新唐書は「日本古倭奴也・・・日本乃小國爲倭所并故冒其號・・・仲哀死 以開化曽孫女神功爲王・・・次欽明 欽明之十一年 直梁承聖元年 次海達 次用明亦曰目多利思比孤 直隋開皇末始與中國通 次崇峻 崇峻死 欽明之孫女雄古立 次舒明 次皇極・・・太宗貞觀五年 遣使者入朝・・・永徽初 其王孝德即位改元曰白雉・・・令出兵援新羅 未幾孝德死 其子天豐財立 死 子天智立 ・・・天智死 子天武立 死 子總持立 咸亨元年・・・倭名更號日本・・・或云日本乃小國爲倭所并故冒其號 使者不以情故疑焉 又妄夸其國都方數千里・・・長安元年 其王文武立 改元曰太寶 遣朝臣眞人粟田貢方物・・・文武死 子阿用立 死 子聖武立 改元曰白龜」と記述されている。
中国元号の承聖元年・貞觀五年・
咸亨元年・
長安元年と『日本書紀』の天皇に矛盾が無く、日本の元号の白雉・太寶も『日本書紀』どおりで、国号の変更も『三国史記』の「文武王立・・・十年・・・倭國更號日本」と同じく670年だ。
ところが、『漢委奴國王』印記事の『後漢書』「東夷倭奴國王遣使奉獻」の「倭奴」のあと、「倭國王帥升」・「卑彌呼」・「壹與」・「倭王倭濟」・「倭國王世子興」・「倭讃」・「弟珍」・「弟武」を無かったかのように記述しないのである。
『旧唐書』では「倭国者、古倭奴国也」とし、「日本国者倭国之別種也」としていて、先祖は倭国と同じ倭奴国だが、倭国とは別種で、「多利思比孤」は新生日本国の先祖として、倭国とは異なるとしている。
『隋書』では「俀国」と「倭国」が記述され「俀国」は絶縁され「倭国」は引き続き隋・唐と交流し、『新唐書』に敵国として「扶餘隆繇熊津白江會之 遇倭人白江口」と倭国が記述されている。
すなわち、『旧唐書』は「二十二年、又附新羅奉表」も含めて白江までの倭国は敵国で本小国だった「倭奴国」→「俀国」が旧日本・倭国を乗っ取って倭国から日本国に国号を変えたと記述していて、倭国は中国に歯向かう敵国と書いて切り分けている。
『後漢書』に「建武中元二年 倭奴國奉貢 朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也」、『三国志』に「倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑 舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國・・・女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」、『旧唐書』に「倭國者 古倭奴國也・・・日本國者倭國之別種也」、『新唐書』に「日本古倭奴也」と記述されている。
それ以外は倭国の位置や風習・事件を記述しているので、日本国の生い立ちに関しては4書のみで、倭奴国は倭国の一部で倭国の中心国、その倭国が『旧唐書』に「仁軌遇倭兵於白江之口」と白村江の戦いによって崩壊し、日本は倭国の別種で『三国志』に出現する邪馬台国の東の倭種を倭国の一部の倭奴国の分国が併合した国と記述している。
さらに、『新唐書』に「神武立,更以天皇爲號,徙治大和州」と倭国の別種で『三国志』に出現する邪馬台国の東の倭種日本は神武天皇からずっと大和にあったと記述し、唐が正式に倭国と外交するのは631年の「貞觀五年、遣使獻方物」で、倭国は倭奴国の分国の王の天智天皇のとき崩壊し、670年に新生日本を建国するのである。
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