『新唐書』が記す倭王の系譜は、次のようになっている。孝徳 → 天豊財 → 天智 → 天武 → 總持(=?持統) すべて親子。けれど、『日本書紀』には、孝徳と天豊財、天智と天武、天武と持統の間に、親子関係がない。さらに、『新唐書』は、總持と文武の間にも、明確な血縁関係を記さない。『新唐書』は開化の「曽孫女」と神功を、欽明の孫娘と推古を記すのだから、總持と文武に血縁関係がないから記されない。これが意味するもの。それは唐が認識していた「天命の正統性」が、別の血筋にあったということ。『新唐書』は701年、日本で「大宝元年」と改元されたと記す。この改元こそ、新たな王統が〝唐に認知された″印だった。文武は、天豊財と天智たちを継ぐ者として、国際的に王統の継承者と認められた。
では、卑弥呼は? 壹輿は? 武は? 彼・彼女たちは、どこに消えたのか? なぜ、『新唐書』は彼らの名を記さないのか?
ヒントは「用明亦曰目多利思比孤」、俀王を用明として、名を記した。それは卑弥呼たちを、畿内の連続王朝とは認めていなかったから。俀王目多利思比孤を継ぐ天豊財の王統こそが、唐にとって「唯一の正統」。その他の王たちは、正統な王として、記録されなかった。目多利思比孤は唐の政敵の隋と対立した王だった。戦友みたいな王。その後継者が白雉を建元した。
歴史は、記されるものと、記されないものに分かれる。しかし、語られなかった者たちも、確かに、そこにいた。泰山に立った倭の女帝、天豊財。その名は、やがて「中宮天皇」という記憶に変えられ、そして『日本書紀』では、巧みに〝消された″。しかし、その証は、仏像の台座に刻まれ、銘文に刻まれ、そして、唐の記録の中に、静かに残された。
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