主が凡河内の印岐である。その凡河内國造()の祖は伊勢神宮と考えられる御上神社に祀られる丹波道主の祖母の天之御影である。これで、忌部・伊勢國造・凡河内國造が繋がった。

最初に記述される凡河内國造の祖は天津日子根、すなわち、彦根が印国(国=岐)と考えられる。遠津待根の母は阿遅鍬高彦根の妹の天照大神と思われる下光照比賣(高比賣)と考えられる。すなわち、下光照比賣を祭祀する娘の遠津待根が阿遅鍬高彦根を受け継ぐ彦根の女王である。

下光照比賣の夫は天津国玉の子の若日子、すなわち、天津日子根の末裔の天津国玉が大津の国王の太玉(布刀玉)で、下照比賣が大宮賣、天照大神を引き継ぐ比賣、大宮賣の娘が遠津待根、若日子が櫛磐間戸、阿遅鍬高彦根が豐磐間戸と考えられる。

遠津待根の子孫が天之御影で、天照大神の意思の代弁者である。高御産巣日が見る人物名と大国主が見る人物名、その神話を併せた世界である。

阿遅鍬高彦根を受け継いだのが饒速日である。阿遅鍬高彦根の本来の後継者の奈賀命は隠岐王(食国王)、饒速日の義兄は那賀須泥毘古(奈賀州根彦)とされ、偶然ではないだろう。隠岐の政大夫の饒速日は高御産巣日の子の天富の子の登美の御炊屋姫を妃に足尼の地位を得、それを子の宇摩志麻治に与えた。

遠津待根を祀る足尼の宇摩志麻治、師木縣主の彦湯支も足尼、子の浮穴宮朝の大祢、婿が出石心大臣・和知都美である。和知都美の娘の蝿伊呂杼の婿は出雲大臣の子の三見宿祢と考えられ、三見宿祢は秋津嶋朝の足尼になっている。三見の子の大綜杵が堺原宮の大祢(?大峯大尼・武建大尼)、建胆心大祢(屋主忍武雄心)、十市根の父の大根と続く。

大根は子の十市根と同一視、義兄弟の三野の八坂入日子とも同一視される。八坂入日子は伊勢麻績君と考えられ、伊勢神麻績連の祖である。八坂入日子の妃は天照大神を祀る遠津(息長)氏の娘の豐鍬入姫で、御上神社で天照大神を祀ったのだろう。

2025年6月18日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 伊勢國造

  『舊事本紀』によると、天照大神を祀る国の国王の伊勢國造は橿原朝に粟の忌部首の祖の天日鷲が賜姓された。粟は勿論、淡海のことであるが、奇妙な記述、「伊勢國造即伊賀伊勢國造祖」とある。伊勢國造になったのに、伊勢國造の祖は矛盾しているので、後の現代の三重県の伊勢の國造の祖を意味すると考えられる。

現代の伊勢神宮の王だった人物は孝徳天皇が国造を賜姓しているので、665年頃に伊勢神宮は遷ったと考えられ、蘇我馬子大臣の頃の伊勢は御上山にあった。天照大神を祀る伊勢皇大神宮が有るのに、管理する国が伊勢国ではない、また、伊勢皇大神宮が無いのに伊勢国というのは奇異である。ただし、三重の伊勢国の前に、伊賀伊勢國造なので、伊賀が伊勢国だった可能性もあり、天武朝の時に分けているので、再度、遷った可能性がある。すなわち、日鷲は伊勢遺跡の国造で、そして、日鷲は忌部首の祖なので、忌部首の祖の天太玉の後裔である。太玉は大国王を示している。太玉の娘の大宮売は天照大神の傍に仕え、豐と櫛の磐間戸兄弟は門番、御門()を守る、天照大神を支える人物だ。櫛磐間戸は天照国照彦天火明櫛玉饒速日の可能性が高い。

その太玉の名を引き継ぐ人物の娘の鴨姫を妃にするのが2代目膽咋の高穴穂大臣、鴨姫の父は建部君の祖の大荒田と考えられた。鴨縣主の祖は櫛玉、すなわち、この、天太玉のことのようだ。玉姫の父なのだから、太玉は相応しく、玉姫の婿は大印岐の孫の建稲種なので、大荒田の妃も大印岐の娘の可能性が高い。

志紀縣主の祖の印岐美(忌君)は建稲種と思われ、忌部と印岐は職制の部と領地の国と名が異なるだけで、指し示すものは同じ意味に近く、伊勢國造を継承した人物と考えられる。大根が大印岐、娘の兄比賣の婿の大荒田(大碓)、姉妹の弟比賣の婿の伊勢麻績君の子の大筒木眞若という師木・高穴穂朝廷の関係図である。

2025年6月16日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 お天道様と天照大神

  天照大神を祀る天皇家にとって、尾張氏がその祖と言える。尾張氏は木国造との姻戚関係が、権威の始まりと言って良い。師木水垣宮天皇と考えられる丹波比古多多須道主の娘の豐鋤入日賣は、豐鋤入日賣の祖母の息長水依比賣を祀った。豐鋤入日賣は水依比賣の母の天之御影が祝ふる御上山の神の天照大神を託されたのである。そして、沼名木之入日賣(佐波遲比賣)が大國魂を託されて、尾張氏が分裂したのだから、それ以前は皇后が託されていたと考えられる。沼名木之入日賣は豐木入日子の妃、八坂之入日子の義姉妹で大和神社を創建した。

豐鋤入日賣の母の遠津年魚目目微比賣は木国草津の姫と考えられ、丹波比古多多須道主は丹波大縣主の姫の竹野比賣の子で、木国に婿入りした。すなわち、息長水依比賣は多多須道主の母ではなく義母と思われ、遠津年魚目目微比賣が息長水依比賣と解る。遠津氏と息長氏は同じ氏族を指し、迦迩米雷と丹波の遠津臣の娘の高材比賣との子は息長宿禰で息長氏だ。

豐鋤入日賣は木国の入()の比賣で、曾祖母が祝ふる御上宮を託されたと考えられる。遠津氏は天狹霧の娘の遠津待根が起源で、天照大神は狹霧とともに跡取りの姫を生んでいる。その天照大神を豐鋤入日賣が託された。

一方、伊邪那美・伊邪那岐が最初に生んだ神の一柱に木国の大屋毘古(五十猛)が存在し、大屋毘古を祀ったのが天道尼()の孫である。尾張氏は天道日女の末裔で、尾張連の姓を最初に記述されたのが尾治弟彦だ。弟彦は八坂之入日子の子の大筒木眞若が始まりで、八坂之入日子が豐鋤入日賣の夫で、伊勢神麻績連の祖の伊勢麻績君である。

すなわち、この頃の伊勢皇大神宮は御上神社だったことが解る。御上神社は孝霊天皇の時に創建され、繩伊呂泥・意富夜麻登久迩阿禮比賣が祀られ、夜麻登登母母曾毘賣が繩伊呂泥を祀った。繩伊呂泥の父の和知都美が開いた淡道御井宮朝はこの御上神社を祀る入町にあったと思われ、景行朝に出現する伊勢の綺(かむはた)宮の可能性が高い。綺戸邊は布多遲能伊理毘賣の母なので伊勢の入()の姫の母に当たる。

2025年6月13日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 天皇大倭根子3

  足尼の宇摩志麻治は政大夫も兼ね、食国王の配下が政大夫で、大津の根国王を兼ねたようだ。綏靖朝では彦湯支が大津の根国王の足尼と政大夫を兼ね、師木の片鹽浮穴(草津市に片岡町・穴村町がある)を首都にして安寧天皇となった。懿徳朝では皇位を出雲醜大臣に奪われ、根国は大祢が「奉齋大神」とあるように、王になった。

大神は大国の神、元々大津にあった日吉大社の気比社と考えられ、気比社が宇迦能山の石根と考えられる。その後、三見と出石心が皇位を争い、根国を支配する足尼は一般の宿祢・王となり、劔根の孫の忍鹿比賣の子と考えられる葛木氏の大諸見(?大吉備諸進)が足尼となった。大神は気比から御上神社に権力が遷り、天照大神を祀ったのが大諸見足尼、神子の天皇は大倭根子である。

しかし、孝元朝に大綜杵が神と同等の大祢、政務を司る天皇が大倭根子だったのが、開化朝では分裂した。すなわち、内色許男の娘婿の武建と大峯が大祢、天皇は大臣の比古布都押之信と若倭根子となった。そして、崇神朝に建膽心が大祢(大根・伊理泥)となり、大国の神は御上神社の天照大神と大和神社の大國魂神の分裂状態、二王朝が続いた。

大根は子の十市根が天皇になって穴太足尼、婿の大碓の子が建忍山垂根と継承し、末裔が山代の山背根子、平群の眞根子、そして河内の長江の難波根子と継承した。建忍山垂根の義子の武内宿禰、その子の襲津彦に関連した地域である。

『日本書紀』は小碓を「一書云」で稚倭根子と記述し、稚倭根子を八坂入日女の子にしているのは、太子小碓が(十市)根の婿なのだから根子と考えているのだろう。そして、難波根子の婿と考えられる圓大臣、その娘の韓比賣と婿の大長谷若建との子の白髪が伊波禮甕栗宮の天皇が大倭根子の名を引き継いでいる。

大化二年・696年に唐から独立し、由緒ある天皇の「明神御宇日本倭根子」・「明神御大八洲日本根子」を天武天皇が襲名していたとした。そして、翌年の697年に成人した文武天皇が現御神大八嶋國所知倭根子を宣言したと考えられる。中臣(藤原)氏が熊襲の政権から皇位を取り戻した。

2025年6月11日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 天皇大倭根子2

  『伊未自由来記』に宇津志の奈賀は出雲から来て、美豆別之主と取って替わったと記述される。出雲は島根県ではなく若狭湾の出雲である。美豆別之主には幾多の部の民が配下にいたとされ、その中に久米物部も存在し、久米部は美豆別之主を祖神として祀った。『舊事本紀』に、高御産巣日と共に天降った物部氏(物部造の祖の天津麻良・築紫弦田物部の祖の天津赤星)には天物部達の二十五部が存在した。その中に久米物部を含み、この久米物部の首領の天津麻良の後裔に饒速日が存在したのだろう。奈賀の国()は於佐神が建国した土地、長門の須佐出身と考えられる流宮の加須屋大海祇の子と考えられる。

