2026年4月6日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 まとめ

  真実の古代では『日本書紀』の日干支が間違ったところに当て嵌めたものがあったことを示した。朔日の日干支をユリウス数から求め、日蝕の日干支を中国の日干支に比べたところ、ほゞ、あっていた。中国の日蝕の日干支が95%正しかったが、日本の日蝕の日干支は80%正しかっただけ。

私の暦は標準の暦、ユリウス数0がユリウス暦に換算すると紀元前4713年11日 正午(ロンドン)からの日数。それが基準だ。その数値が中国の史書の暦と95%、現代の旧暦と100%合っている。ただし、中国は晦イコール朔だった。そして、『日本書紀』は中国の史書と符合するように編んだことを示した。たとえば、卑弥呼の遣使が238年景初二年を239年景初三年に記した。中国を信用していたのだ。

日干支を使った最初は周武王の「十一年十二月戊午」、最初の晦の使用は「高祖三年冬十月甲戌晦」、後に高祖が10月を1月にするので、紀元前204年1月1日である。最初の朔の使用は「惠帝紀八年春正月辛丑朔」、紀元前188年1月1日である。

ところが、日本での最初は前667年十月丁巳朔、中国が知らない暦だ。日本には東洋の暦を創った羲和がいた。夏至や冬至を知っていた。天降って一百七十九萬二千四百七十餘歳と干支(おそらく十干)を数えた。高千穗の宮にいた年数伍佰捌拾歳を数えた。適当な数値なら、もっと簡単な数値で十分。ある種の記号を高千穂宮に残していたことが解る。4900年間も毎日数えたのだろう。

氏族の長は「太立宮柱於底磐之根」と宮柱を建立して、記録を残した。そしてその場所を移動する時も、同様に宮柱を建立した。そして、その記録が、朔日を基準にした日干支と記録だった。史書に適当な数値や日干支が無いことを述べてきた。

以降、『日本書紀』の記録挿入場所が20%間違っていたことを踏まえ、中国史書、『古事記』、『旧事本紀』を利用して、真実の古代史を検証していこう。

2026年4月3日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 持統天皇6

十年春正月甲辰朔の卿大夫への饗応、二月癸酉朔と六月辛未朔戊子の吉野宮へ行幸、三月癸卯朔の二槻宮へ行幸、夏四月壬申朔の廣瀬大忌神と龍田風神の祭り、秋七月辛丑朔の日蝕、八月庚午朔の多臣品治への直廣壹授与、九月庚子朔の若櫻部五百瀬への直大壹の贈、十一月己亥朔の大官大寺沙門弁通へ食封の加増、十二月己巳朔の金光明經を読ませた記録は正しい日干支、畿内の記録だ。五月壬寅朔の大錦上秦造綱手の忌寸賜姓は九州の日干支だが、大錦上は天武十四年には廃止され、忌寸は天武十三年以降なので、684年の内容である。大来皇女の伊勢斎宮の紀年なのだろうか。冬十月己巳朔の右大臣丹比眞人の卒も九州の暦、都督府の記録だ。

十一年二月丁卯朔の直廣壹當麻國見を東宮大傅にした記録は九州の暦、高市皇子の薨去で、若い文武天皇が東宮、その後見が國見で、都督府の影響があったため、中国風名称の大傅は相応しい。20歳に達していない天皇の為の後見なのだろうか。三月丁酉朔の大法会、夏四月丙寅朔の爵位授与、五月丙申朔の雨乞いは正しい日干支、たくさんの爵位授与から解るように、日並(天武天皇)の即位によって、世代交代が起こったことを示す。六月丙寅朔の恩赦は九州の暦、都督府の閉鎖による赦免だろう。秋七月乙未朔の恩赦は正しい日干支、畿内の記録である。八月乙丑朔の文武天皇即位は九州の暦、この時、浄御原には大友皇子が太政大臣、文武天皇が蜂起した。

『古事記』の「飛鳥清原大宮御大八州天皇御世潜龍躰元洊雷應期聞」、浄御原天皇の御世に潜伏していたが、機に応じ蜂起した。その王は賢后と比較し、また漢民族の始祖の軒后、中国の初代の夏王朝の初代の文命や殷王朝の初代の天乙と比較した安萬侶の目の前に立つ元明天皇である。中国は元明を文武と理解した。

2026年4月1日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 持統天皇5

  七年春正月辛卯朔の高市皇子への淨廣壹授与、三月庚寅朔の日蝕、夏四月庚申朔の雨乞い、六月己未朔の高麗沙門福嘉の還俗、秋七月戊子朔の吉野宮への行幸、八月戊午朔の藤原宮地への行幸、九月丁亥朔の日蝕、冬十月丁巳朔の観兵の詔勅、十一月丙戌朔の吉野宮行幸、十二月丙辰朔の諸国に陣法を習わせた記録は畿内の記録である。二月庚申朔の新羅の遣使は九州の暦、都督府の記録である。五月己丑朔の吉野宮へ行幸も九州の暦、鸕野讃良皇女か高市太政大臣が行幸したのだろうか。

八年春正月乙酉朔の布勢御主人と大伴御行を加増と氏上授与、三月甲申朔の日蝕、夏四月甲寅朔の河内王へ淨大肆贈、六月癸丑朔の河内国更荒郡の白山鷄献上、秋七月癸未朔の諸國へ巡察使派遣、八月壬子朔の飛鳥皇女のための百四人出家、九月壬午朔の日蝕、冬十月辛亥朔朔の白蝙蝠捕獲、十一月辛巳朔の恩赦、十二月庚戌朔の藤原宮への遷都は正しい日干支、畿内の記録である。文武天皇の遷都は704年なので、天智天皇が藤原宮に遷ったのだろうか。日並は文武天皇が蜂起した時、浄御原に居たとある。八年は五月癸未朔の内裏での饗応のみ九州の暦である。

九年春正月庚辰朔の舍人皇子へ淨廣貳授与、潤二月己卯朔と八月丙子朔と十二月甲戌朔の吉野宮へ行幸、三月戊申朔の新羅から遣使、夏四月戊寅朔の廣瀬大忌神と龍田風神の祭り、五月丁未朔の隼人大隅への饗応、六月丁丑朔の雨乞い、冬十月乙亥朔の菟田吉隠への行幸は正しい日干支、畿内の記録である。秋七月丙午朔の廣瀬大忌神と龍田風神の祭り、九月乙巳朔の恩赦は九州の暦、都督府の記録だろう。

2026年3月30日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 持統天皇4

  五年春正月癸酉朔の叙位、三月壬申朔の宴、五月辛未朔の百濟淳武微子への褒美、秋七月庚午朔の吉野宮行幸、八月己亥朔の墓記の上進、九月己巳朔の音博士と書博士に下賜、冬十月戊戌朔の日蝕は畿内の記録である。二月壬寅朔の仏教に関する詔勅は九州の暦、天皇の言葉に天皇と発言するのは奇異で、九州の天皇(高市太政大臣)が上位の天智天皇の事を述べたのだろう。夏四月辛丑朔の除籍した奴婢の扱いの詔勅も九州の記録である。九州は勢力争いで奴婢が多数発生したのだろう。十二月戊戌朔の薬の博士や咒禁の博士に褒美を与えたのも九州の記録である。

六年春正月丁卯朔の高市皇子に増封、二月丁酉朔の三月三日に伊勢へ出発する詔勅は畿内の記録である。但し、本当に出発するのは三月六日で、太陽暦の可能性がある。『古事記』が太陽暦で編まれていることと対応している。三月丙寅朔の高市麿の諫言は九州の暦である。五月乙丑朔の阿胡行宮も同じ九州の暦である。廣瀬王、當麻智徳、高市麿は『続日本紀』で702・3年から出現する。これらの記録は大化六年(700年)の記録と考えられる。夏四月丙申朔の大伴友國への贈直大貳は正しい日干支だが、大化六年の戦死の可能性がある。

潤五月乙未朔の大水、六月甲子朔の山岳の河の祈祷、秋七月甲午朔の大赦、八月癸亥朔の赦罪、九月癸巳朔の四畿内の視察の使者、冬十月壬戌朔の山田御形に務廣肆授与は正しい日干支、畿内の記録である。十一月辛卯朔の新羅からの遣使は九州の暦、新羅の孝照王即位の使節なのだろう。十二月辛酉朔の音博士に水田を授与は正しい日干支、畿内の記録である。

2026年3月27日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 持統天皇3

  三年春正月甲寅朔の天皇の朝賀、三月癸丑朔の大赦、五月癸丑朔と秋七月壬子朔の新羅弔使の説話は九州の暦なので、都督府の記録だろう。二月甲申朔の防人の年限の詔勅、夏四月癸未朔の新羅人を下毛野に投化、六月壬午朔の筑紫大宰への衣裳下賜、秋八月辛巳朔の神事は正しい日干支、畿内の記録である。

潤八月辛亥朔は九州の暦で、戸籍を創る詔勅である。戸籍は白雉三年や天智九年に詔勅を出したので、九州では天智九年の戸籍と様式が違っていたのだろう。九月庚辰朔の石上麿、石川虫名の筑紫派遣、冬十月庚戌朔の高安城行幸、十二月己酉朔の雙六禁止は畿内の記録だ。十一月己卯朔の高田石成が軍を削減したことで褒美を与えた。これは九州の暦で、九月の戸籍の詔勅で、軍は4軍までとあったのを、3軍に減らしたためだ。

四年春正月戊寅朔の朝賀は九州の暦、都督府の記録である。大嶋は中臣朝臣で、ここから藤原姓を外れた。

二月戊申朔の腋上行幸、夏四月丁未朔の廣瀬大忌神與龍田風神の祭り、五月丙子朔と八月乙巳朔と冬十月甲辰朔の吉野宮行幸、六月丙午朔の泊瀬行幸、十一月甲戌朔、十二月癸卯朔の金高訓の記録は正しい日干支で畿内の説話である。三月丁丑朔の京と畿内の老人に祝いの物を渡し記録は九州の暦、天智天皇の首都は畿内にあるのに、京が別に記されているのは、この京が畿内でなく筑紫だったことを示している。秋七月丙子朔の公卿百寮に新しい朝服を配った記録、九月乙亥朔の戸籍の造り方の詔勅は九州の暦である。

