2018年4月11日水曜日

終兵器のミサ 日本書紀・先代旧事本紀と干支4

ここで、『上宮聖徳法王帝説』の「又本云 廿二年甲戌秋八月 大臣病臥之 卅五年夏六月辛丑薨之」の641年の馬子の薨は稲目と考えられ、馬子は『先代旧事本紀』などを646年に記述しているので、『上宮聖徳法王帝説』は『日本書紀』の記述に合わせて卅五年としているが、647年死亡の 池邊大宮治天下天皇ではないかとも考えられる。
このように、『先代旧事本紀』の物部氏の記述法が世代数で記述されているのだから、天皇も世代で書かれていて当然で、その世代は物部麁鹿火が物部大市御狩や物部守屋と4世代経過で1世紀近く違う人物を同じ世代として書かれるなど系図としては成り立たず、親子関係ではなく宮の世代と考えるべきで、1世代には複数の親子関係が内包されている。
この手法で天皇も書かれているので、志歸嶋宮世代が一括りに並行して614年から654年までを志歸嶋41年間に他田・池邊・倉橋・小治田の宮を記述する『上宮聖徳法王帝説』も同じ手法の1世代を記述した文書となっている、同じ人々が書いた文献だと言え、『日本書紀』とは異なる手法の文献だ。
さらに、『先代旧事本紀』の日干支と年干支が正しい神武・安寧・崇神・垂仁・成務・仲哀・神功・仁德・履中・清寧・顯宗・仁賢・繼體・敏達・用明の天皇がある。
これが意味するところは、この天皇紀の記述が『日本書紀』と同時期、なぜなら神武天皇などと言う称号を天皇名として書き、『日本書紀』に合わせた年号を使っていることからわかる。
特に神功皇后までは『日本書紀』が『先代旧事本紀』の資料を使っていることが推定され、『先代旧事本紀』の宮の統治年数の可能性がある。
天氏の宮の推移が立太子で天皇の統治年数は神国の宮の統治年数の可能性があるということで、よりリアルな分析に近いように感じる。
懿德元年辛亥春正月己酉朔壬子、反正元年歳次丙子夏四月丁丑朔戊寅という干支は無く日干支は1月違いで閏月の指定違いも考えられるが、少なくとも、『日本書紀』とは日干支が同じなので『先代旧事本紀』が『日本書紀』を参考に日干支を変えたことは間違いないが、年干支の理由が解らず、究明を続けたい。
すなわち、『日本書紀』と『先代旧事本紀』は『先代旧事本紀』から干支を流用して年干支を削除し、『先代旧事本紀』は『日本書紀』から天皇名や一部の内容を流用して書き直したことが解る。

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