7世紀の日本列島は『隋書』によれば、魏志の邪馬台国から続き隋時代には『隋書』に「有阿蘇山其石無故火起接天者」と阿蘇山の見える位置に有る「俀国」と呼ぶ国と「又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀」と竹斯國をはじめその東に30国余有って、その中に「秦王国」という王がいる国があると言っている。
俀国にも王がいるのに俀王国と呼ばないということは、王国を支配する国だから秦王国なのであり、王国の連合体であることを『隋書』は述べているのである。
そして、607年の直前の阿蘇山近辺の王は火君・火中君兄弟、その父筑紫君が支配していたと考えられ、筑紫君は筑紫国造の磐井の子で磐井が豊国や火国を侵略して新羅の貢物も我が物にすると言って物部麁鹿火に天皇が九州を付与すると約束して磐井を攻め、磐井を殺害し勝利した。
しかし、なぜか葛子は筑紫君に出世し、それからこの地域に新しい王が現れておらず、「俀国」の「タリシヒコ」は「火・火中」君若しくはその子たちと考えられ、『先代旧事本紀』の614年即位の欽明天皇がいた例でも分かるように、583年即位の欽明天皇十七年の「百濟王子惠請罷・・・別遣筑紫火君 百濟本記云 筑紫君兒 火中君弟 率勇士一千衛送」で556年ではなく、恵王即位時の599年の可能性が高く、欽明天皇が「火中君」、「タリシヒコ」が「火君」の可能性が高い。
倭の5王時代の「倭国」は筑紫国造のことで、中国から「新羅」や日本全土の王に任命されたことで「新羅」の利権を我が物にし、豊・火に侵略したと考えられるが、天皇にとっては自分の配下が天皇の支配領域を侵略したため、賊軍磐井を殺した。
だが、逆に筑紫君という同盟関係の国に出世し「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢」のように「俀国王 オオキミ タリシヒコ」となった。
そして豊国以西は天皇の領域で天皇のいる王国は「秦王国」となり、中国史書は初めて「倭国」以外に王の存在を認めた。
「俀国」は大業三年607年に国書をもって朝貢し「明年 上遣文林郎裴淸使於俀国・・・此後遂絶」と翌年裴淸が来日したがうまくいかずに断絶したにもかかわらず、「大業四年・・・倭・・・遣使貢方物。六年・・・倭國遣使貢方物。」と同年3月及び大業六年610年に「倭」が使貢したということは、「俀国」と異なる国の「倭」が存在して中国と国交を続けている。
すなわち、30国余の1国なのだろうが、「倭」は続いて『旧唐書
』の「貞観五年、遣使献方物」と631年、『日本書紀』の「舒明天皇四年 唐國使人高表仁等到干難波津。」と舒明天皇4年632年に高表仁が国書を渡せず失敗したが、「二十二年、又附新羅奉表、以通起居」と648年「倭」が国書を送り『日本書紀』の「白雉元年休祥。又遣大唐使者。」と650年唐から使者が来日した。
『舊唐書』の「麟德二年 封泰山 ・・・倭四國酋長赴會 高宗甚悅」と665年には天子と接見し、『三國史記』の「十年・・・倭國更號日本」と倭王が国号を日本に変えたと記述されていて、『舊唐書』に「日本舊小国、併倭国之地」と「倭」は日本の前身の国と異なるもと小国だったが、少なくとも632年には高表仁が来日しているので日本の前身の「倭」はこの頃倭が王となった。
『旧唐書』でも「倭」は「
古倭奴国也」としていて、「俀国」の分国で倭国がもともと「筑紫国造」だったのだから、その近辺としか考えられない。
「唐」になって「王子」と争ったと書かれているのだからこの時点では「倭」は王で小国の王だった「舒明天皇」の一族が大国の日本の前身の王となったのである。
その間消失した国が「秦王国」で発生した事件は舒明天皇即位時の「山背大兄王」との皇位継承の争い、「崇峻天皇」の殺害、「物部守屋」との戦いのどちらかとなる。
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