建元? 改元? 元号は有ったけど、二つ同時に有ったら、両方とも改元なのか? 中国の史書は、いつも冷たく、そして簡潔だった。『新唐書』は、こう記す。「天智死 子天武立 死 子總持立」。天智が死に、その子・天武が立ち、さらにその子、總持……持統? が継いだ。しかし、この一文には、静かな断絶が潜んでいる。語られなかった王がいる。文武天皇の祖母は持統、祖父は天武。ならば、文武は孫? しかし、『新唐書』は語らない。神功は「開化曽孫」、推古は「欽明之孫」と記している。その沈黙の先に、〝存在を消された王″が立っている。
『新唐書』は続ける。「其王文武立 改元曰太寶」……「文武 死 子阿用 立 死 子聖武 立」。文武が正式に「日本国王」となったのは、701年。しかし、奇妙なことに、文武は697年にすでに即位している。にもかかわらず、年号の改元は行われないまま、4年が過ぎた。なぜ、即位から改元まで、空白が生まれたのか。そこには、「改元」が許されなかった理由がある。
『日本書紀』では、持統は文武の祖母。しかし、彼女はこう記す。「定策禁中 禪天皇位」、禁中(皇居)で定策があり、皇位を譲った。「定策」というのは、後継者の選定を臣下が行うこと。つまり、文武の即位は、皇統の継承ではなく、臣下の決定だったというのか? しかし、それはあまりに矛盾している。『続日本紀』では、持統は「皇太后」。堂々とした天皇の継承者として描かれている。
改元できなかった理由は前代の「天皇」だった。697年の時点で、持統とは別の「天皇」が在位していた。だからこそ、文武は改元できなかった。改元とは、天皇にのみ許された行為。文武は臣下によるクーデターだった。その「もう一人の天皇」、それこそが、封じられた〝もう一人の天武″だった。
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