武内宿禰が成務三年に就位した大臣の時の纏向宮皇后は五十琴姫、母の初代の穴太へ遷る前の膽咋の妃が比咩古だ。128~190年の間の「居志賀三歳」からの高穴穂朝時の纏向女王は比咩古と呼ばれたと考えられる。『三国史記』の173年、「阿達羅尼師今・・・二十年 夏五月 倭女王卑彌乎遣使來聘」や『後漢書』の189年以降の「桓・靈閒 倭國大亂・・・有一女子名曰卑彌呼」は、この比咩古を大倭女王の卑弥呼と理解した可能性が高い。200年頃から壹国を実際に統治していたのは『日本書紀』「一國之魁帥」(?206年)の夏磯姫である。
すなわち、『日本書紀』は神功皇后、『舊事本紀』は比咩古を卑弥呼と想定した可能性が高い。それに対して、『古事記』の息長帯日売は382年の薨で、想定していないし、卑弥呼は記述されない。成務三年に武内宿禰が分朝廷を開くように、初代の膽咋は短命で、纏向に残った比咩古が統治したのだろう。比咩古を引き継いだ天皇の武諸遇の皇妃は穗積氏の祖の忍山宿祢の娘の弟媛、山代の紀の止己呂姫(五十琴姫・清媛)で、子は大中比賣、婿が讃岐君の祖の五十日彦(五十功彦・多遅麻)と考えられる。多遅麻は山代から纏向へ202年に遷都している。
讃岐君は伊久米伊理毘古の義父と考えられる大筒木垂根の弟の讚岐垂根が祖で、大帯日子の祖と考えられた。讚岐垂根は伊那毘能大郎女を妃にした大帯日子、子の大碓は大筒木垂根(大根)の娘の兄比賣(伊那毘能若郎女)を妃にした。叔父の大筒木垂根の妃は弟比賣の沼羽田之入毘賣すなわち苅羽田刀辨で、その娘の弟比賣を妃にしたのが、2代目の大碓の大荒田である。
穗積臣の祖は内色許男、娘の伊迦賀色許賣で夫は大綜杵(日子寤間)、日子寤間の兄弟が若日子建吉備津日子である。大綜杵の娘は伊迦賀色許賣、伊迦賀色許賣の子が御真木入日子で妃が若日子建吉備津日子の娘の針間之伊那毘能大郎女だった。日子寤間は針間牛鹿臣の祖なので、無関係とは言えない。『舊事本紀』は倭建の妃を苅羽田刀辨の娘の布多遲能伊理毘賣、吉備武彦の娘の吉備穴戸武姫、忍山宿祢の娘の弟媛と記述する。
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