ここで、気になるのが『先代旧事本紀』の「廾年春二月朔庚午政葬皇大夫人堅鹽媛於」と同じく『日本書紀』の「二月辛亥朔庚午 改葬皇太夫人堅鹽媛於桧隈大陵」で「政」と「改」は写し間違いと考えられるが、この干支は612年と638年共に考えられるが、わざわざ「辛亥」を省略したことと、そもそも「堅鹽媛」を即位してから20年も経ってから改葬しなければならないかとの疑問である。
そして、『上宮聖徳法王帝説』に欽明天皇は三二年までなのに「志歸嶋天皇治天下卌一年」と記述されていること、「五年春三月已卯朔戊子有司請立皇后詔立豐御食炊屋姬尊立為皇后」は577年ではなく602年に当たり、どちらも今一つ整合性がないが、638年3月1日の1日前が已卯になり、1日の誤差は書紀には多数有る。
皇大夫人は皇后と同じで家系が悪いための称号で、皇大夫人が薨去したため、食炊屋姫が皇后になりそれが638年だったと考えられる。
『先代旧事本紀』の推古紀で敏達5年に18歳で皇后になり、敏達14年27歳で34年の年号を持つ王が存在し、39年に天皇に即位している。
この時期に長年即位した天皇は欽明天皇だが、まさに、『上宮聖徳法王帝説』で41年まで在位が記述されていて、すなわち、並行して更に41年まで続いている。
すなわち、638年が敏達5年なのだから、敏達14年は647年、崇峻5年は652年でこれが欽明39年なのだからさらに41年、
すなわち、634年が敏達天皇元年654年になる。
物部氏の大王の宮は志歸嶋宮が614年から654年、他田宮が634年から647年、倉橋宮が648年から651年、小治田宮が619年から654年となり、志歸嶋宮は尾輿・15世目と継承しその子の馬古は「難波朝御世授大華」と良く合致していて、志歸嶋宮が『日本書紀』通りならどちらかは化け物になってしまうし、『日本書紀』の欽明・推古の親子は2代で110年近くで化け物である。
従って、秦王国物部王朝としては安閑天皇が麁鹿火・押甲親子、宣化天皇の守屋が628年までの天皇で目と「兩大臣曰随命於是穴穗部皇子陰謀王天下之事」と共存していたようだ。
更に、『
船王後墓誌』から「阿須迦天皇之末歳次辛丑」や『上宮聖徳法王帝説』より641年まで稲目、『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』の「池邊大宮治天下天皇 大御身勞賜時 歳次丙午年」と『上宮聖徳法王帝説』の「池邊天皇治天下三年 丁未年四月崩」より645年から647年まで馬子、647年に『藤氏家伝』の「十四年 皇太子攝政」、『先代旧事本紀』の「六曰田眼皇女嫁息長足行廣額天皇」から息長足行廣額天皇が少なくとも翌年おそらく664年まで在位して、田眼皇女が鎌媛大刀自、息長足行廣額天皇は蝦夷の可能性がある。
『舊唐書』の630年に「貞觀五年 遣使獻方物 太宗矜其道遠 勅所司無令貢 又遣新州刺史表仁 持節往撫之 表仁無綏遠之才 與王子争禮 不宣朝命而還」と倭国の条に難波訪日が記述されているので630年以降は秦王国から確実に政権が変わっていて稲目が天皇と言える。
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