2018年4月30日月曜日

最終兵器のミサ 日本書紀のレシピ2

 私は『古事記』と『三国志』を比較して、記述している対象地域が異なると論証し、『日本書紀』と『古事記』を比較して『古事記』が豊国の王朝の史書で仁賢天皇が書いたとした。
そして、『日本書紀』と『新唐書』から『日本書紀』が2代前にズレていて『古事記』の内容がズレた記述があり、『続日本紀』とも比較して天智朝が695年まで続いたと論証し、乙巳の変が664年、壬申の乱が701年だったと荒唐無稽とも見れる論理を示した。
そして、天皇というものは宮の歴史でそこに天皇を当てはめたものだと示し、天皇には複数の王が記述され、複数の王があたかも一人の王と見えるようにしたものと示した。
そして、その基準となったのが天智天皇の家系の王朝史で立太子によって王朝交代が起こり、天智天皇の家系は中国の冊封体制下にあったため中国元号という絶対年代がわかり日本書紀の基準時計となったと示した。
そして、あまり信頼されていなかった『先代旧事本紀』と『古事記』・『日本書紀』を比較することで『先代旧事本紀』の年干支と日干支を使った絶対年代を確認したとき、神武建国から始まる天皇の絶対年代の即位を確認した時、すべてを理解することができた。
これら3書の作成順(完成順ではない)は『日本書紀』の安康天皇まで→『古事記』の顕宗天皇まで→『日本書紀』の崇峻天皇まで→『古事記』・『先代旧事本紀』→『日本世記』・『日本紀』の天智天皇までという順で、『古事記』までの史書は紀伝体で絶対年代が全く分からない王それぞれの記録を生まれた順を想像して並べた。
そして、『日本書紀』はさらに「継体・善記」から始まる多くの地域で流通する元号が書かれていないことから、『日本書紀』を書いた王朝は自身が建元した元号ではなかったから書かなかったこと、そして誰が記述者かを知ることができる。
白雉年号を建元した舒明天皇と朱鳥を建元した天智天皇は少なくとも『日本書紀』を追記させ、常色以前は舒明天皇の王朝の建元でなく、白鳳元号は天智天皇の王朝でなかったので天智天皇『日本書紀』に書かなかった。
そして、『先代旧事本紀』を書いた王朝は干支という絶対年代を知っていたため干支付きの史書を書き、『日本世記』には中国元号を基にした編年体の史書が書かれていたのだろう。
そして、『日本書紀』を完成する材料が揃い、まず、『先代旧事本紀』の元資料の干支を並べ、干支を始めた王朝の宮の干支付きカレンダーを用意する。
次に中国年号を使っている王家の王朝交代がその王の何年目かをカレンダーに落とし込み、さらにその王家の畿内に関係する記事を落とし込んでいく。
次に、各王家の王や宮の内容(多くは干支が解らない?)をカレンダーの干支を変えないで落とし込んでいくので、干支と記事は無関係で、中には干支付きの記事が有ってカレンダーにその干支が無い場合はその干支のまま使うので干支が合わなくなる。
そのため、干支が合っていても内容に矛盾が生じたり、記録の干支と全く合わない干支の記事は是日・是月・是年を使って日干支を書かないということになる。
履中天皇が『三国志』に倣って、「始之於諸國置國史。記言事達四方志」と4国の史書を併せた『四方志』のように、各王家の事績を併せた方法が舎人親王の『日本書紀』を完成させた方法なのである。