隠岐王は、宇都須山祇が加須屋大海祇の協力を得た宇津志の奈賀なので、大津の王と考えられる宇都須山祇(宇都志國玉)の子のようだ。根国の奈賀皇子、那賀須泥毘古はピタリと合致する名前だ。そして、天富の祖と関係が有りそうな、國忍富は八国野洲の姫と考えられる八河江比賣を妃にし、生まれた子は速甕之多氣佐波夜遲奴美と甕の人物、御炊屋姫も甕師木八姫と考えられる甕の姫である。

天富は『舊事本紀』「天富命於安房地之大玉命社謂安房社」とあるように、太玉を祀る神社()を安房に建てた。その神社が根国の宇迦能山本の底津石根に宮柱をもつ宮殿と考えられる。そして、子が宇都志の奈賀、宇都須山祇の後継の姫の婿が太玉の子と考えられる阿治志貴高日子根である。

阿治志貴高日子根は下照比賣の義兄、大国主(太玉)の子である。同じく宇都須山祇の分家の御炊屋姫で婿が饒速日、宇都志の奈賀の妃が阿治志貴高日子根の妹の丹波の須津姫である。丹波が現代の丹波か琵琶湖東岸の「たには」なのか不明である。

天若日子の妃の阿治志貴高日子根の伊呂妹の下光比賣は御上神社に祀られたと考えられる天照大神となる。天若日子は天津國玉の子とされるが、婿と考えられ、父は加須屋大海祇と考えられる。隠岐(食国)王になった那賀須泥毘古は妹の御炊屋姫の子の宇摩志麻治を大津の根を支配する足尼に賜姓して、政大夫とした。

すなわち、足尼というのは、食国に代わって根(国神)を治める(たらす)人物で、神武朝の時の足尼は宇摩志麻治だった。神を治める足尼と統治する尼の一人である神武天皇(鞴五十鈴)の傍で実際に統治するのが政大夫である。「衣冠帶劍」の君子国の神武天皇と「冠帶」の周饒国の隠岐だ。

2025年6月9日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 天皇大倭根子1

「根子」の「ね」の最初の記述は豐秋津島が根別だとの記述である。豊国の安芸が根国の分国だと述べている。天一根は恐らく宇摩志阿斯訶備比古遲の出身地で、天比登都柱と対と考えられ、その後、根国は「妣國根之堅洲國」と記述された。五島列島の女島・天一根から遣ってきて、壱岐を岩根に建てた柱と考え、壱岐を起点に国を生んだ。阿斯訶備比古遲は子ではないことにした淡嶋近江の伊邪那岐の王朝がその説話を奪った。それは、隠岐から近江に入って来たと考えられる。

父が多賀の出身なのだから、母も同じ近江、堅洲国は堅田のことだろう。そして、天照大神が生んだことになっているが、実際は狹霧から生まれた天子の根国王、それが凡川内國造の祖の天津日子根や活津日子根なのだろう。宇都志國玉(国王)を大国主と呼び、根国の宇迦能山本の底津石根に宮柱を建てた。宇津氏の王は宇治川の津氏(氏は嶋の「シ」)の意味だろう。そこの女王は狹霧の娘の遠津待根の可能性が高い。

宇都志國玉は大津の國玉、すなわち、天津國玉を意味する。天津日子根の子孫が淡海の忌部の祖の伊勢國造の天日鷲(天照大神を祀る日輪氏)、太玉は活津日子根なのだろうか。事代主の妃が活玉依(玉櫛)姫で、太玉と活津が無関係とは思えない。多紀理毘賣を妃にした太玉(大国主)の子は大宮賣と豊磐間戸と櫛磐間戸、櫛磐間戸は天日方奇日方を生む事代主、豊磐間戸が建御名方、大宮賣が下光比賣だろうか。『舊事本紀』に「娶大國玉神女下照姫」と記述され、下照姫は『古事記』「大國主神之女下照比賣」と大國主の娘なので、大國玉は大国主(太玉)である。

忌部の祖の太玉を祀る神社を安房に立てた天富、勿論、太玉の神社なのだから、安房は淡海の「あは」である。天富は忌部を含む諸齋部を率いて神武天皇の即位に協力した、忌部の上位者で饒速日の義兄の登美能那賀須泥毘古と考えられる。諸齋部の中に物部が含まれ、()富の那賀須泥毘古の妹が御炊屋姫だから、そして、那賀須泥毘古が食国王だから、食国王の妹の子の宇摩志麻治が政大夫になれた。

2025年6月6日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 天皇根子1

  「根子」の「ね」の最初の記述は豐秋津島が根別だとの記述である。豊国の安芸が根国の分国だと述べている。天一根は恐らく宇摩志阿斯訶備比古遲の出身地で、天比登都柱と対と考えられ、その後、根国は「妣國根之堅洲國」と記述された。五島列島の女島・天一根から遣ってきて、壱岐を岩根に建てた柱と考え、壱岐を起点に国を生んだ。阿斯訶備比古遲は子ではないことにした淡嶋近江の伊邪那岐の王朝がその説話を奪った。それは、隠岐から近江に入って来たと考えられる。

父が多賀の出身なのだから、母も同じ近江、堅洲国は堅田のことだろう。そして、天照大神が生んだことになっているが、実際は狹霧から生まれた天子の根国王、それが凡川内國造の祖の天津日子根や活津日子根なのだろう。宇都志國玉(国王)を大国主と呼び、根国の宇迦能山本の底津石根に宮柱を建てた。宇津氏の王は宇治川の津氏(氏は嶋の「シ」)の意味だろう。そこの女王は狹霧の娘の遠津待根の可能性が高い。

宇都志國玉は大津の國玉、すなわち、天津國玉を意味する。天津日子根の子孫が淡海の忌部の祖の伊勢國造の天日鷲(天照大神を祀る日輪氏)、太玉は活津日子根なのだろうか。事代主の妃が活玉依(玉櫛)姫で、太玉と活津が無関係とは思えない。多紀理毘賣を妃にした太玉(大国主)の子は大宮賣と豊磐間戸と櫛磐間戸、櫛磐間戸は天日方奇日方を生む事代主、豊磐間戸が建御名方、大宮賣が下光比賣だろうか。『舊事本紀』に「娶大國玉神女下照姫」と記述され、下照姫は『古事記』「大國主神之女下照比賣」と大國主の娘なので、大國玉は大国主(太玉)である。

忌部の祖の太玉を祀る神社を安房に立てた天富、勿論、太玉の神社なのだから、安房は淡海の「あは」である。天富は忌部を含む諸齋部を率いて神武天皇の即位に協力した、忌部の上位者で饒速日の義兄の登美能那賀須泥毘古と考えられる。諸齋部の中に物部が含まれ、()富の那賀須泥毘古の妹が御炊屋姫だから、そして、那賀須泥毘古が食国王だから、食国王の妹の子の宇摩志麻治が政大夫になれた。

2025年6月4日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話52 女国

  品陀眞若の娘の飯野眞黒比賣は須賣伊呂大中日子を生んだ。天皇は宇遲能和紀郎子で正月辛丑朔のある歳は309年、比布禮大臣の子の印葉が大臣・天皇になった。すなわち、印葉が矢河枝比賣を妃にした人物で、丸迩臣に政権を奪取された。

印葉は多遅麻の子なので五十功彦に当たり、妃は弟比賣である。弟比賣の娘の弟比賣眞若比賣の夫は若野毛二俣で忍坂大中津比賣を生む。しかし、忍坂大中津比賣を生むもう一人の迦具漏比賣が存在する。

息長眞若中比賣の姉の飯野眞黒比賣の子が須賣伊呂大中日子(額田大中日子)を生む。そして須賣伊呂大中日子の妃が迦具漏比賣で忍坂大中津比賣を生むが、忍坂大中津比賣の父は若野毛二俣である。従って、忍坂大中津比賣の夫の男淺津間若子が迦具漏比賣の子、忍坂大中津比賣は義子、迦具漏比賣は石之日賣と解る。

『古事記』では大雀が427年丁卯の歳の八月十五日に崩じたが、『舊事本紀』も「歳次丁卯秋八月十五日天皇大別崩」と同じ崩御日に記述される。『梁書』に宋大明二年458年記事に「流通佛法經像」、『日本書紀』に「難波大別王寺」とあるように、大別天皇は寺を持っていた。天皇大別とあるように、大雀は意乎巳、大雀を倒した大別は多遅麻の子なので、弟比賣の子である。

木菟と鷦鷯に「取其鳥名」と名を交換した。弟比賣の子に木之菟野郎女が存在し、大雀が婿入りし、木菟宿禰、すなわち、木國王になった。木國の紀武内宿祢が平群木兎宿祢と呼ばれ、名すなわち国を交換した。

宇遲能和紀郎子の妃が八田若郎女(おそらく、宇遲之若郎女)で大別が矢田部の姓を得た。矢河枝比賣が弟比賣で、大雀が姉妹の木之菟野郎女の婿なので、八田若郎女の後見人として、矢田部の姓を得た。皇子十三柱を統治したのが稚彦と従妹の毛良姫、この二名は若野毛二俣と其の母弟の百師木伊呂辨の兄妹はその名に相応しいい。百師木伊呂辨の姉妹は石之日賣、若野毛二俣は葦田宿禰・倭直吾子篭・倭國造の祖の比香賀君で、女国天皇だろう。

2025年6月2日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話51 弟比賣の終焉

  弟比賣の名の継承と同様に、眞若王・眞若比賣も継承された。師木縣主の祖の賦登麻和訶比賣と夫の鋤友と考えられる磯城縣主太眞稚彦が始まりである。師木は伊勢遺跡がある首都の地域だ。そして、穂積氏の祖の内色許男の妃の芹田真若姫、その母と考えられるのが春日の千千速眞若比賣である。内色許男の娘が比古布都押之信の母の先代の伊迦賀色許賣だ。そして、比古布都押之信と兄妹の伊迦賀色許賣の共通の孫の八坂之入日子と考えられる水之穗眞若、その子の山代之大筒木眞若と継承される。

伊那毘能若郎女の祖母と考えられるのが御眞津比賣の娘の伊邪能眞若だ。それを継承するのが穂積氏の祖の忍山宿禰と考えられる大碓と伊那毘能若郎女との娘の眞若比賣である。眞若比賣は尾綱真若刀婢の可能性が高い。刀婢は王の呼び名だろう。尾綱真若刀婢の子の品陀眞若、品陀眞若の娘の息長眞若中比賣と続く。

