太子の名を負った三柱の内、五百木之入日子、若帯日子は忍山宿祢(垂根)の娘婿だった。忍山宿祢は迩波縣君の祖の大荒田で娘の玉姫の婿の建稲種が後継者である。建稲種は葛木に婿入りした葛木縣主荒田彦で、琵琶湖南部木国に住み、木国は首都なので、垂根、木國造の祖の宇豆比古(大津)と呼ばれ、その娘が弟財郎女である。
若帯日子(武内宿禰)は葛比売を妃に子が襲津彦宿祢の和訶奴氣である。『古事記』の神武天皇の若御毛沼と和訶奴氣は類似した同じ地域の名前だ。成務元年131年、膽咋宿祢が大臣すなわち、高穴穂宮の皇位に就き、高穴穂宮3年には武内宿禰が大臣になり、分朝廷を開いた。『紀氏家牒』によると、武内宿禰の妃は紀伊国造宇豆彦道彦の娘なので、木國造の祖の宇豆比古は『紀氏家牒』では木國造宇豆彦道彦と呼ばれた。宇豆比古は垂根、十市根を継承する天皇に準ずる人物だった。
武内宿禰は仁徳朝以降「曰」で記述されているので、応神九年の味師内宿禰との争いまでは襲名されているようだ。応神十六年285年に平群木菟宿禰が登場しているので、武内宿禰がこの頃、木菟宿禰の後ろ盾の丸迩氏の比布禮大臣に敗れたようだ。
武内宿禰は「歴事六代君」と開化、崇神、垂仁、景行、政務、仲哀の6代の天皇に200年頃まで仕えた。その後、山代の平群県紀里へ、「凡春秋二百八十余歳家大倭国葛城県」とあるように、春秋280回、つまり約140年にわたって大和葛城縣に340年頃まで居住したと考えられる。妃が葛城国造の娘の葛比売なので合致する。
応神三十年は干支が間違っているので正しくは応神四十年に印葉(菟道稚郎子)が大臣になっているので、尾張氏も紀里の木菟宿禰を頼ったのだろう。応神朝大臣は尾綱根なので、膽咋が高穴穂宮成務天皇で、子(跡取りの姫)が居なかったので、五百木之入日子の子の品陀真若が皇位を継承し、娘の高木之入日賣の婿の尾綱根が天皇(大臣)になった。
3柱の太子を負った、襲名した五百木之入日子(品陀眞若)は輕島明宮の天皇、若帯日子は木国の大臣で、倭建は娘婿が比布禮大臣、孫娘が宮主矢河枝比賣、その子が妹の毛良姫の婿の宇遲能和紀郎子(印葉大臣)で、木津から大津の宇道の大臣だろう。稚彦連・談は額田大中日子と考えられ、高穴穂の太子は大荒田の姫達の王朝の婿だった。
 
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