2026年3月25日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 持統天皇2

  元年春正月丙寅朔の皇太子の殯は2月の朔日の日干支である。他に候補日が無い。すなわち、1月晦日の記録を2月朔日と変換した可能性がある。大化元年、日並の即位の説話だろうか。三月乙丑朔の高句麗人の投化、夏四月甲午朔の筑紫大宰が献上した新羅人の投化は正しい日干支、畿内での記録である。五月甲子朔の殯は畿内での大海皇子への殯なのだろう。

元年六月癸巳朔の恩赦、秋七月癸亥朔の徳政令は畿内の政策である。八月壬辰朔の御青飯の記録は九州の暦、都督府の記録である。九月壬戌朔の国葬の祭壇を設けた記録は畿内、冬十月辛卯朔の陵墓作成は都督府の記録である。この大規模な葬儀は、九州の天皇の大海皇子の葬儀ではなく、大化元年695年の記録の可能性が高い。天皇の即位時に常に言及する「不改常典」を定めた天智天皇、この葬礼も常典なのだろうか。十二月辛卯朔の路迹見の新羅遣使は畿内の記録である。

二年春正月庚申朔の皇太子による殯、三月己未朔の藤原朝臣大嶋の誄も、やはり、大化二年(696年)の記録なのだろう。694年に建造を始めた粟原寺の鑪盤銘には大嶋の名があった。皇太子は十市皇女の婿の大友皇子と考えられる。九州の記録の六月戊子朔の恩赦、畿内の記録の八月丁亥朔の大伴安麻呂の誄、九州の記録の冬十一月乙卯朔の皇太子の殯宮の慟哭も同様だ。大伴安麻呂は714年に大納言兼大將軍正三位の地位で薨去した。大嶋と共に誄する地位に相応しい。

二月庚寅朔の大宰からの新羅の品の献上も新天皇への献上で、畿内の記録だ。夏五月戊午朔の百済人の甲斐移住、秋七月丁巳朔の大旱魃、九月丙辰朔の饗耽羅佐平加羅の饗応、十二月乙酉朔の蝦夷饗応は畿内の記録である。

2026年3月23日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 持統天皇1

天武天皇の内容は『日本世記』の内容で、九州の暦は筑紫都督府・浄御原宮の記録、正しい日干支は畿内の天智天皇の記録と考えられた。持統天皇の内容もおおむね同じだろう。そして、一部、元明天皇の記録と大長年間の記録が混じっていると考えられる。菟野讚良皇女は世代的に天智天皇と同世代の義妹と考えられる。天智天皇の皇后が馬子の家系の倭姫、日並が彦人の家系の鏡王の娘の額田姫を皇后にした。当然、その頃の最高権力者の娘たちだ。

持統天皇は總持天皇、皇祖母が額田姫だったと考えられる。鏡王の祖は宣化天皇の子の偉那公の祖の上殖葉大王、その娘が大俣王、その婿が彦人、その子が猪名鏡公高見である。額田姫と大村は兄妹だろう。

皇后が大后と呼ばれた時、東宮が後を大后に任せ、諸政は大友皇子に任せるように進言した。大友皇子は日並天皇の娘の十市皇女の婿、703年の出来事である。大友皇子は太政大臣、九州の浄御原で統治していたと思われる。持統上皇は702年に三河へ、文武天皇も尾張や美濃・伊勢・伊賀に行幸している。これは、額田大后の逃避行なのではないか。そして、大長元年・景雲元年(704年)に文武天皇が勝利して藤原宮で即位した。

朱鳥元年九月戊戌朔の天武天皇崩御、冬十月戊辰朔己巳の大津謀反は正しい日干支、天智天皇の記録である。皇太弟の都督府天皇の大海皇子が崩じた。大津皇子謀反は壹伎連博徳が連座していて、博徳は中宮天皇世代にあたり、冠位も小山下と685年より前の古い冠位である。十一月丁酉朔の大来皇女の伊勢参拝、十二月丁卯朔の浄御原天皇のための祈祷は正しい日干支、畿内の記録である。

2026年3月20日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天武天皇7

     十三年二月癸丑朔の金主山の筑紫での饗応、三月癸未朔の椿の献上、閏四月壬午朔の装束の詔勅、六月辛巳朔の雨乞い、秋七月庚戌朔の広瀬へ行幸、冬十月己卯朔の八色の姓の詔勅、十一月戊申朔の五十二氏に朝臣を賜姓、十二月戊寅朔の五十氏に宿禰の賜姓は正しい日干支で、天智天皇の政策である。

正月甲申朔の三野縣主、内藏衣縫造への連の賜姓、夏四月壬子朔の恩赦、五月辛亥朔の百済人を武蔵に置いた記録は九州の暦、都督府の指示である。

十四年春正月丁未朔の群臣の拝賀、二月丁丑朔の唐人、百済人。高句麗人への爵位、夏四月丙子朔の紀伊の温泉が止まった記録、五月丙午朔の射礼、六月乙亥朔の十一氏への忌寸の賜姓、秋七月乙巳朔の廣瀬龍田神の祭り、八月甲戌朔の淨土寺への行幸、九月甲辰朔の舊宮安殿での宴会、冬十月癸酉朔の僧常輝への増封、十一月癸卯朔の「儲用鐵」を周防に送付、十二月壬申朔の筑紫への舟の海難事故は正しい日干支、畿内の記録である。三月丙午朔の金物儒の筑紫での饗応と筑紫からの帰国は九州の暦、都督府の記録である。

朱鳥元年春正月壬寅朔の大極殿での宴、二月辛未朔の勤位の授与、三月辛丑朔の羽田眞人八國の病、夏四月庚午朔の桑原村主訶都の直廣肆の授与、五月庚子朔の多紀皇女が伊勢から帰った記録、六月己巳朔の槻本村主勝麻呂の連の賜姓、秋七月己亥朔の庶民の装束の詔勅、八月己巳朔の八十僧の出家、九月戊戌朔の川原寺での天皇治癒の請願は正しい日干支、天智天皇の記録である。

日付が特定できる大伴男吹、羽田八國は壬申功臣だが、『続日本紀』では記されない。2つの壬申の乱があった。

2026年3月18日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天武天皇6

  十一年春正月乙未朔の叙勲、三月甲午朔に新都の調査、五月癸巳朔の倭漢直に連を賜姓、六月壬戌朔の高句麗、新羅の遣使、秋七月壬辰朔の隼人の遣使、九月辛卯朔の礼法の改革、十一月庚寅朔の刑法の詔勅、十二月庚申朔の氏上の詔勅は畿内の出来事だろう。二月甲子朔の新羅の使者の金忠平の帰国、四月己亥朔の廣瀬龍田神の祭り、八月壬戌朔の順法の詔勅、冬十月辛酉朔の酒宴は九州の暦だ。金忠平は筑紫で饗応され九州の暦で記した。

 中宮天皇の崩御のため、天智天皇は夜の天皇で祭祀を、成務は九州の大海皇子が担当したのだろうか。そのため、実権を大海皇子に奪われ、壬申の乱が始まる、694年に大友太政大臣、日並天皇も再度の戦乱に対して持統四年、すなわち、文武四年700年に、高市太政大臣が軍務を遂行したのだろう。

 十二年春正月己丑朔の群臣の拝賀、二月己未朔の大津皇子が初出仕、夏四月戊午朔の銀銭廃止、六月丁巳朔の大伴連望多の薨、八月丙辰朔の大伴連男吹負の卒、九月乙酉朔の大風、冬十月乙卯朔の十四氏に連を賜姓、十一月甲申朔の戦術を習わす記録、十二月甲寅朔の国境の決定は正しい日干支、天智天皇の政策である。三月戊子朔の僧の統領を法に準じる詔勅は九州の政策だろう。秋七月丙戌朔の鏡姫王の見舞いは、『興福寺流記』に記される嫡室の鏡女王ならば、鎌足が薨去する692年時点でも生存中だ。藤原宮十二年の705年なのだろうか。もし、額田姫の母なら、世代的に相応しい。

2026年3月16日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天武天皇5

  八年六月庚戌朔の雹、十一月丁丑朔の地震、十二月丁未朔の恩赦は九州の暦で、筑紫での記録だ。それに対して、秋七月己卯朔の雨乞い、八月己酉朔の「貢女人」、九月戊寅朔の新羅遣使、冬十月戊申朔の治安の悪化は正しい日干支、畿内での記録である。

九年春正月丁丑朔の大宴会、三月丙子朔の巫鳥の献上、夏四月乙巳朔の廣瀬龍田神の祭り、六月甲辰朔の新羅の使者の帰国、八月癸卯朔の嘉禾の献上、冬十月壬寅朔の貧しい寺の僧や百姓への施し、十一月壬申朔の日蝕は正しい日干支、畿内の天智天皇の記録である。廣瀬龍田神の祭りが天皇交代時期681年や695年に九州の暦で記され、外交と廣瀬龍田神の祭る宗教の天皇、都督府の政務と行事の太子の切り分けができそうだ。

それに対して、二月丙午朔の東方で異音、五月乙亥朔の京内廿四寺への施し、秋七月甲戌朔の飛鳥寺西槻の枝が自然に折れた現象、九月癸酉朔の「馬的射」は都督府の記録なのだろう。

十年春正月辛未朔の幣帛を分け与えた記録、二月庚子朔の草壁皇子を皇太子にしたのは九州の暦だ。九年十一月に中宮天皇が崩じ、天智天皇が即位し、都督府の支配下の大海皇子が九州の王となったのだろう。三月庚午朔の阿倍夫人の葬、夏四月己亥朔の廣瀬龍田神の祭り、六月己亥朔の新羅饗応、九月丁酉朔の高句麗、新羅の遣使、十二月乙丑朔の新羅の饗応も九州の暦で、十二月の饗応は筑紫に派遣したと記した。 それに対して、五月己巳朔の皇祖の御魂を祀った記録、秋七月戊辰朔の朱雀を見た記録、八月丁卯朔の上毛野君三千の卒、冬十月丙寅朔の曰蝕、十一月丙申朔の地震は畿内の記録だ。

2026年3月13日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天武天皇4

  五年の九月丙寅朔、十一月乙丑朔、六年五月壬戌朔、十一月己未朔、十二月己丑朔の「朔告げず」は正しい日干支、天智天皇が朔日を公布していた。五年の冬十月乙未朔の酒宴も正しい日干支で676年の記録である。

