2023年4月28日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 孝安天皇

 大倭帶日子國押人が葛󠄀木氏の葛木彦である。葛木氏の劔根の娘と尾張氏の天忍男との子の羸津世襲だ。長男でないので、葛木に婿入りしたので葛木氏で、尾張氏の祖でもある。それは、子が忍人の娘に婿入りするからだ。お互いの子同志が婚姻して、氏を引き継ぐ。孝安天皇は襲名し、葛木出石姫を妃にした天忍人の日子國押人・波延である。そして、卅八年から、葛󠄀木避姫を妃にした忍人の子の天戸目である。住む場所が変わると名が変わるようだ。羸津世襲・葛木彦と天戸目は従弟同志だが、名目上は襲名するので、忍男と忍人の兄弟である。葛木彦の妃は忍人と出石姫の子の葛󠄀城尾治置姫、本家葛木氏の姫と考えられる。天戸目の妃は葛木彦の娘の葛󠄀木避姫で名目上は姪である。従って、『古事記』の葛木彦の妃が姪忍鹿比賣、すなわち、天忍人の娘、『日本書紀』の師木縣主葉江の娘の長媛だ。『日本書紀』の孝安天皇の皇后は葛󠄀城尾治置姫の娘、姪の押媛、忍日女である。天忍人の娘で、天戸目の本家の姫である。天忍人は師木津日子の妃となった忍日女の家系と交互に婚姻しあい、師木に天戸目は居た。

 天皇の名の大倭根子は天子の意味、日子賦斗迩や日子国玖琉の地名が無い日子が天皇の名前だ。大倭根子は葛城氏の天皇名、天忍人の天皇名は縣主日子で、帯日子は二番目の地位と思われる。『古事記』は「日子八井」、「兄縣主波延」、「弟帯日子國忍人命者治天下也」と記述する。弟は最初、皇太子として実務を担当した事を意味し、忍人は襲名し、弟は忍男と名乗って、分家して、実務を担う。「日子八井」は和知都美、八国の淡道の御井宮天皇の事で、初代波延の忍人である。『日本書紀』は「日子八井」を記述せず、「磯城縣主葉江」、「日本足彦國押人」である。それに対して、葛木氏は八井耳、師木縣主、大倭日子、大倭帯日子で、天皇は宗教を担当する。それで、尾張氏は分裂し、葛木氏をバックにした弟は実務を担い、天皇より強大となる。そして、葛木氏が天皇に就く。

 前392年、「元年春正月乙酉朔辛卯」に、葛木出石姫を妃にした忍人が皇位についた。先代は角屋姫を妃にした忍人である。師木津彦と忍日女の子の和知都美は師木津彦の兄息石耳の娘の天豐津媛を妃にした。従妹だが、襲名するので、名目上は妹である。『古事記』の神武皇后が『日本書紀』の綏靖皇后であるように、孝昭皇后もズレていると思われる。従って、「秋八月辛巳朔」に世襲足媛ではなく、天豐津媛を皇太后としたと思われる。前391年、葛木出石姫がいる室の秋津嶋宮に遷都した。前367年、「春二月己丑朔壬寅」に天戸目が姪の葛󠄀木避姫を妃にして、皇太子になった。前の長男の皇太子が薨じたと思われる。前355年、「秋八月丙子朔己丑」に天戸目の父忍人が崩じた。前291年、葛󠄀木避姫の弟の忍男を襲名した葛木彦が天戸目から皇位を奪った。

 『日本書紀』に記述されない大吉備諸進が記述されるが、崇神天皇十年の「吉備津彦遣西道」が『古事記』に記述されない。日干支も朔が2日で間違っている。次代の孝霊天皇が葛木氏にかわり、子に大吉備津日子、若日子建吉備津日子と吉備の王がいる。孝安天皇の時、葛木氏の大倭帯日子が吉備を征服して、権勢が天皇を越えて、皇位を奪取したと考えられる。


