2025年4月16日水曜日

最終兵器の目 新しい古代の神話 尾張氏の神話32 師木(弟國)の天皇

    多多須美知能宇斯と比古由牟須美は同一人物で、美知能宇斯が旦波大縣主の由碁理の娘の竹野比賣の娘の摩須郎女に婿入りした。そのため、『日本書紀』・『舊事本紀』には美知能宇斯の娘に名を引き継いだ竹野媛が存在し、本国に帰って薨じ、弟國の名がついた。

伊勢大神を託された比婆須比賣は伊勢遺跡に遷り、婿が八坂之入日子、朝廷別が豐木入日子にあたり、『古事記』と『舊事本紀』は八坂之入日子と大根を同一視している。それは、美知能宇斯の跡取りの比婆須比賣が伊勢に出され、跡取りの弟比賣の圓野比賣(竹野比賣)が薨じた。それで、弟比賣を沼羽田之入毘賣が襲名し、跡取りの沼羽田之入毘賣の夫が大根だったからだろう。

本来は八坂之入日子が弟國王、統治する師木天皇、大根は神に仕える人物だったのだろう。大臣と大連の関係だ。『日本書紀』は竹野比賣を弟比賣とし、高穴穂宮の時に但遲麻國造に賜姓された船穂足尼と同時期に弟國王竹野君が存在する。

すなわち崇神朝では、比古由牟須美(丹波道主・倭得玉彦)と日子坐(伊迦賀色許男大臣)の家系が婚姻し合って政権を維持していた。崇神六〇年、前38年に豐木入日子が纏向に分朝廷を開き、師木は妹の阿邪美能伊理毘賣の婿の沙本毘古(大根)が後を継いだ。

倭得玉彦は大稲日とも呼ばれて、沙本毘古は山代の相樂に稲城を築き、そこで妹の佐波遲比賣(歌凝比賣)と共に崩じた。相樂の北に稲という地域があり、迦迩米雷は稲別の婿、子の息長宿禰は稻依毘賣の婿で多遲摩國造の祖を生む。すなわち、葛城の高額比賣の子が竹野君と言える。

垂仁五年、おそらく、実際は豐木朝5年、崇神六四年から戦乱が起こった。紀元前30年に大根が大連になって、翌年師木(弟國)玉垣宮に遷都した。玉垣宮は比婆須比賣の為に埴輪を造った野見宿禰の領地の當麻で、當麻坂上君の祖は比婆須比賣の祖父の日子坐なので相応しい。

垂仁三二年、大根が崩じて、山代の大筒木眞若(印色入日子)が継承した。そして、垂仁八十一年、十市根が八坂之入日賣に婿入りして、垂仁八十七年に八坂之入日賣が皇位を継承して、高穴穂宮に遷都したのだろう。

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