六年春正月甲子朔の17日に行う射礼記録から八年五月庚辰朔甲申の吉野宮行幸までの記録は正しい日干支、天智天皇の記録なのだろう。六年二月癸巳朔の物部麻呂が新羅から来日、三月癸亥朔の新羅からの遣使、夏四月壬辰朔の杙田史の島流し、六月壬辰朔の大地震、秋七月辛酉朔の龍田風神、廣瀬大忌神を祀り、八月辛卯朔の飛鳥寺の大法会、九月庚申朔の浮浪人への課役、冬十月庚寅朔の民部卿、攝津職大夫の任命、七年春正月戊午朔の射礼、夏四月丁亥朔の十市皇女の薨去、冬十月甲申朔の不明な物の出現、十二月癸丑朔のアトリの飛来、八年春正月壬午朔の新羅の遣使、二月壬子朔の高句麗、新羅の遣使、三月辛巳朔の大分君の卒、夏四月辛亥朔の寺の由緒の調査、五月庚辰朔の吉野行幸が含まれる。天智天皇の記録が続いている。

しかし、七年四月丁亥朔の十市皇女薨去は日並の娘、生まれていないので、大化七年701年と考えられる。『薬師寺東塔の擦管』には「維清原宮馭宇天皇即位八年庚辰之歳」とあるように浄御原宮八年が680年だったのだから、天武八年の記録には680年の記録が記される可能性もある。それでも、無理やり記録を挿入しなければならないものはなさそうだ。

2026年3月11日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天武天皇3

三年春正月辛亥朔の百済王の昌成の薨は九州の暦、674年の都督府の記録なのだろう。二月辛巳朔は正しい日干支、壬申年の功労者の阿閇麻呂が卒、大紫位を贈った。三月庚戌朔の対島の銀献上は九州の暦で、都督府の記録だろう。秋八月戊寅朔の忍壁皇子を石上神宮派遣した記事、冬十月丁丑朔の大来皇女の伊勢派遣は正しい日干支、674年では皇子・皇女がまだ幼いはずだ。

四年春正月丙午朔の大学寮の学生たちから珍物・薬を贈られたのは正しい日干支、675年の記録だろう。二月乙亥朔の支配地からの芸人を集めたのも正しい日干支、三月乙巳朔の土佐からの刀の贈り物も正しい日干支、675年だ。夏四月甲戌朔の大法会、六月癸酉朔の大分君の病死は九州の日干支、都督府の出来事だろう。秋七月癸卯朔の新羅遣使は正しい日干支で天智天皇の記録、八月壬申朔の耽羅からの使者は九州の暦、都督府の記録だ。九月壬寅朔の耽羅王が難波に来た日干支、冬十月辛未朔の四方への遣使も、十一月辛丑朔の宮の東の山で奇怪な自死の日干支も正しい日干支で、畿内での記録だろう。

五年春正月庚子朔の朝拜は正しい日干支、畿内の記録、二月庚午朔の耽羅に船を与えた記事は九州の記録である。夏四月戊戌朔の龍田風神と廣瀬大忌神を祀った記録、五月戊辰朔の国司の調の遅れの記録、秋七月丁卯朔の爵位を与えた記録吾は正しい日干支、畿内の676年の説話だ。八月丙申朔の親王、皇女、重臣への食封の記録は九州の暦、676年の筑紫都督府の記録である。郭務悰の権力が天智天皇より上位だったようだ。

『日本世記』の記録なので、正しい日干支は天智天皇、九州の暦は都督府の記録のようだ。正しい日干支の記録は三・四・五年が浄御原三・四・五年(675・676・677年)と一年のズレがある可能性が高い。

2026年3月9日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天武天皇2

  元年春三月壬辰朔の郭務悰の哀悼は俀国の暦、695年の大化元年の記録と考えられる。夏五月辛卯朔の郭務悰への賜物は正しい日干支、都督府への献上なのだろう。六月辛酉朔の太皇弟の美濃逃亡は正しい日干支である。中宮天皇が都督府へ行き、皇弟が美濃に逃れた。秋七月庚寅朔の近江入りも正しい日干支で672年の説話だろう。八月庚申朔の高市皇子の罪状宣下の説話は俀国の暦、大宝元年だろうか。高市皇子は日並の娘十市の婿と考えられ、672年頃の高市皇子まだ生まれていない。九月己丑朔の桑名からの帰還、冬十一月戊子朔の新羅使の饗応、十二月戊午朔の勲功が有った者への加増は正しい日干支、672年の説話なのだろう。

二年春正月丁亥朔の宴会、二月丁巳朔の飛鳥淨御原宮での皇后就位は九州の暦、694年の遷都の説話だろうか。三月丙戌朔の白雉献上、大來皇女の天照大神宮の祭祀、夏五月乙酉朔の任官の心得も、秋八月甲申朔の紀臣阿閇麻呂の壬申年勲労も九州の暦、『続日本紀』で無位の紀臣の阿閇麻呂は紫冠を得ているので、日並による勲功なのだろう。九月癸丑朔、冬十一月壬子朔の新羅の金承元記事は正しい日干支、難波にやってきた。十二月壬午朔の賜祿や加級も正しい日干支で畿内の記録である。

壬申年之功労で、676年村國連雄依が小紫を贈られた。また、685年に當麻眞人廣麻呂、686年に羽田眞人八國が直大參から特進で直大壹を贈られた。しかし、716年に子たちに贈られたのは小依のみ、701年に贈られた人々が多数いる。爵位を贈られる大功の最後が八國の686年、この時八國が50歳代なら、その他の人々も同程度以上の卒の人物と考えられる。すると、716年の「功臣贈」は子息ではなく孫や曾孫となってしまい奇異だ。それが、700年前後の戦いとするならば、とても相応しい。また、雄依は701年に百廿戸の贈ではなく賜、死後は贈で賜は直接本人に与えることを言うはずだ。

2026年3月6日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天武天皇1

   天武天皇の記録は『新唐書』の天武・總持朝の記録(『日本世記』)の内容を記したと考えられる。天武・持統朝の記録があれば、『古事記』は不要だった。続き柄は元明天皇の続き柄と考えられる。『続日本紀』の文武・元明天皇は桓武天皇の血筋の天武・總持天皇の続き柄を記したと私は理解した。『粟原寺鑪盤銘』には694年に日並が皇太子の時、「惶惶」と恐れていた。近江朝(藤原遷都)天智天皇が病弱、筑紫都督府のもう一人の皇祖母の持統天皇が中国を後ろ盾に、かなりの権力を持っていたのだろう。

 鸕野皇女は天智天皇の世代、阿陪皇女はその娘か姪だろう。鸕野皇女は蘇我氏の娘で大海皇子はその婿、稲目の系譜である。天智天皇は馬子の系譜の古人の婿である。672年の壬申の乱は蘇我氏内の権力闘争で蘇我氏が壊滅した大戦争だったのだろう。大皇弟の蘇我赤兄の婿と考えられる有間皇子が敗れて、同族の蘇我山田石川麻呂の婿の大海皇子は筑紫都督府の中宮天皇に従い、天智天皇が畿内で成務を遂行した。壬申の乱は有間皇子の反乱と697年から704年の間に起こった、日並 (『新唐書』の天武天皇)と草壁の子の輕天皇との戦いである。

 天武天皇は浄御原御宇天皇と呼ばれる。そして、『古事記』は文武天皇の即位前、浄御原に天皇がいたと記す。天智天皇は近江で崩じた近江天皇、筑紫浄御原は大海皇子と草壁皇子が天皇である。草壁皇子薨去後、浄御原宮は日並の婿の高市太政大臣に任せ、藤原宮に遷ったようだ。

しかし、鸕野皇女が中国を後ろ盾に勢力を保ったのだろう。『大村骨臓器銘文』には清原宮→藤原宮→大宝元年と記され、日並は藤原宮(東宮)の天皇とわかる。東宮は聖徳太子、開別皇子、大皇弟(有間皇子)、日並が呼ばれる。九州俀国の首都に対する東国畿内の宮が東宮、それが皇太子と考えれば理に適う。

何故、大海皇子の朱鳥と文武天皇の大宝と改元したか。それは、筑紫で天皇だったからだろう。現代の元号は九州で建元された継体から始まった。文武浄御原天皇が筑紫で天皇になったから、大宝年号が建元され、中国人が筑紫都督府で見ていた。

2026年3月4日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天智天皇4

十年春正月己亥朔の蘇我赤兄の年始の挨拶は正しい日干支、670年だろう。二月戊辰朔の百済の遣使は俀国の暦、671年で正しいと考えられる。唐の駐留が始まり、百済の残務処理の相談なのだろう。五月丁酉朔の小殿での宴は俀国の暦、天武十年の宴と同じ記事かもしれない。六月丙寅朔の百濟三部の使人は正しい日干支、秋七月丙申朔は俀国の暦の百済記事は二月の記事の続きなのだろう。これ以降百済の使者の記事が無く、帰化した人々の記事のみになる。

八月乙丑朔の高句麗の使者も正しい日干支、百済と同じようだ。冬十月甲子朔の新羅の遣使は不明だが、新羅は百済での残党との戦況は思わしくなく、日本に使者を派遣する理由はある。

十一月甲午朔の筑紫君薩野馬の郭務悰の来日の先触れ記事は正しい日干支だ。六百人で恐れると記すが、天智八年には二千人、天智四年にも二百五十人が来日している。すなわち、それ以前の天智三年五月の来日記事と私は理解した。実際のこの来日は、筑紫都督府の高級官僚が来日したのだろう。天武元年は筑紫都督府元年と考えられる。

十二月癸亥朔の天皇崩は俀国の記事、694年の記録だろう。天武天皇即位前紀には天智十年を不明な四年と記す。天智即位は天智六年とする本があったと記すので、これは、ある本と書記編者が認めた記録の少なくとも2つの紀年があったことを意味する。一つは天智の長津宮元年、もう一つは白鳳元年である。従って、この四年は白鳳四年の孝徳天皇の崩御なのだろうか。

2026年3月2日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天智天皇3

  八年春正月庚辰朔は664年に遷都したと考えられる小墾田宮の八年、671年に蘇我赤兄が筑紫率に拝謁したのだろう。蘇我赤兄は数日前に左大臣になっている。三月己卯朔の耽羅遣使は正しい日干支、久麻伎遣使は673年と同じと考えられる。

