2018年4月16日月曜日

終兵器のミサ 日本人はいつ誰から日本人になったのか2

 弥生人が水田技術や土器をもって九州に侵略する前に縄文人が水田技術や弥生式土器の原型を持ち、渤海の文化である支石墓も取り入れた。
弥生人・倭人の史書の『日本書紀』の神話でも、「擧此豐葦原瑞穗國而授我天祖彦火瓊瓊杵尊。」と「ニニギ」は水田のある瑞穂の国を大国主から譲り受けたと高らかに宣言した。
国譲り前は「天国」に居住していたが、それは「大八島」であり、『山海經』の「海内東經」の中の黄海、東シナ海にあたる可能性が高い。
『山海經』の「海外南經」に「地之所載六合之閒四海之内照之以日月」と記述され、海外というのは日本海のこと、四海は東・西・南・北海の「海内」でその中の六合の間と記述している。
すなわち、朝鮮半島南部が対象で、『日本書紀』にも「此子光華明彩 照徹於六合之内」、「閉磐戸而幽居焉 故六合之内常闇而不知晝夜之相代」などと、漢以前の中国と同じ常識で記述されている。
そして、「海外南經」にも倭は出現せず、「大荒東經」の「海内有兩人名曰女丑 女丑有大蟹」と記述される「大蟹」から「海内東經」の「大鯾居海中 明組邑居海中 蓬萊山在海中 大人之市在海中」が倭の可能性大で、なぜなら、「大人之市」より後は渤海に話が変わって東シナ海の会稽まで記述するからである。
 倭は少なくとも「周」初には黄海近辺に存在し、『論衡』に「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」と記述するように「越」を頼っていることからもわかる。
黄海地域は6000年以上前から南九州、有明海、天草、朝鮮南部などと共通した縄文土器が出現するなど一つの文化圏を形成している。
人々は弥生人が中国や朝鮮、果ては南方の島から移住した、いや、北方民族の征服王朝だという人々も合わせると全ての人々が弥生人・倭人は日本列島以外から縄文人を征服したと、中には平和的という人も存在するが、どちらにしても征服したことには違いが無い。
ところが、出雲神話の国引きのような縄と杭を使って建国したように、縄文時代の神話としか思えない神話を残し、縄文土器の流れをくむ土器を使用し、縄文時代の大国主を祀る、言葉は全て捨てて日本語を話す、漢字の導入も漢代の文字と読み、そんな征服があるのだろうか。
日本はいつでも1つの民族が住んでいるという幻想が弥生人移動説を生み出したのであり、人類史的に見れば民族は最後の氷河期が終わったときに始まり、夫々の土地に定住して土器を作り始めた。
土器を持っての移動は大変なのだから定住が当然で、定住した民族毎の感性や宗教観によって土器様式がかわり、現代の民族が形成され、最も早い時期に定住した地域の1つが日本列島だ。
そして、日本列島の土器様式は1種類だけではないことに留意すべきで、その中に縄文人・弥生人・アイヌ・琉球人その他が存在したと考えるべきではないか。

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