現在、日本ではもともと弥生人が日本列島に存在せず、中国や朝鮮半島から縄文人を混血も含めて席巻したと疑いなく信じられている。
凡そ弥生人イコール倭人が従来の定説で、倭人が稲と弥生式土器を日本列島に導入したと考えられてきた。ところが、水田が紀元前1000年頃に始まったことが解ると、弥生土器も従来科学的測定法を否定してきたはずが急に信頼され紀元前900年頃まで遡ってしまったのである。
朝鮮半島の松菊里型住居と似た江辻遺跡が倭人の侵入と関係なくなってしまい、菜畑遺跡の土器には山の寺式土器が含まれ1000年前には縄文と弥生が混在することになった。
江辻遺跡と菜畑遺跡に共通する模様の「彩文」の存在から、江辻遺跡の「円形竪穴式住居」は逆方向、九州から朝鮮のように水田の移動と同じになってしまった。
しかし、この変化は弥生人すなわち倭人の朝鮮半島からの流入を主張する人々は見なかったこと、聞かなかったことにしているようだ。
『山海經』は夏王朝以前を対象に記述する漢代に完成した神話だが、漢代の地理理解がかなり影響されていて、渤海から黄海のことを記述した「海内東經」には北から順に領域、国が付記されていない地域を記述している。
神話時代の「燕」は中国外、「北山經」に「北百二十里曰燕山多嬰石 燕水出焉東流注于河」と凌河の水源地らしき場所を指定しているが、「海内東經」という後に中国に組み入れられた「海内經」地域のすぐ外に「鉅燕在東北陬」と記述された。
「燕」は中国の東北隅にあり、万里の長城を見てもわかるように、遼東半島から北上して西に向っており、領域として合致する。そして、「蓋國在鉅燕南」の「蓋國」は『史記』の「周」の武王の項に「西伯蓋即位五十年・・・蓋王瑞自太王興」と記述され、定説は「けだし」とさられているが、この項だけ「蓋」の文字が頻出していて不可解なため、私は蓋が人名で「蓋国」は「蓋王の国」と考え、「蓋国」は「燕」ではなく「鉅燕」で「秦」代までの「燕」の支配域の南すなわち遼東半島付近となる。
「海内經」に「東海之内,北海之隅,有國名曰朝鮮」と朝鮮は朝鮮半島西岸「京畿湾」岸で「西朝鮮湾」の隅、少なくとも清川江より南だ。
「海内東經」の「朝鮮在列陽東海北山南 列陽屬燕」と「列陽」が鴨緑江近辺、「海内北經」の「匈奴開題之國列人之國並在西北」に繋がる。
そして「列姑射在海河州中 姑射國在海中屬列姑射」と続き、「東山經」に「姑射山・南姑射山・北姑射山」があり「列姑射」は山東半島・遼東半島近辺の国だということが解る。
その中に「海内東經」で「蓋國在鉅燕南倭北 倭屬燕」と「倭」が出現するが、「海内經」に出現しない、すなわち、東海にも西海にも北海にも南海にも入らない、「朝鮮」にも属さないことから、黄海に浮かぶ島が予想される。
『漢書』には、「殷道衰箕子去之朝鮮教其民以禮義田蠶織作」と記述し、さらに、燕の侵略や衛氏との戦いや郡設置を記述して、倭人が逃れたことを一文字も記述していないことからも、倭人が朝鮮半島の住人ではない。
倭を書きながら、会稽郡や朝鮮半島に倭人を書かないのであるから、倭を無視しているわけでないので、書かれていないだけで実は居たとの論法は証明不足で、書かれていないけれど有ったならそれは空想となり科学ではない。
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