そして、息長眞若中比賣の弟と考えられる伊奢能麻和迦、伊奢能麻和迦と弟比賣との娘と考えられる弟日賣眞若比賣に繋がる。さらに、弟日賣眞若比賣の娘の弟比賣(田井中比賣)、その子と考えられる丸迩臣深目の娘の童女君の娘の春日大郎女の子の春日氏の眞若王(皇女)へと継承されたと考えられる。田井中比賣の娘も弟比賣か眞若比賣だが、その婿は誰だろうか。

反正天皇は五十琴宿祢と多遅麻の娘香兒媛との子の伊莒弗なのだろうか。伊莒弗の妃は倭國造の祖の比香賀君の娘の玉彦媛、子の布都久留・目は共に大連(天皇)になっている。すなわち、反正天皇の子は天皇になっていないので、反正天皇の義父の丸迩の許碁登が伊莒弗である。

難波朝時には比香賀君(若沼毛二俣)が近江の女國の天皇だったが、伊莒弗は難波から稚櫻宮に移り住んで、女國は弟比賣の婿が引き継いだと考えられる。許碁登の娘の子に都夫良郎女が存在し、都夫良大臣の妃と考えられ、弟比賣の夫は皇后黒比賣の兄弟の蟻臣だ。蟻臣の娘の荑媛が市辺押磐の妃でその子の袁祁・意祁が天皇になっている。

荑媛は恐らく財王と呼ばれ、春日大郎女の子に財郎女が存在する。世代的に蟻臣の娘の弟比賣が田井中比賣で、弟比賣は、『日本書紀』では衣通郎姫だが、『古事記』では輕大郎女が衣通郎女なので、輕大郎女である。弟比賣の夫は木梨之輕、意乎巳の兄弟の尾治弟彦の跡継ぎで允恭廿三年三月甲午朔庚子は434年ではなく、正しくは465年に、(三川)穂國造の葛木氏の菟上足尼によって、弟国は消滅したようだ。天照大神を豐鋤入日賣に託してから、八坂之入日子が伊勢麻績君に賜姓されて、尾張氏の弟国は六百年近く、そして、弟比賣も継承されたことになる。

2025年5月30日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話51 中比賣と弟比賣

  『舊事本紀』では五十琴姫は纏向日代宮天皇の皇妃で、纏向天皇は202年に纏向日代宮大連になった多遅麻である。すなわち、膽咋と比咩古の娘の五十琴姫は膽咋の()娘の清媛(河俣稻依毘賣)の子の多遲摩國造の祖の大多牟坂の妃である。

五十琴彦の娘の安媛が襲名した五十琴姫、それが神功皇后の世代である。比咩古は景行天皇の世代なので、五十琴姫は成務天皇の世代と神功皇后の世代の二世代の五十琴姫が存在する。従って、五十琴彦は初代五十琴姫の婿で、その娘の安媛が二代目五十琴姫で、その夫が多遅麻である。

多遅麻は宇遲能和紀郎子の母の宮主矢河枝比賣の父の丸迩の比布禮大臣で、子の印葉輕島明宮大臣の妃は竹古(品陀真若)の娘の弟比賣と証明した。その弟比賣の父の品陀真若の妃の金田屋野姫も弟比賣でなければ、弟比賣を継承できない。

『日本書紀』は弟比賣の父を河派仲彦と記述し、息長田別の子の品陀真若・咋俣長日子が河派仲彦、その娘が息長眞若中比賣と継承されている。息長眞若中比賣の夫は後の曾都毘古、若狭の気比の和訶奴氣で、角鹿気比大神を祀る笥飯宮の皇子である。和訶奴氣は熊襲梟帥から曾都毘古の名を引き継ぎ、仲国王の帯中日子、妃は息長眞若中比賣である。

息長眞若中比賣の子の若沼毛二俣が弟比賣の子の弟日賣眞若比賣を妃に忍坂大中津比賣や田井中比賣(弟比賣)を生んでいる。息長眞若中比賣の子の若沼毛二俣は、『古事記』の神武天皇の若御毛沼と似通った名である。妃が弟日賣眞若比賣で、若御毛沼は御食津大神と伊奢沙和氣大神の名を交換し、葛城の野伊呂賣に婿入りして伊奢能麻和迦と名を替えた可能性が高い。

葛城の伊呂賣が弟日賣眞若比賣と考えられ、大雀は高木之入日賣の子の伊奢之眞若で、息長眞若仲比賣の娘の石之日賣に婿入りし、子の伊邪本和氣が葛城葦田宿禰と葛城の伊呂賣との娘の伊奢能麻和迦・黒比賣に婿入りしたと考えられる。

2025年5月28日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話50 弟比賣の系譜

  弟比賣が同時に二人以上存在したので弟橘比賣と弟財郎女が存在した。二人の父の建忍山垂根の妃が弟比賣だったと考えられる。同様に、若野毛二俣の妃は、同世代に弟日賣が存在したので、弟日賣の娘の弟日賣眞若比賣であったように眞若比賣を付加して区別した。同じ難波朝の世代に二人の弟日賣が存在しては、区別できないからだ。兄と弟の区別なら、弟日賣と同数の兄日賣が存在するはずである。

息長帶比賣と杙俣長日子の娘の息長眞若中比賣の妹も、眞若中比賣の子の若野毛二俣の妃も、娘の忍坂大中比賣の妹も弟比賣である。すなわち、杙俣長日子の孫の若野毛二俣が杙俣長日子の娘の弟日賣を妃にしているが、これでは世代も系図も奇異である。

三川穂國造は曾都毘古の四世の孫が穂國造なので、曾都毘古の祖父、武内宿禰の父の屋主忍武雄心が三川穂國王と考えられる。すなわち、四世の孫まで、首都に含まれ、屋主忍武雄心の妃の山下影比賣は木國造の娘、兄弟が大荒田で、その妃の玉姫が弟比賣である。そして、その娘達が複数の弟比賣で、尾綱真若刀婢、金田屋野姫、弟橘比賣、弟財郎女だ。

若野毛二俣の義父も祖父も同一人物という矛盾に対して、もう一人、矛盾した人物が存在する。それは、兄弟の娘を妃にした五十琴彦で、膽咋の子である五十琴彦と膽咋の子の竹古の娘の弟比賣を五十琴彦が妃にして、世代に矛盾がある。おそらく、竹古の娘の夫は纏向皇妃の五十琴姫の子の五十琴彦と同音の五十功彦と考えられる。

すなわち、竹古は品陀真若、品陀真若の母の尾綱真若刀婢は乎止輿の子が大酒主、建稲種が大酒主である。建稲種の妃の玉姫が弟比賣、娘も弟比賣で()子の品夜和氣が品陀真若である。品陀真若の娘が弟比賣なのだから、妃が弟比賣でないと、辻褄が合わない。息長帯比賣は362年に薨ずる、後代の人物である。品夜和氣は野洲国王の分家で、金田屋野姫も野洲の姫、弟の大鞆和氣は大伴氏に繋がる人物なのだろう。

2025年5月26日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話49 同時に複数の弟比賣

  『日本書紀』には八坂之入日子の娘に弟媛が存在し、八坂之入日賣の娘にも弟姫が存在する。『古事記』では大根の娘が兄比賣(兄達子)と弟比賣(弟達子)とされ、兄比賣は伊那毘能若郎女の可能性が高く、子が眞若王(兄比賣)と婿の兄日子、すなわち、吉備兄日子が兄比賣に婿入りした日子人之大兄と考えられ、大中比賣の父である。

『日本書紀』の仲哀朝の妃にも大酒主の娘の弟比賣を妃に息長帶比賣が生んだはずの譽屋別を生んでいる。従って、弟比賣を生む葛城の高額比賣も弟比賣、八坂之入日賣の姉妹もその娘も弟比賣と考えられる。同時に弟比賣が複数人存在した時、弟伊那毘能若郎女、弟橘比賣、弟財郎女、弟日賣眞若比賣が存在する。従って、弟比賣の一人の高額比賣は神功皇后を生み、大酒主は建稲種で、その孫の品陀真若の妃が神功皇后(弟比賣)を妃に弟比賣を生んだ。同じ宮の姫は妾と呼び、『日本書紀』は八坂之入日賣の兄弟の大筒木眞若の妃を、『古事記』では大酒主の娘の弟比賣と神功皇后を同一人物と見做した。

建稲種の子が「玉姫爲妻生二男四女」とあるが、尾綱根、尾綱真若刀婢、金田屋野姫、の一男二女が記述されるだけなので、建稲種と尾綱根の間にもう一世代存在した。その間の世代が二代目建稲種と二人の弟比賣、弟橘比賣と弟財郎女であろう。建稲種の娘の尾綱真若刀婢の夫の五百木入日子と弟財郎女の夫の若帯日子と弟橘比賣の夫の倭建は太子、弟比賣の夫達が太子だった。

二人の弟比賣は同時に存在しない。すなわち、同時代に二人の弟媛が存在すると、橘比賣と財郎女と名を分けている。弟橘媛が高額比賣で葛木氏、その葛木氏の葛木国造の娘に武内宿祢の妃の葛比売が存在し、葛比売が弟財郎女と考えられる。そして、この葛木の娘は共に忍山の娘で、忍山は弟比賣(弟伊那毘能若郎女)を妃にした、大碓と考えられる。

2025年5月23日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話48 弟日賣の国

  咋俣長日子の子は飯野眞黒比賣と息長眞若中比賣と弟比賣である。弟比賣は同一世代に応神天皇妃が存在し、同一世代に同名の姫がいれば、どちらかに、識別できる接頭語が付かないと区別できず、付加されないので同一人物と考えられる。飯野眞黒比賣の子は須賣伊呂大中日子なので、この世代の皇太弟の大中日子は額田大中日子と考えられ、飯野眞黒比賣は高木之入日賣である。そして、飯野眞黒比賣の婿は尾綱根大臣と考えられる。大鞆和氣(品陀和氣)が中比賣の夫で、建内大臣の子の曾都毘古と考えられる。大伴(大鞆)氏日向襲津彦の娘婿だったことが解る名前だ。神功皇后は筑紫に進出して、大伴氏を日向に追い出し、仲国を支配したと考えられ、良く当て嵌まる。

咋俣長日子(品陀真若)の娘達にも矛盾がある。息長眞若中比賣の子の若野毛二俣は母弟の弟日賣眞若比賣を妃に忍坂大中津比賣を生み世代が違う。すなわち、『古事記』の弟比賣は一代ズレがあるようだ。応神天皇と迦具漏比賣の娘の忍坂大中比賣も記述されるが、これは景行天皇と迦具漏比賣の子が入り込んでいる。

