私は『古事記』と『三国志』を比較して、記述している対象地域が異なると論証し、『日本書紀』と『古事記』を比較して『古事記』が豊国の王朝の史書で仁賢天皇が書いたとした。
そして、『日本書紀』と『新唐書』から『日本書紀』が2代前にズレていて『古事記』の内容がズレた記述があり、『続日本紀』とも比較して天智朝が695年まで続いたと論証し、乙巳の変が664年、壬申の乱が701年だったと荒唐無稽とも見れる論理を示した。
そして、天皇というものは宮の歴史でそこに天皇を当てはめたものだと示し、天皇には複数の王が記述され、複数の王があたかも一人の王と見えるようにしたものと示した。
そして、その基準となったのが天智天皇の家系の王朝史で立太子によって王朝交代が起こり、天智天皇の家系は中国の冊封体制下にあったため中国元号という絶対年代がわかり日本書紀の基準時計となったと示した。
そして、あまり信頼されていなかった『先代旧事本紀』と『古事記』・『日本書紀』を比較することで『先代旧事本紀』の年干支と日干支を使った絶対年代を確認したとき、神武建国から始まる天皇の絶対年代の即位を確認した時、すべてを理解することができた。
これら3書の作成順(完成順ではない)は『日本書紀』の安康天皇まで→『古事記』の顕宗天皇まで→『日本書紀』の崇峻天皇まで→『古事記』・『先代旧事本紀』→『日本世記』・『日本紀』の天智天皇までという順で、『古事記』までの史書は紀伝体で絶対年代が全く分からない王それぞれの記録を生まれた順を想像して並べた。
そして、『日本書紀』はさらに「継体・善記」から始まる多くの地域で流通する元号が書かれていないことから、『日本書紀』を書いた王朝は自身が建元した元号ではなかったから書かなかったこと、そして誰が記述者かを知ることができる。
白雉年号を建元した舒明天皇と朱鳥を建元した天智天皇は少なくとも『日本書紀』を追記させ、常色以前は舒明天皇の王朝の建元でなく、白鳳元号は天智天皇の王朝でなかったので天智天皇『日本書紀』に書かなかった。
そして、『先代旧事本紀』を書いた王朝は干支という絶対年代を知っていたため干支付きの史書を書き、『日本世記』には中国元号を基にした編年体の史書が書かれていたのだろう。
そして、『日本書紀』を完成する材料が揃い、まず、『先代旧事本紀』の元資料の干支を並べ、干支を始めた王朝の宮の干支付きカレンダーを用意する。
次に中国年号を使っている王家の王朝交代がその王の何年目かをカレンダーに落とし込み、さらにその王家の畿内に関係する記事を落とし込んでいく。
次に、各王家の王や宮の内容(多くは干支が解らない?)をカレンダーの干支を変えないで落とし込んでいくので、干支と記事は無関係で、中には干支付きの記事が有ってカレンダーにその干支が無い場合はその干支のまま使うので干支が合わなくなる。
そのため、干支が合っていても内容に矛盾が生じたり、記録の干支と全く合わない干支の記事は是日・是月・是年を使って日干支を書かないということになる。
履中天皇が『三国志』に倣って、「始之於諸國置國史。記言事達四方志」と4国の史書を併せた『四方志』のように、各王家の事績を併せた方法が舎人親王の『日本書紀』を完成させた方法なのである。
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