建飯勝は但馬の城崎の出雲臣に婿入りしたと思われる。出雲大臣の弟の出石心、その子に大水口がいる。出石、水口は但馬城崎・豊岡近辺に存在する。そして、五十鈴依姫の子の日子八井は、建飯勝の妹の渟名底仲媛に婿入りして建飯勝は実権を得た。『日本書紀』に記述されない日子八井は、初代五十鈴依姫の子、沼河耳の母は2代目五十鈴依姫と考えている。それで、前549年「七月癸亥朔乙丑」に建飯勝が八国朝廷の天皇になった。さらに、前546年「春正月戊寅朔壬午」に、2代目渟中底姫と弟研貴彦兄弟が大神倭国の実権を得た。敗れた建飯勝の子の建甕槌は高倉下に協力し、伊勢幡主に婿入りして、野洲近辺に移住したようだ。その後、木国の名草姫や大倭國民磯姫を妃にして、和迩君や大物主が生れ、崇神天皇が大物主を祀った。研貴彦と渟中底姫の朝廷は三国・若狭・大国・但馬・出雲・隠岐を領有したと思われる。
「十一年春正月壬戌朔」の立太子記事は前178年、倭奴国王の11年春正月朔日の当て嵌めと思われる。前188年即位の倭奴国王11年に、後継者のいない王が即位した。安寧天皇の立太子の異様さが別王朝の王朝交代の証明を引き出した。検証すると、綏靖天皇の25年に、皇太子になり、年齢は21歳だった。綏靖33年、安寧29歳、綏靖崩で30歳に天皇即位。38年に安寧天皇崩、57歳と記述された。67歳でないと計算が合わないのである。そして、仲哀天皇太子など、立太子前に何度も皇太子が出現するのである。すなわち、皇太子は天皇が即位すると、途中で死なない限り、自動的に決まっていることが解る。それで、立太子記事は他王朝の記事と解った。立太子記事は持統天皇まで延々と続き、西暦700年まで続く王朝で、雄略朝以前から記録を持つ王朝は倭国しかない。だから、倭の王朝交代記事であると証明できた。
葛󠄀木氏は師木縣主の祖の河俣毘賣を妃にしていた。師木縣主の祖というのは、河俣毘賣の子が師木縣主になったことを示す。沼河耳は珍彦や高倉下と共に奈良湖東岸を奪って、子が師木津日子となった。そして、協力したのが剱根と思われる。高倉下と剱根は研貴彦の王朝に勝利し、高倉下は敦賀から野洲、伊賀、那婆理、美濃、師木を奪った。渟中底姫の子の師木津彦と初代天忍日女との子が2代目天忍人の淡道の御井宮孝昭天皇の和知都美と、2代目天忍男の伊賀、那婆理、美濃の王である。兄倉下は初代天忍人、弟倉下は初代天忍男、河俣毘賣は2代目の天忍人の妹、2代目忍日女の姉妹である。初代の天忍人の妃は角屋姫、この姫は敦賀の姫の天豐津媛と思われ、敦賀から野洲を領地にした。2代目天忍人の淡道の御井宮の和知都美は葛木出石姫を妃にする。葛木氏沼河耳は忍人の妹河俣毘賣を妃にして師木津彦、阿久斗比賣を妃に御眞津日子となったと思われる。天忍男は剱根の娘の賀奈良知姫を妃にする。そして、子の大倭日子は和知都美の娘と思われる師木縣主の祖の賦登麻和訶比賣を妃にした。葛木氏の御眞津日子は剱根の孫の世襲足姫を妃にし、剱根の孫羸津世襲が葛󠄀木彦と葛木氏の統領となった。葛木氏本家の御眞津日子は師木を出て君子国の眞津、葛󠄀木彦が大国と八国の将軍である。
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