若野毛二俣の母弟は弟日賣だが、弟日賣は大根の娘(『日本書紀』は八坂入日子)、大根は恐らく十市根の父、その娘の兄達子の婿が大碓、弟日賣は大荒田が婿で二代目大碓、孫が神功皇后、高国・仲国・弟国の女王で娘婿が杙俣長日子、その娘が弟比賣と引き継がれている。八坂入日子の娘の弟比賣は大筒木眞若の妃の義娘で、大筒木眞若は印色入日子の可能性が高い。高国は輕島(高島)、仲国は安芸(島根・広島・山口)、弟国は三上山近辺である。

弟比賣は息長水依比賣の子の多多須道主の娘が国に戻る途中に薨じた場所の名を弟国と名付けたことから始まった。多多須道主は丹波(タニワ)の河上の摩須郎女を妃にして、丹波の氏を持ったが、比婆須比賣の子も孫も、婿が入日子と、入国の王の名を持つので、息長氏の住む場所、御上神社を祀る三野が弟国と考えられる。忍坂大中津比賣の妹も弟姫で、「弟姫随母以在於近江坂田」と坂田に住んでいた。三野國造は輕嶋豊明朝の時に弟彦が國造になり、それ以前は首都の一部だったので、国造は存在しない。

2025年5月21日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話47 倭得玉彦と入日賣・入日子

  倭得玉彦の子には弟彦、弟彦は弟比賣の夫の大根、その娘婿も弟彦を襲名する、三野王の大筒木眞若である。すなわち、日女の婿は八坂之入日子の子の大筒木眞若と解った。弟国の唯の日女は弟日女だ。弟彦の子(娘婿)の大海部直の祖の淡夜別の子は初代の膽咋・倭建で、纏向ではなく野洲から穴穂に遷り、子が高穴穂天皇になった。玉勝山代根古は尾張大印岐、乎止輿の義父、五百木部連の祖の若都保は五百木入日子の父の十市根、五百木入日子の妃は尾綱真若刀婢で義父は初代の建稲種、実際は妹なのだろう。

置津與曽(置部與曽)の子の筑紫豊國國造の祖の大原足尼は木國造の宇豆彦道彦男と考えられる。置津與曽が木國造莵道彦、大原足尼の子の荒田彦が葛木に婿入りして葛木國造、娘の葛比売が襲津彦の母である。置津與曽は奧津余曾が支配した土地の王と考えられ、奧津余曾は葛木彦と呼ばれ、葛木國造は葛木彦でもある。彦與曽の子は甲斐國造の祖の大八椅なので、彦與曽は彦狹嶋、譽津別と沙本毘古の娘との子で、大八椅は御諸別と考えられる。大縫は大碓、すなわち、大荒田で小縫は比咩古の夫の膽咋・倭建なのだろう。実子も義子も全て兄弟に挿入されている。

ここで、奇妙なことが有る。建諸隅と意富阿麻比賣は兄弟なのに、意富阿麻比賣の子は入日子や入日賣の名に対し、建諸隅の子や孫は「別」である。「別」は淡道之穗之狹別の国から延々と袁祁之石巣別まで使用されている。しかし、「入」は御眞木入日子に始まり高木之入日賣を最後に現れない。すなわち、「別」れて「入」ではなく、「別」は分家、「入」は地名と考えられる。高木之入日賣は入邑から高島に遷った入邑の日賣を意味する。

野洲に入町が存在し、近江富士・三上山があり、三上は三野の神、八坂之入日子は伊勢神麻績、三野国の領主である。三上山には孝霊天皇の時に創建したという御上神社があり、前代の孝安天皇は尾張氏の朝廷で、尾張氏の神を祀ったと考えられる。祭神は天之御影、娘婿は美知能宇斯、御眞木入日子は兄弟だった。

2025年5月19日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話46 木國の王

  木國造の跡取りの弟比賣の婿の大荒田は木國造莵道彦の娘婿で、屋主忍武雄心の義兄弟だ。莵道彦の子は武内宿禰の義父の木國造の宇豆彦道彦男と葛城国造の荒田彦で、宇豆彦道彦男が大荒田、大津、宇治道、丹波道の王のようだ。荒田彦の娘は葛比売と葛城の高額比賣、葛城は大津の葛川、志賀高穴穂の近辺なので、首都近傍に住む姫だ。

葛城国造は高穴穂から徳勒津宮に遷都してから賜姓されたようだ。首都を含む地域の国造は天皇になってしまう。宇豆彦道彦男は武内宿禰の父の野洲の王の屋主忍武雄心妃の山下影日賣の兄妹で、木國造の莵道彦の子、屋主忍武雄の父の比古布都押之信の妃は木國造の祖の宇豆比古の妹なので、屋主忍武雄心とは従妹、木國造の莵道彦が木國造の賜姓前に妃にした。

葛比売の娘婿が若帯日子、高額比賣の婿とされる息長宿禰の兄弟で、倭建の子供である。高額比賣の娘の息長帶比賣の夫が品陀真若なので、息長帶比賣(金田屋野姫)の母は襲名した玉姫、すなわち、父の世代的に初代息長宿禰は建稲種ということになる。稲依別が二代目息長宿禰である。

五百木之入日子は師木縣主の祖なので徳勒津宮天皇、すなわち、阿波君(近江王)の祖の息長田別である。そして、子の品陀真若の妃の息長帶比賣は坂田宮伊勢斎王禊祓所の女王、近江の王である。君や王と呼ばれるのは同世代で天皇だった人物、一世代60年三代の天皇が存在する。

品陀真若には高城入姫、仲姫、弟姫という娘がいて、息長田別の子の杙俣長日子の娘も飯野眞黒比賣、(息長眞若)中比賣、弟比賣が記述される。飯野眞黒比賣の子は須賣伊呂大中日子、高城入姫の子も額田大中日子で、飯野眞黒比賣と高城入姫は同一人物である。息長眞若中比賣も品陀真若の真若、息長帶比賣の息長を引き継いでいる。飯野眞黒比賣・高城入姫の夫は譽田天皇、すなわち、輕島明宮大臣尾綱根である。尾綱根の太子の須賣伊呂大中日子(尾治弟彦)は即位できず、義兄の宇遲能和紀郎子に皇位を奪われた。宇遲能和紀郎子が嶋豐明宮大臣(大連)の印葉である。

2025年5月16日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話45 忍山宿祢の娘の弟媛の子

  穗積氏の祖の忍山宿祢の娘の弟媛の子は、義兄弟も含めて9柱の子達が存在する。稚武彦、稻入別、武養蝅、葦敢竈見別、息長田別、五十日彦、伊賀彦、武田、佐伯の皇子である。まず、弟橘比賣の子とされる河俣稻依(稻入別)と夫の稚武彦が存在する。また、弟財郎女の子とされる波多臣の祖の武養蝅は若帯日子、玉姫の婿と考えられる阿波君の祖、阿波君は近江王を意味し、その祖の息長田別である。

讃岐君の祖の五十日彦は來熊田造の祖の大酒主の娘の山代の玖玖麻毛理比賣(弟比賣)の子で五十琴彦、伊賀彦は五十琴宿祢だろう。息長田別の子は杙俣長日子、その娘が飯野眞黒比賣、その子が額田大中日子と考えられ、息長田別は五百木之入日子だろう。

尾張國丹羽建部君の祖の武田は迩波縣君の祖の大荒田の娘の玉姫の婿の建稲種の子の尾綱根に当たるのだろう。 

大酒主は大印岐の娘の真敷刀俾の婿の乎止輿の子の建稲種と玉姫の娘との婿の志紀縣主の祖の印岐美と考えられる。また、参川御使連の祖の佐伯は三川穂国造の美己止直の妹の伊佐姫の婿と考えられる。初代膽咋の嫁である。

高穴穂宮も徳勒津宮も琵琶湖南部の師木縣主の祖の印岐美の宮で、五百木之入日子が高穴穂宮の太子だったので、印岐美が五百木之入日子と言える。そして、息長田別も近江王の祖、琵琶湖全体の王の祖で同一人物である。

仲哀天皇が徳勒津宮天皇で、神功皇后は伊勢國の五十鈴宮を祀り、齋宮で過ごした。伊勢遺跡近くに、坂田宮伊勢斎王禊祓所跡がある。そして、その後、輕島明宮大臣が近江の天皇となる。すなわち、高穴穂天皇は二代目膽咋、太子の五百木之入日子が徳勒津宮、子の品陀真若の妃の金田屋野姫が坂田宮伊勢斎王禊祓所の女王、尾綱根が輕島明宮大臣である。

膽咋は穴太足尼の娘の比咩古(布多遲毘賣)を妃に二代目膽咋大臣を生み、妃は鴨姫、大玉(大国王大碓)の娘である。穴穂天皇の十市根の子の五百木之入日子の妃は大碓の娘の玉姫の娘の尾綱真若刀婢だった。そして、五百木之入日子の子の品陀真若の妃が金田屋野姫、神功皇后だった。

2025年5月14日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話44 木國造

  木國造を最初に賜姓されたのは『舊事本紀』では天道根だった。紀伊國造と記述されるが、天道根は神武天皇に賜姓されているので、紀伊国は和泉県でまだなく、木國のことである。『古事記』は宇豆比古、『日本書紀』は珍彦を倭國造と記述した。『日本書紀』は倭國と大倭國を区別しているので、倭國は九州の倭国の可能性が高い。

『古事記』は宇豆比古を木國造の祖の義子の建内宿禰、『紀氏家牒』は紀伊国造莵道彦の義子の紀武内宿祢である。すなわち、木國の大臣の建内宿禰が山代の紀里に遷都して、珍彦は宇豆、すなわち大津で木國造になったことを示す。珍彦は建内宿禰と共に紀伊國の徳勒津宮を下し、紀建内宿禰、曲浦の九州倭國造の丸迩君の珍彦が木國造になった。品陀和気(襲津彦)は仲国王なのだから、葛城は葛川の葛木の可能性が高く、葛比売は葛城國造の荒田彦の娘、その頃、木國造は宇豆彦道彦と大津から宇治川沿いの王なので、葛川近辺に葛木國が有っても不思議ではない。その北部が高島の安曇川沿いの「しこぶちさん」を信仰する輕島明宮がある朝廷の国である。

木國造は天道根の娘の天道日女(?天照大神)、そして、天照大神を祀る伊勢幡主(伊勢神麻績連の祖は八坂彦)と引き継がれたと考えられる。伊勢主の娘の賀貝呂姫の子の豊御氣主の妃が紀伊名草姫なので、豊御氣主が伊勢幡主の義子、伊勢幡主の跡取り娘の夫が木國造の智名曽、孫が倭國曲浦王の和迩君なのだろう。

