2023年4月17日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 綏靖天皇1

  「七十有六年春三月甲午朔甲辰」の神武崩は76年閏3月甲午晦甲辰の書き換えで、葛木氏の王家が沼河に婿入りした。剱根の王家は、神倭政権の配下でないようで、まだ、九州の暦を使用している。神武天皇は、天日方奇日方・鞴五十鈴姫兄妹である。天日方奇日方は小椅君の娘の日向賀牟度美良姫を妃にした。皇位継承は互いに婚姻しあって、力のある王家が実権を握ると考えられる。なので、鞴五十鈴姫に婿入りしたのは小椅君と考えられる。鞴五十鈴姫の娘と天日方奇日方の息子の婚姻で皇位を継承する。それで、天日方奇日方が神武天皇で、血統・氏族は女系で鞴五十鈴姫である。従って、綏靖天皇は『古事記』の當藝志美美、『舊事本紀』の阿田都久志尼の義兄と考えられる。『日本書紀』の綏靖皇后が五十鈴依媛、『古事記』の當藝志美美の妃だから、当然である。すなわち、『舊事本紀』での綏靖天皇は小椅君と日向賀牟度美良姫である。ところが、神倭政権から神国政権とあるように、野洲の倭国と分裂したようだ。

葛木氏の御毛沼は小椅君側に入り、勢夜陀多良比賣の娘の伊須氣余理比を妃にした。當藝志美美の皇后の伊須氣余理比が、沼河耳の母か沼河耳の妹かは不明である。しかし、沼河耳の子が師木の王と首都から師木に移動しているので、中心勢力とは成れていない。神阿多都比賣や豐玉毘賣・玉依毘賣の神話は吾田王の小椅君や宇治王の宇迦之御魂神と姻戚になった事を述べていると思われる。

 すなわち、天日方奇日方・鞴五十鈴姫兄妹は、婚姻で若狭を手に入れた。それで、天日方奇日方の別名が阿田都久志尼で阿田津の奇尼の小椅君である。奇尼は大尼と同じ王の意味と思われる。建飯勝は出雲臣の娘の沙麻奈姫を妃にして、天狭霧の支配地に遷った。そして、孫は建甕槌、娘の阿比良比賣の婿は剱根と阿俾良依姫の婿の天村雲である。そして、何代目かの五十鈴依姫を妃にしたと思われる大津から逃れた、葛木氏の沼河耳が河俣毘賣を妃にして八国の支配下の師木津日子となる。波延王朝の建国、懿徳天皇以降の話だ。

 小椅君の娘の阿俾良依姫と婿の天村雲の子が兄倉下天忍人と弟倉下天忍男と思われる。すなわち、神八井耳と日子八井がそれに対応する。神八井耳が天忍男、日子八井が天忍人の家系と考えられる。和知都美が御井宮、すなわち、神井神八国の天皇である。日子単独の冠位は天皇の冠位、耳は神国の配下の冠位と思われる。和知都美は立渟名底仲媛の孫、忍日女の子と思われ、忍日女・日子八井が懿徳天皇である。和知都美の兄弟の子が伊賀・那婆理・三野の王の祖で、三野は尾張氏の国、天忍男の子孫だ。天忍男は師木縣主、兄の従弟の葛󠄀木氏の沼河耳の子と共に奈良湖東岸に領地を獲得した。そこには、伊波礼毘古がいて、娘の賀奈良知姫を妃にした。実際の発生時期は前390年頃の孝安天皇が即位した時期と考えられる。沼河耳は天村雲の娘の河俣毘賣を妃に、娘の出石姫が天忍人の妃となった。

 『日本書紀』は『舊事本紀』と『古事記』・『四方志』など、多くの記録を纏めたもので、時代も系図も入り組んでいる。それに対して、『舊事本紀』と『古事記』などは、関連氏族の記録で、時代は前後するが、系図の前後関係は正しいと思われる。従って、沼河の子の師木津日子は70年、3世代程度続いたと考えられる。玉手見は宇迦之御魂神を祀る神の意味ではないだろうか。


0 件のコメント:

コメントを投稿