2018年6月15日金曜日

最終兵器の聖典 本節 神々の誕生1

 日本には3冊の史書が写本で残っていて、『先代旧事本紀』は史書を推古天皇ではなく聖徳太子が創らせたと書き、蘇我馬子が命じられて書いたとしている。
私は、もし、聖徳太子が書かせたとしても、本来は推古天皇が書かせたと記述すべきと考え、『古事記』が天武天皇(実際は文武天皇)に命じられ、元明天皇に献上したと書いているので、私は『先代旧事本紀』を最高実力者の馬子が書かせ、馬子が薨じたから中止したと理解した。
『古事記』は仁賢天皇以降記述されていないから、本来仁賢天皇が書かせそれを大安万呂が修正し、『日本紀』は『続日本紀』に「一品舍人親王奉勅 修日本紀 至是功成奏上」と元正天皇に修正して奏上したと書かれ元正天皇に命じられた事を物語っている。
これら3冊の作成事実を踏まえ、内容や多くの文献・中国や朝鮮の史書・出土物をもとに日本の古代史を検討していこうと思う。
先に書いたように、『日本書紀』を書いた人々の先祖の建国の地は『日本書紀』に「底下豈無國歟 廼以天之瓊矛指下而探之 是獲滄溟 其矛鋒滴瀝之潮 凝成一嶋 名之曰磤馭慮嶋」と「磤馭慮嶋」だが、『古事記』にある「生淡島 是亦不入子之例」の「淡島」が『日本書紀』になく、『古事記』には「生隠伎之三子島 亦名天之忍許呂別」と隠伎之親島の島後が記述されない。
そのため、数に入れない「淡島」が「磤馭慮嶋」で『古事記』は「忍許呂」島と呼んでいたと考えられ、語幹が「コロ」で国生みの場所が隠岐の島の島後ということが推論でき、隠岐の島から『日本書紀』が始まる。
 まず、最初の神が誕生する場面で、『日本書紀』は「古天地未剖」、『古事記』は「天地初発之時 於高天原成神名天之御中主神」、『先代旧事本紀』は「時天先成而地後定然後於高天原化生一神號日天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊」と『日本書紀』のみ伊弉諾・伊弉冉が何もないところから国産みするが、他はすでに高天原が存在している。
高天原は『日本書紀』の「吾今奉教將就根國 故欲暫向高天原與姉相見而後永退矣」と伊弉諾・伊弉冉神が産んだ国の中に有り、その高天原で『古事記』と『先代旧事本紀』の主神が生まれたということが解る。
「洲壞浮漂 譬猶游魚之浮水上也」と主神が生まれる状況は海の情景なのだから、神話の始まりは海の上で、そこに主神が誕生したと『日本書紀』は述べている。
もちろん、船でやってきたのだから、出身地は船を作る能力が有り、12000年前の丸ノミ型石斧が発見された栫(かこい)ノ原遺跡は有力な出身地で、対馬海流が日本海に流れ始めた8000年前頃に流されて隠岐の島に上陸したと考えれば、状況的にピッタリだ。
常識的に考えて、最初の船の冒険は沿岸航行と目で見える陸地に向かっての航行だが、海流の知識がないと日常的に行き来は難しく、また、隠岐の島は9000年前に噴火を起こし、それ以前の島民が生き延びていたか疑問だ。