建斗禾の妃が智名曽の妹の中名草姫で、子に建手和迩が存在する。木國造の後継者の城嶋連の祖の節名草姫の夫が建宇那比であり、無関係とは言えない。名草姫の草は草津を意味していると考えられ、城嶋連の祖というのは木國の王の祖を意味し、娘の宇那比姫が跡取りで、夫は比古布都押之信(伊迦賀色許男)で、子が山代の内臣の祖の味師内宿禰である。伊迦賀色許男の妃は山代縣主の祖の長溝の娘を代々妃にしている。長溝が味師内宿禰と考えられ、従妹同士の婚姻だ。

木國造の荒河刀辨は伊勢大神を託された豐鋤入日賣の祖父なので、建宇那比(竟富那毘)のようだ。これらは、山代内臣や山代縣主の祖で、木國から後に山代に婿入りする。そして、後の河内に住む志幾の大縣主に繋がると考えられる。

山代大國の淵の娘の苅羽田刀辨が存在するが、日子坐の妃の山代の苅幡戸辨(荏名津比賣)と同名なので、その跡取り娘と考えられるのが苅羽田刀辨と綺戸邊なのだろう。娘婿は倭者師木登美豐朝倉の王の曙立の父の大俣と當麻の勾君の祖の小俣である。當麻君は稻依毘賣の子の大多牟坂、曙立は豐木入日子の子、品牟都和氣が婿入りした可能性が高い。

2025年5月12日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話43 忍山宿祢の娘の弟媛達

『舊事本紀』では、倭建の妃の中に穗積氏の祖の忍山宿祢の娘の弟媛が存在し、『日本書紀』は穗積氏の祖の忍山宿禰の娘の弟橘媛、『古事記』には穗積臣の祖の建忍山垂根の娘の弟財郎女が存在する。忍山宿禰は迩波縣君の祖の建氏でない大荒田で、娘婿の建氏の稲種が建忍山垂根と考えられる。

弟媛や弟財郎女の「弟」は弟国の姫の意味で、建稲種は2代程度存在し、世代としては1世代なので、二人の弟比賣を区別するため、2つの名が必要だったのだろうか。五百木之入日子を婿に迎え入れるまでは宿祢すなわち唯の王で、品陀真若を婿に迎え入れた時は垂根すなわち天皇の隣にいる。

五百木之入日子は尾綱真若刀婢の婿なのだから、子の品陀真若は母の兄の子の婿になる。建稲種の娘の尾綱真若刀婢の婿は五百木之入日子、建稲種の孫が品陀真若、妃は孫同士の金田屋野姫で、その娘の高木之入日賣の婿が建忍山垂根の子(曾孫)の尾綱根大臣である。

『古事記』の弟財郎女の夫の若帯日子は末裔が355年に薨じる人物で、和訶奴氣は394年に薨じる荒田彦の娘の葛比売の子の襲津彦である。建内宿禰の妃には宇豆彦道彦の娘の宇乃媛も存在するが、その妃は紀国の姫で、一世代後である。

建内宿禰は200年頃に木国から山背の紀里に移住し、宇乃媛は木國造の娘だった。葛比売は葛木國造の娘なので、山代移住前、安曇川や葛川近辺の葛木國造の娘を妃にして、その後に山代の平群の王となったと考えられる。201年に宇治川で麛坂王と戦い、山代を奪った可能性が高い。

他に父母が誰か記述しない弟橘比賣が存在するが、弟橘比賣の子が若建で若建は須賣伊呂大中日子を生んで、十市根の父となり矛盾する。正しくは、『舊事本紀』の若建は布多遲比賣の子で近江建部君の祖なので、十市根の娘の布多遲比賣の子が近江朝の皇太弟大中日子である。

弟比賣の子にも、武部君の祖の稚武彦が存在し、布多遲比賣の子の若建と同一人物である。また、布多遲比賣の子の稻依別と弟媛の子の稻入別も同一人物である。実子と義子の違いだ。そして、稚武彦の兄弟に丹羽建部君の祖の武田が存在し、迩波縣君の祖の大荒田(忍山宿禰)の娘の弟媛の子に当たることが解る。

2025年5月9日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話42 大碓と小碓

  武内宿禰が成務三年に就位した大臣の時の纏向宮皇后は五十琴姫、母の初代の穴太へ遷る前の膽咋の妃が比咩古だ。128~190年の間の「居志賀三歳」からの高穴穂朝時の纏向女王は比咩古と呼ばれたと考えられる。『三国史記』の173年、「阿達羅尼師今・・・二十年 夏五月 倭女王卑彌乎遣使來聘」や『後漢書』の189年以降の「桓・靈閒 倭國大亂・・・有一女子名曰卑彌呼」は、この比咩古を大倭女王の卑弥呼と理解した可能性が高い。200年頃から壹国を実際に統治していたのは『日本書紀』「一國之魁帥(?206年)の夏磯姫である。

すなわち、『日本書紀』は神功皇后、『舊事本紀』は比咩古を卑弥呼と想定した可能性が高い。それに対して、『古事記』の息長帯日売は382年の薨で、想定していないし、卑弥呼は記述されない。成務三年に武内宿禰が分朝廷を開くように、初代の膽咋は短命で、纏向に残った比咩古が統治したのだろう。比咩古を引き継いだ天皇の武諸遇の皇妃は穗積氏の祖の忍山宿祢の娘の弟媛、山代の紀の止己呂姫(五十琴姫・清媛)で、子は大中比賣、婿が讃岐君の祖の五十日彦(五十功彦・多遅麻)と考えられる。多遅麻は山代から纏向へ202年に遷都している。

讃岐君は伊久米伊理毘古の義父と考えられる大筒木垂根の弟の讚岐垂根が祖で、大帯日子の祖と考えられた。讚岐垂根は伊那毘能大郎女を妃にした大帯日子、子の大碓は大筒木垂根(大根)の娘の兄比賣(伊那毘能若郎女)を妃にした。叔父の大筒木垂根の妃は弟比賣の沼羽田之入毘賣すなわち苅羽田刀辨で、その娘の弟比賣を妃にしたのが、2代目の大碓の大荒田である。

穗積臣の祖は内色許男、娘の伊迦賀色許賣で夫は大綜杵(日子寤間)、日子寤間の兄弟が若日子建吉備津日子である。大綜杵の娘は伊迦賀色許賣、伊迦賀色許賣の子が御真木入日子で妃が若日子建吉備津日子の娘の針間之伊那毘能大郎女だった。日子寤間は針間牛鹿臣の祖なので、無関係とは言えない。『舊事本紀』は倭建の妃を苅羽田刀辨の娘の布多遲能伊理毘賣、吉備武彦の娘の吉備穴戸武姫、忍山宿祢の娘の弟媛と記述する。

2025年5月7日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話41 大碓

高穴穂宮天皇は十市根、その太子は五百木之入日子だが、娘婿の成務天皇(膽咋)が即位した。初代の膽咋は十市根の娘の比咩古の婿、天皇に即位した2代目の膽咋は鴨姫の婿で、初代が倭建ある。

ところが、『日本書紀』では、八坂之入日賣の()妹の大根の娘の兄比賣・弟比賣を妃にしたのが大碓、小碓(倭建)は八坂之入日賣の兄弟の大筒木眞若の子で、妃は八坂之入日賣と同年代の布多遲能伊理毘賣である。すなわち、『日本書紀』の前提は大碓が父の大帯日子の兄弟になり矛盾する。

倭建の記事が『古事記』・『日本書紀』は景行朝、『舊事本紀』は成務朝に記述され、小碓は高穴穂宮の天皇の時代の資料だったことを示している。世代から考えると、穴穂宮太子の倭建は布多遲能伊理毘賣の娘の布多遲毘賣に婿入りした。大碓と小碓は兄弟と記述しているのだから、小碓は大筒木眞若と弟比賣(妾の子)の子、すると、大碓は妾の子の弟比賣と兄比賣の婿となる。

しかし、大碓は大根の娘婿なのだから、初代大碓が大根の娘の兄()比賣、2代目の大碓が大根の娘の弟()比賣の娘の弟比賣に婿入りしたと考えれば合致する。そして、小碓と布多遲毘賣の子は大碓の娘の弟比賣を妃にした。この弟比賣は穗積氏の祖の忍山宿祢の娘、すなわち、2代目の大碓は乎止輿か大荒田である。

また、布多遲毘賣の子は仲哀天皇、そして、仲哀天皇の妃は大中津比賣、その父は『日本書紀』が伊那毘能若郎女の子の日子人之大兄、『古事記』が迦具漏比賣の子の大枝だ。すなわち、伊那毘能若郎女と迦具漏比賣は同一人物である。大江は庶妹の銀王を妃に大中比賣を生むので、大碓の妃の兄()比賣の子の日子人之大兄が母の妹の弟()比賣、実際は弟()比賣の娘の弟比賣に婿入りした。すなわち、大碓は大荒田だった。

2025年5月5日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話40 穴穂宮の三太子

  応神天皇の立太子の神功3年は間違いの日干支で234年が正しく、膽咋と比咩古の子の五十琴宿祢が大連に就位した説話だ。しかし、膽咋の妃は他にも存在するので、膽咋の妃の比咩古以降の3妃は2代目膽咋の義兄弟の妃の説明と考えられる。妃が変われば、宮も姓も変わる。伊迦賀色許男や建諸隅の宮は娘が継承して、婿が名を引き継ぐ。比咩古は穴太足尼の娘で、穴太天皇十市根の娘、安國造の祖の意富多牟和氣の娘の布多遲比賣である。

膽咋の妃の鴨姫の父の「あと」の建部君の祖の大玉は名前から玉姫の父の迩波縣君の祖の大荒田と考えられる。『舊事本紀』には穗積氏の祖の忍山宿祢の娘の弟媛の子に尾張國丹羽建部君の祖の武田王が記述される。すなわち、鴨姫の子、若しくは、兄弟が建部君の祖の稻依別、『舊事本紀』は蘰連の祖の竺志を当てているようだ。筑紫は天種子が攻めているので、その稻や種の文字を名前に持つ建稲種、その妃の玉姫や鴨姫の姉妹が稻依毘賣で夫が息長宿禰、太子の2代目の倭建と想定できる。

稻依毘賣の子は多遲摩國造の祖の大多牟坂で、その子の舩穗足尼が高穴穂朝の多遲摩國造である。多遅麻は纏向宮大連(神功摂政元年に大連・天皇になった)なので吉備風治國造と同祖の多遅麻君と呼ばれ、多遲摩國造の祖の多遅麻は師木出身の丹波・但馬・仲国を支配領域にして、倭と共に新羅を攻めたようだ。

