2018年4月20日金曜日

終兵器のミサ 九州王朝説の鎮魂歌2

 「古田武彦氏」が主張する「九州王朝説」は『日本書紀』が無視するどころか中国史書も東に「俀国」と異なる王が存在する、しかも、おそらく王がいない国などないのだから、王をまとめる王がいる「秦王国」を認め、「俀国」と異なる「俀国」の分国のような扱いの「倭国」が「秦王国」に取って代わったと記述して、古田説を否定している。
畿内政権が九州王朝の分国というのは「唐書」ではその通りだが、古田氏が主張する神武帝からの分王朝は考え直さなければならない。
磐井以前の筑紫は福岡平野のみ独特な須恵器を出土し、磐井以後筑後平野に広がっていて、古墳の埋葬法も竪穴と横穴で磐井より前は異なり九州王朝の代表王朝の地位は疑わなくてはならなず、畿内政権の配下の九州の国と呼ばなくてはならない。
唐は『日本書紀』が記述する白雉元年の儀式に唐の使者が出席し、断交した九州王朝「俀国」ではなく国交のある「倭国」の首都難波宮に招待されたのであり、副都仮説は否定され、九州王朝「俀国」と断交した「唐」が使者を「俀国」に送ることは有り得ない。
名実共に日本国内で天皇にはなれなかったが大王の地位を得た「俀国」は中国が王朝交代したとはいえ冊封体制に組み入れられていた臣下であったことを忘れて、対等な天子とおごり隋朝から断交された。
そして、その代わりに、「俀国」の分国が「俀国」に代わって歴史ある「倭国」を名乗っていて冊封体制を継続したが、名目上臣下だと思っていた「新羅」は「倭国」と対等になってしまい、政策を間違えて「百済」を援助した為に、「唐」の駐留を許すことになった。
 畿内政権は古く「漢」代には「委奴」国とは違う「東鯷国」が存在し、その後、周防を出発して「狗奴」国を「邪馬台国」の東から南に押しやった倭種の国、『梁書』で「宋大明二年 賓國嘗有比丘五人游行至其國 流通佛法」とインドから仏教を学んだ「扶桑国」が存在したと記述した。
『梁書』は同時代の『隋書』に「夷人不知里數但計以日」と記述されるように里単位に矛盾があるが、その理由は倭人の里単位が「隋」と違う里単位を使っていると述べているのであって、『梁書』は里単位に矛盾があることが解る。
『漢書』・『後漢書』・『三国志』・『梁書』・『隋書』・『旧唐書』は一貫して西に倭国、東に倭種の国が存在し続けたが国交を持ってこなかったのは、冊封体制を拒否した国であったからだ。
『三国史記』ではいつも「倭」と戦っていた「新羅」が『日本書紀』ではあたかも日本の冊封体制に組み入れられているかのように書かれていて同じ「新羅」と見えないのは、『日本書紀』が「倭」と一線を画した史書であり、「秦王国」から「倭国」に政権が変わってもあたかもずっと継続しているように記述している。
古田説の委奴国から白村江まで九州王朝が支配して、白村江の戦いで敗れて現在の天皇家が政権を奪取したがミレニアムである700年まで名目上天皇で国号変更も行ったなどと言う訳の分からない説はマスコミに弄ばれた古田武彦氏とともに埋葬されたのである。

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