2018年4月27日金曜日

終兵器のミサ 日本書紀のレシピ

 現在の『日本書紀』は8世紀の官僚が作った偽書で信用できない、継体以降は信用できるがそれ以前は信用できないという、信用できない人物が作った書物を半分信じるという理屈にもならないことを平然と述べ、無邪気にもそれを信じている人々が日本ではほとんどだ。
『続日本紀』には「舍人親王奉勅 修日本紀」と『日本書紀』でないことが証拠などと言う人々もいるが、考え方が「先に『日本書紀』偽書有りき」で、この文面は『日本紀』を修正して『続日本紀』を書いた人々が知っている『日本書紀』を作ったとの意味で、そのため『日本書紀』には『日本舊記』・『日本世記』と記述されていて、『日本紀』があるからそれに対して古い『日本紀』は『日本舊記』であり、それらを併せた『日本書紀』なのである。
8世紀につくったのなら、欠史8代は不要、長命天皇も不要、長い統治も不要、中国や朝鮮の史書を見て知っているので、その事件に合わせて書けばよいのだから、それらとずれるはずが無く、武内宿祢が2世紀にわたって出現させる必要もなく、九州王朝を消さなくても、すべて天皇が行ったことにすればよいのです。
「郭務悰」が進駐したなどと書く必要もないし、計算して作った干支を一巡・二巡ずらしたり、天皇の死亡記事が解らないなどと書く必要もないのです。
現代の人々は古代の人々を、自分と同類の無邪気な人々、空想と現実の見分けがつかない人々と見誤り、無邪気に空想科学小説として『日本書紀』を理解しているが、現代の人々は空想科学小説を論拠に大真面目に古代史・考古学を論じていて、鉄腕アトムが・仮面ライダーが信長・秀吉・家康と同列に伝記に載せるように映り、滑稽でならない。
『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』も野中寺の『弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框』も空想科学小説の『日本書紀』に合わないから偽物とするが、なぜか国宝になっているのだ。
日本は偽造という犯罪者の作品を国の宝とする異様な国家と映ってしまい、ピカソの模造画があまりにも素晴らしいから国宝にすると同じことを行っており、本来、日本国民は国に対して訴訟を起こすべきと言わなければならない。
勿論、本来は逆で、どちらも本当に立派な国の財産で、現代の人々の目が曇っているのであって、訴訟を起こすべきは国宝側で、名誉棄損で古代史学者を訴えるべきなのである。
『三国志』の著者陳寿は壱岐の広さは漢代からの常識で15Km四方だと知られていた、邪馬台国は会稽の南ではなく東にあたり、『後漢書』に「倭在韓東南大海中」・『三国志』に「大海之中」すなわち『山海經』以来から書かれている海中(渤海・黄海・東シナ海)にある、大和なら日本海の「海外」か太平洋の「大荒」になるということは常識で間違いないと弁論するはずである。

