そして、『先代旧事本紀』も『日本書紀』に記述されている干支は正誤かまわず日本書紀に合わせているが、『日本書紀』に記述されていない内容は『日本書紀』の内容と矛盾した干支が割り振られている。
これは、『先代旧事本紀』の矛盾した干支が実際の資料に残された干支の可能性が高く、そのためか、特に推古天皇の時代に矛盾が集中している。
その矛盾は規則正しく矛盾していて、推古元年は「元年春正月壬寅朔丙辰」と西暦593年2月9日、旧暦593年1月1日だが、619年が元年の推古天皇が存在する。
『先代旧事本紀』の「卅九年・・・冬十二月壬申朔巳卯皇后即天皇位於豐浦宮」の「十二月壬申朔」は618年で『日本書紀』どおりだが、「廿八年歳次庚辰春三月甲子朔戊戌攝政上宮厩戸豊聰耳聖徳太子尊」の「三月甲子朔」は646年、「廾二年夏六月丁卯朔己卯詔大仁矢田部御嬬連公改姓命造則遣大唐」の「六月丁卯朔」は640年、「廾八年春二月甲午朔甲辰上宮厩戸豐聡耳皇太子命大臣蘇我馬子宿祢奉」の「二月甲午朔」は646年、「春三月甲子朔制日奉爲君后謂不忠者」の「三月甲子朔」も646年で、すべて元年は619年だ。
私は、推古天皇は何人もいて、その一人が619年に即位した推古天皇で、この天皇は遣唐使を640年に派遣している。
この天皇15年の「十五年秋七月戊申朔庚戌大禮小野臣妹子遣於大唐」は『日本書紀』と同じ内容だが、607年では小野妹子の年齢は、子や孫と年齢が合わないが、633年ならよく合い、高向玄理の随行年齢にも合う。
631年の『旧唐書』の「貞觀五年、遣使獻方物
表仁無綏遠之才」のあとお詫びの訪唐を行って、成功させた結果の640年の唐派遣はよく合う。
これらのことから、『先代旧事本紀』の作成は「廿八年歳次庚辰春三月甲子朔戊戌攝政上宮厩戸豊聰耳聖徳太子尊宮厩戸豊聰耳聖徳太子尊命大臣蘇我馬子宿禰等奉 勅定宜録先代舊事」と646年に作成されたことになる。
646年は『日本書紀』では大化2年で馬子が生きているはずがないが、それを承知で『先代旧事本紀』の内容が修正されていないということは、『先代旧事本紀』が真実であると考えるべきだろう。
わざわざ、『日本書紀』と合わないように間違えることなど有るとは考えられず、実際、『先代旧事本紀』では、舒明天皇や皇極天皇・斉明天皇が出現せず、推古天皇からとんで難波朝・淡海朝・淨御原朝で終わって、宮ではなく朝廷と記述法が変わっている。
すなわち、舒明天皇の妃は記述されているが、舒明天皇本人が記述されていないことから、『先代旧事本紀』は646年に物部氏の姫(おそらく布都姫)が「御食炊屋姫」と呼ばれて天皇として在位した時に馬子が作成し、『日本書紀』作成後に修正した文献と考えられる。
なお『日本書紀・先代旧事本紀と干支1』で計算で大の月4連続が無いと書いてしまったが、日付なのだから切り上げになるのではと思い返し、確認したところ大の月の4連続が存在したが、計算と異なるズレた朔が有るということは『日本書紀』が計算で算出したことは証明できない。
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