夏五月戊寅朔の山科野の狩りは大皇弟が随行しているが藤原姓を名乗る鎌足を記す。『藤氏家伝』には、鎌足の葬に蘇我舎人臣が「内大臣朝臣」と呼び掛けている。朝臣は天武十三年に制定したとされている。すなわち、鎌足は692年に薨去した。690年に藤原への遷都を決め、692年遷都で、それを記念して藤原姓を与えられた可能性がある。この時、大嶋も藤原姓を名乗ったのだろう。そして、698年、不比等にのみ藤原姓の賜姓とした。朝臣制定時には藤原姓は含まれていない。 

筑紫都督府で統治した681年即位の草壁太子が大皇弟、草壁が日並にとっての大皇弟。すなわち、この時期の目線が日並からの目線の可能性が高い。秋八月丁未朔の高安城改修の中止、九月丁丑朔の新羅の遣使は正しい日干支、669年の記録と考えられる。唐からの命令なのだろう。

冬十月丙午朔の藤原内大臣家への見舞は俀国の暦、692年だろうか。それとも、この年に病気になったのだろうか。都督府の記録が俀国の、畿内の記録が正しい暦になったようだ。国名変更決定が影響したのだろう。唐の統治が始まった。

九年春正月乙亥朔の宮門内での大射、三月甲戌朔の中臣金連の祝詞、夏四月癸卯朔の法隆寺の火災は正しい日干支、670年の記録と考えられる。秋九月辛未朔の阿曇連頬垂を新羅に派遣したのは間違いの日干支、妥当な日が見当たらない。太陽暦の変換不良だろう。

年候補

9月辛未朔日 608 701

8月辛未晦日 644 737

9月辛未2日 391

2026年2月27日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天智天皇2

  四年春二月癸酉朔の間人大后の薨は俀国の暦、665年の出来事だろう。三月癸卯朔の間人大后のための三百卅人の出家は正しい日干支なので、違う年かもしれない。九月庚午朔の劉徳高派遣、十一月己巳朔の劉徳高饗応は俀国の暦、唐軍駐留が始まった。十二月戊戌朔の劉徳高への「賜物」は正しい日干支、白雉五年二月の劉徳高が船で帰った記事に続くのだろう。冬十月己亥朔の菟道訪問は正しい日干支、天智十年の記録、中宮天皇の宮五年なのだろうか。

五年春正月戊辰朔の高句麗の使者の能婁の来日は正しい日干支、夏六月乙未朔の能婁の帰国は俀国の暦、来日は朝鮮の記録なのだろうか。冬十月甲午朔の高句麗奄𨛃(あむす)の来日は俀国の暦、666年の記録で正しいだろう。

六年春二月壬辰朔の天豐財重日と間人皇女の合葬は正しい日干支、680年以降の記録だ。間人皇女が義姉妹での合葬は奇異だが、親子ならば理解できる。十一月丁巳朔の劉仁願の記録は正しい日干支、熊津都督府の記録可能性がある。

七年春正月丙戌朔は間違いの日干支、695年の日並の即位の可能性がある。また、浄御原七年、679年に中宮天皇が禅譲した可能性もある。二月丙辰朔の倭姫の皇后即位は俀国の暦、668年であっているだろう。夏四月乙卯朔の百済の使者来日は正しい日干支のため、いつのことか不明だ。高句麗も百済も王はこの年に退位したが、崩じて支持する土地や住民が消えたわけではない。668年に来日した記録が、公式ではなく、私的に旧倭国の豪族への訪問だった可能性がある。秋九月壬午朔と十一月辛巳朔の新羅の使節は俀国の暦、668年でよいだろう。

 

年候補

丙戌12 695(6941229日晦日)

丙戌2月朔日 668

2026年2月25日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 天智天皇1

     天智天皇紀は662年から671年と655年、そして685年から694年の記録が入り混じっていると考えられる。『日本世記』は『古事記』と似た紀伝体の記録と考えられるから、天智自身、白鳳、朱雀、朱鳥、長津宮、近江宮、浄御原宮などの紀伝が入り混じっているのだろう。晦日と朔日を区別する正式な日干支の暦と、中国が駐留するためなのか、中国式の晦日を朔日と混同する暦が入り乱れる。それを、編年体に纏めたのが天智紀である。

元年春正月辛卯朔と三月庚寅朔の百済への援助は俀国の暦、662年で、俀国が入鹿に命じられたのだろう。この時、六月己未朔の百済の返礼、冬十二月丙戌朔と二年春二月乙酉朔の百済の避城遷都、州柔帰還、夏五月癸丑朔の高句麗への説明は正しい日干支、倭国の記録だろう。秋八月壬午朔は俀国の暦、筑紫から白村江へ出航した記録なのだろう。九月辛亥朔の百済降伏は正しい日干支、倭国の記録のようだ。

三年春二月己卯朔の大皇弟の廿六階は俀国の冠位ならば663年でも有りうる。天智即位三年の670年二月に671年制定する冠位法度を創るように命じたのだろうか。大皇弟は中宮天皇が即位しないと大皇弟といえない。夏五月戊申朔、冬十月乙亥朔、十二月甲戌朔の郭務悰来日、平伏、帰国は正しい日干支、664年、乙巳の変の原因だ。唐への逆賊の入鹿と嶋皇祖母を排除した。

2026年2月23日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 斉明天皇2

四年春正月甲申朔は正しい日干支、左大臣巨勢徳太の薨去だが、左大臣の出現は蘇我大臣以降の664年以降と考えられるので、677年の説話と考えられる。左右大臣にはそれ以上の太政大臣などの天皇以外の人物が存在した可能性が高い。秋七月辛巳朔の蝦夷朝獻は俀国の暦、658年で正しい。蝦夷は高句麗が支援していたのだろう。高句麗の勢力が弱まり、倭国に支援を求めたと思われる。正しい日干支の冬十月庚戌朔の建皇子の薨は677年の説話だろう。

十一月庚辰朔の有間皇子の反乱は俀国の説話で658年なのだろう。蘇我赤兄がまだ大臣になっていない。俀国の内紛で、天豐財重日が王位に就いたのに不満があったのだろう。有間皇子が20歳以上なら有間皇子が俀国王になるはずだったと思われる。

五年三月戊寅朔の天皇の吉野幸は正しい日干支で678年の事だろう。秋七月丙子朔の唐遣使は678年の記事、坂合部連の小錦下の冠位は664年の制定だ。六年春正月壬寅朔も正しい日干支、679年の記事で、高句麗が滅亡し、筑紫に亡命者が百人余、遣ってきた。夏五月辛丑朔は俀国の暦、俀国の暦なので660年の記録なのだろう。660年の高句麗使者の乙相賀取文が679年に亡命してきたのだろうか。十二月丁卯朔の百済救国軍派遣は俀国の暦、660年の説話だ。倭王の命令なのだろう。

七年春正月丁酉朔の西征、三月丙申朔の娜大津帰還、五月乙未朔癸卯の朝倉遷都は正しい日干支、680年の説話だろう。661年は白村江の前夜の帰還は奇異だ。『三国遺事』に開耀元年(681年)、新羅文武王が倭を鎮めたいと願って感恩寺を創建している。朝倉遷都も倭国にとって、朝倉は無関係だが、俀国にとっては故地、中国が進駐している筑紫都督府にも近い。

秋七月甲午朔の天皇崩は正しい日干支、680年に崩じた中宮天皇は11月に崩御なので、漢王の薨去だろうか。八月甲子朔、冬十月癸亥朔の天皇喪、難波へは俀国の暦661年である。十一月壬辰朔の飛鳥川原の天皇の喪は俀国の暦だが、680年の喪の可能性も捨てられない。川原宮と無関係とは思えない川原寺は673年から686年まで『日本書紀』に出現する。

2026年2月20日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 斉明天皇1

  斉明天皇の記事は655年から661年と674年から680年の記録が混じっていると考えられる。九州の暦がこの時の常用の暦、『日本書紀』の編纂者は正しい日干支に、記録を当てはめたと考えられる。斉明前紀の「橘豐日天皇之孫」の橘豐日は『新唐書』の「用明亦曰目多利思比孤」の法興帝の可能性がある。子が漢王と妹の大俣王、婿が彦人、子が茅渟王、おそらく、茅渟王は漢王の娘を妃にしたのだろう。一代の抜けがあり、その子が高向王(天萬豊日・筑紫君薩夜麻)と考えられる。

天萬豊日の妃が間人皇女、その子が天豐財重日、婿も漢王と考えられる。天豐財重日は倭国の舒明天皇の妃では年代が合わない。天豐財重日の再婚相手が蘇我赤兄か石川麻呂ならば、相応しい。筑紫君薩夜麻は百済で囚われの身、天豐財重日が王位を代行したようだ。再婚しているのだから、漢王は薨去している。

元年春正月壬申朔は正しい日干支だが、674年に飛鳥板盖宮に遷都したのだろう。672年に中宮天皇は浄御原に遷都したので、680年は『薬師寺東塔の擦管』の「清原宮馭宇天皇即位」八年にあたる。夏五月庚午朔も正しい日干支、龍に乗る者を見た。唐を恐れた説話でやはり674年の唐軍が駐留していたので、恐れをもって唐を見ていたのだろう。秋七月己巳朔は俀国の日干支、蝦夷と百済人が亡命してきた。唐・新羅連合軍と高句麗・百済連合軍の戦いがあり、唐が翌年、帰って行った。百済は敗れ日本に亡命してきたのだろう。正しい日干支の八月戊戌朔の唐への使者が帰った記事、冬十月丁酉朔の小墾田再建記事だが、655年なのだろう。唐との交渉が失敗し、小墾田再建後、嶋皇祖母は遷都した。

二年秋八月癸巳朔は俀国の暦、高句麗からの使者の説話で、援助を求めたのだろう。二年秋八月癸巳朔は正しい日干支、覩貨邏国人の漂流記事だが、675年の記録の可能性が高い。

2026年2月18日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 白雉

白雉年間は、孝徳天皇の崩御が記されるのだから、650年から654年の記録と660年から664年の白鳳の記録が混じっている可能性が高い。

白雉元年春正月辛丑朔の味經宮の賀正禮と二月庚午朔戊寅の白雉献上は正しい日干支である。二月庚午朔戊寅は「正月九日於麻山獲焉」と俀国の『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』と同じ記法だ。正しい日干支に正しい日付である。 二年春三月甲午朔の丈六の繍像の完成、 三年春正月己未朔と三月戊午朔の大郡幸も正しい日干支である。これらの記録は次に記述する記録の時期を示すための記述のように感じる。俀国の白雉改元や倭国の戸籍の完成などの記録を朝廷の暦に接合するための記事だったのではないだろうか。 夏四月戊子朔の無量壽經の講義は俀国の記録、筑紫の記録と考えられる。