2018年4月25日水曜日

終兵器のミサ 唐は日本古代史を良く知っていた2

 そして、『新唐書』は多くを『日本書紀』の内容と『旧唐書』を踏襲して記述されて、新生日本国の初代の王の天智は天豐財の子とやはり『日本書紀』を踏襲しているが「孝徳天皇」は兄妹で親子ではない。
以前は子から親の相続を理解できなかったと書いたが、私はもう新しい段階を知っていて、650年から662年、実際は664年まで「俀国」では親と長男の相続が継ながったと考えるべきで、倭国の用明から斉明天皇までを「俀国」の用明から孝徳天皇までと置き換えたのである。
本来「倭国」が日本を征服して664年に「俀国」が奪った日本の歴史から、「倭国」を消し去ったということで、「俀国」の孝徳天皇だから、実際は天皇ではなかったが、664年に天皇に即位したから、意味不明な「未幾孝德死」と即位後すぐに死亡と記述したのであり、中国の史書は古くは「神国」・「大国」・「扶桑国」・「秦王国」をほとんど無視したように『新唐書』は「倭国」を無視することにした。
天豐財の親の孝徳天皇(夫婦)は11年間続き、長男で天豐財の兄は661年から跡を継ぎ、実際は664年に日本の天皇として即位したが直ぐに崩じて、天豐財すなわち中宮天皇が即位したが、天豐財の名は『新唐書 劉仁軌傳』の「仁軌乃率新羅・百濟・儋羅・倭四國酋長赴會 天子大悅」と天子と会見した為に名が記された。
私は皇祖母が不思議でならなかったが、670年建国の新生日本国の皇祖は天智天皇だから、その母が皇祖母なのであり、皇祖という地位が重要で、以降、皇位を継承する時、『続日本紀』に「神亀元年・・・挂畏淡海大津宮御宇倭根子天皇乃万世尓不改常典」と不改常典を天智天皇が定めたとされ、最初に日本国王を継承した天武天皇が宣言し大化年号が始まり、大化の改新と呼ぶのではないだろうか。
後代の醍醐天皇が延喜式に国忌を制定した時、醍醐天皇の直系とはいえ嵯峨天皇が含まれていないにも拘らず、天智天皇を含めたのは、天智天皇が皇祖だからであろう。
そして、文武・阿用も藤原宮・平城宮と解釈でき、『日本書紀』と同じ王朝観を描いていて、『新唐書』も『日本書紀』を踏襲し、同じ皇位継承を記述した可能性があり、『続日本紀』の養老七年723年十月に「得左京人紀朝臣家所獻白龜・・・孝經援神契曰 天子孝 則天龍降 地龜出」とある様に、実際は神亀年号ではなく白亀年号が正しかった可能性がある。
このように、唐は中国にとっての最大の敵国日本の古代史を最初にまとめ上げた日本人より優秀な日本研究者だったのであり、そのために新羅と日本を分断し漢朝からの宿敵日本に勝利し、日本を分断させた冊封体制に入っていた倭奴国の末裔によって日本国を崩壊させ、日本国を冊封体制に組み入れることができたのである。

2018年4月23日月曜日

終兵器のミサ 唐は日本古代史を良く知っていた1

 新唐書は「日本古倭奴也・・・日本乃小國爲倭所并故冒其號・・・仲哀死 以開化曽孫女神功爲王・・・次欽明 欽明之十一年 直梁承聖元年 次海達 次用明亦曰目多利思比孤 直隋開皇末始與中國通 次崇峻 崇峻死 欽明之孫女雄古立 次舒明 次皇極・・・太宗貞觀五年 遣使者入朝・・・永徽初 其王孝德即位改元曰白雉・・・令出兵援新羅 未幾孝德死 其子天豐財立 死 子天智立 ・・・天智死 子天武立 死 子總持立 咸亨元年・・・倭名更號日本・・・或云日本乃小國爲倭所并故冒其號 使者不以情故疑焉 又妄夸其國都方數千里・・・長安元年 其王文武立 改元曰太寶 遣朝臣眞人粟田貢方物・・・文武死 子阿用立 死 子聖武立 改元曰白龜」と記述されている。
中国元号の承聖元年・貞觀五年・ 咸亨元年・ 長安元年と『日本書紀』の天皇に矛盾が無く、日本の元号の白雉・太寶も『日本書紀』どおりで、国号の変更も『三国史記』の「文武王立・・・十年・・・倭國更號日本」と同じく670年だ。
ところが、『漢委奴國王』印記事の『後漢書』「東夷倭奴國王遣使奉獻」の「倭奴」のあと、「倭國王帥升」・「卑彌呼」・「壹與」・「倭王倭濟」・「倭國王世子興」・「倭讃」・「弟珍」・「弟武」を無かったかのように記述しないのである。
『旧唐書』では「倭国者、古倭奴国也」とし、「日本国者倭国之別種也」としていて、先祖は倭国と同じ倭奴国だが、倭国とは別種で、「多利思比孤」は新生日本国の先祖として、倭国とは異なるとしている。
『隋書』では「俀国」と「倭国」が記述され「俀国」は絶縁され「倭国」は引き続き隋・唐と交流し、『新唐書』に敵国として「扶餘隆繇熊津白江會之 遇倭人白江口」と倭国が記述されている。
すなわち、『旧唐書』は「二十二年、又附新羅奉表」も含めて白江までの倭国は敵国で本小国だった「倭奴国」→「俀国」が旧日本・倭国を乗っ取って倭国から日本国に国号を変えたと記述していて、倭国は中国に歯向かう敵国と書いて切り分けている。
『後漢書』に「建武中元二年 倭奴國奉貢 朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也」、『三国志』に「倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑 舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國・・・女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」、『旧唐書』に「倭國者 古倭奴國也・・・日本國者倭國之別種也」、『新唐書』に「日本古倭奴也」と記述されている。
それ以外は倭国の位置や風習・事件を記述しているので、日本国の生い立ちに関しては4書のみで、倭奴国は倭国の一部で倭国の中心国、その倭国が『旧唐書』に「仁軌遇倭兵於白江之口」と白村江の戦いによって崩壊し、日本は倭国の別種で『三国志』に出現する邪馬台国の東の倭種を倭国の一部の倭奴国の分国が併合した国と記述している。
さらに、『新唐書』に「神武立,更以天皇爲號,徙治大和州」と倭国の別種で『三国志』に出現する邪馬台国の東の倭種日本は神武天皇からずっと大和にあったと記述し、唐が正式に倭国と外交するのは631年の「貞觀五年、遣使獻方物」で、倭国は倭奴国の分国の王の天智天皇のとき崩壊し、670年に新生日本を建国するのである。