2018年6月13日水曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー まとめ

 神話分析そして神話に対応した遺跡、建国説話そして中国や朝鮮の史書を使って日本古代史の概要を述べたが、実際に出土した、実際に書いてある文脈を証拠として述べてきた試案だ。
私の解釈と異なる人々がいるとは思うが私はかまわない、それは、解釈だからで、発掘されていない事を、書かれていないことを以ての批判ではなく、書かれている文書や出土物という証拠を以ての批判は受け入れ、それが正しいと思われれば私の試案は取り下げる。
解釈を変えて古代史を合理的に、出来事とその結果が合理的に説明されるならその解釈を受け入れることにやぶさかではなく、科学的な思考を受け入れている私にとっては本望である。
たとえば、『三国志』に韓は「皆古之辰國也 馬韓最大共立其種為辰王」や『後漢書』の「辰韓、耆老自言秦之亡人」から秦帝国の末裔を主張してもよいが、私は「辰→秦」の変化や最大の馬韓が辰王なら馬韓王でよく、「有似秦語」と記述するが秦語は中国語では無いのか、中国は秦の頃語順が主語動詞の順だったのか、また、「其國近倭 故颇有文身者」と矛盾だらけで、この矛盾の証拠がある論証を必要とする。
残念なことに、発掘されていないことをそのうち発掘されると証明に使い、都合の悪いものは偽物扱いにし、書かれていないことを消されたと言い、書いてあることも間違い、書き換えたといって証明に使う、このような論理は科学ではなく受け入れることができない。
巷で、特定の文書をもとに他の文書は歴史を書き換えられたと騒ぐ説も古田説も含めて、私は解説書を乱読したが、その感想は、「解説書は記紀を批判しているが記紀の内容を無批判に都合の良いところを利用している」で、一般の記紀批判をしている人々と同類であった。
私は古代文字文書や『津軽外三郡史』等も偽造と呼ぶつもりはないが、同じように記紀や海外文献との整合性を究明することが、正しい文献の究明につながることを忘れてはならない。
日本では『日本書紀』・『古事記』・『先代旧事本紀』・『室見川銘板』・『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』・『野中寺 銅造弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框』の文面を自説に合わないと全て偽造とし、国宝を貶めてきた。
中国史書を対象時代よりずっと後の時代の常識で当てはめて、対象時代の検証もせず間違いだから信用できないとすることで無理やり違う文字・読み方に書き換えて自説に合わせてきた。
『後漢書』に「光武賜以印綬」と記述される『漢委奴國王』印すら偽造・盗難・紛失と言いたい放題の暴言・暴論の嵐で、おそらく、彼らは「親魏倭王」印が発見されても同じことを言うのだろう。
非科学的な妄想の論理は誰も否定できないが、妄想を信じる人々は納得できても、信じない人々は誰も賛同してくれない、各々が相いれず、論争で解決することができず、多数派工作や著名人や教授という権力を使って押し通す以外ない。
現在、私達は太陽や星座が私たちの大地の上を回るのではなく、大地が回り、大地が平面ではないことを知っているが、中世まで誰もがそれを信ぜず、権威ある科学者や宗教者を信じていたことを知っている。
私はこのような非科学的、既に信仰としか言いようのない古代史にいつの日か科学的な古代史へと変貌することを信じている。
なぜなら、考古学は科学であり、科学はいつまでも力で押さえつけることはできないからで、土器の絶対年代や、木材の絶対年代が解れば、数値は嘘を言わないし、測定方法は日本国内だけに通じることを否定するはずだからである。
※纏向遺跡の桃の種と卑弥呼の関係は、種が135~230年のもので240年代を包含しないので卑弥呼の食した桃ではない可能性が高い。
新しい考古学的発見があるたびに私の論理は補強されているのに対して、多くの学者は新しい発見に戦々恐々とし、世界で信頼される方法での発見も、従来通り自説に合わないと否定するのだろうか。

