『舊事本紀』では五十琴姫は纏向日代宮天皇の皇妃で、纏向天皇は202年に纏向日代宮大連になった多遅麻である。すなわち、膽咋と比咩古の娘の五十琴姫は膽咋の(義)娘の清媛(河俣稻依毘賣)の子の多遲摩國造の祖の大多牟坂の妃である。
五十琴彦の娘の安媛が襲名した五十琴姫、それが神功皇后の世代である。比咩古は景行天皇の世代なので、五十琴姫は成務天皇の世代と神功皇后の世代の二世代の五十琴姫が存在する。従って、五十琴彦は初代五十琴姫の婿で、その娘の安媛が二代目五十琴姫で、その夫が多遅麻である。
多遅麻は宇遲能和紀郎子の母の宮主矢河枝比賣の父の丸迩の比布禮大臣で、子の印葉輕島明宮大臣の妃は竹古(品陀真若)の娘の弟比賣と証明した。その弟比賣の父の品陀真若の妃の金田屋野姫も弟比賣でなければ、弟比賣を継承できない。
『日本書紀』は弟比賣の父を河派仲彦と記述し、息長田別の子の品陀真若・咋俣長日子が河派仲彦、その娘が息長眞若中比賣と継承されている。息長眞若中比賣の夫は後の曾都毘古、若狭の気比の和訶奴氣で、角鹿気比大神を祀る笥飯宮の皇子である。和訶奴氣は熊襲梟帥から曾都毘古の名を引き継ぎ、仲国王の帯中日子、妃は息長眞若中比賣である。
息長眞若中比賣の子の若沼毛二俣が弟比賣の子の弟日賣眞若比賣を妃に忍坂大中津比賣や田井中比賣(弟比賣)を生んでいる。息長眞若中比賣の子の若沼毛二俣は、『古事記』の神武天皇の若御毛沼と似通った名である。妃が弟日賣眞若比賣で、若御毛沼は御食津大神と伊奢沙和氣大神の名を交換し、葛城の野伊呂賣に婿入りして伊奢能麻和迦と名を替えた可能性が高い。
葛城の伊呂賣が弟日賣眞若比賣と考えられ、大雀は高木之入日賣の子の伊奢之眞若で、息長眞若仲比賣の娘の石之日賣に婿入りし、子の伊邪本和氣が葛城葦田宿禰と葛城の伊呂賣との娘の伊奢能麻和迦・黒比賣に婿入りしたと考えられる。
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