2023年4月26日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 孝昭天皇

  和知都美の子は繩伊呂泥、蝿伊呂杼である。葛󠄀木氏の妃が阿久斗比賣、縣主波延の娘だった。地名の無い縣主は天皇である。葛木氏が天皇になると、縣主から天皇になる。物部氏が天皇になると、大連なのだろう。すなわち、天皇の和知都美の子が波延の姉と波延の妹で男児が記述されない。実際は83年も継続したので子は存在したが、子の名は波延と言う事が解る。名は長男・長女が襲名し、同一人物として、子に入れないから記述しないと思われる。だから、1名の天皇が100年も続く。すると、和知都美は襲名される波延で、阿久斗比賣が繩伊呂泥か蝿伊呂杼、孝霊天皇の妃である。

 正史『日本書紀』の安寧天皇の妃は渟名底仲媛なので、私史『古事記』の皇后は葛󠄀木氏の妃で、阿久斗比賣と論理づけられた。従って、『古事記』の天皇名は葛󠄀木氏で、天の子の天子と同じように大倭根の子の大倭根子が葛󠄀木氏の名である。従って、『日本書紀』の天皇名も葛󠄀木氏の名だったことが解る。当然の帰結で、『古事記』は葛󠄀木氏の史書だから、他王朝の役職名など記述する必要が無く、『日本書紀』も葛木氏が書いたので、それを踏襲した。

 前475年、「元年春正月丙戌朔甲午」に、和知都美は即位した。夏四月乙卯朔己未に、息石耳の兄弟の渟名底仲媛が皇太后だ。皇后は豐津媛と考えられる。前393年、「秋八月丁巳朔辛酉」に忍人・孝昭天皇の王朝が終了した。五十鈴依媛や渟名底仲媛の子達と姻戚の神屋王朝が終った。その為、天皇の埋葬が前355年、孝安「卅八年秋八月丙子朔己丑」と異様に遅い。すなわち、角屋姫の首都から葛木出石姫の首都に遷ったことを示している。

 御眞津日子は葛󠄀木氏の名前である。御眞津の名は開化天皇と伊迦賀色許賣の娘が御眞津比賣だ。御眞津日子の母は賦登麻和訶比賣で師木縣主の祖である。葛木氏と婚姻したため、師木縣主の祖になった。すなわち、葛木氏は、神屋王朝の師木王だった。前447年、「廿九年春正月甲辰朔丙午」に葛󠄀木氏は余曾多本毘賣を妃にした。すなわち、奧津余曾が葛󠄀木彦と記述されるように、葛󠄀木王になった。そして、前659年に当て嵌められた「二年春二月甲辰朔乙巳」は前411年と考えられた。釼根を襲名した奧津余曾は葛󠄀木彦・葛󠄀木國造である。弟の健額赤が葛󠄀城尾治置姫を妃にしているので、余曾多本毘賣は葛木氏の御眞津日子の妃と考えられる。葛󠄀木氏は天忍男・剱根と強固な姻戚関係になった。葛󠄀木氏は天忍人波延の娘の渟名城津媛を妃に、出石姫を波延の皇后にして、天忍人は師木を手中に出来た。

剱根・天忍男の家系の葛󠄀木彦に対し、本家葛󠄀木氏は尾張氏、天忍人の位置づけである。天忍人の子の天戸目は葛󠄀木避姫を妃にし、葛木彦も天忍人の娘の忍鹿比賣を妃に天皇になった。そして、天戸目の子の建斗禾は木國造の智名曽の妹中名草姫を妃にした。中名草姫の姻戚と思われる紀伊名草姫は出雲臣の孫の妃である。出雲醜大臣の姻戚である。出雲醜大臣は懿徳天皇の時の周饒国(食国)政大夫である。大臣の意味は周饒国の国神の臣、大国の王の大臣、孝昭天皇と同時期である。

 出雲醜大臣は倭志紀彦の妹の真鳥姫を妃にしている。野洲朝廷の志紀王、和知都美波延王朝の志紀王の妹だ。大臣を引き継いだ伊香色雄も倭志紀彦の娘の真鳥姫を妃にしている。そして、伊香色雄の妹の伊香色謎は御眞津比賣を生んで、伊香色謎は御眞津に住んでいる。物部氏は但馬城崎・豊岡近辺に住んでいた。出雲臣が大臣になったが、但馬城崎は丹後の近辺で、丹後も大国領、そこで大臣になったと考えられる。御眞津の御は神国、津は港で、三国配下の眞港である。敦賀は「つぬが」の訛りで、津の河口と思われ、同じく「つる」を含む舞鶴が丹後にはある。御眞津はピタリと当てはまる。


