2018年4月4日水曜日

終兵器のミサ 日本書紀・先代旧事本紀と干支1

 日本書紀の日干支は計算と1部1月ずれたり、1日ずれたりするがいつのまにか正しい干支に戻っているが、私は日本書紀完成後後ろから干支を当てはめたと論じている。
日干支は現代まで延々と60日周期で続いており、「朔」は計算で新月の日付が確認でき、節気も計算で確認できるため、現代の旧暦を過去に遡って調べることができる。
私は、紀元前701年から西暦2015年まで10万日分程度のカレンダーを作り、日干支を当てはめていき、月齢計算で朔を決めて大小の月の日にちを当てはめ、太陽運航から節気を算出して12節気が無い月を閏月とした1覧を作成し標準旧暦を作成した。
西暦を基準にしているので、計算で派生する誤差は吸収されるので古代人が短いスパンで作る暦との誤差はほとんど無いと考えられる。
私の計算のため狂いが有るかもしれないが、概ね『日本書紀』と違いが無く、1月のズレや1日のズレは1ヶ月が29日の月と30日の月の違い、すなわち大小の月や閏月の違いと思われ、江戸時代も地域によって閏月が異なっていたそうだ。
ところが、所々で全く合わない干支が現れるが、また、正常に戻るため、狂った干支は実際の資料に残った干支がそのまま残ったとしか考えられず、計算で求めた干支ならズレて戻れない。
また、古代人も計算で求めたのなら、定数の若干のズレが有っても一定のズレなので私の計算とずれても一定なのでこれも計算とは考えられない。
『日本書紀』作成時に日干支を計算すると確実に4年で1日西暦で言う「うるう年の2月29日」が足りないはず、うるう年が解っていても100年に1日うるう年が無いから1日多くなってしまい、それも計算していたら400年に1日足りなくなってしまうので、1年を一定にしていたら年干支と日干支が合うとも思えず、在位年数から必ずズレる。
旧暦ではこのような話を聞いたことが無いので、日本では720年頃にグレゴリー暦を発明していたことになるが、こんなことを言ったら精神状態が疑わられるので、『日本書紀』の日干支は少なくとも所々、しかも紀元前600年頃の日干支が残っていたとしか考えられないのである。
朔は太陽と月と地球の位置関係で変化するため、旧暦では大の月と小の月が交互に現れず、大の月が4月続くこともあり不吉と言って修正することもあったのだから、計算で朔を算出していたら朔日が朔とかけはなれてしまい、政権の信頼を失う。
それを表す代表例が『続日本紀』の文武元年「元年八月甲子朔 受禪即位」で『日本書紀』では「八月乙丑朔 天皇定策禁中禪天皇位於皇太子」で『続日本紀』が正しいが『日本書紀』の同じ出来事を計算できていないから1日ずれていて、暦が変わったのであれば禅譲した日干支は変わらないので、『続日本紀』は「元年八月甲子朔乙丑」と書かなければならないが、この時代の朔は甲子と『続日本紀』の作者は計算できたが『日本書紀』は計算できず資料を使ったからズレたのである。
そして、神武天皇の建国前、1月ずれているのは、記録された言い伝えが有ったため修正しなかった、既に暦と干支を知っている政権があったと考えられる。

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