2018年4月25日水曜日

終兵器のミサ 唐は日本古代史を良く知っていた2

 そして、『新唐書』は多くを『日本書紀』の内容と『旧唐書』を踏襲して記述されて、新生日本国の初代の王の天智は天豐財の子とやはり『日本書紀』を踏襲しているが「孝徳天皇」は兄妹で親子ではない。
以前は子から親の相続を理解できなかったと書いたが、私はもう新しい段階を知っていて、650年から662年、実際は664年まで「俀国」では親と長男の相続が継ながったと考えるべきで、倭国の用明から斉明天皇までを「俀国」の用明から孝徳天皇までと置き換えたのである。
本来「倭国」が日本を征服して664年に「俀国」が奪った日本の歴史から、「倭国」を消し去ったということで、「俀国」の孝徳天皇だから、実際は天皇ではなかったが、664年に天皇に即位したから、意味不明な「未幾孝德死」と即位後すぐに死亡と記述したのであり、中国の史書は古くは「神国」・「大国」・「扶桑国」・「秦王国」をほとんど無視したように『新唐書』は「倭国」を無視することにした。
天豐財の親の孝徳天皇(夫婦)は11年間続き、長男で天豐財の兄は661年から跡を継ぎ、実際は664年に日本の天皇として即位したが直ぐに崩じて、天豐財すなわち中宮天皇が即位したが、天豐財の名は『新唐書 劉仁軌傳』の「仁軌乃率新羅・百濟・儋羅・倭四國酋長赴會 天子大悅」と天子と会見した為に名が記された。
私は皇祖母が不思議でならなかったが、670年建国の新生日本国の皇祖は天智天皇だから、その母が皇祖母なのであり、皇祖という地位が重要で、以降、皇位を継承する時、『続日本紀』に「神亀元年・・・挂畏淡海大津宮御宇倭根子天皇乃万世尓不改常典」と不改常典を天智天皇が定めたとされ、最初に日本国王を継承した天武天皇が宣言し大化年号が始まり、大化の改新と呼ぶのではないだろうか。
後代の醍醐天皇が延喜式に国忌を制定した時、醍醐天皇の直系とはいえ嵯峨天皇が含まれていないにも拘らず、天智天皇を含めたのは、天智天皇が皇祖だからであろう。
そして、文武・阿用も藤原宮・平城宮と解釈でき、『日本書紀』と同じ王朝観を描いていて、『新唐書』も『日本書紀』を踏襲し、同じ皇位継承を記述した可能性があり、『続日本紀』の養老七年723年十月に「得左京人紀朝臣家所獻白龜・・・孝經援神契曰 天子孝 則天龍降 地龜出」とある様に、実際は神亀年号ではなく白亀年号が正しかった可能性がある。
このように、唐は中国にとっての最大の敵国日本の古代史を最初にまとめ上げた日本人より優秀な日本研究者だったのであり、そのために新羅と日本を分断し漢朝からの宿敵日本に勝利し、日本を分断させた冊封体制に入っていた倭奴国の末裔によって日本国を崩壊させ、日本国を冊封体制に組み入れることができたのである。

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