2018年6月11日月曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー 海外史書5

 しかし、同じ『旧唐書』では「日本國者倭國之別種也」と倭国とは別種の倭国に併合される以前の日本は「日本国者・・・西界南界咸至大海」と海中(黄海・玄界灘)・海外(日本海)ではないが日本に併合されたため「大荒」が「大海」と名前を変えている。
そして、『新唐書』では「日本古倭奴也」と唐末において日本は昔の海中(黄海・玄界灘)にあった倭奴の末裔で「直新羅東南在海中島而居」とそのまま海中(黄海・玄界灘)に有ると記述している。
すなわち、併合される前の倭国と別種の日本は大海にあり、倭国の前身の倭奴国は海中にあったと記述して、倭奴国は昔から海中の東シナ海にあり、日本は昔から大荒→大海にあって俀国に『旧唐書』で「日本舊小國 併倭國之地」と併合された。
この、「日本舊小國」は『新唐書』の「日本古倭奴也」の新生日本と旧倭国と同種、旧日本の別種で俀国王は『新唐書』に書かれる「次用明亦曰目多利思比孤」の末裔の俀国、旧日本を併合した「舊小國」倭国を俀国が670年に併合して新生日本を建国した俀国も「舊小國」で唐初では共に小国なのである。
私は、倭国の併合が629年の守屋滅亡、俀国の併合が664年6月乙巳の日に起こった「乙巳の変」の入鹿に対するクーデタと論証し、壬申の乱は倭国勢力のクーデタで天智天皇は694年まで天皇だったとした。
海外史書は一貫して小国の倭と大国の日本を神話時代から記述して、670年に小国の倭国が併合した日本を俀國が昔の日本という名前で建国したことを述べたのである。
中国史書は『後漢書』の「倭奴國」・「倭王居邪馬台國」・「倭國大亂」、『三国志』の「邪馬壹國女王之所都」・「倭國女王俾彌呼遣使奉獻」、以降『晋書』・『宋書』・『梁書』と変わらず倭国を記録にとどめ、「邪馬台」は恐らく「ヤマダ・イ」、「倭奴」は「イノ」と呼んだ方が日本語的だ。
そして、『隋書』には「大業六年 己丑 倭國遣使貢方物」・「俀国在」・「又至竹斯國 又東至秦王國」と隋時代は竹斯國と違う俀国が「大業三年・・・明年 上遣文林郎裴淸使於俀国・・・此後遂絶」と608年に国交を断絶し、「倭国」と国交を継続したと記述して、俀国から国交を引き継いだ「倭国」の到着地が「竹斯国」だ。
小国だった「俀国」が旧日本国を奪取し、その旧日本国は『旧唐書』の「倭國者 古倭奴國也」と「俀国」と同じルーツの「大業六年」に貢献した昔倭奴国だった小国の倭国が併合していた。
筑紫の近辺には山田斎宮跡や猪野皇大神宮があり志賀島で金印が見つかり、『三国志』の貢献記事が神功皇后紀に記述され、神功皇后は香椎宮に住み、山田宮で自ら斎王となったというのを無関係と考えることができない。
『日本書紀』は「卅九年是年也 大歳己未 魏志云 明帝景初三年六月 倭女王遣大夫難斗米等 詣郡求詣天子朝獻」等と神功皇后39年・40年・43年に記述し720年に『日本書紀』を完成させたとき、『三国志』の邪馬台国は香椎宮に宮が有ったと考えていたことを示している。
『日本書紀』に「五十五年 百濟肖古王薨」と375年・384年・385年のことを255年・264年・265年に書いて意に介しないことと対照的な扱いである。
そして、『宋史』は藤原氏の僧奝然が983年に持参した「職員今 王年代紀各一卷 奝然衣綠 自云姓藤原氏」と藤原氏中心の史書の可能性がある伊弉諾以前から長い歴史があると主張する史書をもとに「其年代紀所記云」と記述され藤原氏は中国と呼んだ北九州周辺の筑紫出身で尾張氏と共に畿内に侵入したと述べているのだろう。
しかし、『宋史』も「日本國者本倭奴國也」と漢代からの海中・黄海・六合の国と「神武天皇 自築紫宮入居大和州橿原宮 即位元年甲寅 當周僖王時也」の春秋戦国の大和建国と矛盾をきたし「海中」から「大海中」、「大荒」から「大海」へと中国の常識が変わり共に海中として混同したのだろう。

