2018年12月3日月曜日

最終兵器の聖典 欠史8代 前期物部王朝1(大倭国・天孫王朝)

 史書は一人の王に複数の王を割り当て、中国の年表と対応させた倭国年号と干支を使った東鯷国年号があり、倭国年号の先史時代の欠史8代は紀元前186年以前の孝元天皇までだった。
『日本書紀』履中天皇四年「記言事達四方志」記事直後より『古事記』「坐高千穂宮、伍佰捌拾歳」と四方志の筆者が硯を出土する文字先進地域の伊都の歴史を書いたときに580年高千穂宮が残っていて、580年程度前の紀元前180年頃に分国したと書き、『日本書紀』の倭国建国がよく符合する。
東鯷国年号は「橿原宮・高丘宮・浮孔宮・曲峽宮・池心宮・秋津嶋宮・廬戸宮・境原宮・率川宮・瑞籬宮」の紀元前660年から紀元前98年まで、東鯷国からつながる物部年号は「瑞籬宮」で紀元前97年から紀元前28年で天皇としては崇神天皇となって有史天皇と言える。
『先代旧事本紀』・『日本書紀』共に孝昭天皇の皇后世襲足姫だが、『日本書紀』では復の名として「一云磯城縣主葉江女渟名城津媛」、次代の孝安天皇の皇后も「 一云磯城縣主葉江女長媛 一云十市縣主五十坂彦女五十坂媛也」、その次の孝霊天皇も「一云 春日千乳早山香媛 一云 十市縣主等祖女眞舌媛也」と磯城王の姫である。
そして、『先代旧事本紀』で綏靖天皇は「五十鈴依姫為皇后即天皇之姨・・・五十鈴媛命事代主神之少女也」、安寧天皇は「淳名底中媛命事代主神孫鴨玉女」、懿德天皇は「天豊津媛命息石耳命之女」とすべて事代主の家系で事代主を背景にした王で、次の孝昭天皇の皇后「世襲足姬命大臣瀛津世襲命之妹尾張氏」と尾張氏が背景だとしている。
ここで、『先代旧事本紀』懿徳天皇「渟中底姫命此命輕地曲峽宮御宇天皇立爲皇后」と安寧天皇の皇后と皇后が一代ずれているが、息石耳の娘も渟中底姫を襲名し懿德天皇が婿入りし先代の淳名底中媛は義母だったのが表現されたと考えられる。
皇后の兄羸津世襲は「亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖」と葛城彦で尾張氏の祖で次代の孝安天皇の皇后は「姪押媛爲皇后」と誰の姫か書かないが、その次の孝靈天皇は「細媛命磯城縣主大目之女」と磯城県主が兄弟、もちろん義兄弟で、孝安は天足彦妃の兄弟が磯城縣主でその娘を妃にして、孝靈も同様で瀛津世襲も葛城彦で神武東侵の世界・磯城彦と兄弟磯城がいる世界である。
さらに、『先代旧事本紀』で「素戔烏尊三世孫」「大神君祖天日方奇日方命」の「天日方奇日方命者皇后之兄也」と三輪神を祀る天日方奇日方の妹「鞴五十鈴命」が神武天皇の皇后で、「妹五十鈴依姫命」が神武の子の綏靖天皇の皇后だ。
天日方奇日方の娘「兒建飯勝命妹渟中底姫命此命輕地曲峽宮御宇天皇立爲皇后」と綏靖の子安寧天皇の皇后、安寧天皇の子懿德天皇の皇后は兄息石耳の子天豐媛で全て皇后は大神王家と呼べ、「九世孫大田田祢古命」と6世代後に崇神天皇の伝説があるはずなのに、『先代旧事本紀』には出現しない。
そして、懿德天皇は安寧天皇の長男ではなく本来息石耳が正当な天皇後継者と考えるのが順当で、ある王が正当な天皇の姫を皇后にして、その皇太子が「出雲醜大臣此命輕地回峽宮御宇天皇御世元為申食國政大夫以爲大臣奉齋大神」と出雲醜で懿德天皇の大臣すなわち外戚の皇太子となった。
紀元前87年の『日本書紀』の「四道將軍以平戎夷之状奏焉」と大彦によって神国勢力を駆逐したのであり、『漢書』の対象時代前漢に「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云」と東鯷国が存在し、『後漢書』には記述されないのだから、前漢の時代に神国東鯷国は滅び大倭国になった。
これで、神国王家が事代主の子たち、「大神君祖天日方奇日方」が弟倉下・弟磯城・長髄彦だったことが解り、懿徳天皇までは饒速日の宮の神国の歴史、開化天皇までは宇摩志麻治の宮の尾張氏を背景にした歴史で、紀元前98年までの物部王朝建国前夜だ。
系図はややこしくて大変だが避けて通れない重要な話題であるので許してほしいが、要は孝靈天皇まで葛城彦の王朝だということである。

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