倭武が『日本書紀』景行天皇二七年「海路還倭到吉備以渡穴海 其處有惡神 則殺之 亦比至難波 殺柏濟之惡神」と崇神天皇の西道侵攻で得たはずの吉備と戦っていて、周防から出発した王と物部王朝とは敵対関係で、神話でも『先代旧事本紀』は「生六小嶋 兄吉備兒嶋」と瀬戸内を吉備が支配していると述べるに対し、『古事記』は同等である。
『古事記』大帯日子「倭建命、言向和平東方十二道之荒夫琉神及摩都楼波奴人等而、副吉備臣等之祖、名御鋤友耳建日子而遣」とまだ吉備臣になっていない建日子は「娶吉備臣建日子之妹、大吉備建比売、生御子、建貝児王」と吉備臣を得、
景行二七年の戦いの勝利で吉備の領主になって、吉備臣を得た。
そして、難波の戦いは「忍熊王、以難波吉師部之祖、伊佐比宿祢為将軍、太子御方者、以丸迩臣之祖、難波根子建振熊命為将軍。」と難波で代理戦争を行い、「追退到山代」・「逃退逢坂、対立亦戦」と畿内で戦っている。
ところが、『日本書紀』「忍熊王復引軍退之。到菟道而軍之」と最終決戦は菟道で『日本書紀』は尾張王朝の内紛を記述し、大国王(大足彦)はそれに乗じて吉備を得て、その中に紀伊国造の武内宿祢がいたので、神功皇后に記述した。
さらに、その中に「日向諸縣君牛仕于朝庭」と日向諸縣君がいて、尾張朝廷に仕えることとなるが、日向は『日本書紀』景行天皇十七年の遠征で「號其國曰日向也」と日向国ができたが、垂仁天皇五年「狹穗彦與妹共死于城中。天皇於是美將軍八綱田之功。號其名謂倭日向武日向彦八綱田也」と狹穗彦との戦いで功績があった八綱田に日向彦の名を与え、葛城氏の領地の人物である。
すなわち、葛城氏の中に日向彦を名乗る人物がいて、景行天皇四年「次妃日向髪長大田根生日向襲津彦皇子」と日向襲津彦すなわち倭国造日向襲津彦、葛城襲津彦が誕生し、葛城襲津彦が中国王(足中彦)、そして、豊国・襲国の大君になり、景行天皇十三年「豐國別皇子是日向國造之始祖也」と葛城襲津彦の弟を日向國造にした。
葛城襲津彦は尾張朝廷では日向諸縣君と呼ばれ、応神天皇二年「日向泉長媛生大葉枝皇子小葉枝皇子。」、応神天皇十一年「日向國有孃子名髪長媛即諸縣君牛諸井之女也」、仁徳天皇二年「妃日向髮長媛生大草香皇子幡梭皇女」と葛城襲津彦は外戚として勢力を伸ばした。
品陀和気は中国王(帯中日子)と『古事記』品陀和気「葛城之高額比売命此者息長帯比売命之御祖」とやはり葛城氏の姫が親で、品陀和気が『日本書紀』の応神天皇の一人である。
『日本書紀』応神天皇二五年「百濟直支王薨即子久爾辛立爲王」・応神天皇三九年「百濟直支王遣其妹新齊都媛以令任」記事は396年に即位した応神天皇葛城襲津彦で、その子允恭天皇五年「葛城襲津彦之孫玉田宿禰」・雄略天皇七年「葛城襲津彦子玉田宿禰之女也」と2代襲名しているように、2代目の応神天皇なのだろう。
同様に神功皇后摂政五五年「百濟肖古王薨」・神功皇后摂政五六年「百濟王子貴須立爲王」・神功皇后摂政六四年「百濟國貴須王薨」・神功皇后摂政六五年「百濟枕流王薨王子阿花年少叔父辰斯奪立爲王」も西暦321年に即位した神功皇后が存在したことを示している。
神功皇后摂政五年「皇太后則聽之因以副葛城襲津彦而遣之」と325年に新羅に出兵した襲津彦から神功皇后摂政六二年382年「即年遣襲津彦撃新羅百濟記云壬午年新羅不奉貴國貴國遣沙至比跪令討之」、この382年は壬午で証明していて、応神天皇十四年「皆留加羅國爰遣葛城襲津彦」は403年、応神天皇十六年「襲津彦久之不還」は405年、仁徳天皇四一年「紀角宿禰訶責百濟王時百濟王懼之以鐵鎖縛酒君附襲津彦而進上爰酒君來之則迅匿于石川錦織首許呂斯之家則欺之曰天皇既赦臣罪」記事は年代が不明だが、紀角宿禰と対立しており、父方武内(木国造)若帯日子(紀氏)と母方(倭国造・日向王)葛城氏の主導権交代期と思われる。