2018年6月8日金曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー 海外史書4

 瓠公は『三国史記』で「瓠公者未詳其族姓本倭人」と倭人で、「脫解本多婆那國所生也」と倭国ではない日本生まれの脫解王に「拜瓠公爲大輔」と重要な立場で仕えた。
「脫解王代 永平三年・・・瓠公夜行月城西里 見大光明於始林中」と西暦60年に後の新羅王味鄒の祖金閼智を倭人瓠公が招き入れ、阿達羅王即位四年157年に『三国遺事』の「阿達羅王即位四年・・・延烏郎・・・負歸日本 國人見之曰 此非常人也 乃立為王」と日本人の王を受け入れ、共に前後して『三国史記』の「脫解三年・・・與倭國結好交聘」・「阿達羅五年・・・倭人來聘」と倭国が朝貢して、倭国は日本の威光に逆らえない立場と考えられる。
『後漢書』の「馬韓人復自立為辰王 建武二十年」は西暦44頃の後漢時代の記述で辰王は日本人のようで、西暦400年頃に書かれた『後漢書』が辰と始皇帝の秦をまず混同しない。
『日本書紀』に「筑紫國造磐井陰謨叛逆 猶豫經年 恐事難成恒伺間隙 新羅知是 密行貨賂于磐井所」と倭の5王は筑紫国造であるにもかかわらず、中国の配下として畿内政権に反逆して新羅を攻め、新羅の畿内政権への上納物を掠め取ったが、日本国内で幸運にも内乱に乗じて倭国王が『日本書紀』に「筑紫君葛子恐坐父誅」と君・『隋書』の「號阿輩雞彌」と大王の地位を得ることができた。
中国でも南朝が廃れて北朝が力を付けたため、『隋書』にあるように「其國書曰日出處天子至書日沒處天子無恙云云」と新興隋と対等な立場と考えてしまって、『隋書』に「遣清復令使者隨清來貢方物 此後遂絶」と国交を絶たれてしまった。
そして、『隋書 卷三 帝紀第三 煬帝上』に「大業六年・・・己丑 倭國遣使貢方物」、『隋書 俀国伝』に「安帝時又遣使朝貢謂之俀奴国」、『旧唐書』に「倭國者 古倭奴國也」とあるように俀國と別国・分国の倭国(共に倭奴国の末裔)が『旧唐書』に「至二十二年又附新羅奉表以通起居」とあるように、新羅を頼って唐と交流を再開したが、新羅も倭と対等となってしまって政策を誤り百済と心中することになった。
『三国史記 卷六 新羅本紀 第六』に「十年・・・倭國更號日本 自言近日所出以爲名」と670年に国号を変え、当然、日本国内では唐に逆らった倭国の責任者が粛清されたと考えられ、倭国残党の抵抗が壬申の乱で、郭務悰の訪日と駐留で中国に反逆できないようにした。
『旧唐書』に「倭國者 古倭奴國也・・・日本國者倭國之別種也・・・日本舊小國,併倭國之地」、『新唐書』に「日本古倭奴也・・・皆以尊爲號居築紫城彥瀲子神武立更以天皇爲號徙治大和州」、『隋書』にも「安帝時又遣使朝貢謂之俀奴国」と記述され倭国も670年建国の日本国も俀国も倭奴国の後裔で670年まで唐の敵国の倭国だったが、昔から大和に有った別種の日本を倭国が乗っ取り更に小国の俀国の天智天皇が乗っ取り倭国以前の国名日本を継承したと記述しているのである。
『隋書』に「又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀」と乗っ取られた国は秦王国以外書かれていないので秦王国の可能性が高く、俀国の最終到着地は「又至竹斯國」と筑紫が到着地で筑紫君の地だ。
ところが、新しい日本となっても『旧唐書』は「多自矜大不以實對故中国疑焉」と疑いを持っているということは、壬申の乱と郭務悰の駐留に失敗し、反中勢力が日本の中枢に残ったことがうかがえる。
『山海經』で「渤海・黄海・東シナ海・六合(玄界灘)」を「海中」、「日本海」を「海外」、「太平洋」などを「大荒」と記述したが、『漢書』で「樂浪海中有倭人」、『後漢書』で「倭在韓東南大海中」、『三国志』で「倭人在帶方東南大海之中」、『晋書』で「倭人在帶方東南大海中依山島爲國」、『宋書』で「倭國在高驪東南大海中」、『梁書』では「大抵在會稽之東 相去絶遠」、『梁書』と同時代の『隋書』が「夷人不知里數」と里数を知らないから『梁書』では絶遠とどこに有るか書かず、『隋書』で「俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中」、『旧唐書』で「倭国者・・・在新羅東南大海中」と「倭國者 古倭奴國也」と倭奴國以来全て「海中」として黄海・玄界灘に中心があるとしている。