2023年4月24日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 懿徳天皇

   天日方奇日方は周饒国(隠洲国)の「食國政大夫也其天日方奇日方」と政大夫だった。食國政大夫が大国・周饒国の王である。だから、元々、天日方奇日方は野洲・三国を含めた天皇だった。そして、子の建飯勝は出雲臣の婿になったが、若狭・野洲を失ってしまった。もともと、周饒国(食国)の政大夫は宇摩志麻治だったが、その地位を奪ったと思われる。しかし、彦湯支が建飯勝から周饒国(食国)政大夫の地位を奪い返した。彦湯支は出雲色多利姫を妃にした。後の出雲臣の母系である。その娘を建飯勝が妃にしたためで、出雲色多利姫の子が出雲醜大臣、すなわち、大国王及び食国政大夫となったと思われる。

 建飯勝の子の建甕槌は伊勢幡主の娘の賀貝呂姫を妃にして、高倉下とともに野洲を制覇した。すなわち、息石耳の娘の天豐津媛が賀貝呂姫と考えられる。それで、子が豊御氣主と、豊の氏を名乗り、気比の王となったと思われる。そして、天豐津媛の父の息石耳は隠岐を統治した王と考えられる。建飯勝の後継者、安寧の皇后の渟中底姫の子である。隠岐・敦賀・淡道・伊勢(遺跡)の王と思われる。天豐津媛の母は日臣の豐玉彦の娘の可能性が高い。神武東征の主役の一人の日臣が尾張氏に無関係とは考えられない。『舊事本紀』の火明の妃が天道日女なら、『日本書紀』では火明の妃が日臣→道臣なら似た関係になる。高倉下と剱根が、互いに、婚姻したように、道臣とも婚姻しあったと思われる。

  前510年、「元年春二月己酉朔壬子」懿徳即位、皇后の名が天氏の豐の港の姫のようだ。豊国の姫の家系が権力を持ったと思われ、日臣は相応しい。そのため、立皇后は、前509年「二月癸卯朔癸丑」は九州の暦で、2月甲辰晦癸丑を書き換えたと思われる。懿徳天皇は『古事記』では「大倭日子」だが、『舊事本紀』で大倭根子と呼ばれた。大倭日子鋤友が物部氏にとっては大倭根子日子賦斗迩につながる天皇、葛木氏にとっては、即位前で王の一人と理解したからと思われる。皇位を奪われた物部氏と、皇位を奪った葛木氏である。前663年に当て嵌められていた「九月甲子朔戊辰」は前482年と考えられる。襲名した、剱根と建甕槌と日臣と珍彦が高倉下と同盟した。前482年、「九月甲子朔戊辰」に高倉下は八十梟帥と高島の対岸の近江坂田と思われるところで戦った。また、兄師木軍は剱根と磐余邑で戦い、東征の盟友の襲名した珍彦が協力した。珍彦が木国造となる。前482年、「冬十月癸巳朔」に、道臣が坂田の忍坂で、八十梟帥を破って、この勲功で、淡道の道臣となったと思われる。前482年、「十有一月癸亥朔己巳」に剱根と葛󠄀木氏が協力して、師木王に討ち勝った。伊勢主の建甕槌の子の豊御氣主は剱根の盟友の娘、木国の名草姫を妃にして、木国に住んだ。天日方奇日方の家系の小椅君の娘の阿俾良依姫と高倉下の娘の忍日女の子の2代目天忍人と思われる和知都美が淡道の御井宮で孝昭元年、前475年に即位した。

 天忍人・縣主波延の娘の阿久斗比賣を妃にしたのは、新たに師木津日子になった葛󠄀木氏と思われる。葛󠄀木氏は、出石姫を和知都美の妃にして姻戚関係を深めた。姻戚関係になると、葛木に住む姫の子は葛木氏、尾張邑に住む姫の子は尾張氏と氏を継承したと思われる。