次の妃の伊佐姫の兄の三川穂國造は、後に、葛城襲津彦の四世孫の菟上足尼が賜姓されている。すなわち、同じく太子であった、若帯日子(建内宿禰)と考えられる。三川穂國造の美巳止直は忍山宿祢の娘の弟媛の子の参川御使連の祖の佐伯が考えられる。現代の三河の國造は出雲臣の五世孫の知波夜なので、美巳止直の三川穂國は大根が国造の祖である三野穂國、長浜近辺である。若帯日子は角鹿笥飯宮朝大臣と考えられる。

 宇太笠間連の祖の大幹の娘の止己呂姫は宇太にいた女鳥姫の親の山無媛・宮主矢河枝比賣の家系である。止己呂姫は紀國(木国)の徳勒津宮の比賣、皇后である。建内宿禰は200年頃、大中比賣の子の香坂を滅ぼして平群県紀里に移住している。

2025年5月2日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話39 大荒田の姫の王朝

  太子の名を負った三柱の内、五百木之入日子、若帯日子は忍山宿祢(垂根)の娘婿だった。忍山宿祢は迩波縣君の祖の大荒田で娘の玉姫の婿の建稲種が後継者である。建稲種は葛木に婿入りした葛木縣主荒田彦で、琵琶湖南部木国に住み、木国は首都なので、垂根、木國造の祖の宇豆比古(大津)と呼ばれ、その娘が弟財郎女である。

若帯日子(武内宿禰)は葛比売を妃に子が襲津彦宿祢の和訶奴氣である。『古事記』の神武天皇の若御毛沼と和訶奴氣は類似した同じ地域の名前だ。成務元年131年、膽咋宿祢が大臣すなわち、高穴穂宮の皇位に就き、高穴穂宮3年には武内宿禰が大臣になり、分朝廷を開いた。『紀氏家牒』によると、武内宿禰の妃は紀伊国造宇豆彦道彦の娘なので、木國造の祖の宇豆比古は『紀氏家牒』では木國造宇豆彦道彦と呼ばれた。宇豆比古は垂根、十市根を継承する天皇に準ずる人物だった。

武内宿禰は仁徳朝以降「曰」で記述されているので、応神九年の味師内宿禰との争いまでは襲名されているようだ。応神十六年285年に平群木菟宿禰が登場しているので、武内宿禰がこの頃、木菟宿禰の後ろ盾の丸迩氏の比布禮大臣に敗れたようだ。

武内宿禰は「歴事六代君」と開化、崇神、垂仁、景行、政務、仲哀の6代の天皇に200年頃まで仕えた。その後、山代の平群県紀里へ、「凡春秋二百八十余歳家大倭国葛城県」とあるように、春秋280回、つまり約140年にわたって大和葛城縣に340年頃まで居住したと考えられる。妃が葛城国造の娘の葛比売なので合致する。

応神三十年は干支が間違っているので正しくは応神四十年に印葉(菟道稚郎子)が大臣になっているので、尾張氏も紀里の木菟宿禰を頼ったのだろう。応神朝大臣は尾綱根なので、膽咋が高穴穂宮成務天皇で、子(跡取りの姫)が居なかったので、五百木之入日子の子の品陀真若が皇位を継承し、娘の高木之入日賣の婿の尾綱根が天皇(大臣)になった。

3柱の太子を負った、襲名した五百木之入日子(品陀眞若)は輕島明宮の天皇、若帯日子は木国の大臣で、倭建は娘婿が比布禮大臣、孫娘が宮主矢河枝比賣、その子が妹の毛良姫の婿の宇遲能和紀郎子(印葉大臣)で、木津から大津の宇道の大臣だろう。稚彦連・談は額田大中日子と考えられ、高穴穂の太子は大荒田の姫達の王朝の婿だった。

2025年4月30日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話38 眞若王

高穴穂宮世代以降の眞若王は、五百木之入日子と尾綱真若刀婢の子の品陀眞若、応神天皇妃の息長眞若中比賣、応神天皇の皇子の伊奢能麻和迦、応神天皇の子の若野毛二俣の妃の弟日賣眞若比賣と継承された。これらの眞若は全て地名付きの眞若で、同時代に、複数の眞若が存在したことを意味し、同時代の眞若は親子や兄弟、姉妹が想定される。尾綱根は品陀眞若から「奉久三口」と品陀眞若の娘達を奉じなさいと『舊事本紀』は記述する。

内色許男の妃の真稚姫は、穴穂宮太子の五百木之入日子の妃の尾綱真若刀婢が眞若比賣を継承した。すなわち、その父の建稲種の妃の大荒田の娘の玉姫も眞若比賣、母の大荒田の妃も眞若比賣と考えられ、伊迦賀色許男の姉妹の伊迦賀色許賣を継承していることになる。伊迦賀色許賣の娘は日子坐の妃の山代荏名津比賣(苅幡戸辨)は良く合致しそうで、その娘も苅羽田刀辨で、穂積臣の祖を引き継ぐ大荒田の妃だろう。

比古布都押之信の父は葛木垂見(足神)、すなわち、葛󠄀木直祖の葛木天皇(大諸見足尼)で、その娘が建諸隅の妃の諸見巳姫である。建諸隅の父建宇那比には二男、建諸隅以外にもう一柱の皇子が存在し、それが、葛木垂見の娘の鸇比賣を妃にした可能性が高い。鸇比賣の子が建豐波豆羅和氣で、丹波竹野別の祖である。

すなわち、竹野比賣の子の比古由牟須美、その義姉妹が日子坐の妃の苅幡戸辨(荏名津比賣)、その娘が苅羽田刀辨だろう。苅羽田刀辨の婿が、丹波竹野別の祖の建豐波豆羅和氣、その子が大荒田ならば相応しい。苅羽田刀辨の子には五十日帯日子が存在し、伊迦賀色許賣の名を引き継いでいる。

御眞木入日子は輕境岡宮天皇の姫の賦登麻和訶比賣(太眞稚比賣)の子の御眞津日子の末裔で、「しこぶちさん」がある安曇川のある輕と呼ばれる地域の王だった。その地域には大荒比古神社が存在し、そこの王と考えられる大荒田の娘の玉姫の子が輕島明宮大臣だった。穂積氏の祖の内色許男も伊迦賀色許賣も「しこぶちさん」に無関係とは思えない。この地域に眞若比賣がいて、眞若王の出身地なのだろう。

2025年4月28日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話37 御真木入日子

  伊久米伊理毘古、大帯日子は共に分家、その本家の御真木入日子は戊寅年318年12月に崩じたと『古事記』は記述する。319年から難波朝天皇は徴税を開始して権力を得、すなわち、御真木入日子は輕島明宮朝の天皇だったことを示す。最後の輕島明宮朝天皇が菟道稚郎子だったので、菟道稚郎子の崩御が318年12月だったということである。そして、若帯日子が後継者となる。

輕島明宮朝の大臣は尾綱根で妃は高木之入日女で、高木之入日女の父が品陀眞若、品陀眞若の父が穴穂宮太子の五百木之入日子である。それで、『舊事本紀』も『日本書紀』も輕島明宮朝の天皇を譽田天皇と呼び、五百木之入日子の分王朝で、その妃は尾綱真若刀婢である。すなわち、御真木入日子は八坂入日子・八坂入日賣・五百木之入日子・譽田の親子の王朝と解る。

御真木入日子は眞若王・眞若比賣の王朝である。伊久米伊理毘古は御真木入日子の姉妹の御眞津比賣の子とあるが、御眞津比賣の夫の比古由牟須美の子の大筒木垂根の娘の婿で、世代が異なる。御真木入日子は一世代前、垂仁朝が纏向と師木宮があった影響なのだろう。同様に世代にズレがあるのが、比古布都押之信の母の伊迦賀色許賣の父の穗積臣の祖の内色許男である。

内色許男の妃は芹田真稚姫(?千千速眞若比賣の娘)なので、伊迦賀色許賣は真稚姫でもある。比古由牟須美の子の2代目丹波道主の義兄弟に日子坐(伊迦賀色許男)の子の水之穗眞若(八坂之入日子)、その子が大筒木眞若だ。そして、伊迦賀色許賣の娘の御眞津比賣の娘に伊邪能眞若が存在する。そして、若建吉備津日子の娘(?)の伊那毘能若郎女の子に日子人之大兄の兄の眞若が存在する。眞若王は眞若比賣の子なので、眞若王の母が眞若比賣で、同時に複数の眞若王がいれば地名が付加される。

2025年4月25日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話36 大帯日子と伊久米伊理毘古

蝿伊呂杼の子の日子寤間と内色許男の娘の伊迦賀色許賣との子が比古布都押之信、姉妹が伊迦賀色許賣だ。日子寤間の兄弟の若日子建吉備津日子は同じく内色許男の兄弟の大吉備津日子と共(二柱相副)に吉備を得た。比古布都押之信の妃の高千那毘賣は、竟富那毘の義妹で、内色許賣の娘の倭迹迹姫と比定した。倭迹迹姫が『日本書紀』に「一云天皇母弟少彦男心」とあり、比古布都押之信(彦太忍信)の子は(忍武)雄心で、倭迹迹姫と少彦男心は一心同体だ。

少名日子建猪心を師木天皇の親の伊迦賀色許男・比古布都押之信としたが、少名日子は吉備小国王を意味する。すなわち、若日子建吉備津日子の子は伊迦賀色許男の姉妹と婚姻した。師木天皇の分家が御真木入日子、伊久米伊理毘古、大帯日子、その中の一人である大帯日子が若日子建吉備津日子の娘婿である。

垂仁妃は全て丹波道主の娘で、伊久米伊理毘古の妃は、大筒木垂根の娘の迦具夜比賣しか残っていない。大筒木垂根は比古由牟須美の子で、丹波道主の娘、おそらく、義娘の中の一人の婿である。名前から考えると、大根が大筒木垂根で娘の弟比賣の婿が大筒木眞若、兄比賣の婿が大碓だ。

大根は伊迦賀色許男の子で伊迦賀色許賣の娘婿、御真木入日子は伊迦賀色許賣の子、大帯日子の子(大碓)が大根の娘婿なので、大帯日子は大根と同世代の兄弟の可能性が高い。そして、迦具夜比賣は次の世代なので、迦具夜比賣の夫の伊久米伊理毘古は大帯日子の次の世代だ。すなわち、大碓が2代目の大帯日子と考えるべきで、大帯日子と伊久米伊理毘古が同世代になった。纒向珠城宮配下の王の大帯日子と師木玉垣宮配下の王の伊久米伊理毘古である。

