応神天皇の立太子の神功3年は間違いの日干支で234年が正しく、膽咋と比咩古の子の五十琴宿祢が大連に就位した説話だ。しかし、膽咋の妃は他にも存在するので、膽咋の妃の比咩古以降の3妃は2代目膽咋の義兄弟の妃の説明と考えられる。妃が変われば、宮も姓も変わる。伊迦賀色許男や建諸隅の宮は娘が継承して、婿が名を引き継ぐ。比咩古は穴太足尼の娘で、穴太天皇十市根の娘、安國造の祖の意富多牟和氣の娘の布多遲比賣である。
膽咋の妃の鴨姫の父の「あと」の建部君の祖の大玉は名前から玉姫の父の迩波縣君の祖の大荒田と考えられる。『舊事本紀』には穗積氏の祖の忍山宿祢の娘の弟媛の子に尾張國丹羽建部君の祖の武田王が記述される。すなわち、鴨姫の子、若しくは、兄弟が建部君の祖の稻依別、『舊事本紀』は蘰連の祖の竺志を当てているようだ。筑紫は天種子が攻めているので、その稻や種の文字を名前に持つ建稲種、その妃の玉姫や鴨姫の姉妹が稻依毘賣で夫が息長宿禰、太子の2代目の倭建と想定できる。
稻依毘賣の子は多遲摩國造の祖の大多牟坂で、その子の舩穗足尼が高穴穂朝の多遲摩國造である。多遅麻は纏向宮大連(神功摂政元年に大連・天皇になった)なので吉備風治國造と同祖の多遅麻君と呼ばれ、多遲摩國造の祖の多遅麻は師木出身の丹波・但馬・仲国を支配領域にして、倭と共に新羅を攻めたようだ。
次の妃の伊佐姫の兄の三川穂國造は、後に、葛城襲津彦の四世孫の菟上足尼が賜姓されている。すなわち、同じく太子であった、若帯日子(建内宿禰)と考えられる。三川穂國造の美巳止直は忍山宿祢の娘の弟媛の子の参川御使連の祖の佐伯が考えられる。現代の三河の國造は出雲臣の五世孫の知波夜なので、美巳止直の三川穂國は大根が国造の祖である三野穂國、長浜近辺である。若帯日子は角鹿笥飯宮朝大臣と考えられる。
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