四年夏五月辛亥朔の唐への遣使は正しい日干支、653年の記録だろう。五年春正月戊申朔の「鼠が倭都へ」は正しい日干支、次項の中臣鎌足への紫冠授与の日付のための説話を含めたのだろう。遷都はこの時期にしたわけでもないが、記した理由だろう。白鳳五年665年の記録で、664年の大綿冠授与を本来記すべきだったのだろう。秋七月甲戌朔は正しい日干支、百済と新羅が筑紫に向かったのだから、百済滅亡前、654年の記録だ。

冬十月癸卯朔の天皇病疾は正しい日干支、664年の記録だ。十二月壬寅朔の大坂磯長陵埋葬も正しい日干支、664年の記録である。10年の欠落は、倭国滅亡時になくなった、記録を示している。

2026年2月16日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 大化2

  三年春正月戊子朔は正しい日干支、新羅と高句麗が遣使した。『日本世記』の元資料なのだろうか? 夏四月丁巳朔も正しい日干支、「我子應治」と天智に国を任せた。667年の事なのだろう。「與天地之初 君臨之國也」と新しく出発しようという意気込みだ。天智七年正月(668年)の天智即位記事の「或本云 六年歳次丁卯三月即位」がこれに対応する。唐の進駐軍のため小郡宮を建て替えた。冬十月甲寅朔の有間温泉行は俀国の暦、647年かやはり667年の記事なのだろう。正しい日干支は記録に残っているので、それを流用したと思われる。

正しい日干支の四年春正月壬午朔の難波碕宮幸は668年なのだろうか。中宮天皇が難波碕宮で神を祀り、天智天皇が難波碕宮に行幸したのだろう。最高実力者が元旦に皇居から出ることはないだろう。正しい日干支の二月壬子朔の三韓に僧を派遣したのは648年なのだろう。夏四月辛亥朔は俀国の日干支、古い冠位を廃止した。左右大臣が古冠を使い続けているので、668年と考えられる。白鳳5年、鎌足は紫冠を賜り、647年の冠位が続いている。

五年春正月丙午朔の賀正は間違いの日干支、2月朔日が丙午だ。倭国の太陽暦の変換ミスなのだろうか。この2月に大紫を含む官位を制定して、入鹿が大紫を得ている。三月乙巳朔の阿倍大臣薨は俀国の暦、669年の記録だろう。阿倍夫人が681年薨なのだから、相応しい。

夏四月乙卯朔甲午の冠位授与は間違いの日干支、乙卯と甲午は一月以上離れている。668年か倭国の太陽暦の変換ミスで、649年の記録だろうか。五月癸卯朔新羅遣使も間違いの日干支、該当する年が無く、太陽暦と考えられ、649年の記録だろうか。三輪君色夫の小華下の冠位は647年に制定された倭国の冠位だ。

 

年候補

丙午 1月朔日 582 675 768

丙午 12月晦日30 431 710

丙午 12(12月小月) 607 731

 

乙卯 4月朔日 637 668

2026年2月13日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 孝徳天皇・大化1

天萬豊日が即位した。『新唐書』が言うように天豐財重日の父、子の有間皇子が太子だったが、娘が皇位を継承した。『日本書紀』の大皇太弟天武は中宮天皇の弟の有間皇子の可能性が高い。有間皇子と蘇我赤兄が起こした謀反で赤兄が許されるとは思えない。赤兄の婿が天武天皇、有間皇子が婿ならよく理解できる。孝徳天皇の項目がない理由は、即位数ヶ月後、俄かに崩御したからだ。大甦娘が美濃津子娘と考えれば、大海皇子が蘇我倭国の皇位継承の正当性を持つ。

大化元年七月丁卯朔は正しい日干支、おそらく、茅渟王の娘の間人を皇后にした。天豐財重日の母なのだろう。664年の記録である。中宮天皇が即位した665年に間人大后と呼ばれ、薨去している。八月丙申朔も正しい日干支、戸籍を創った。戸籍は顕宗元年に押磐を山部連の籍に入れたとあり、戸籍制度は既にあった。九月丙寅朔も正しい日干支、兵力を調査した。665年若しくは695年の可能性がある。冬十二月乙未朔の難波長柄豐碕遷都は皇極四年にも記され、645年と664年と665年、倭国と俀国の首都なのだろう。

二年春正月甲子朔は間違いの日干支、645年12月30日で、「改新之詔」の名が大化の改新ならば、696年なのだろう。挿入間違い? 二月甲午朔は正しい日干支、蘇我右大臣に詔勅させたのだから666年だろう。野中寺の『銅造弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框』に「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時」と中宮天皇の具合が悪かった。だから、代読させたのだろう。三月癸亥朔は正しい日干支、東国の臣下に詔勅を述べた。『那須国造碑』で永昌元年689年に那須国造が追大壹を得ていりので、それ以前、やはり、詔勅は666年のことだろう。俀国王は常用が九州の暦、正しい日干支は借り物の暦と理解するべきだろう。

 

年候補

甲子 1月朔日 677

甲子 12月晦日30 645

2026年2月11日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 皇極天皇3

   五月庚戌朔は俀国の日干支、5月2日の干支である。月食は15日に発生するので癸亥に発生したが、2日ズレ、17日の乙丑にしてしまったのだろう。六月己卯朔は正しい日干支、高句麗からの遣使だ。秋七月己酉朔は俀国の暦、百済国が朝廷に調を献上したが、不和があったと記している。俀国に都合がよい記録である。八月戊申朔は正しい日干支、茨田池に藻が異常発生したようだ。九月丁丑朔は俀国の日干支、茅渟王の埋葬なのだろう。640年に改元しているので、豊浦王と同時期に崩御したのだろうか。冬十月丁未朔は正しい日干支、朝堂庭に臣下を集め、地位の継承を宣言した。吉備嶋皇祖母から鎌媛大刀自に女王の政権交代があった。子の蝦夷が成人していたなら、最初から即位している。十一月丙子朔は俀国の暦、山背大兄王を攻撃した。『舊事本紀』が嶋大臣の子の豊浦大臣を蝦夷なのに入鹿と記すのと同様の一世代削除の現象があるのだろう。

三年春正月乙亥朔の中臣鎌子を神祗伯にしようとしたのは俀国の暦だ。藤原氏の『家傳』には崗本天皇の世に錦冠を得、三島の別業に帰ったと記され、すぐに「俄而崗本天皇崩」と記される。そして、錦冠を賜ったが、すぐに紫冠を白鳳五年665年に賜った。それは、天萬豐日天皇が俄かに崩御し、庶務を委ねられた皇太子から賜ったと記されている。すなわち、俀国の暦の記述は中宮天皇の記録を挿入した、665年正月朔日の記録を643年12月晦日、俀国歴664年1月朔日に挿入したということだ。夏六月癸卯朔は正しい日干支、大伴馬飼が百合を献上した。

四年夏四月戊戌朔は俀国の暦、学問僧の鞍作得志の高句麗帰国の説話なので、朝鮮の暦かもしれない。六月丁酉朔は正しい日干支、乙巳の変の計画だ。664年の大紫蘇我連大臣(入鹿)と嶋皇祖母(法提郎)の崩御にあたる。

2026年2月9日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 皇極天皇2

    元年春正月丁巳朔は正しい日干支、皇后が即位した。入鹿の説話は斉明天皇の時代の記録と考えられる。二月丁亥朔も正しい日干支、百済と高句麗との外交だ。新羅との戦いが始まり、どう対抗するかを話し合ったのだろう。三月丙辰朔も正しい日干支で天候の記事、その後に新羅の使節記事、来て帰ったとそっけない。会談は失敗したのだろう。夏四月丙戌朔も正しい日干支、百済の翹岐が来日し、蘇我大臣と会った。

五月乙卯朔己未も正しい日干支、5月5日薬狩りの日だが射猟。この年の夏至は5月18日、その頃に薬狩りをしたのだろうか。但し、その日に百済の使者が遣ってきた。六月乙酉朔も正しい日干支、大旱魃で、やっと小雨が降る異常気象で、秋七月甲寅朔も正しい日干支で、不吉の象徴だったのだろう。八月甲申朔も正しい日干支でやっと大雨が降った。

九月癸丑朔は俀国の暦、畿内は寺、造船は俀国に命じたのだろうか。冬十月癸未朔も正しい日干支、大地震があった。十一月壬子朔は俀国の暦、九州で大きな雷雨があったのだろう。十二月壬午朔も正しい日干支、まだ異常気象が続いたようだ。

二年春正月壬子朔も正しい日干支、大きな虹が架かったようだ。二月辛巳朔に桃の花が咲き、三月辛亥朔に百済の客舘堂が焼け、夏四月庚辰朔に大風雨、すべて正しい日干支で、1年近く異常気象が続いた。

2026年2月6日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 皇極天皇1

皇極天皇から天智天皇の説話は大化中の天皇(701年以降703年迄)が記した記録が基本線である。天智天皇の子や孫の死亡時の年齢、不比等の死亡時の年齢から、乙巳の変は664年、白鳳4年のことだ。すなわち、六月丁酉朔戊申が正しい日干支でも正しいと言えないことになる。

倭国は太陽暦の併用、俀国は中国風の暦、そして、朝廷の公式文書は正しい日干支、これらが混在した。大化6年以降の天武天皇が稗田阿禮に記させた内容は『古事記』と同じく蘇我氏の太陽暦の内容だった。そして、出来上がったのが『日本世記』、712年に元明天皇の手に入った。それに、天武・持統紀を付け加えて編纂したのが『日本書紀』である。

安萬侶を天武紀の壬申の乱に記さないのは、この時まだ幼少で7歳程度、723年卒去で60歳程度だった。実際の壬申の乱は700年頃、安萬侶は天智天皇の子の天武天皇に仕えた可能性が高い。

642年から664年までの記録は乙巳の変で焼かれ、他氏族の記録を寄せ集めただけだ。それぞれの氏族の記録は住んだ宮の経過年数が解るだけだっただろう。世代が変わっても襲名するから同一の名前である。二世代目も1年から始まって重複したかもしれない。したがって、『日本世記』は絶対年が不明な紀伝体だった。それを、『日本書紀』の絶対年の編年体に置き換えた。すなわち、大化元年は中宮元年、白雉元年は俀国の孝徳元年、天智元年は白鳳元年ということだろう。乙巳の変や壬申の乱は元明天皇が名付けた戦乱なのだろう。大化の改新を名付けたのが歴史家であるように。