2018年6月6日水曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー 海外史書3

  そして君子国の北部にやはり『山海經』の『海外東經』から『大荒東經』にかけて「黑齒國在其北,為人黑,食稻啖蛇」と国が存在し、稲を食べ、稲作は中国以外ただ1国で、後代に東北で水田遺跡が見つかる背景だ。
『大荒東經』・『大荒南經』・『海外東經』・『海外南經』を合わせた地域の国は多数あり、『漢書 卷二十八下 地理志 第八」に「樂浪海中有倭人 分為百餘國 以歲時來獻見云」と旧蓋国の南黄海の中に倭があり、『三国志』では倭国の東に倭種がいて、漢代以前には既に日本列島で混血が進んだことを裏付ける。
同じ『漢書 卷二十八 地理志第八下 吳地』に「會稽海外有東鯷人分爲二十餘國以歳時來獻見云」と漢代に黄海・六合を中心にした倭と別種の東鯷人が日本海にいると述べている。
さらに、『三國史記 卷一 新羅本紀 第一 赫居世』には「始祖姓朴氏・・・八年,倭人行兵,欲犯邊」、「辰人謂瓠爲朴,以初大卵如瓠,故以朴爲姓,居西干,辰言王或云呼貴人之稱」 および『三國志 魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳第三十』では「弁辰亦十二國・・・其十二國屬辰王。辰王常用馬韓人作之,世世相繼。辰王不得自立爲王。國出鐵,韓、濊、倭皆從取之」、『後漢書 馬韓伝』では「皆古之辰國也。馬韓最大、共立其種為辰王、都目支國、盡王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。」と朝鮮人とは異なる、もちろん倭人とも異なる辰人が出現する。
馬韓人に共立されて王になった辰人、馬韓人に統治を任せた辰王は秦帝国以前から辰が存在するので中国人でもない、この辰人という人々は誰なのだろうか。
『日本書紀 神功皇后摂政前紀』に「新羅王遥望以爲・・・乃今醒之曰 吾聞東有神國謂日本亦有聖王」と日本の朝廷に対して日本に神国がある、「シン」国があると、敵対する倭国ではなく尊敬すべき聖王がいるシン国が新羅の東に有ると述べている。
偽作と言われているが、『契丹古伝』に漢が朝鮮を攻めて郡を作った時、辰が朝鮮2族と共に海や山によって守ったと記述され、辰は朝鮮2族の漢から見て遠方の東国で国が海を隔てて別れていると記述する。
漢は当然歯向かう辰に対抗して行動を起こすはずで、それが、倭への援助で『漢委奴國王』の金印を与えて援助したのであり、倭人の新羅への侵略も漢の影響があったから、漢代に倭の新羅への侵略が始まったと考えるのが理にかなっている。
だから、倭は中国から『宋書』に「以倭國王珍為安東將軍」と将軍位を授与されたことを喜び、日本は『梁書』に「貴人第一者爲大對盧 第二者爲小對盧」と高句麗の對盧という官位を真似て使用していいる。
中国の援助が有る倭国は中国と呼応して新羅や高句麗を侵略し、それに対抗して、新羅・高句麗は畿内政権と協調したから、『三国史記』の倭に対して、『日本書紀』の新羅は全く違う友好的かつ優位的な対応をしている。
『三國遺事 卷第一 紀異第一』の日本は「東海濱有延烏郎・細烏女 夫婦同居 一日延烏歸海採藻 忽有一巖 負歸日本 國人見之曰 此非常人也 乃立爲王」と新羅の王に日本人がなったと記述し、関係の良好さを示している。
しかし、良好な日本との交流を『三国史記』は一切触れていないのは、当然で、攻め込まれた倭国以上に日本の冊封体制下であったことを戦勝国の新羅が史書に記載するとは思えない。
それは、『日本書紀』で中国に贈り物を献上したと書かないのと同じことで、天皇が665年に『旧唐書 卷八十四 列伝第三十四 劉仁軌傳』に「麟德二年 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會 高宗甚悅」と唐の皇帝に平伏しに訪中したことを書いていないことからよくわかる。
特筆すべきは『三国遺事』において「阿達羅王即位四年丁酉・・・延烏郎・・・負歸日本 國人見之曰 此非常人也 乃立為王」の記事以降「開元十年・・・屬慶州東南境乃防日本塞垣也」まで日本が出現せず、『三国遺事』は明確に倭と日本の国名を峻別した。

