2023年4月24日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 懿徳天皇

   天日方奇日方は周饒国(隠洲国)の「食國政大夫也其天日方奇日方」と政大夫だった。食國政大夫が大国・周饒国の王である。だから、元々、天日方奇日方は野洲・三国を含めた天皇だった。そして、子の建飯勝は出雲臣の婿になったが、若狭・野洲を失ってしまった。もともと、周饒国(食国)の政大夫は宇摩志麻治だったが、その地位を奪ったと思われる。しかし、彦湯支が建飯勝から周饒国(食国)政大夫の地位を奪い返した。彦湯支は出雲色多利姫を妃にした。後の出雲臣の母系である。その娘を建飯勝が妃にしたためで、出雲色多利姫の子が出雲醜大臣、すなわち、大国王及び食国政大夫となったと思われる。

 建飯勝の子の建甕槌は伊勢幡主の娘の賀貝呂姫を妃にして、高倉下とともに野洲を制覇した。すなわち、息石耳の娘の天豐津媛が賀貝呂姫と考えられる。それで、子が豊御氣主と、豊の氏を名乗り、気比の王となったと思われる。そして、天豐津媛の父の息石耳は隠岐を統治した王と考えられる。建飯勝の後継者、安寧の皇后の渟中底姫の子である。隠岐・敦賀・淡道・伊勢(遺跡)の王と思われる。天豐津媛の母は日臣の豐玉彦の娘の可能性が高い。神武東征の主役の一人の日臣が尾張氏に無関係とは考えられない。『舊事本紀』の火明の妃が天道日女なら、『日本書紀』では火明の妃が日臣→道臣なら似た関係になる。高倉下と剱根が、互いに、婚姻したように、道臣とも婚姻しあったと思われる。

  前510年、「元年春二月己酉朔壬子」懿徳即位、皇后の名が天氏の豐の港の姫のようだ。豊国の姫の家系が権力を持ったと思われ、日臣は相応しい。そのため、立皇后は、前509年「二月癸卯朔癸丑」は九州の暦で、2月甲辰晦癸丑を書き換えたと思われる。懿徳天皇は『古事記』では「大倭日子」だが、『舊事本紀』で大倭根子と呼ばれた。大倭日子鋤友が物部氏にとっては大倭根子日子賦斗迩につながる天皇、葛木氏にとっては、即位前で王の一人と理解したからと思われる。皇位を奪われた物部氏と、皇位を奪った葛木氏である。前663年に当て嵌められていた「九月甲子朔戊辰」は前482年と考えられる。襲名した、剱根と建甕槌と日臣と珍彦が高倉下と同盟した。前482年、「九月甲子朔戊辰」に高倉下は八十梟帥と高島の対岸の近江坂田と思われるところで戦った。また、兄師木軍は剱根と磐余邑で戦い、東征の盟友の襲名した珍彦が協力した。珍彦が木国造となる。前482年、「冬十月癸巳朔」に、道臣が坂田の忍坂で、八十梟帥を破って、この勲功で、淡道の道臣となったと思われる。前482年、「十有一月癸亥朔己巳」に剱根と葛󠄀木氏が協力して、師木王に討ち勝った。伊勢主の建甕槌の子の豊御氣主は剱根の盟友の娘、木国の名草姫を妃にして、木国に住んだ。天日方奇日方の家系の小椅君の娘の阿俾良依姫と高倉下の娘の忍日女の子の2代目天忍人と思われる和知都美が淡道の御井宮で孝昭元年、前475年に即位した。

 天忍人・縣主波延の娘の阿久斗比賣を妃にしたのは、新たに師木津日子になった葛󠄀木氏と思われる。葛󠄀木氏は、出石姫を和知都美の妃にして姻戚関係を深めた。姻戚関係になると、葛木に住む姫の子は葛木氏、尾張邑に住む姫の子は尾張氏と氏を継承したと思われる。

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