2026年2月4日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 舒明天皇3

  九年春二月丙辰朔の流星も正しい日干支、三月乙酉朔丙戌の日蝕は俀国の日干支だ。2日に日蝕は起こらないし、乙酉は30日晦日、丙戌が朔日だ。

十年秋七月丁未朔の大風、十一年春正月乙巳朔の有馬温泉からの帰京は正しい日干支、冬十一月庚子朔の新羅饗応も正しい日干支だ。新羅が高麗から攻撃を受けたので、友好国の倭に使節を新羅が送ったのだろう。

十二月己巳朔も正しい日干支、伊豫温泉に向かい、十二年春二月戊辰朔の星入月も正しい日干支だ。夏四月丁卯朔の伊豫から廐坂宮へ向かったのは俀国の暦、俀国王のようだ。正しい日干支の五月丁酉朔の法会、冬十月乙丑朔は新羅が百済を引き連れて来日した。百済は義慈王の即位直後、唐に朝貢したので、新羅の配下という建前なのだろう。

十三年冬十月己丑朔も正しい日干支で、天皇が崩じた。付け加えた丙午の天皇への誄は664年、天萬豊日孝徳天皇の崩御に対してだろう。この時、天智は16歳なのだから、また、実際は生まれていないので即位できず、668年に成人して即位と記された。661年に13歳なので、太子になった。舒明紀を編んだのは天智天皇、天智天皇に都合よく記すことができる。元正天皇の都合で大化を皇極天皇の後ろに挿入している。元正天皇の王朝は大化六年に始まったからだ。

皇極天皇は豊浦大臣の妃の吉備嶋皇祖母、すなわち田目皇女(鎌媛大刀自)だろう。蝦夷がまだ成人していなかったので、即位できなかったのだろうか。鎌媛大刀自は小治田・豊浦宮の参政なのだから、豊浦大臣妃の吉備嶋皇祖母、小治田と豊浦の皇祖母を意味したのだろう。

2026年2月2日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 舒明天皇2

  元年春正月癸卯朔は正しい日干支、豊浦皇子が天皇の璽印を得た。璽印は推古と舒明のみの記述で、法興帝が天子という地位に相応しい皇帝の印を作らせたのだろう。それを受け取ったのが推古前紀、日付を特定しない。そして、倭国に臣従する記しとして、舒明元年に舒明天皇に献上した。それ以前は「」、「天皇のしるし」だった。変わったのは俀国王が中国風の璽印を推古即位以前591年・法興元年に作ったからなのだろう。それを、天智政権が挿入したと考えられる。

夏四月辛未朔は俀国の暦で、屋久に使者を送った。「寶皇女爲皇后」の二年春正月丁卯朔は不明な日干支、候補日は665年のみだ。やはり、太陽暦の影響だろうか。中宮天皇の子たちの説明で、無関係とは言えない。三月丙寅朔、秋八月癸巳朔、九月癸亥朔は中国・朝鮮外交で正しい日干支だ。冬十月壬辰朔も正しい日干支、岡本宮遷都である。

三年春二月辛卯朔の掖玖人帰化、三月庚申朔の豊章人質も正しい日干支である。秋九月丁巳朔、冬十二月丙戌朔の温泉旅行も正しい日干支だ。四年冬十月辛亥朔、五年春正月己卯朔の対唐外交も正しい日干支である。百済外交で七年夏六月乙丑朔は正しい日干支、秋七月乙未朔は俀国の日干支である。この年は新羅が唐から楽浪郡公に賜姓され、百済は追い詰められたため、俀国にも支援を申し入れたのだろう。

八年春正月壬辰朔の日蝕は正しい日干支、秋七月己丑朔の労働時間の制定も正しい日干支である。大派王、世代的に大俣姫の子の茅渟王が舒明天皇に進言した。桑田姫が高向王の妃と考えている。

卯始朝之 巳後退之」は5~7時の夜明けから日没までの12時間前後と私は考えている。時間を計るのは太陽、午刻ならば昼までで理解できるが、巳刻は計れない。日の出から日没、一刻の長さが季節によって違う時代、標準時など無い。

 

年候補

丁卯130日晦日  665

2026年1月30日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 舒明天皇1

  夏四月壬午朔辛卯の雹零は推古・舒明期間中に当てはまらず、全く不明である。但し、辛卯の日は4月15日、『古事記』の豊御食炊屋比売の崩御が3月15日、偶然なのだろうか。倭国は太陽暦、陰暦への換算ミスか。四月壬午は6日、3月6日は『日本書紀』の推古天皇の崩御日である。これも偶然か。推古・舒明・乙巳の変は天智天皇が記させた、天智天皇に都合の良いものだ。聖徳太子が記されたのも、俀国皇太子だったのだから当然だ。

舒明天皇が彦人大兄の子としているが、舒明天皇は倭王なのだから、豊浦大臣、田眼皇女(鎌媛大刀自)が皇后である。彦人大兄の子というのは、俀国の王が彦人の子の茅渟王だったのだろう。日本の史書は兄弟の妃も天皇の娘に組み込まれた。太子たちの彦人・豊浦・麻伊古の妃を彦人の妃に組み込んだのだろう。例えば、用明天皇の妃は豊御食炊屋姫の婿の親や、義理の姉妹を組み込んだ。葛城直磐村の娘の廣子と息長眞手王の娘の廣姫は同一人物、子の麻呂子(彦人)、菟道磯津貝皇女も酢香手姫も伊勢の女王になった。

舒明天皇息長足日廣額の名は息長眞手王の娘の子だからだ。田村王の子ならば田目皇子が可能性大だ。したがって、秋九月己巳朔の推古帝の殯も俀国の暦の634年くらいしか当てはまらない。俀国王の彦人の崩御だろうか。628年、恵佐古大連が崩御し、布都姫の後継者の鎌媛大刀自が夫の豊浦(田目)皇子に皇位に就かせたのだろう。倭国政権の誕生だ。皇太子は蝦夷、626年推古卅四年に馬子が薨じ、後を継いで豊浦皇子が倭王、皇太子蝦夷が大臣である。

 

年候補

壬午4653 330日晦日 596

己巳830日晦日  634 9月朔日 598

2026年1月28日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 推古天皇5

  廿七年夏四月己亥朔、廿八年十二月庚寅朔の珍現象は正しい日干支、畿内の記録だ。『舊事本紀』廾八年春二月甲午朔は間違いの日干支で『舊事本紀』の編纂は646年のこと。蘇我右大臣に、「侍卿、臣連 國造、伴造及諸百姓」を集めさせて即位を宣言した。この時、『舊事本紀』の作成と『日本書紀』の推古・舒明朝の記録を命じたのではないだろうか。一年で『舊事本紀』をまとめ切れるとは思えない。春三月甲子朔の「君后不忠者・妣に対する不孝者・それを隠した者」を重罪と宣言したのも646年だろう。

廿九年春二月己丑朔の「厩戸豐聰耳皇子」の薨は正しい日干支、麻伊古の薨去だったのだろうか。麻伊古の大連の賜姓は無いが、大連と記され、太子だった可能性が高い。上宮法皇は622年、「法興元丗一年歳次辛巳」621年の翌年の二月廿二日に薨去している。『舊事本紀』も壬午年622年だ。以降、俀国の記録が1年のズレを生じさせた。

卅二年夏四月丙午朔の「歸三寶具懐戒法」は前年、秋九月甲戌朔「校寺及僧尼」も、冬十月癸卯朔も前年の623年、この王は馬子の甥、彦人の子の茅渟王のようだ。卅三年春正月壬申朔は前年の624年、高麗王が僧惠潅を派遣した。隋と敵対する俀国と友好に務めたのだろう。これに対して夏五月戊子朔の大臣薨去は正しい日干支である。

卅六年春二月戊寅朔の「天皇臥病」は間違いの日干支で654年のようだ。654年に「高麗 百濟 新羅遣使奉弔」と弔問にやってきている。この頃、『古事記』から解るように、倭国は太陽暦を使用していたようで、崩御の戊子年の三月十五日癸丑、三月癸丑の日はピッタリだ。

三月丁未朔戊申の「日蝕」の日干支は九州の暦、戊申の日が朔である。2日に日蝕は起きない。

 

年候補

甲午2月朔 584 646

甲子3月朔 589 646

年候補

丙午4月朔 623 654

2026年1月26日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 推古天皇4

  十七年夏四月丁酉朔、五月丁卯朔は正しい日干支、百済外交で倭国の記事だろう。十八年冬十月己丑朔は俀国の暦、新羅との記事である。廿年春正月辛巳朔も俀国の暦、酒宴の記事だ。歌の中に「於朋耆彌(おほきみ)」、『俀国伝』の「阿輩雞彌」は同一人物なのだろうか。

廾年春二月朔は正しい日干支、「改葬皇大夫人堅鹽媛」は『古事記』の橘豊日の妃の「意富藝多志比賣(おほぎたし)」、『日本書紀』の石寸名(いしきな)と考えられる。堅鹽媛は推古五年に薨去していたのではないだろうか。推古即位は39歳推古五年である。崇峻崩後の5年間は天皇が居ないことになる。推古五年まで、皇大夫人が最高権力者だったのではないだろうか。

廿一年十二月庚午朔は正しい日干支、片岡に遊んだ太子は麻伊古だろうか。廿二年六月丁卯朔、廿三年十一月己丑朔は俀国の暦だが、百済は俀国と対立しているので、百済の記録なのだろう。朝鮮も中国の暦を使っている。

『舊事本紀』では廿二年六月丁卯朔の日干支の時に、麻伊古に代わって物部恵佐古連が大連(太子)になった。聖徳太子はまだ生存中だ。廿六年秋八月癸酉朔は正しい日干支、高麗からの貢献で、秦王国の記事だ。倭国は隋に朝貢しているのだから、隋と対立した高麗は倭国に朝貢しないだろう。

『舊事本紀』の廾七年冬壬戌朔は間違いの日干支、630年11月だろうか。この冠位制定は、秦王国から見た冠位、『日本書紀』では推古十二年604年、おそらく、倭国の冠位だったのだろう。秦王国の崩壊は629年の舒明即位によってだった。翌年、倭国の冠位を受け入れたのだろう。

 

年候補

冬壬戌朔(1012)

