2018年12月21日金曜日

最終兵器の聖典 葛城王朝・神皇王朝1

  『古事記』と『日本書紀』の安康天皇以前は葛城氏が書いたため、それ以前の歴史は支配者の立場でなく、傍証の史書になるため、物部・尾張王朝のことは解りにくい『先代旧事本紀』の家系を中心に考えてきたが、葛城王朝は『古事記』・『日本書紀』が中心の歴史分析が始まり、『先代旧事本紀』が傍証となる。
ところで、『古事記』では「降出雲国之肥上河上」と素戔嗚が出雲に天降った時、「高志之八俣遠呂知・・・毎年来喫」と毎年人質を含めた貢物を盗りに来ると嘆き、その人物が「高志之八俣遠呂知」と越の人物だと述べ、この頃出雲は越の領地である。
そして、「八千矛神、将婚高志国之沼河比売」と大国主が高志を得るが、まさに、越前からは船が出土し、事代主は「為鳥遊・取魚而往御大之前故爾、遣天鳥船神、徴来八重事代主神而、問賜之時、語其父大神言、恐之」と御大之前で漁業を行っていると記述して三国は継体天皇の出身地だ。
そして、「迫到科野国之州羽海、将殺時、建御名方神白、恐」と尾張氏の先祖は信濃に逃げ、物部氏と賀茂氏の共同統治した国が神倭国で追い出した国が東鯷国で、信濃から越後は高度な縄文土器の出土地で、中国からは君子国と呼ばれて帯刀帯冠していた国だ。
そして、大倭国の尾張氏は『日本書紀』景行天皇四〇年「初至駿河 號其釼曰草薙也 號其處曰燒津・・・從上總轉入陸奥國。大鏡縣於王船 海路廻於葦浦 横渡玉浦至蝦夷境蝦夷賊首嶋津神國津神等」と蝦夷を鎮圧し、「甲斐國 號山東諸國。曰吾嬬國也」とその征服地関東平野を吾嬬と呼んだ。
しかし、「唯信濃國。越國。頗未從化」と東鯷国の信濃と越はまだ従っていなかったので、「則自甲斐北轉。歴武藏。上野。西逮于碓日坂・・・吾嬬者耶 故因號山東諸國・・・遣吉備武彦於越國。令鑒察其地形嶮易。及人民順不。則日本武尊進入信濃。」と勝ったとは記述しないが、景行天皇五四年西暦124年「自伊勢還於倭居纒向宮」と纒向に宮を作り、纒向には越などの土器が出土し、出土した桃の種は135から230年に年代推定され、時期的には符合する。
『古事記』には「悉言向荒夫琉蝦夷等、亦、平和山河荒神等而、還上幸時、到足柄之坂本、於食御糧処、其坂神化白鹿而来立。爾、即以其咋遺之蒜片 端待打者、中其目乃打殺也」と白鹿を蝦夷に見立てているが、『日本書紀』の信濃に対して、『古事記』は足柄で日本書紀は足柄を攻略しているが、信濃は「爰王忽失道不知所出時白狗自來有導王之状隨狗而行之得出美濃」と逃げ帰っている。
そして、『後漢書』「會稽海外有東鯷人分爲二十餘國」と記述され、後漢は220年頃崩壊しており、このころまでに東鯷国は崩壊したことを証明し、『日本書紀』も西暦124年まで東鯷国が存続していたことを述べている。
『後漢書』は「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」と記述し、『三国志』も「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」・「南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」と後漢時代は邪馬台国の東度海千餘里が拘奴國で魏時代は倭種拘奴國が南に押しやられて、同じ倭種が拘奴國と入れ替わっている。
唐の原から沿岸航行で50Kmは丁度宗像になり、後漢末に、『日本書紀』には景行天皇十二年西暦82年に「熊襲反之不朝貢」「幸筑紫」「到周芳娑麼。時天皇南望之」と周芳(周防も拘奴國筑紫と認めている)にいる王者が熊襲で反乱を起したことから、菟狹・御木・高羽・緑野・豐前國長峽縣(號其處曰京也)・碩田國・日向國・熊縣葦北小嶋(水嶋)・火國八代縣豐村・高來縣渡玉杵名邑(阿蘇)・筑紫後國(御木國)・八女國之名由此(浮羽)が戦乱の場で拘奴國の領域が筑後川北岸に押しやられ「山門縣。則誅土蜘蛛田油津媛・・・妹被誅而逃之」と200年頃倭国と戦い『三国志』には250年頃も「南有狗奴國」と敵対関係だ。
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