太子の一人の五百木之入日子の妃は尾綱根の妹とする尾綱真若刀婢で、義父が建稲種、義母が迩波縣君の祖の大荒田の娘の玉姫である。迩波縣君は建部君なので、玉姫の父の大荒田が建部君の祖の大玉(大国王)ならば良く合致し、大玉の娘の一人が稻依毘賣、夫が息長宿禰である。
初出の建部君の祖が大玉で、その後の建氏は倭建や若帶日子の義父の建忍山垂根なので、大玉は建忍山垂根と考えられる。忍山垂根は穴太足尼の後継者、宗教上の最上位者で、弟比賣の婿と考えられる。
五百木之入日子は建稲種の娘婿なので、初代の尾綱根の可能性が高く、子の品陀真若も襲名して、建稲種の孫の金田屋野姫を妃にした。五百木之入日子は高穴穂宮での名で、尾綱根は輕島明宮での名、品陀眞若が神功皇后の笥飯宮か小竹宮での名前だ。長女が継承すれば名が変わらず、次女や男子が継承すれば名が替わる。
布多遲(能伊理)毘賣は倭建の妃なので、倭建は高穴穂宮天皇の娘婿と解った。景行朝の時、景行天皇が穴穂に逃げているように、既に高穴穂宮が存在し、穴太足尼が十市根高穴穂宮天皇だった。この時期の高穴穂宮太子が娘婿の倭建で、倭建薨去後の131年に、膽咋大臣が継いだ。そして、建忍山垂根の娘の弟財郎女の婿も太子若帯日子と呼ばれ、成務三年大臣になった木国造の娘の宇乃媛の婿の建内宿禰と考えられる。
倭建は同じ高穴穂宮太子でも、景行朝と並立した穴太宮朝の太子だったと考えられる。倭建が『舊事本紀』には成務朝に、『日本書紀』や『古事記』では景行朝に記述される理由である。景行五十二年に伊那毘能大郎女が薨じ、八坂之入日賣が皇后になっているが、八坂之入日賣の家系が纏向宮天皇になったことを示すと考えられる。それが、膽咋宿祢と八坂之入日賣の娘の比咩古、その娘の清媛が皇后、天皇は物部武諸遇である。纏向宮天皇は子(義子)の多遅麻によって、240年頃まで存在した。
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