2018年4月20日金曜日

終兵器のミサ 九州王朝説の鎮魂歌2

 「古田武彦氏」が主張する「九州王朝説」は『日本書紀』が無視するどころか中国史書も東に「俀国」と異なる王が存在する、しかも、おそらく王がいない国などないのだから、王をまとめる王がいる「秦王国」を認め、「俀国」と異なる「俀国」の分国のような扱いの「倭国」が「秦王国」に取って代わったと記述して、古田説を否定している。
畿内政権が九州王朝の分国というのは「唐書」ではその通りだが、古田氏が主張する神武帝からの分王朝は考え直さなければならない。
磐井以前の筑紫は福岡平野のみ独特な須恵器を出土し、磐井以後筑後平野に広がっていて、古墳の埋葬法も竪穴と横穴で磐井より前は異なり九州王朝の代表王朝の地位は疑わなくてはならなず、畿内政権の配下の九州の国と呼ばなくてはならない。
唐は『日本書紀』が記述する白雉元年の儀式に唐の使者が出席し、断交した九州王朝「俀国」ではなく国交のある「倭国」の首都難波宮に招待されたのであり、副都仮説は否定され、九州王朝「俀国」と断交した「唐」が使者を「俀国」に送ることは有り得ない。
名実共に日本国内で天皇にはなれなかったが大王の地位を得た「俀国」は中国が王朝交代したとはいえ冊封体制に組み入れられていた臣下であったことを忘れて、対等な天子とおごり隋朝から断交された。
そして、その代わりに、「俀国」の分国が「俀国」に代わって歴史ある「倭国」を名乗っていて冊封体制を継続したが、名目上臣下だと思っていた「新羅」は「倭国」と対等になってしまい、政策を間違えて「百済」を援助した為に、「唐」の駐留を許すことになった。
 畿内政権は古く「漢」代には「委奴」国とは違う「東鯷国」が存在し、その後、周防を出発して「狗奴」国を「邪馬台国」の東から南に押しやった倭種の国、『梁書』で「宋大明二年 賓國嘗有比丘五人游行至其國 流通佛法」とインドから仏教を学んだ「扶桑国」が存在したと記述した。
『梁書』は同時代の『隋書』に「夷人不知里數但計以日」と記述されるように里単位に矛盾があるが、その理由は倭人の里単位が「隋」と違う里単位を使っていると述べているのであって、『梁書』は里単位に矛盾があることが解る。
『漢書』・『後漢書』・『三国志』・『梁書』・『隋書』・『旧唐書』は一貫して西に倭国、東に倭種の国が存在し続けたが国交を持ってこなかったのは、冊封体制を拒否した国であったからだ。
『三国史記』ではいつも「倭」と戦っていた「新羅」が『日本書紀』ではあたかも日本の冊封体制に組み入れられているかのように書かれていて同じ「新羅」と見えないのは、『日本書紀』が「倭」と一線を画した史書であり、「秦王国」から「倭国」に政権が変わってもあたかもずっと継続しているように記述している。
古田説の委奴国から白村江まで九州王朝が支配して、白村江の戦いで敗れて現在の天皇家が政権を奪取したがミレニアムである700年まで名目上天皇で国号変更も行ったなどと言う訳の分からない説はマスコミに弄ばれた古田武彦氏とともに埋葬されたのである。

