2023年4月10日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 神武天皇即位前紀4

  『舊事本紀』は、概ね、『日本書紀』と日干支が同じだが、一部異なっている。そして、『舊事本紀』は、『日本書紀』にない日干支を記述している。すなわち、『舊事本紀』は『日本書紀』と異なる日干支の記録を持っていたことを示す。その一つが、前662年、「已未年春二月辛卯朔庚辰」の道臣の記述である。『舊事本紀』では「已未年春二月辛卯朔庚辰」が前662年の1月晦の日干支に変換されている。すなわち、九州の暦で、珍彦の使う暦である。ところが、『日本書紀』は異なる日干支に変換して、実際の記録を当て嵌めたようだ。それで、『日本書紀』は「己未年春二月壬辰朔辛亥」と記述された。これは前445年孝昭天皇時の乙未年春二月壬辰朔が当てはまりそうだ。新城戸畔の戸畔は名草戸畔と同様に木国の冠位と思われ、神国の建甕依と姻戚だ。新城戸畔や八国の残党の磯城八十梟帥、土蜘蛛を弟倉下と共に戦い葛󠄀木を得た。兄倉下は天忍人、八井朝の天皇、弟倉下は天忍男である。天忍人は葛󠄀木出石姫が妃だ。天忍人の弟の忍男が伊波礼毘古の劔根の娘の賀奈良知姫を妃に羸津世襲が生れた。羸津世襲は葛󠄀木彦と呼ばれ、尾張連の祖で高尾張邑を手に入れたのとよく合致する。また、「號其邑曰葛城」と葛󠄀木氏の本拠地となって、葛󠄀木彦と呼ばれた。 

 「三月辛酉朔丁卯」は4月辛酉晦丁卯と考えられ、剱根が磐余に宗廟を建てた。珍彦の国の宇()国の配下の根、日国神の山、宇根日と名付けられた。畝傍山で、橿原神宮が宗廟なのだろう。そして、珍彦も「宇迦能山之山本於底津石根宮柱布刀斯理」と太さを増した宮柱を建てた。

 前661年、「庚申年秋八月癸丑朔戊辰」に、高志神()国・君子国の神屋楯比賣・沼河姫と大国主の子の建御名方が神国・君子国王の三嶋湟咋の娘活玉依姫を妃にした。すなわち、神屋王朝を大国主の建御名方が奪い、それを、三嶋湟咋が奪ったのである。天皇は鞴五十鈴、天日方奇日方と兄妹、建御名方と同類の名で、「かた」が神倭王朝の天皇名なのだろうか。子の名が神八井耳、日子八井なので井で生れたことを意味する。勿論、神倭朝廷なのだから、野洲、伊勢遺跡の王朝が、活玉依姫が住む土地に婿入りした。恐らく、皇大神宮がある敦賀と考えられる。

 そして、「九月壬午朔乙巳」は9月癸未晦乙巳を書き換え、剱根が磐余の事代の主の娘を妃にした日付だろう。『舊事本紀』の事代主の母親は邊都宮の髙降姫で『古事記』の神屋楯姫ではない。興都嶋の田心姫の子、隠岐で生れた味鉏高彦根が宗像、そして、根へと侵攻し、葛󠄀上郡に祀られた。そして、宗像邊都宮で生れた事代主が磐余に侵攻して、髙市郡に祀られた。事代主の娘を剱根・伊波礼毘古は妃にした。すなわち、味鉏高彦根と根国の事邑の社の主の事代主を習合させた。剱根が根国の神という正統性を主張したのだろう。

珍彦が大津から巨椋池の水路を支配した。そのため、八国の大和湖や難波津が分断され、大混乱に陥った神屋王朝は、三国王を頼り、三嶋湟咋が君子となった。活玉依姫が皇太后、天日方奇日方が太子、活玉依姫の子の鞴五十鈴姫が皇后である。前660年の「辛酉年春正月庚辰朔」のこと。『後漢書』に「東方曰夷・・・至有君子不死之國焉」と君子国の伝説を記述した。不死の国は、同じ名前を襲名し、数百年も同名の王が王位に就く国と驚いている。中国では、王が死亡すると、権力闘争が起こる事を対比した。『続日本紀』に「海東有大倭國謂之君子國」と大倭国は君子国だと言った。紀元前500年頃に生きた孔子は東方の君子国に憧れた。孔子と同時代の政権が神武政権、襲名して「壹佰參拾漆歳」の君子国である。


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