2023年4月12日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 神武天皇

  前660年、「辛酉年春正月庚辰朔」に、実質の天皇、活玉依姫の子の天日方奇日方が即位した。父は事代主では論理に合わないので、建御名方と考えた。名に方が付き、奇日方の子孫が建飯勝、建甕槌と建氏を引き継いでいるからだ。活玉依姫の子は一男一女、奇日方の妹は鞴五十鈴姫である。『古事記』では「妹五十鈴依姫」が2代目鞴五十鈴姫と思われる勢夜陀多良比賣の妹で2代目天日方奇日方も存在することになる。そして、2代3代・・・と鞴五十鈴姫・天日方奇日方の子達が婚姻しあって続く。天日方奇日方の妃は日向賀牟度美良姫、恐らく、御毛沼の妃の阿比良比賣の先祖と思われる。阿多の小椅君、若狭の小浜王の娘と思われる阿比良比賣である。天日方奇日方が小椅君の娘を妃にした。それに対しいて、鞴五十鈴姫の夫は小椅君の可能性が高い。君子国の王の冠位は、君子国と呼ぶのだから君である。

 そして、天村雲の妃の阿俾良依姫も同系と考えられる。天日方奇日方は亦名が阿田都久志尼と阿多の小椅君を受け継いだようだ。子は渟中底姫で、渟中底姫は安寧天皇の皇后である。王朝を示す、「太立宮柱於底磐之根」と宮柱を神武天皇は建てていない。『古事記』では、宇迦能山の宮や、高木神の国、すなわち、高島で、珍彦と天忍日・道臣が王朝を開いた。

 「二年春二月甲辰朔乙巳」の論功行賞は前411年の可能性が高く、天皇は縣主天忍人天皇と思われる。義弟の剱根、孫の忍男が葛󠄀木国造で葛󠄀木彦、協力者の大來目は畝傍山の西の川邊を得た。珍彦は大津王で、珍彦の配下の道臣は琵琶湖北部から伊吹山近辺の若狭湾へ抜ける道の王である。前657年、「四年春二月壬戌朔甲申」の「祭皇祖天神」は同年3月壬戌晦甲申で、剱根が長髄彦を襲名した日と考えられる。鳥見は「三炊屋媛亦名長髄媛亦名鳥見屋媛」で、八国の姫で、東征した初代剱根・伊波礼毘古が妃にした説話と考えられる。

 「卅有一年夏四月乙酉朔」の日本国説話は前227年にあたる可能性が高い。ただし、前103年の日本国説話と纏めたと思われる。『漢書』元封二年に「辰國欲上書見天子」と、前109年までは辰国と呼んでいる。崇神6年、前92年に「日本大國魂神」と天皇名以外で初めて日本が出現している。『漢書』はその日本を東鯷国と記述したのだろう。垂仁2年、前28年に「傳聞日本國有聖皇」と都怒我阿羅斯等が言った。実際は、饒速日が鳥見、小野榛原に皇祖天神の宮を建て、三炊屋媛を妃にしたと考えられる。すなわち、三炊屋媛は活目長砂彦の妹芹田真稚姫で欝色雄が祀る饒速日・皇祖天神なのだろう。活目長砂彦は葛木氏の天皇の一族と考えられ、妹の欝色謎が皇后になった。

 「四十有二年春正月壬子朔甲寅」の立太子は前212年の倭奴国王の四十二年春正月2日の当て嵌めと考えられる。前253年に糟屋に侵入して即位した王朝の42年に、後継者がいない王が即位した。その検証は『三国志』の卑弥呼と壱与の即位から計算した。皇太子は王が即位した時、既に決まっている。皇太子は皇后の兄弟、もしくは、甥が婿入りして皇太子になる。皇后の長男は皇后の姪に婿入りして、皇太子になることもある。皇后の兄弟の力が衰え、皇后の子が、他の有力者の姫に婿入りする。すると、その姫が新しい皇后になり王朝交代する。なぜなら、日本の天皇は神に仕え、神と同等で、夜間に活動する。実際の政務は皇后や皇太子、皇后の兄弟が行う。それで、実権は政務を行う人々が持っている。それも当然で、首都は皇后の兄弟達が住む宮殿で、家臣も、皇后の兄弟の家臣だからである。


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