大帯日子の妃は吉備臣の祖の()建吉備津日子の娘の伊那毘能大郎女である。小碓の妃の吉備武彦の娘の吉備穴戸武姫の子に讚岐綾君の祖の兒武卯王が存在し、吉備穴戸武姫は大帯日子の()娘に当り、孫が讚岐綾君の祖だ。大筒木垂根の兄弟に讚岐垂根が存在し、讚岐を支配した禰宜を意味し、讚岐垂根が大帯日子である。すなわち、御真木入日子の甥が伊久米伊理毘古と大帯日子で、伊久米伊理毘古と大帯日子は並行した宮の主である。このように、伊久米伊理毘古と大帯日子が御真木入日子の分家の為、伊久米伊理毘古と大帯日子の宮の崩御日が記述されない。

2025年4月23日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話35 武内宿禰

  建稲種は忍山宿祢で、その娘達は太子の妃だった。太子は五百木之入日子、若帯日子、倭建で、倭建は世代が前で、倭建の子とされる仲哀天皇の時に三つの首都があったので、倭建の子が他の太子と同世代である。従って、倭建が初代の膽咋、2代目の膽咋が大臣で、武内宿禰も大臣になった。同世代の五百木之入日子も建稲種の娘婿の尾綱根で、三代目の尾綱根が輕島明宮大臣・譽田天皇になった。

若帯日子の項で武内宿禰が大臣になったと記述するのだから、若帯日子が武内宿禰と考えるべきだろう。高穴穂宮の元年に膽咋が大臣になったのだから、高穴穂宮天皇は膽咋だったので、高穴穂宮に二人の大臣は不要だ。名が若帯日子なのだから角鹿笥飯宮が相当する。

武内宿禰は『日本書紀』によれば、屋主忍武雄心と紀伊國造の莵道彦の娘の山下影日賣との子で、『紀氏家牒』によれば、木國造の祖の宇豆比古(道彦)(山下)影日賣の兄にあたる。『古事記』は比古布都押之信と木國造の祖の宇豆比古の妹の山下影日賣の子と記述する。おそらく、比古布都押之信と竟富那毘の妹の高千那毘賣が味師内宿禰を生んだ。その味師内宿禰が木国(野洲)の紀伊國造の莵道彦、その娘が山下影日賣、その婿の屋主(野洲主)忍武雄心が武内宿禰・若帯日子を生んだ。すなわち、忍武雄心が木國造の祖の師木宮の天皇の伊迦賀色許男(日子坐)だった。

建稲種は五百木之入日子の義父で、五百木之入日子の子の品陀眞若の義父でもあり、輕島明宮大臣の父でもある。そして、『紀氏家牒』に「山下影媛居地同名紀里」とあるように、紀伊國造の宇豆彦道彦男が倭国平群県紀里に移住して、武内宿禰がその娘の宇乃媛に婿入りし、紀武内宿禰と呼ばれた。

これが、200年頃である。紀伊國造の宇豆彦道彦男が平群に移住する前、名前のとおり、宇津から木津にまたがる宇道の国造りだった。その頃の武内宿禰が徳勒津宮、紀伊國山代の内の大臣になり、宇乃媛の兄弟の葛城国造荒田彦、その娘の葛比売を妃に襲津彦が生まれたと考えられる。すなわち、『古事記』の忍山垂根は紀伊國造の宇豆彦道彦男、弟財郎女は宇乃媛だった。建稲種は大荒田や膽咋と同世代の忍山垂根だった。

2025年4月21日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話34 忍山垂根の娘婿の建部

  太子の一人の五百木之入日子の妃は尾綱根の妹とする尾綱真若刀婢で、義父が建稲種、義母が迩波縣君の祖の大荒田の娘の玉姫である。迩波縣君は建部君なので、玉姫の父の大荒田が建部君の祖の大玉(大国王)ならば良く合致し、大玉の娘の一人が稻依毘賣、夫が息長宿禰である。

初出の建部君の祖が大玉で、その後の建氏は倭建や若帶日子の義父の建忍山垂根なので、大玉は建忍山垂根と考えられる。忍山垂根は穴太足尼の後継者、宗教上の最上位者で、弟比賣の婿と考えられる。

五百木之入日子は建稲種の娘婿なので、初代の尾綱根の可能性が高く、子の品陀真若も襲名して、建稲種の孫の金田屋野姫を妃にした。五百木之入日子は高穴穂宮での名で、尾綱根は輕島明宮での名、品陀眞若が神功皇后の笥飯宮か小竹宮での名前だ。長女が継承すれば名が変わらず、次女や男子が継承すれば名が替わる。

布多遲(能伊理)毘賣は倭建の妃なので、倭建は高穴穂宮天皇の娘婿と解った。景行朝の時、景行天皇が穴穂に逃げているように、既に高穴穂宮が存在し、穴太足尼が十市根高穴穂宮天皇だった。この時期の高穴穂宮太子が娘婿の倭建で、倭建薨去後の131年に、膽咋大臣が継いだ。そして、建忍山垂根の娘の弟財郎女の婿も太子若帯日子と呼ばれ、成務三年大臣になった木国造の娘の宇乃媛の婿の建内宿禰と考えられる。

倭建は同じ高穴穂宮太子でも、景行朝と並立した穴太宮朝の太子だったと考えられる。倭建が『舊事本紀』には成務朝に、『日本書紀』や『古事記』では景行朝に記述される理由である。景行五十二年に伊那毘能大郎女が薨じ、八坂之入日賣が皇后になっているが、八坂之入日賣の家系が纏向宮天皇になったことを示すと考えられる。それが、膽咋宿祢と八坂之入日賣の娘の比咩古、その娘の清媛が皇后、天皇は物部武諸遇である。纏向宮天皇は子(義子)の多遅麻によって、240年頃まで存在した。

2025年4月18日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話33 建稲種

建稲種は乎止与と大印岐の娘の子で、乎止与は迦迩米雷、大印岐の娘は布多遲毘賣と考えられる。『舊事本紀』は布多遲能伊理毘賣を稻別と記述し、布多遲能伊理毘賣を倭建の妃とするが、世代的に布多遲毘賣が倭建の妃で、布多遲毘賣が稻別と考えられる。

沙本毘古の妃と考えられる阿邪美能伊理毘賣の娘の稻城の姫の阿邪美都比賣が布多遲能伊理毘賣と考えられ、稻比賣と呼ばれるべき人物だ。稻城が燃えて、娘の布多遲毘賣が稻別なら相応しい。その婿が迦迩米雷(稻別王)である。その子の息長宿禰が稻城の本家の山代の相樂近辺を領有する淵の娘の苅羽田刀辨の分家の綺戸邊の姫の稻依毘賣に婿入りした。

荒河刀辨の子と考えられる大國の淵、その娘の苅羽田刀辨の子は落別王と五十日帶日子、荒河刀辨の孫の沼羽田之入毘賣の子にも伊賀帶日子が存在し、苅羽田刀辨も沼羽田之入毘賣も木國の姫達だ。従って、見る氏族による別の名で、同一人物と考えられる。すると、石衝別の母の綺戸邊は同じく弟國に住む荒河刀辨の孫の比婆須比賣の子の可能性が高い。

大筒木眞若は弟比賣を妃に弟比賣を生み、『日本書紀』は八坂之入日賣の子に弟比賣を含むのだから、従妹同士が婚姻したことを示す。一世代60年なのだから、婚姻し合えば兄弟だ。子には、皇太子の若帶日子、五百木之入日子等が存在し、若帶日子の妃は建忍山垂根の娘の弟財郎女である。五百木之入日子の妃は建稲種の娘、もう一人の太子の倭建の妃は忍山宿祢の娘の弟比賣で、建稲種が忍山宿祢にあたる。

すなわち、三太子全て、建稲種の娘婿なので、高穴穂宮の天皇は十市根から建稲種に交代したことが解る。迦迩米雷の母は伊理泥(十市根)の娘、布多遲比賣は安國造の祖の意富多牟和氣の娘、安國は高穴穂宮も含む首都でその王なのだから天皇だ。すなわち、十市根のことで、十市根は穴穂天皇、すなわち、穴太足尼、娘婿は膽咋、すなわち、十市根の娘婿で、大臣になった膽咋には兄弟が他に2人いた。

2025年4月16日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話32 師木(弟國)の天皇

    多多須美知能宇斯と比古由牟須美は同一人物で、美知能宇斯が旦波大縣主の由碁理の娘の竹野比賣の娘の摩須郎女に婿入りした。そのため、『日本書紀』・『舊事本紀』には美知能宇斯の娘に名を引き継いだ竹野媛が存在し、本国に帰って薨じ、弟國の名がついた。

伊勢大神を託された比婆須比賣は伊勢遺跡に遷り、婿が八坂之入日子、朝廷別が豐木入日子にあたり、『古事記』と『舊事本紀』は八坂之入日子と大根を同一視している。それは、美知能宇斯の跡取りの比婆須比賣が伊勢に出され、跡取りの弟比賣の圓野比賣(竹野比賣)が薨じた。それで、弟比賣を沼羽田之入毘賣が襲名し、跡取りの沼羽田之入毘賣の夫が大根だったからだろう。

本来は八坂之入日子が弟國王、統治する師木天皇、大根は神に仕える人物だったのだろう。大臣と大連の関係だ。『日本書紀』は竹野比賣を弟比賣とし、高穴穂宮の時に但遲麻國造に賜姓された船穂足尼と同時期に弟國王竹野君が存在する。

すなわち崇神朝では、比古由牟須美(丹波道主・倭得玉彦)と日子坐(伊迦賀色許男大臣)の家系が婚姻し合って政権を維持していた。崇神六〇年、前38年に豐木入日子が纏向に分朝廷を開き、師木は妹の阿邪美能伊理毘賣の婿の沙本毘古(大根)が後を継いだ。

倭得玉彦は大稲日とも呼ばれて、沙本毘古は山代の相樂に稲城を築き、そこで妹の佐波遲比賣(歌凝比賣)と共に崩じた。相樂の北に稲という地域があり、迦迩米雷は稲別の婿、子の息長宿禰は稻依毘賣の婿で多遲摩國造の祖を生む。すなわち、葛城の高額比賣の子が竹野君と言える。

