もう一つの痕跡がある。時は下って、西暦680年。「薬師寺東塔」の銘文には、こう記されていた。「清原天皇即位八年庚辰之歳建子之月 中宮不悆」、履中天皇も「不悆」と記され、崩に繋がった。不悆、それは、重体。「治らず」の意味に近い。
この年の干支、庚辰=680年。建子の月は、十一月。けれど、『日本書紀』には、この年の十一月、「高麗人十九人 返于本土」……「是 當後岡本天皇之喪而弔使」この高麗人が弔問した「後岡本天皇」とは誰か?この説話は斉明天皇(661年没)のこととされる。けれど、死後20年近くも経って、弔問の使者が来るなど、あり得ない。むしろ、これはその当時に崩御した〝女帝″を指していたのではないか? それが、銘文にある「中宮不悆」、病に伏していた現役の女帝。
唐が記した、倭国の女王がいた。『新唐書』は語る。倭国女王の名は「天豊財」。唐が名を記録した、唯一の日本の女王だ。他の王名、氣長や豊御食炊屋は、『唐書』に神功や推古と王号は記すけれど、名まで登場しない。では、この「天豊財」とは誰か? 後世に「斉明天皇」と諡号された、あの女帝の本来の名? いや、彼女こそ泰山に参列した「倭国の酋長」。自ら唐の高宗に名乗り、国際的に「倭王」として認められた女帝だった。
ところで、『日本書紀』は、中大兄皇子(天智天皇)について、長く「太子」と記し続けた。なぜか? それは、彼の即位以前に、まだ〝天皇″がいたから。「中宮天皇」天豊財が、現役の天皇だったから。それで、中大兄はあくまで「太子」であり続けた。そして、翌681年に「立太子」、立太子は俀国や倭国の王朝交代だった。清原天皇八年は首都が清原宮になって八年の意味だ。
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