2018年4月18日水曜日

終兵器のミサ 九州王朝説の鎮魂歌1

 7世紀の日本列島は『隋書』によれば、魏志の邪馬台国から続き隋時代には『隋書』に「有阿蘇山其石無故火起接天者」と阿蘇山の見える位置に有る「俀国」と呼ぶ国と「又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀」と竹斯國をはじめその東に30国余有って、その中に「秦王国」という王がいる国があると言っている。
俀国にも王がいるのに俀王国と呼ばないということは、王国を支配する国だから秦王国なのであり、王国の連合体であることを『隋書』は述べているのである。
そして、607年の直前の阿蘇山近辺の王は火君・火中君兄弟、その父筑紫君が支配していたと考えられ、筑紫君は筑紫国造の磐井の子で磐井が豊国や火国を侵略して新羅の貢物も我が物にすると言って物部麁鹿火に天皇が九州を付与すると約束して磐井を攻め、磐井を殺害し勝利した。
しかし、なぜか葛子は筑紫君に出世し、それからこの地域に新しい王が現れておらず、「俀国」の「タリシヒコ」は「火・火中」君若しくはその子たちと考えられ、『先代旧事本紀』の614年即位の欽明天皇がいた例でも分かるように、583年即位の欽明天皇十七年の「百濟王子惠請罷・・・別遣筑紫火君 百濟本記云 筑紫君兒 火中君弟 率勇士一千衛送」で556年ではなく、恵王即位時の599年の可能性が高く、欽明天皇が「火中君」、「タリシヒコ」が「火君」の可能性が高い。
倭の5王時代の「倭国」は筑紫国造のことで、中国から「新羅」や日本全土の王に任命されたことで「新羅」の利権を我が物にし、豊・火に侵略したと考えられるが、天皇にとっては自分の配下が天皇の支配領域を侵略したため、賊軍磐井を殺した。
だが、逆に筑紫君という同盟関係の国に出世し「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢」のように「俀国王 オオキミ タリシヒコ」となった。
そして豊国以西は天皇の領域で天皇のいる王国は「秦王国」となり、中国史書は初めて「倭国」以外に王の存在を認めた。
 「俀国」は大業三年607年に国書をもって朝貢し「明年 上遣文林郎裴淸使於俀国・・・此後遂絶」と翌年裴淸が来日したがうまくいかずに断絶したにもかかわらず、「大業四年・・・倭・・・遣使貢方物。六年・・・倭國遣使貢方物。」と同年3月及び大業六年610年に「倭」が使貢したということは、「俀国」と異なる国の「倭」が存在して中国と国交を続けている。
すなわち、30国余の1国なのだろうが、「倭」は続いて『旧唐書 』の「貞観五年、遣使献方物」と631年、『日本書紀』の「舒明天皇四年 唐國使人高表仁等到干難波津。」と舒明天皇4年632年に高表仁が国書を渡せず失敗したが、「二十二年、又附新羅奉表、以通起居」と648年「倭」が国書を送り『日本書紀』の「白雉元年休祥。又遣大唐使者。」と650年唐から使者が来日した。
『舊唐書』の「麟德二年 封泰山 ・・・倭四國酋長赴會 高宗甚悅」と665年には天子と接見し、『三國史記』の「十年・・・倭國更號日本」と倭王が国号を日本に変えたと記述されていて、『舊唐書』に「日本舊小国、併倭国之地」と「倭」は日本の前身の国と異なるもと小国だったが、少なくとも632年には高表仁が来日しているので日本の前身の「倭」はこの頃倭が王となった。
『旧唐書』でも「倭」は「 古倭奴国也」としていて、「俀国」の分国で倭国がもともと「筑紫国造」だったのだから、その近辺としか考えられない。
「唐」になって「王子」と争ったと書かれているのだからこの時点では「倭」は王で小国の王だった「舒明天皇」の一族が大国の日本の前身の王となったのである。
その間消失した国が「秦王国」で発生した事件は舒明天皇即位時の「山背大兄王」との皇位継承の争い、「崇峻天皇」の殺害、「物部守屋」との戦いのどちらかとなる。

