拘奴國との戦いの時、その帰りに、倭建は『古事記』「倭建命、抜其刀而打殺出雲建」と記述するが、『日本書紀』には記述が無く、『古事記』伊久米伊理毘古伊佐知「曙立王・兎上王二王、副其御子遣時、自那良戸遇跛盲」、『先代旧事本紀』崇神天皇「武日照命従天將來神寶藏于出雲大神宮是欲見焉則遣矢田部造遠祖武諸隅令使分明撿定獻奏焉」と恐らく同じ記事の崇神天皇六〇年「則遣矢田部造遠祖武諸隅而使獻。當是時。出雲臣之遠祖出雲振根主于神寶。」と同じにしている。
すなわち、『日本書紀』・『先代旧事本紀』では名目上、出雲はすでに自国の領地だが、『古事記』は、この拘奴國との戦いの時に出雲を支配下にしたことを述べていて、出雲は物部氏と出雲醜大臣以来の姻戚で尾張氏大倭国とは友好的でなかったようだ。
そして、さらにこの王は「到吉備以渡穴海。其處有惡神。則殺之。」と吉備でも戦いがあり、吉備と敵対しているが、『日本書紀』では孝霊天皇二年「妃倭國香媛生倭迹迹日百襲姫命。彦五十狹芹彦命。亦名吉備津彦命・・・某弟生弟稚武彦命。是吉備臣之始祖也。」と孝霊天皇の子が始祖の吉備津彦が崇神天皇十年に「吉備津彦遣西道」と吉備を征服し、巻向遺跡には吉備産の土器が出土する。
吉備征服譚は、『古事記』には記述されておらず、吉備は『古事記』に「熊曽国謂建日別・・・生吉備児島亦名謂建日方別」と国生みの時、熊襲は拘奴國の分国で、『日本書紀』では普通の独立した国、『先代旧事本紀』「肥国謂建日別 日向國謂豊久士比泥別・・・生六小嶋 兄吉備兒嶋謂建日方別」と肥国の分国、日向国は豊国の分国、そして吉備は肥国の分国で六小嶋の兄貴分で記述した史書によって立場が異なる。
拘奴國との戦いの説話の王の出発地周防は宗像氏が支配する宗像以東の筑紫、隣国「大倭豊秋津島」と安芸は豊国の領域で大倭に支配された国だと述べ、元々吉備は肥国(日国)の分国で「筑紫国謂白日別、豊国謂豊日別」と筑紫も豊も日国(三身国)で領域は大八島を支配した八国の隠岐の王者の国から分裂した拘奴國が肥後・熊襲・豊・東筑紫・穴門・周防・安芸・吉備を領有していたが、物部氏が吉備を四道侵攻で領有した。
『日本書紀』景行天皇四〇年「初至駿河・・・號其處曰燒津・・・從上總轉入陸奥國。大鏡縣於王船 海路廻於葦浦 横渡玉浦至蝦夷境蝦夷・・・甲斐國 號山東諸國。曰吾嬬國也」と東を攻めるが、『古事記』では「焼津也。・・・足柄・・・甲斐」と足柄のみで、おそらく、足柄の王が陸奥國を支配した説話を混入させたのだろう。
『日本書紀』では逃げ帰ったが『古事記』では「其国越科野国、乃言向科野之坂神而、還来尾張国」と攻略しており、かなり後代の説話で、『日本書紀』景行天皇五一年の「神山傍之蝦夷。是本有獸心。難住中國。故隨其情願。令班邦畿之外。是今播磨。讃岐。伊豫。安藝。阿波。凡五國佐伯部之祖也。」は朝廷の命令で行った、周防の王者が蝦夷討伐の功績に与えられた蝦夷を中国周防に連れてきた様子が書かれ、それを更に中国の配下に分け与えた説話で、この邦畿之内の中国が祀る神こそ『古事記』の主神の御中主である。
『古事記』は葛城氏の分家の巨勢氏が記述した氏族史、『日本書紀』は葛城氏若しくは平郡氏が記述した日本の正史で、『古事記』は、もし、『日本書紀』の説話が全て葛城氏の説話なら『古事記』で省略する必要が無く、『古事記』に記述されない『日本書紀』の説話は尾張氏の事績、若しくは尾張氏が主体となって行った事績であると考えなければならない。
そして、尾張氏の事績は全て後から天皇になった葛城氏は、遠慮なく自分の事績として記述すればよく、『先代旧事本紀』も馬子が記述しているので、それを引き継ぎ、歴代の天皇妃は物部・尾張・葛城の妃を一人の王妃として記述している。
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