2018年6月4日月曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー 海外史書2

 距離を非常識にして、「だから内容が信用できない」とする論理は、史書が正しくては困る人々が異常値と信じ込んでいるだけで、常識ある人々は「里単位が違うのでは」などと正しく読むための方策を考え、それは『三国志』も同じで、『三国志』の里単位は壱岐の直径14から16Kmが「方可三百里」から1里約50m、唐津市から糸島市まで30Kmの「東南陸行五百里」で松浦川から26Kmだ。
里単位を1里約50mにすると、絶対に邪馬台国を筑後山門や大和に誘致できないため、壱岐の直径を見なかったことにして1里約400mと信じ込ませることで、ほら『三国志』どおり読むと日本列島を突き抜ける、だから『三国志』は信用できないと足りないありもしないのに船行・陸行部分を継ぎ足し、方向を変えて強弁せざるを得ない、万二千里を無意味にする論理である。
里単位を1里約50mで距離は『梁書』と同じ、国境間距離で対馬・壱岐・伊都・不彌の領内を加える、そういう常識的方法で読めば『三国志』は整合し、後代に常識はずれな地図が出現して、異様に日本列島が大きかったり、東と南が異なるが、後代の中国人ですら里単位が変わったことを理解していないために発生した錯誤で自国中国は正しい里単位で描き、短里の古い資料も信頼したため歪な地図となった。
  また、『山海經 大荒東經』の「君子國在其北,衣冠帶劍」に対し、『神異經』では「男皆朱衣縞帶元冠」と共に帯冠し「東荒山中有大石室東王公居焉」と東王が住み、「東方荒外有豫章焉 此樹主九州」と九州と呼ばれていたと記述し、大荒東が日本を証明している。
勿論、古代においては女上位で「中荒經十則」に出てくる西王母が上位で中荒の中国中枢に存在して、九州に対して「九府玉童玉女 」と九府があり、州と府どちらが上位かは一目瞭然で府が上位で後に九州を中国国内に当てはめたもので、八岐が八州と同じで九岐・九国の意味だ。
その九州の三身国は『山海經』の『大荒東經』・『大荒南經』・『海內經』に記述されて、黄海・日本海・太平洋に接する現代の九州で、白日・豊日・建日の3身の国で「帝俊生三身,三身生義均」と帝俊が国産みし、『古事記』の4面以前、『日本書紀』が天降りする対象国である日国の話だ。
そして、帝俊とともに黄帝も『大荒西經』・『大荒北經』・『海內經』や夏后も『大荒西經』・『海外西經』・『海內南經』とモンゴルから朝鮮半島・東シナ海の領域の人物で、極東の遺跡の出土状況を物語っていて、中国建国前の黄帝や夏后より前に国が既に散在していた。
また、帝俊・黄帝・夏后の記述から、『山海經』・『神異經』の対象の「現代」は黄帝・夏后の時代で、黄・夏という人物に対して尊称の帝・后をつけて呼び、 帝俊は歴代の帝の中の俊ということで、黄帝・夏后より前の人物とわかる。
さらに日本海側から太平洋までの君子国の南には『山海經』の『海外東經』・『大荒東經』に「大人國在其北,為人大,坐而削船」と船をもつ大人國があり福井県三方湖周辺の鳥浜遺跡などの縄文遺跡からは丸木舟の出土と1万2千年前の漆が出土し、河姆渡遺跡周辺の漆と船の出土と無関係とは思えない。
『山海經 大荒北經』の大人国は別国か不明だが『出雲風土記』の「国引き神話」は日本海の対岸の国を引いていて、『山海經 海內東經』の「蓬萊山在海中 大人之市在海中」と蓬莱山の近辺の黄海の中に流通拠点を持っていたようだ。
『山海經』の『海外東經』から『大荒東經』にかけて「君子之國」があり「其人衣冠帶劍」と冠を戴き剣を帯びた人々と記述し、海外東すなわち日本海東部の石川県中屋サワ遺跡に石冠と石刀が出土しそこから太平洋側に至る国が存在し、君子は中国国内の『西次三經』の「天地鬼神是食是饗 君子服之以禦不祥」・『海內南經』の「巴蛇食象,三歲而出其骨,君子服之,無心腹之疾」と交流が有る。
大人国が出雲を含んで「稲田宮主須賀之八耳神」の国、君子国が支配する出雲の『出雲風土記』の「古志郷 即属郡家。伊弉那彌命之時、以日淵川築造池之」、『古事記』の「高志之八俣遠呂知」、帯冠帯刀したオロ神(チ)の配下の宮主で官名耳の娘たちを人質として上納させる姿が思い浮かぶ。