2023年4月21日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 安寧天皇

  建飯勝は但馬の城崎の出雲臣に婿入りしたと思われる。出雲大臣の弟の出石心、その子に大水口がいる。出石、水口は但馬城崎・豊岡近辺に存在する。そして、五十鈴依姫の子の日子八井は、建飯勝の妹の渟名底仲媛に婿入りして建飯勝は実権を得た。『日本書紀』に記述されない日子八井は、初代五十鈴依姫の子、沼河耳の母は2代目五十鈴依姫と考えている。それで、前549年「七月癸亥朔乙丑」に建飯勝が八国朝廷の天皇になった。さらに、前546年「春正月戊寅朔壬午」に、2代目渟中底姫と弟研貴彦兄弟が大神倭国の実権を得た。敗れた建飯勝の子の建甕槌は高倉下に協力し、伊勢幡主に婿入りして、野洲近辺に移住したようだ。その後、木国の名草姫や大倭國民磯姫を妃にして、和迩君や大物主が生れ、崇神天皇が大物主を祀った。研貴彦と渟中底姫の朝廷は三国・若狭・大国・但馬・出雲・隠岐を領有したと思われる。

 「十一年春正月壬戌朔」の立太子記事は前178年、倭奴国王の11年春正月朔日の当て嵌めと思われる。前188年即位の倭奴国王11年に、後継者のいない王が即位した。安寧天皇の立太子の異様さが別王朝の王朝交代の証明を引き出した。検証すると、綏靖天皇の25年に、皇太子になり、年齢は21歳だった。綏靖33年、安寧29歳、綏靖崩で30歳に天皇即位。38年に安寧天皇崩、57歳と記述された。67歳でないと計算が合わないのである。そして、仲哀天皇太子など、立太子前に何度も皇太子が出現するのである。すなわち、皇太子は天皇が即位すると、途中で死なない限り、自動的に決まっていることが解る。それで、立太子記事は他王朝の記事と解った。立太子記事は持統天皇まで延々と続き、西暦700年まで続く王朝で、雄略朝以前から記録を持つ王朝は倭国しかない。だから、倭の王朝交代記事であると証明できた。

 葛󠄀木氏は師木縣主の祖の河俣毘賣を妃にしていた。師木縣主の祖というのは、河俣毘賣の子が師木縣主になったことを示す。沼河耳は珍彦や高倉下と共に奈良湖東岸を奪って、子が師木津日子となった。そして、協力したのが剱根と思われる。高倉下と剱根は研貴彦の王朝に勝利し、高倉下は敦賀から野洲、伊賀、那婆理、美濃、師木を奪った。渟中底姫の子の師木津彦と初代天忍日女との子が2代目天忍人の淡道の御井宮孝昭天皇の和知都美と、2代目天忍男の伊賀、那婆理、美濃の王である。兄倉下は初代天忍人、弟倉下は初代天忍男、河俣毘賣は2代目の天忍人の妹、2代目忍日女の姉妹である。初代の天忍人の妃は角屋姫、この姫は敦賀の姫の天豐津媛と思われ、敦賀から野洲を領地にした。2代目天忍人の淡道の御井宮の和知都美は葛木出石姫を妃にする。葛木氏沼河耳は忍人の妹河俣毘賣を妃にして師木津彦、阿久斗比賣を妃に御眞津日子となったと思われる。天忍男は剱根の娘の賀奈良知姫を妃にする。そして、子の大倭日子は和知都美の娘と思われる師木縣主の祖の賦登麻和訶比賣を妃にした。葛木氏の御眞津日子は剱根の孫の世襲足姫を妃にし、剱根の孫羸津世襲が葛󠄀木彦と葛木氏の統領となった。葛木氏本家の御眞津日子は師木を出て君子国の眞津、葛󠄀木彦が大国と八国の将軍である。