壬戌12月朔604年 10月朔625 11月朔630 12月朔661

2026年1月24日土曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 推古天皇3

  七年夏四月乙未朔、秋九月癸亥朔は正しい日干支、大地動が発生し、百済がその見舞いを行ったのだろう。三月甲申朔は俀国の暦で、新羅が領有する任那を守るために高麗・百済に使者を送った。冬十一月庚辰朔は正しい日干支、新羅攻撃を相談している。十年春二月己酉朔と夏四月戊申朔は俀国の暦、新羅討伐の将軍の來目皇子が筑紫にやってきた記事だ。

六月丁未朔は正しい日干支、來目皇子が病に臥し、新羅攻撃を中止した。十一年春二月癸酉朔と夏四月壬申朔は俀国の暦、筑紫での情報で、來目皇子が薨じ、兄の當麻皇子が将軍になったという知らせなのだろう。秋七月辛丑朔は正しい日干支で、當麻皇子が難波を出た。冬十月己巳朔の日干支は正しく、小墾田宮に遷都した。豊浦宮は倭国の宮で皇子が豊浦皇子なので、理に適う。それまでは倉梯宮が首都だったのだろう。

十一月己亥朔は俀国の暦、太子が「我有尊佛像」と述べている。俀国伝によく合う。十二月戊辰朔、十二年春正月戊戌朔は正しい日干支、畿内の記録だろう。『日本書紀』は「徳仁禮信義智」、俀国伝は「德仁義禮智信」と位順が違う。夏四月丙寅朔は俀国の暦、憲法十七條は上宮法皇の制定である。十三年夏四月辛酉朔、五月甲寅朔は正しい日干支、高麗から祝いが届き、倭国・秦王国の記事ならよく合う。与えた領土も坂田郡、息長氏の領地だ。

十五年春二月庚辰朔も正しい日干支で壬生部を定めた畿内の記事だ。秋七月戊申朔は正しい日干支、煬帝との面会が翌年大業三年なのだから、俀国に連れられて隋に渡ったのだろう。608年、十六年六月壬寅朔、秋八月辛丑朔、秋九月辛未朔の唐客裴世清の記事も正しい日干支で、俀国で不調だったので、倭国と友好関係になったのだろう。大業六年610年に倭国は隋に朝貢した。俀国は607年から隋と断交したので、よく合う。

2026年1月23日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 推古天皇2

  推古紀と舒明紀は倭国政権が記した。推古朝は秦王国の物部氏の政権ではあるが、倭国が実質権力者だったと考えられる。

元年夏四月庚午朔は俀国の日干支、立太子は、上宮法皇の説話で廄戶豐聡耳は「利歌彌多弗利」である。多弗が塔ならば、上塔、上宮とよく合致する。二年春二月丙寅朔は正しい日干支、「令興隆三寶」の太子は贄古の弟の麻伊古大連と考えられる。大連が二人同時に存在するのは、天皇の夫と皇太子が対等ということを示す。

『舊事本紀』の二年春三月丙寅朔は間違い、4月2日と考えられ、俀国の記録を正しい日干支に変えた可能性も否定できない。畿内では敏達六年にも造寺工が来て、大別王の寺を改修した。敏達十四年にも守屋が寺に詣でている。この年に寺を焼いたとある。用明二年にも攝津国に四天王寺などを建立、崇峻三年には櫻井寺があった。ただし、四天王寺は推古元年に造り始めているので、崇峻元年が推古元年のことである。

三年五月戊午朔は正しい日干支、高麗僧の惠慈が帰化した。高麗は秦王国の友好国、太子は麻伊古大連の可能性が高い。五年夏四月丁丑朔も正しい日干支、倭・秦王国の記事で、百済が朝貢した。

冬十一月癸酉朔は俀国の暦、新羅に使者を派遣し秋波を送っている。俀国は新羅、倭国は百済と友好国が決まり、白村江に繋がったのだろう。それに対して、新羅は六年秋八月己亥朔、正しい日干支、孔雀を秦王国に送った。冬十月戊戌朔は俀国の暦で、越が白鹿を献上した。外交の主導権を争っている。

 

年候補

丙寅3月朔 599 630

 丙寅230日晦日、3月2日該当なし

2026年1月21日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 推古天皇1

  推古天皇は『舊事本紀』によれば、576年18歳で妃になり、天皇は592年34歳で崩御した。592年崩御した天皇は崇峻天皇(守屋)で、崇峻天皇の婦人は布都姫夫人である。『舊事本紀』は『古事記』も『日本書紀』も知っているので、皇妃になった歳、死別した歳、天皇の在位期間5年を知っている。39歳即位は両書に対応させた結果だろう。『新唐書』は多利思北孤が用明天皇と理解しているので、推古天皇時は崇峻と用明は同時に天皇だったと理解されているはずだ。

豐御食炊屋姫の娘婿は俀国王と考えられる彦人、俀国皇太子聖徳、倭国初代天皇舒明だ。彦人は『隅田八幡神社人物画像鏡』によると、推古三十一年・623年に大王になったようだ。上宮法皇が薨去したのが622年、翌年皇太子を引き継いだのだろう。彦人の妃は贄古大連と布都姫の娘の小墾田皇女だ。小墾田宮で生まれたから小墾田皇女と名付けられるのは合理的だ。

入鹿は乙巳の変が664年に起こっているので、年齢的に鎌媛大刀自の孫にあたる。入鹿の祖母が弓削大連の妹、守屋の子が弓削と鎌媛大刀自(田眼皇女)、田眼皇女の夫は豊浦舒明天皇、子が蝦夷、孫が入鹿だ。菟道皇女は東宮聖徳妃、593年に皇太弟になった上宮法皇の妃によく合致する。

『舊事本紀』の冬十二月壬申朔の「皇后即天皇」は俀国の暦、東漢直駒の妃の河上娘が倭王に即位したのだろう。推古紀を記したのが蘇我氏、理に適う。推古天皇が39歳で即位となっているのだから、それまでは駒が倭王だったのかもしれない。元年春正月壬寅朔は正しい日干支、法興寺が建設中である。法興帝が即位した記念に建立するのは理解できる。法興帝の畿内出張所なのかもしれない。法興寺建立が588年の崇峻元年になっているが、『舊事本紀』に従うならば、593年になる。「法興」という漢語、文字が普及した秦王国と法興帝、どちらが相応しいのだろうか。

2026年1月19日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 崇峻天皇

  用明二年八月癸卯朔は正しい日干支、崇峻天皇が即位した。『日本書紀』は大臣が蘇我馬子宿禰、『舊事本紀』では誰も賜姓されていない。馬子すら大臣と記していない。『舊事本紀』においては、守屋が敏達十四年九月から大連という天皇だ。布都姫が皇后である。

倭国は崇峻元年三月に長谷部若雀が稲目の王朝を継承した。稲目の娘の小姉君の婿の薨後、小姉君の娘の穴穗部間人が倭女王、皇祖母となった。倭王位は夫から兄弟に遷ったに過ぎず、最高権力者は変わっていない。崇峻天皇に皇后が記されない理由だ。

 大伴糠手連の娘の小手子は日付を記述せず『古事記』にも記述がない。これは、俀国の記事と考えられる。馬子の子が夫ならば、馬子の娘婿が俀国皇太子と思われる東漢直駒と、互いに姻戚関係を密にしたことになる。政略としては理に適う。馬子の妃は不明だが、目大連の子に馬古が存在し、目大連、すなわち大伴氏(?小手子)の婿になったのだろう。同世代に有名人同士が同名はないのでは?

二年秋七月壬辰朔は正しい日干支、東国視察の記事は守屋が東方も勢力下にしたのだろう。四年夏四月壬子朔も正しい日干支、「葬譯語田天皇」は奇異で、591年は法興元年、前俀国王を埋葬したのだろうか。ただし、俀国は晦日が朔なので、倭王や秦王国王が参列した記録なのだろうか。それとも、小姉君が薨じたのだろうか。秋八月庚戌朔、冬十一月己卯朔は正しい日干支、朝鮮関係の外交は秦王国と倭国が完全に主導権を得たようだ。

 五年冬十月癸酉朔も正しい日干支で、守屋と馬子の確執の発端となった。そして、十一月癸卯朔も正しい日干支、馬子の娘の河上娘の婿の東漢直駒が泊瀬部天皇を殺害した。

2026年1月16日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 用明天皇

   九月甲寅朔戊午は正しい日干支、御狩が即位、太子が守屋だ。『舊事本紀』では、敏達天皇の崩御が587年、用明二年、守屋が大連と大臣を兼ねたということは、守屋が倭国の大臣を兼ねたのだろう。橘豐日は『古事記』によると585年の崩で、穴穗部皇子と考えられる。用明天皇が穴穗部間人皇女に婿入りして穴穗部と名乗った。実質の倭国の権力者は稲目の娘の石寸名の婿の馬子だ。

堅鹽媛は稲目を襲名した後継者の妃、小姉君は尾輿の妃、先代の稲目は弓削連の祖の倭古連と呼ばれたと考えられる。堅鹽媛の娘の豊御食炊屋姫も夫が守屋、弓削連と呼ばれる。

 元年春正月壬子朔は正しい日干支、穴穗部間人皇女を皇后にした。穴穗部間人が実質の用明天皇と解る。この世紀の倭国は皇祖母、夫人が治める女帝の時代とも呼べる。二年夏四月乙巳朔も正しい日干支で、新甞祭を行った。

六月甲辰朔も正しい日干支で穴穗部皇子は6月に崩じ、秋七月甲戌朔甲午は正しい日干支で、磐余池上陵に葬られた。7月に廐戸皇子が守屋と戦うが、「束髮」、すなわち、15・16歳と記している。これは、593年になれば成人、昼になったら弟に成務を任せられる。591年即位の法興帝の皇太弟にピッタリな年齢だ。菟道皇女を妃にしたのが聖徳法皇の可能性が高くなった。『新唐書』は橘豊日を目多利思比孤だと記している。多利思比孤は591年即位した。菟道皇女が干食王后なのか。それとも、聖徳太子が多利思比孤、菟道皇女が鬼前太后か。

