2023年4月5日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 神武天皇即位前紀2

  『日本書紀』の神武の東侵は、晦が朔日の暦と朔が朔日の暦を共に理解する周饒国の人物が中心の事件だ。その周饒国の登場人物は天種子と珍彦である。『古事記』は日臣と呼ばれる槁根津日子、磐余彦と呼ばれる剱根で、主役は兄の五瀬である。『古事記』の東侵は日向国からで、交差するのは宇佐である。すなわち、剱根は宇佐から東侵を始めたと言う事である。『日本書紀』は宇佐から剱根の説話を接合した。それ以前は、天種子と珍彦の説話と考えられる。そして、根国を目指すのは周饒国から宗像に来た阿遅鋤高日子根と考えられる。

 珍彦の記録の開始である。「其年冬十月丁巳朔」、天文学的日干支は11月1日で一月ズレている。これは、資料としては、甲寅年前667年、10月丁巳晦辛酉と記録されていた、高千穂宮の資料である。曲浦の珍彦の記録だ。高千穂宮に異変が起こった。「十有一月丙戌朔甲午」、同じく11月丙戌晦甲午、崗水門を 出発した。後の日向國の王で、珍彦の船軍が活躍する。この異変は、君子国が侵攻してきたからと思われる。「大國主神娶坐胸形奥津宮神多紀理毘賣」と宗像が大国の支配下になった。前の宗像の王、豊国王の豐玉彦は日国の国神、日臣と呼ばれることになった。大国王の子は阿遅鋤高日子根である。補佐は但馬の王と思われる天種子が将軍と考えられる。日臣の豐玉彦の妹の豐玉姫が火遠理の妃となって宇佐を支配していた。火遠理の子が菟狹津彦、妹の菟狹津媛を天種子は妃にした。菟狹津媛は豐国の王位継承権を持っている。それで、菟狹津彦が一柱騰宮を造って子が菟狹國造になる。そして、天種子に敗れた別府湾の王の剱根は、東征に加わった。

 「十有二月丙辰朔壬午」、同じく12月丙辰晦壬午である。豐国の王位継承者の菟狹津媛を妃にした天種子が仲国王になるため安芸に入った。中臣氏である。『古事記』の「竺紫岡田宮一年」、「阿岐國多祁理宮七年」、「吉備高嶋宮八年」は日向襲津彦の東征である。豊国を奪われた日臣は前666年「乙卯年春三月甲寅朔己未」、吉備の高嶋に領地を得た。吉備は大国主の盟友の少名毘古那が支配していて、畿内の暦を使用していたと思われる。

 安芸の戦いは3年かかったようで、その間、剱根や阿遅鋤高日子根は吉備で本隊の合流を待ったと考えられる。前663年「戊午年春二月丁酉朔丁未」、実際は二月戊戌晦丁未とあったのを、一月丁酉晦としたと思われる。阿遅鋤高日子根と配下の久米部、和珥臣の祖の珍彦、阿遅鋤高日子根の部下となった日臣や日臣の分家の剱根が難波に侵入した。

 「四月丙申朔甲辰」、実際は四月丁酉晦の変換、生駒の長髄彦とぶつかり、敗れた。それで、紀伊はこの時代は山背の紀伊邑で、淀川を昇る。「五月丙寅朔癸酉」からは畿内の暦で、五瀬命を竃山に葬った。そして、手薄と思われる茅淳から大和川沿いに登って、磐余に入り、剱根が勝った。「十有二月癸巳朔丙申」は壬辰晦、「六月乙未朔丁巳」は丙申晦の変換の九州の暦である。名草邑の名草戸畔は、『舊事本紀』に豊御氣主の妃の「紀伊名草姫」と大物主の祖母にあたる。豊御氣主は出雲醜大臣の曽孫にあたると思われる。「狹野而到熊野神邑」の狭野、狭野尊は『舊事本紀』の初代天皇の名で、若狭の熊野での説話を当て嵌めている。三国に熊野神社、若狭の小浜に熊野があり、同一地形の場所は熊野と呼ばれたと思われる。珍彦の国の記録を『日本書紀』に嵌め込んだ説話と思われ、孝元天皇の頃の説話と考えられる。『古事記』は懿徳天皇の頃の説話と考えられる。


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