2023年4月19日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 綏靖天皇2

  それでは、神国王朝と分裂した、伊勢遺跡の安国朝廷の天皇は誰だろうか。答えは簡単である。次代の皇后は渟中底姫なので、渟中底姫の父か兄弟に皇位が遷ったのが安寧天皇である。同様に鞴五十鈴姫の子の五十鈴依姫の兄弟が綏靖天皇である。すなわち、天日方奇日方から小椅君、小椅君から建飯勝に政権交代する間の天皇。小椅君の鞴五十鈴姫の子(?阿田都久志尼)が綏靖天皇、神(三)国天皇、建飯勝と渟中底姫が大倭(八)天皇だ。倭天皇だった建飯勝は、物部氏出雲醜大臣の叔母と思われる姫の沙麻奈姫を妃にして、大国を配下にしているようだ。

 渟中底姫の父は神武天皇の天日方奇日方。神武天皇の長男は建飯勝、もう一人の綏靖天皇である。懿德紀に「天皇母渟中底姫弟武石彦奇友背命」と記述されている。すなわち、安寧天皇は武石彦奇友背である。『舊事本紀』の安寧妃の渟中底姫の子に師木津彦や研貴彦友背が存在する。『日本書紀』の渟名底仲媛・安寧天皇師木津彦夫妻の子に襲名した師木津彦がいる。すると、師木津彦や研貴彦にも兄弟の渟名底姫がいることを示す。そして、『古事記』の當藝志美美は研貴彦と同じ人物とした。すなわち、研貴彦から天忍人は皇位を奪取したことを示す。天忍男は安寧天皇の子の師木津彦から、師木を奪って師木彦となった。師木八十梟帥の一人の総大将師木彦と兄師木を破った。そして、恐らく、剱根の子の襲名した剱根・弟師木の娘の賀奈良知姫に婿入りして師木彦、更に葛木彦となったと思われる。珍彦に大津を追い出された葛木氏の御毛沼と考えられる。御毛沼は鞴五十鈴姫の孫、綏靖皇后の五十鈴依姫の姪の五十鈴依姫を妃にして、天皇の姻戚となった。しかし、皇位は建飯勝が奪取して傍流となった。子の沼河耳は師木縣主の祖の河俣毘賣を妃に、その子の玉手見が、新しい縣主・天忍人の娘婿の師木津日子と考えられる。

 宇摩志麻治は活玉依姫と同地域の王の活目邑の五十呉桃の娘の帥長姫を妃にした。子の彦湯支は親子共々大神を祀り、隠岐の食国の大夫、国神の臣と呼ばれたようだ。大神君は天日方奇日方の子孫、すなわち、天日方奇日方が祀る神が岐神と習合した大国の神の大神だった。その大神を物部氏が祀り、現代の天照大神に繋がっているようだ。系図のズレは、饒速日、宇摩志麻治が物部氏の神孫の始祖。なので、物部連の祖、伊香色雄が物部氏の神武天皇、宇摩志麻治だからと思われる。伊香色雄以前の物部氏は、紀年をもつ記録された王朝に対応する人物と、記録をもたない神話の人物が混在している。それは、『古事記』が紀年をもたない書で、神話が5世紀の顕宗天皇まで続いたことを証明している。『古事記』は葛木氏の人物列伝という神話に『日本書紀』の系図を付加した書である。

 前581年「元年春正月壬申朔己卯」に小椅君が即位した。「廿五年春正月壬午朔戊子」の立太子記事は前188年、倭奴国王の25年春正月7日の当て嵌めと思われる。前212年即位の倭奴国王25年に、後継者がいない王が即位した。

 綏靖天皇の陵墓は『日本書紀』が倭桃花鳥田丘上陵、『古事記』が衝田岡で異なる。『古事記』は葛󠄀木氏の沼河耳の敦賀の墓と思われる。『日本書紀』の倭桃花鳥田は読みが記述されないが、「つきだ」とは読めない。倭は中国の文献の、天・海内・黄海に住む倭人を琵琶湖の倭と理解し、「や」若しくは「あま」・「淡海」の「あわ」の表意文字で倭を使い、倭は野洲王朝を指す。


