和知都美の子は繩伊呂泥、蝿伊呂杼である。葛󠄀木氏の妃が阿久斗比賣、縣主波延の娘だった。地名の無い縣主は天皇である。葛木氏が天皇になると、縣主から天皇になる。物部氏が天皇になると、大連なのだろう。すなわち、天皇の和知都美の子が波延の姉と波延の妹で男児が記述されない。実際は83年も継続したので子は存在したが、子の名は波延と言う事が解る。名は長男・長女が襲名し、同一人物として、子に入れないから記述しないと思われる。だから、1名の天皇が100年も続く。すると、和知都美は襲名される波延で、阿久斗比賣が繩伊呂泥か蝿伊呂杼、孝霊天皇の妃である。
正史『日本書紀』の安寧天皇の妃は渟名底仲媛なので、私史『古事記』の皇后は葛󠄀木氏の妃で、阿久斗比賣と論理づけられた。従って、『古事記』の天皇名は葛󠄀木氏で、天の子の天子と同じように大倭根の子の大倭根子が葛󠄀木氏の名である。従って、『日本書紀』の天皇名も葛󠄀木氏の名だったことが解る。当然の帰結で、『古事記』は葛󠄀木氏の史書だから、他王朝の役職名など記述する必要が無く、『日本書紀』も葛木氏が書いたので、それを踏襲した。
前475年、「元年春正月丙戌朔甲午」に、和知都美は即位した。夏四月乙卯朔己未に、息石耳の兄弟の渟名底仲媛が皇太后だ。皇后は豐津媛と考えられる。前393年、「秋八月丁巳朔辛酉」に忍人・孝昭天皇の王朝が終了した。五十鈴依媛や渟名底仲媛の子達と姻戚の神屋王朝が終った。その為、天皇の埋葬が前355年、孝安「卅八年秋八月丙子朔己丑」と異様に遅い。すなわち、角屋姫の首都から葛木出石姫の首都に遷ったことを示している。
御眞津日子は葛󠄀木氏の名前である。御眞津の名は開化天皇と伊迦賀色許賣の娘が御眞津比賣だ。御眞津日子の母は賦登麻和訶比賣で師木縣主の祖である。葛木氏と婚姻したため、師木縣主の祖になった。すなわち、葛木氏は、神屋王朝の師木王だった。前447年、「廿九年春正月甲辰朔丙午」に葛󠄀木氏は余曾多本毘賣を妃にした。すなわち、奧津余曾が葛󠄀木彦と記述されるように、葛󠄀木王になった。そして、前659年に当て嵌められた「二年春二月甲辰朔乙巳」は前411年と考えられた。釼根を襲名した奧津余曾は葛󠄀木彦・葛󠄀木國造である。弟の健額赤が葛󠄀城尾治置姫を妃にしているので、余曾多本毘賣は葛木氏の御眞津日子の妃と考えられる。葛󠄀木氏は天忍男・剱根と強固な姻戚関係になった。葛󠄀木氏は天忍人波延の娘の渟名城津媛を妃に、出石姫を波延の皇后にして、天忍人は師木を手中に出来た。
剱根・天忍男の家系の葛󠄀木彦に対し、本家葛󠄀木氏は尾張氏、天忍人の位置づけである。天忍人の子の天戸目は葛󠄀木避姫を妃にし、葛木彦も天忍人の娘の忍鹿比賣を妃に天皇になった。そして、天戸目の子の建斗禾は木國造の智名曽の妹中名草姫を妃にした。中名草姫の姻戚と思われる紀伊名草姫は出雲臣の孫の妃である。出雲醜大臣の姻戚である。出雲醜大臣は懿徳天皇の時の周饒国(食国)政大夫である。大臣の意味は周饒国の国神の臣、大国の王の大臣、孝昭天皇と同時期である。
出雲醜大臣は倭志紀彦の妹の真鳥姫を妃にしている。野洲朝廷の志紀王、和知都美波延王朝の志紀王の妹だ。大臣を引き継いだ伊香色雄も倭志紀彦の娘の真鳥姫を妃にしている。そして、伊香色雄の妹の伊香色謎は御眞津比賣を生んで、伊香色謎は御眞津に住んでいる。物部氏は但馬城崎・豊岡近辺に住んでいた。出雲臣が大臣になったが、但馬城崎は丹後の近辺で、丹後も大国領、そこで大臣になったと考えられる。御眞津の御は神国、津は港で、三国配下の眞港である。敦賀は「つぬが」の訛りで、津の河口と思われ、同じく「つる」を含む舞鶴が丹後にはある。御眞津はピタリと当てはまる。
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