2026年1月14日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 敏達天皇2

  五年春三月已卯朔も俀国の日干支だ。豊御食炊屋姫が576年18歳で皇后になったのならば、敏達十四年は廿七歳、『舊事本紀』によれば、卅四歳に渟中倉太玉敷崩御、この年が587年、587年は用明崩御の歳、卅九歳は592年で崇峻崩御である。すなわち、『舊事本紀』の豊御食炊屋姫は崇峻皇后の布都姫夫人である。そして崇峻天皇は守屋である。587年は用明天皇が崩御、584年、敏達十三年に三代目稲目の宮の王、おそらく、馬子の義母の小姉君が皇祖母で崩御した可能性がある。二人の推古天皇、この皇后は『舊事本紀』の推古天皇ではない。

六年春二月甲辰朔は正しい日干支、日祀部と私部を置いた。夏五月癸酉朔、冬十一月庚午朔も正しい日干支、百済に大別王と小黒吉士目を大使に派遣した。大別は仁徳天皇の末裔と考えられ、扶桑国王、既に寺を持っていた。七年春三月戊辰朔も正しい日干支で、橘豊日の皇子池邊皇子が菟道皇女を妃にした。代わりに酢香手姫が伊勢に派遣されたのだろう。この菟道皇女は東宮聖徳妃、彦人の(?義)弟が聖徳太子だ。彦人は俀国王、妃が小墾田皇女、廣姫の娘の菟道皇女は義姉妹を子に含めたのだろうか。それとも、俀国皇太弟、聖徳の妃として含めたのだろうか。『上宮聖徳法王帝説』には菟道皇女は妃とされない。『新唐書』には用明=俀国王、皇太弟が上宮法皇である。

十二年秋七月丁酉朔も正しい日干支で、任那復興のため百済に使者を派遣した。十三年春二月癸巳朔は俀国か朝鮮の日干支、難波吉士木蓮子を新羅に送り、任那に行った。十四年春二月戊子朔は正しい日干支、蘇我大臣が塔を建て、大法会を行った。三月丁巳朔は俀国の日干支、馬子は俀国から稲目の宮に婿入りしたのだろう。秋八月乙酉朔も正しい日干支で、『舊事本紀』も同様だ。御狩の崩御である。

2026年1月12日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 敏達天皇1

    敏達紀も基本的に欽明紀と同じ状況で、記述したのは馬子が中心だ。正しい日干支は秦王国と倭国、九州の暦は俀国と朝鮮記事だろう。天皇は世代を考えると秦王国が二代目の尾輿、太子が御狩、倭王は三代目の稲目?太子が馬子だろう。御狩の子が守屋の孫を妃にしているので、世代がもっと後だ。『古事記』によれば三代目の稲目の薨去は584年(敏達十三年)である。

元年夏四月壬申朔は正しい日干支、三代目の稲目が即位した。『舊事本紀』は物部大市御狩が大連だが、尾輿、天皇、世代的に皇太子になったのだろう。

『日本書紀』は守屋(初代?)が大連だが、初出は敏達十四年、大臣(弓削)になっている。馬子が倭王、皇太弟が守屋になったのだろう。五月壬寅朔も正しい日干支、高句麗の使者が大井宮に迎えられた。

二年夏五月丙寅朔は俀国の日干支、大伴氏の後ろ盾の吉備は俀国領だったようだ。吉備五郡も俀国領だったものを、倭国と秦王国で分けた。秋七月乙丑朔も俀国の暦ならば、この難波は福岡になる。もしかすると、高句麗の暦なのかもしれない。秦王国の暦ならば共に542年になる。

八月甲午朔、三年夏五月庚申朔、秋七月己未朔も正しい日干支で高句麗の使人についての説話である。冬十月戊子朔丙も正しい日干支で、馬子大臣がさらに俀国領の吉備から領地を奪った。

四年春正月丙辰朔は俀国の日干支、廣姫は俀国の后のようだ。菟道磯津貝皇女は橘豐日の妃にしたが、聖徳太子妃とある。『日本書紀』編者は橘豐日イコール聖徳太子と理解している。二月壬辰朔は間違いの日干支で、574年が正しいのだろう。馬子が倭国太子になって京に上り、復命ではなく命令された。夏四月乙酉朔は正しい日干支で、新羅・百済・任那に使者を送った。

 

年候補

丙寅5月朔日 542 666

乙丑7月朔日 485 542 609

壬辰2月朔日 517 543 574 641

2026年1月9日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 欽明天皇3

  十五年春正月戊子朔も正しい日干支だが、立太子なので俀国の王朝交代と考えられる。火中君が王になったのだろう。廿九年にも立爲皇太子の記事がある。三月丁亥朔と夏五月丙戌朔も正しい日干支で、百済関係の記事だ。秋七月己卯朔も正しい日干支で、倭国が吉備も配下にした。三月丁亥朔、夏五月丙戌朔も正しい日干支で、百済威徳が即位した554年以降598年まで、高句麗との戦乱がない。秦王国の仲介のおかげなのだろうか。秋七月己卯朔も正しい日干支、吉備五郡を倭国稲目と秦王国穂積氏とで分け合っている。

秋七月甲戌朔は俀国の暦で、備前兒嶋を葛城山田直に与え、備前兒嶋は俀国領だったのだろう。直と同じ、もしくはそれ以上の位の田令という地位だったのを追認したのだろう。十八年春三月庚子朔は正しい日干支、しかし、威徳王は554年(欽明十五年)に即位したことになっているがこの年に正式に王となったのか。百済は戦乱が続き、王位が空白だったのだろう。

秋七月己巳朔も正しい日干支、新羅が任那を滅ぼし、新羅人が河内に入植した。秦王国が新羅も援助していたことが理解できる。卅年春正月辛卯朔も正しい日干支、国が安定し籍を定めた。卅一年春三月甲申朔も正しい日干支、稲目が薨じた。稲目の宮は584年まで、廣國押武金日死後の宣化元年536年から渟中倉太珠敷崩御までの49年間続いている。建小広国押楯から続く宮だったのだろう。

夏四月甲申朔、秋七月壬子朔も正しい日干支、高麗使人が越に流れ着いた。即位若干の王、当然稲目の後継の倭王である。卅二年春三月戊申朔も正しい日干支だが、相手は新羅、秦王国は新羅の任那併合を許しているので、これも倭国の説話だろうか。倭国は白村江で百済側、新羅と敵対している。夏四月戊寅朔も正しい日干支、天皇寢疾不豫と危篤状態になった。秋八月丙子朔も正しい日干支、新羅の弔使も秦王国への弔使だ。

2026年1月7日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 欽明天皇2

  九年夏四月壬戌朔は正しい日干支、百済が劣勢で、秦王にも泣きついた。百済を北でなく、西藩と呼ぶのだから、畿内の国である。六月辛酉朔も太陽の位置計算では閏5月1日だが、正しい日干支の可能性が高い。高句麗からの攻撃は任那と百済で自衛するよう、見放している。閏七月庚申朔は俀国の記録で7月2日、閏月がずれているので、閏七月は7月、6月は小の月だ。十年夏六月乙酉朔は正しい日干支、高句麗に使者を送ったと記している。秦王国は高句麗と友好関係である。

十一年春二月辛巳朔も正しい日干支だが、内容は『百濟本記』の内容で、この天皇は俀国の天皇、百済に援助している。百済は3月11日を12日として、俀国と同じ暦である。夏四月庚辰朔も俀国の日干支で、高句麗の捕虜を俀国に送っている。十三年五月戊辰朔は正しい日干支、河内部阿斯比多の報告を受けている。十四年春正月甲子朔も正しい日干支、百済は秦王国にも助けを求めている。

夏五月戊辰朔は間違いの日干支で552年が正しい。河内国の説話で、552年4月に薨じた箭田珠勝大兄のために像を創ったと思われる。仏像の初出は501年に室屋大連が命じた。倭国への仏教伝来の前、『梁書』の扶桑国を思わせる。その後、545年、おそらく、俀国に百済から丈六佛像を贈られた。百済から援軍を求めて、釋迦佛金銅像や経典を贈られた。秦王国の仏教は別ルートで入っているので、稲目に任せた。

秋七月辛辛酉朔は正しい日干支、稲目が船史を賜姓した。敏達前紀に船史の祖、敏達三年に船史となっているので、この時秦王国で承認された。八月辛卯朔も正しい日干支、百済からの援軍依頼である。冬十月庚寅朔も正しい日干支、倭国と百済が友好関係を維持しているようだ。

 

年候補

戊辰5月朔日 428 552 645

戊辰430日晦日 588

戊辰52 516 578

2026年1月5日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 欽明天皇1

   539年冬十二月庚辰朔の天國排開廣庭の即位は正しい日干支で天國排開廣庭、大伴金村、物部尾輿、蘇我稻目宿禰が俀国、秦王国、倭国の天皇や太子になった。皇后を皇太后としたということは、秦王国の天皇である新皇后が決まったことを意味している。雄略天皇が皇太后を贈って以来の皇太后だ。皇太后は王朝交代時のセレモニー。伝統に法る秦王国誕生と考えられる。

また、『舊事本紀』はこの539年を元年としているので、欽明元年540年は倭国稲目の元年なのだろう。即位時が「時年若干」、廣國押武金日が435年に崩じ、皇太弟の初代稲目の武小廣國押盾も戦乱で崩じ、稲目は19歳で成人していなかったのだろう。そのため、年が明けて20歳で成人となり、元年となる。短期間の王の交代は正常な状況とは思えない。

 二月壬申朔の百済人の倭国投下は正しい日干支で、稲目の記録だろう。倭は太陽暦、正しい日干支に変換したのだろう。三月壬寅朔の蝦夷・隼人の帰属は3月2日、前月は小の月で俀国の暦だ。上殖葉の記録なのだろう。俀国は欽明十七年に葛子の婿と思われる火君と葛子の実子の火中君兄弟が即位しているので、火中君が皇太弟で、共に若いのだろう。

 秋七月丙子朔の遷都は正しい日干支で稲目が磯城嶋宮に住まいを遷した。九月乙亥朔の難波祝津宮行幸も正しい日干支で秦王国の首都が難波祝津宮のようだ。稲目が難波に参内、百済と通じて、任那の管理をした金村と倭王・秦王国王が対立したのだろう。二年冬十一月丁亥朔の津守連の任那派遣も正しい日干支、秦王の記録だ。

 七年春正月甲辰朔の百済の使者の帰国は九州の暦、百済に馬や船を与え、友好関係が見える。夏六月壬申朔は正しい日干支、秦王に百済が調(税)を納めた。九年春正月癸巳朔は九州の暦、百済の救援の依頼に助けると返事している。『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』の「事典曹人名无利弖」はこの時派遣されたのだろうか。