垂仁五年、おそらく、実際は豐木朝5年、崇神六四年から戦乱が起こった。紀元前30年に大根が大連になって、翌年師木(弟國)玉垣宮に遷都した。玉垣宮は比婆須比賣の為に埴輪を造った野見宿禰の領地の當麻で、當麻坂上君の祖は比婆須比賣の祖父の日子坐なので相応しい。

垂仁三二年、大根が崩じて、山代の大筒木眞若(印色入日子)が継承した。そして、垂仁八十一年、十市根が八坂之入日賣に婿入りして、垂仁八十七年に八坂之入日賣が皇位を継承して、高穴穂宮に遷都したのだろう。

2025年4月14日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話31 倭建の妃達

  稲別の娘の布多遲毘賣は安國造の祖の意富多牟和氣の娘、穴太天皇の娘だった。布多遲毘賣の子の息長宿禰が稻依別、妃が河俣稻依毘賣なので、河俣稻依毘賣は稲の比賣の分家に当たるようだ。

稻城王の沙本毘古の分家、山代の大國の淵の後継者は苅羽田刀辨の娘婿の落別、沼羽田之入毘賣の子と考えられる。沼羽田之入毘賣は弟國で死んだ圓野比賣に変わって、若しくは同一人物の弟比賣として、比婆須比賣と共に首都に残っている。分国した弟比賣の子の弟別王の沼帯別が苅羽田刀辨の子の落別で、その姉妹が弟比賣(妾の子)、婿が大筒木眞若である。その娘には弟比賣、高木比賣が存在する。高材比賣は息長宿禰の母、高材比賣の婿は迦迩米雷で大筒木眞若の子である。

美濃國造の神骨(大根・伊理泥)の子は十市根(2代目伊理泥)と兄(遠子)比賣と弟(遠子)比賣で、兄比賣の夫が大碓、弟比賣(阿治佐波毘賣)の夫が大筒木眞若だろう。十市根は大筒木眞若の妹の八坂之入日賣を妃にする。跡取りの弟(遠子)比賣が妾の子のことで、弟比賣や吉備之兄日子を生み、高木比賣は嫁である。大碓は世代を考えると、2代存在し、初代の大碓は大根の娘と、2代目の大碓は大根の孫を妃にしなければ、理に適わない。

大根の孫は弟(遠子)比賣の実娘の弟比賣、弟比賣の婿の大碓が義子の吉備之兄日子と考えられる。そして、弟(遠子)比賣の子が小碓で若木之入日子の可能性が高く、大碓とは義兄弟である。

布多遲能伊理毘賣と布多遲毘賣が親子と見做したように、倭建の妃の弟橘比賣、山代の玖玖麻毛理比賣、一妻、吉備穴戸武姫も弟比賣の親子や姉妹と見做すべきだ。忍山宿祢の娘には弟橘比賣と弟財郎女の二人の弟比賣が存在し、『舊事本紀』はそれを纏めて弟比賣としている。弟比賣は弟橘比賣が若建を、山代の玖玖麻毛理比賣の子の足鏡別の娘の一妻(弟比賣)が息長田別を生んだ。

若建の妃は杙俣長日子(品陀真若)の娘の三姉妹の長女の飯野眞黒比賣(高木之入日賣)なので、武部君の祖の尾綱根にあたり、丹羽建部君の祖の大荒田・武田の孫にあたり相応しい。息長田別は阿波君(淡海君)の祖なので、太子の五百木之入日子に当たり、稻依別(河俣稻依毘賣)の子の大多牟坂は丸迩意富美と考えられる。

2025年4月11日金曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話30 山代大国の木國造

  倭建の妃は世代的に布多遲能伊理毘賣ではなくその娘の布多遲毘賣と考えられる。布多遲能伊理毘賣の夫は沙本の穴太部別の祖の沙本毘古と丹波道主の娘の阿邪美能伊理毘賣の子の伊許婆夜和氣の可能性が高い。丹波道主の娘婿の沙本毘古は纏向天皇の丹波道主の子の豐木入日子に対抗する師木の天皇と考えられる。豐木入日子の子、品牟都和氣が沙本毘古の娘の阿邪美都比賣の婿の「倭者師木登美豐朝倉曙立王」だろう。後継の記述されない姫の婿が大新河・比古意須と考えられる。

布多遲能伊理毘賣の母は山代の大國の淵の娘の苅羽田刀辨(綺戸邊)で、淵は木國造の荒河刀辨と山代の荏名津比賣(苅幡戸辨)の娘を妃に生まれた娘の婿の大俣と考えられる。弟の小俣は當麻の勾君の祖、當摩蹶速を倒した野見宿禰は當摩の地を得て、土部連となった。領地は現代の東近江の土器町と考えられ、現代の野見宿禰の出身地の出雲は曙立の領地である。

荒河刀辨は遠津臣で、遠津臣の姫を妃にしたのが迦迩米雷で、同世代の荒河刀辨の子の淵の後継者の木國造は建内宿禰の祖父の莵道彦で苅羽田刀辨の婿である。すなわち、淵は大俣・豐木入日子と考えられ、子の品牟都和氣が沙本毘古の娘婿にあたる曙立、すなわち、伊許婆夜和氣(石衝別)で師木の天皇だ。布多遲能伊理毘賣の婿は豊国や朝倉も手中に収めた王朝を構成する最高実力者の師木の天皇で、その娘の布多遲毘賣の婿が迦迩米雷である。沙本毘古が大根、曙立が十市根、布多遲能伊理毘賣が八坂之入日賣にあたる。

また、山代の大國の淵の義父は木國造の荒河刀辨、豐木入日子の祖父で、日子坐の義父でもある。日子坐(伊迦賀色許男)は山代縣主の祖の長溝の娘を妃にしているのだから、荒河刀辨は長溝である。

2025年4月9日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話29 3大臣の朝廷

高穴穂宮は大中津比賣が神寶の管理を十市根に任せた垂仁八七年に遷都したと考えられ、天皇は十市根である。高穴穂宮天皇の十市根の子(義子)の膽咋は穴太足尼の娘婿、首都穴太の足尼は天皇十市根で膽咋は皇太子、131年に高穴穂(穴太)の大臣になった。

高穴穂宮天皇を継ぐ太子の名を背負ったのが若帯日子と五百木之入日子と倭建だ。倭建は『古事記』では大帯日子の項に含めているが、『舊事本紀』では成務の項に記述され、高穴穂宮の太子の世代である。仲哀天皇は紀伊國(師木)の徳勒津宮の天皇である。膽咋の妃に止己呂姫が存在するのは偶然ではく、徳勒津宮の皇后である。

また、伊勢國五十鈴宮の淡路屯倉を定めた、都奴賀の笥飯(気比)宮の天皇も存在し、淡路は淡海(近江)道を支配する天皇である。そして、もう一人、穴門豐浦宮と儺縣の橿日宮の天皇も存在し、倭建の妃の穴戸武姫と対応している。すると、淡路屯倉を支配する笥飯宮の比賣は意富多牟和氣の娘の布多遲能伊理毘賣、徳勒津宮は忍山宿祢の娘の弟媛の宮と考えられる。

布多遲毘賣は安國造の祖の意富多牟和氣の娘なのだから、高穴穂宮天皇の娘達の婿が太子、穴戸武姫の婿は高穴穂宮天皇の皇子と考えられる。『舊事本紀』と『古事記』を比較すると、布多遲能伊理毘賣と布多遲毘賣は同一人物、弟橘比賣と玖玖麻毛理比賣と一妻も同一人物になっている。大吉備建比賣は吉備穴戸武姫と名前が異なり、他の2系統の妃は景行朝の姫と成務朝の姫を表し、一妻は弟橘比賣の姉妹を示していると考えられる。それを示すように忍山宿祢の娘は弟橘比賣と弟財郎女が存在する。

膽咋の妃も倭建の妃も穴穂の太子も3柱、首都も3宮、大臣も膽咋、建内、丸迩の3大臣が存在した。そして、『古事記』の3家、御真木朝では丸迩臣の祖の日子國夫玖が活躍し、伊久米朝では十市根の跡を継いだ膽咋、大帯日子朝では建内大臣が生まれ、偶然とは思えない。

2025年4月7日月曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話28 纏向宮と高穴穂宮の並立

高穴穂宮天皇の膽咋は阿努(?阿刀)の建部君の祖の大玉の娘の鴨姫を妃にしたと記述している。『古事記』の建部君の祖は意富多牟和氣の娘の布多遲比賣の子の稻依別である。安國造の祖の意富多牟()和氣は高穴穂朝で淡海國造になっているので、高穴穂宮の天皇である。首都淡海の國造、すなわち、王なのだから、首都の王の天皇である。

布多遲能伊理毘賣は伊玖米天皇の娘となっているが、師木宮天皇の意味で、母は、山代の大國の淵の娘の弟苅羽田刀辨である。姉の苅羽田刀辨は沼羽田之入毘賣と同じだったが、弟苅羽田刀辨は『日本書紀』では綺戸邊、『舊事本紀』では眞砥野比賣としていて、子に石衝別は存在するが石衝毘賣は存在しない。すなわち、石衝別の妃が布多遲能伊理毘賣(石衝毘賣・稻別)、その娘が布多遲毘賣の可能性が高い。

『古事記』には残された弟比賣と弟國に返された弟比賣が存在する。そして、『舊事本紀』や『日本書紀』の布多遲能伊理毘賣の母は薊瓊入媛、『古事記』の阿邪美能伊理毘賣が相応しい。それがもう一人の弟比賣である。

すなわち、迦迩米雷の義父が沙本毘古の子(婿)の意富多牟和氣(伊許婆夜和氣・石衝別、妃が稻別)、子の息長宿禰が稻別の分家()の河俣稻依毘賣に婿入りして稻依別と呼ばれた。布多遲比賣は布多遲能伊理毘賣の娘の可能性が高い。

すなわち、阿治佐波毘賣が布多遲毘賣で婿が迦迩米雷である。稲城の沙本毘古、娘が稻別の阿邪美都比賣で夫がおそらく曙立王の彦狹嶋の倭武天皇、その娘婿が迦迩米雷、その子が分家の稻依別である。

『舊事本紀』の倭建は若帯日子と同世代で、景行朝世代の布多遲能伊理毘賣と成務朝世代の布多遲毘賣とは世代を異にしている。それは、景行朝の時に高穴穂朝が併存したための結果で、倭建が景行朝に記述する『古事記』・『日本書紀』と成務朝に記述する『舊事本紀』が存在する理由である。すでに、景行五八年に高穴穂宮が存在し、纏向天皇が遷ったと記されている。