2023年4月17日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 綏靖天皇1

  「七十有六年春三月甲午朔甲辰」の神武崩は76年閏3月甲午晦甲辰の書き換えで、葛木氏の王家が沼河に婿入りした。剱根の王家は、神倭政権の配下でないようで、まだ、九州の暦を使用している。神武天皇は、天日方奇日方・鞴五十鈴姫兄妹である。天日方奇日方は小椅君の娘の日向賀牟度美良姫を妃にした。皇位継承は互いに婚姻しあって、力のある王家が実権を握ると考えられる。なので、鞴五十鈴姫に婿入りしたのは小椅君と考えられる。鞴五十鈴姫の娘と天日方奇日方の息子の婚姻で皇位を継承する。それで、天日方奇日方が神武天皇で、血統・氏族は女系で鞴五十鈴姫である。従って、綏靖天皇は『古事記』の當藝志美美、『舊事本紀』の阿田都久志尼の義兄と考えられる。『日本書紀』の綏靖皇后が五十鈴依媛、『古事記』の當藝志美美の妃だから、当然である。すなわち、『舊事本紀』での綏靖天皇は小椅君と日向賀牟度美良姫である。ところが、神倭政権から神国政権とあるように、野洲の倭国と分裂したようだ。

葛木氏の御毛沼は小椅君側に入り、勢夜陀多良比賣の娘の伊須氣余理比を妃にした。當藝志美美の皇后の伊須氣余理比が、沼河耳の母か沼河耳の妹かは不明である。しかし、沼河耳の子が師木の王と首都から師木に移動しているので、中心勢力とは成れていない。神阿多都比賣や豐玉毘賣・玉依毘賣の神話は吾田王の小椅君や宇治王の宇迦之御魂神と姻戚になった事を述べていると思われる。

 すなわち、天日方奇日方・鞴五十鈴姫兄妹は、婚姻で若狭を手に入れた。それで、天日方奇日方の別名が阿田都久志尼で阿田津の奇尼の小椅君である。奇尼は大尼と同じ王の意味と思われる。建飯勝は出雲臣の娘の沙麻奈姫を妃にして、天狭霧の支配地に遷った。そして、孫は建甕槌、娘の阿比良比賣の婿は剱根と阿俾良依姫の婿の天村雲である。そして、何代目かの五十鈴依姫を妃にしたと思われる大津から逃れた、葛木氏の沼河耳が河俣毘賣を妃にして八国の支配下の師木津日子となる。波延王朝の建国、懿徳天皇以降の話だ。

 小椅君の娘の阿俾良依姫と婿の天村雲の子が兄倉下天忍人と弟倉下天忍男と思われる。すなわち、神八井耳と日子八井がそれに対応する。神八井耳が天忍男、日子八井が天忍人の家系と考えられる。和知都美が御井宮、すなわち、神井神八国の天皇である。日子単独の冠位は天皇の冠位、耳は神国の配下の冠位と思われる。和知都美は立渟名底仲媛の孫、忍日女の子と思われ、忍日女・日子八井が懿徳天皇である。和知都美の兄弟の子が伊賀・那婆理・三野の王の祖で、三野は尾張氏の国、天忍男の子孫だ。天忍男は師木縣主、兄の従弟の葛󠄀木氏の沼河耳の子と共に奈良湖東岸に領地を獲得した。そこには、伊波礼毘古がいて、娘の賀奈良知姫を妃にした。実際の発生時期は前390年頃の孝安天皇が即位した時期と考えられる。沼河耳は天村雲の娘の河俣毘賣を妃に、娘の出石姫が天忍人の妃となった。

 『日本書紀』は『舊事本紀』と『古事記』・『四方志』など、多くの記録を纏めたもので、時代も系図も入り組んでいる。それに対して、『舊事本紀』と『古事記』などは、関連氏族の記録で、時代は前後するが、系図の前後関係は正しいと思われる。従って、沼河の子の師木津日子は70年、3世代程度続いたと考えられる。玉手見は宇迦之御魂神を祀る神の意味ではないだろうか。