2018年6月1日金曜日

最終兵器の聖典 オーバービュー 海外史書1

  前章では日本の3史書の違いや鏡・甕棺などから、国譲り・天降の伝承を検証したが日本に関する資料が中国や朝鮮に残っているので海外史書をもとに古代史を俯瞰してみよう。

  後代の室町時代の史書であるが『遼史 第三十八卷 志第八 地理志二』に「辰州奉國軍節度 本高麗蓋牟城 唐太宗會李世攻破蓋牟城即此 渤海改爲蓋州 又改辰州 以辰韓得名」と辰韓の由来が記述されている。
戦国以前は東夷であった現代の蓋州市あたりから朝鮮半島南部まで蓋州と呼ばれていた、すなわち、飛び地で州はあまり無いので箕子朝鮮以前から蓋州、辰州と呼ばれ、後に分断されて朝鮮という地域ができたことを意味する。
『山海經 海内東經』に「蓋國在鉅燕南倭北 倭屬燕 朝鮮在列陽東」と書かれて、蓋国が渤海東岸から遼東半島のことと解り、朝鮮の語句の前には時間の経過も含まれた内容で、漢代の燕は蓋州の一部を併合したが、朝鮮半島がそれ以前は辰国、その前は蓋国と呼ばれ、倭も辰国に属していたということだ。
鉅燕というのは『山海經 海內北經』に「貊國在漢水東北。地近于燕,滅之」と漢代に貊國を滅ぼして鉅燕となったという意味で、『山海經』の対象時代には鉅燕はもちろん燕すらなく、『山海經 北山經』に「燕山,多嬰石。燕水出焉,東流注于河」と地名があるのみで、周建国の元勲である召公が燕を建国した。
すなわち、蓋國は蓋州のことで朝鮮半島全体すべてだった可能性が高く、倭は朝鮮半島ではない、『山海經 』を書いた漢時代の領海の東部、黄海にあったということだ。
そして蓋国は辰国に支配され、漢時には、辰国領域は三韓の地へと後退し、朝鮮が領域を持ちそれが中国建国前の事で、『契丹古伝』には辰国は海を隔てて2国に分かれたと記述し、辰国は3韓の南や東以外考えられない。
『山海經』では海を海内・海外・大荒にわけ、海外は日本海、大荒は太平洋及び辺境を示す内容が散在して、海外南・海外東・大荒東は『三国志』に出てくる黒歯国・侏儒国を思わせる国が書かれて日本列島を思わせる。
更に、前漢に書かれた『神異經』の「東荒經九則」に「東方有樹,高五十丈,葉長八尺,名曰桃」、「木栗出東北荒中」、「東方荒中,有木名曰栗」と縄文時代から食べられていた食物を記述し、三代丸山遺跡では栗を栽培していたと言われ、『山海經』の「湯谷上有扶桑」と同じ「大荒之東極至鬼府山臂沃椒山腳巨洋海中升載海日 盖扶桑山有玉鷄」と扶桑が出現する。
そして、この扶桑は後漢の『洞冥記』の「是長安東過扶桑七萬里有及雲山」、『梁書』の「扶桑在大漢國東二萬餘里 地在中國之東 其土多扶桑木」と連綿と記述されるのである。
ここで、『梁書』の二萬餘里は恐らく、日本側が125Km、1里50mの2千5百里と報告したのに対し、梁は日本が長里で報告しと考え、この時代日本が短里を使用していることを中国は知っていたので、更に8倍の二萬里と記述したと考える方が理に適う。
「文身國 在倭國東北七千餘里」の倭国と分身国間は7千里の八分の一の875里の約45Km、「大漢國 在文身國東五千餘里」の大漢国と分身国間は同じく625里の約32Km、「扶桑在大漢國東二萬餘里」の大漢国と扶桑国間は2万里の同じく2千5百里で約125Km、計205Kmである。
これは国境間距離のため、領内に同程度の距離が有り、倭国と扶桑国間は国境間300Kmで岡山辺りから扶桑国となり、扶桑国の領内も125Kmとすると430Kmになり、常識的距離と言え、他の計算法の時は日本列島を突き抜ける。
そのため、『隋書』は「短里」を認めず、「夷人不知里數但計以日」と里単位を知らないので、行程を日数で示すと記述しているが、『梁書』で「慧深又云 扶桑東千餘里有女國」と慧深が里数を述べている。