2018年12月12日水曜日

最終兵器の聖典 尾張王朝・天皇王朝1

 尾張氏は饒速日の末裔としているが、実際は尾張氏の先祖熊野の高倉下が饒速日の軍門に下り姻戚関係になったのであり、それが饒速日神武の東征で、兄弟磯城の戦いのモデルの高倉下の娘婿香語山の孫すなわち「天忍人命此命異妹角屋姫亦名葛󠄀木出石姫」「天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫為妻」と弟倉下の天忍男の葛木家義兄弟倉下との戦いが饒速日の軍門に下った戦いである。
そして、天忍男の子羸津世襲が孫羸津世襲命 亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖 天忍男命之子此命池心朝御世為大連」と尾張氏の祖で「世襲」は「しこお」と同じく宮名で、役職名が葛城の将軍と言ったところだろう。
ここで、第一の矛盾が物部七世大新河「此命纏向珠城宮御宇天皇御世元爲大臣次賜物部連公姓則改爲大連奉齋神宮其大連之號始起此時」と垂仁天皇の時始まった大連が孝昭天皇の時に記述されているということだ。
これは、本来、神倭王朝が大連を制定したのであり、『日本書紀』安寧天皇十一年「弟磯城津彦命 是猪使連之始祖也」と後に得る姓は唯の祖で始祖としていないので、この時すでに連は使われていた、連の一段上の連が居れば大連で、大新河は物部氏の大連の始めということのようだ。
第二の矛盾が四世羸津世襲の子が十世淡夜別の弟「次大原足屋 筑紫豊國國造等祖 置津與曽命之子 」と記述されるが、これは、羸津世襲の宮が世継ぎでなくなり、大原足屋(?尼)の叔父淡夜別に皇位を奪われたのだと思われる。
第三の矛盾が四世羸津世襲が「池心朝御世為大連」で「七世孫建諸隅命此命腋上池心宮御宇天皇御世爲大臣」とやはり世代がとんでいて、建諸隅は「此命腋上池心宮御宇天皇御世爲大臣供奉葛󠄀木直祖大諸見足尼女子諸見巳姫」と葛󠄀木氏の祖の娘を娶って子は葛󠄀木氏だ。
「此命秋津嶋宮御宇天皇御世並縁近宿元爲 足尼次爲宿祢奉齋大神其宿祢者始起此時也」と足尼(たらしね)が宿祢(すくね)にかわったのが孝安天皇で矛盾が無いが、妹大海姫が「妹大海姫命 亦名葛󠄀木髙名姫命 此命礒城瑞籬宮御宇天皇立爲皇妃」と崇神天皇妃だが、これも、羸津世襲の宮の皇子や姫の説話を当てはめているのである。
そして、羸津世襲の妹世襲足姫に「世襲足姫命 亦名日置姫命 此命腋上池心宮御宇観松彦香殖稲天皇立爲皇后」と神倭王朝の孝昭天皇が婿入りし、「世襲足姬命立為皇后誕生二皇子彦國押人命次日本足彦國押人尊」と彦國押人が神倭王朝を継ぎ、孝安天皇「姪押媛爲皇后誕生日本根彦太瓊命」と彦國押人の娘婿が 孝安天皇、孝霊天皇「細媛命爲皇后誕生皇子一柱兒・・・細媛命磯城縣主大目之女也」と孝霊天皇が磯城彦の娘婿となり、その子孝元天皇は磯城彦である
そして、饒速日が天降った「河内國河上哮峯則遷坐大倭國鳥見」、鳥見は『日本書紀』神武紀「長髄是邑之本號焉 因亦以爲人名 及皇軍之得鵄瑞也 時人仍號鵄邑 今云鳥見」の長髄彦がいて、妃河内青王繫埴安姬生武埴安彦命」と埴安彦は河内の姫の子で長髄は地名なので、埴安彦も長髄彦である。
さらに、埴安彦を討ったのは兄弟の大彦で『日本書紀』孝元天皇七年「大彦命・・・伊賀臣 凡七族之始祖也」と大彦は伊賀臣の祖で、『先代旧事本紀』「八世孫倭得玉彦命・・・伊我臣祖大伊賀彦女大伊賀姫生四男」と孝昭天皇に仕えた七世建諸隅の次の世代で大彦より前の世代の倭得玉は大伊賀彦の婿で伊賀彦と考えられ、大伊賀彦が初代伊賀彦で大彦の可能性があり、倭得玉の義父で尾張氏だ。
そして、『古事記』崇神天皇「娶大毘古命之女、御真津比売命、生御子・・・次、伊賀比売命」大彦の孫が伊賀比売で大伊賀姫に対する伊賀姫で、都味齒八重事代主の神倭王朝に出雲醜が侵略し、葛城彦の羸津世襲が協力した神倭王朝の義兄弟、その直系で物部氏の姫の子で息子尾張氏の大彦が神倭王朝を壊滅させた。

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