2018年4月16日月曜日

終兵器のミサ 日本人はいつ誰から日本人になったのか2

 弥生人が水田技術や土器をもって九州に侵略する前に縄文人が水田技術や弥生式土器の原型を持ち、渤海の文化である支石墓も取り入れた。
弥生人・倭人の史書の『日本書紀』の神話でも、「擧此豐葦原瑞穗國而授我天祖彦火瓊瓊杵尊。」と「ニニギ」は水田のある瑞穂の国を大国主から譲り受けたと高らかに宣言した。
国譲り前は「天国」に居住していたが、それは「大八島」であり、『山海經』の「海内東經」の中の黄海、東シナ海にあたる可能性が高い。
『山海經』の「海外南經」に「地之所載六合之閒四海之内照之以日月」と記述され、海外というのは日本海のこと、四海は東・西・南・北海の「海内」でその中の六合の間と記述している。
すなわち、朝鮮半島南部が対象で、『日本書紀』にも「此子光華明彩 照徹於六合之内」、「閉磐戸而幽居焉 故六合之内常闇而不知晝夜之相代」などと、漢以前の中国と同じ常識で記述されている。
そして、「海外南經」にも倭は出現せず、「大荒東經」の「海内有兩人名曰女丑 女丑有大蟹」と記述される「大蟹」から「海内東經」の「大鯾居海中 明組邑居海中 蓬萊山在海中 大人之市在海中」が倭の可能性大で、なぜなら、「大人之市」より後は渤海に話が変わって東シナ海の会稽まで記述するからである。
 倭は少なくとも「周」初には黄海近辺に存在し、『論衡』に「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」と記述するように「越」を頼っていることからもわかる。
黄海地域は6000年以上前から南九州、有明海、天草、朝鮮南部などと共通した縄文土器が出現するなど一つの文化圏を形成している。
人々は弥生人が中国や朝鮮、果ては南方の島から移住した、いや、北方民族の征服王朝だという人々も合わせると全ての人々が弥生人・倭人は日本列島以外から縄文人を征服したと、中には平和的という人も存在するが、どちらにしても征服したことには違いが無い。
ところが、出雲神話の国引きのような縄と杭を使って建国したように、縄文時代の神話としか思えない神話を残し、縄文土器の流れをくむ土器を使用し、縄文時代の大国主を祀る、言葉は全て捨てて日本語を話す、漢字の導入も漢代の文字と読み、そんな征服があるのだろうか。
日本はいつでも1つの民族が住んでいるという幻想が弥生人移動説を生み出したのであり、人類史的に見れば民族は最後の氷河期が終わったときに始まり、夫々の土地に定住して土器を作り始めた。
土器を持っての移動は大変なのだから定住が当然で、定住した民族毎の感性や宗教観によって土器様式がかわり、現代の民族が形成され、最も早い時期に定住した地域の1つが日本列島だ。
そして、日本列島の土器様式は1種類だけではないことに留意すべきで、その中に縄文人・弥生人・アイヌ・琉球人その他が存在したと考えるべきではないか。