2023年4月14日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 神話と神武神話とチャットGPT

  神話と神武紀を終えて、私の新『日本書紀』が信頼できるか、今話題のチャットGPTと論争した。  

 まず、『日本書紀』の偽書の証拠をチャットGPTに聞きた。「すると、一部の研究者は、日本書紀が偽書である可能性があると主張した。偽書説の根拠の一つは、日本書紀の成立時期に関する問題だと答えた。日本書紀が成立したとされる7世紀後半から8世紀前半は、まだ漢字が普及していなかった。だから、文字文化が未発達であったため、日本書紀のような大規模な書物が成立することが難しいとされた。」

しかし、古事記も日本書紀もほとんどが表意文字で、意味と漢字が対応できない歌などは表音文字を使用した。漢字がなくても、言葉・伝承を表音で表し、解る部分だけ表意文字にして、読みやすく出来る。訓を使うと言う事は、その文字を理解している証拠である。

 また、日本書紀に記された内容にも疑問が投げかけられている。「日本書紀には、日本の神話や歴史、王朝の系譜などが記されているが、これらの内容は神話的であったり、史実と矛盾する部分があると指摘されている。さらに、日本書紀が政治的な意図で書かれたという説もある。例えば、日本書紀には、天皇家の祖先や功績が多く記されており、天皇家の正統性を主張するために作られたものではないかとの指摘がある。」

そこで、何の知識もない状態で、建国の神話を書けるかをチャットGPT聞いてみた。すると、「建国の神話を生成するためには、歴史や文化的な背景についての深い知識が必要だ。まず、建国の神話を生成するためには、その国の歴史と文化について十分に研究する必要がある。これには、その国の起源や伝統、言語、宗教、芸術、建築、文学、音楽などについての知識を含む。また、その国の現在の政治や社会構造、経済的な状況についても理解する必要がある。次に、研究した情報を基に、建国の神話を構築するためのアイデアを出すことが必要だ。建国の神話には、神話的な起源や英雄的な人物、伝説的な出来事や象徴的な物語などが含まれる。これらのアイデアを研究した情報を基に創造し、連続性や論理性を保つように調整することが必要だ。最後に、創造した神話を周囲の人々に伝える方法を考える必要がある。これには、口承や書物、芸術作品、祝祭、記念物などが含まれる。その国の文化的な伝統や文化的な影響に基づいた方法で神話を伝え、伝承することが重要だ。すなわち、建国の神話を生成するためには、多くの知識と研究能力が必要」と答えた。

すなわち、神話を創るには、具体的な伝統や史実があって、それを基に創られる。無いと言う事は、その言葉も存在しないことになる。とある事実が無ければ神話は出来ない。そして、それを伝える方法が必要で、文字や共通する言葉が必要になる。従って、神話だから、作り話で信頼できないなどと、結論できないことを、自ら認めて、日本書紀の偽作説を自ら否定している。

言い訳は、「事実から出来上がった神話でも、事実であるという証拠が存在しないことがある。また、歴史や文化は時間とともに変化するため、ある時期の事実が、別の時期には異なる」とチャットGPTは述べた。

しかし、私は、日本書紀の朔の日干支は正しいことを証明し、正しい日干支の部分は事実と証明した。そこで、8世紀に、グレゴリー歴がなく、閏年に誤差があるのに、正確な冬至を求めたり、閏月の決定をした計算方法があったかを尋ねた。すると、 「グレゴリオ暦が採用される前は、暦法によって異なる計算方法が用いられており、地域や時代によって異なった。また、正確な観測装置がなかったため、誤差が生じた。」と答えた。すなわち、正確な計算結果は無かったのである。しかし、日本書紀や漢書などは、正確な朔の日干支の記録を残した。また、干支自体も、中国から入る以前からあった。「木の兄」や「ね」・「たつ」と中国語では理解できない言葉を使用している。日本人は日本語にない言葉は、そのまま外来語を使用している。すなわち、干支も日本語が元々あって、表意文字で「木の兄のとら」に甲寅(こういん)を使った。

そして、チャットGPTに私の反論を交えて、再度質問しても、同じような回答を言い換えて、繰り返すだけだった。いつ、私の反論をチャットGPTは論破してくれるのだろうか。偽書はどんなに言い繕って、一部は正しいと言っても、信頼できない。正しい伝承の記録なら、中には挿入間違いはある。実際に発生した時間と、纏めた時間が違うのだから、当然である。