2018年12月14日金曜日

最終兵器の聖典 尾張王朝・天皇王朝2

  前項は尾張氏の祖「羸津世襲」を中心に尾張氏の家系を記述したが、ここでは、天皇の系図と尾張氏の大彦の国盗り物語を考える。
「天日方奇日方」の妹「鞴五十鈴命」の子神渟名河耳(綏靖)と同じく妹五十鈴依姫の子磯城津彦玉手看(安寧)と「天日方奇日方」の子渟中底姫との子大日本根子彦耕支(懿徳)、さらに孝照天皇「母日皇后天豊津媛命息石耳命之女也」と あるように、 懿徳とその兄弟の息石耳の娘との子が觀松彦香殖稻(孝昭)で孝昭 天皇は神倭王朝の天皇である。
觀松彦香殖稻(孝昭)は「世襲足姬命大臣瀛津世襲・・・尾張氏」世襲足姫を皇后にして日本足彦國押人(孝安)を産み孝安の兄弟天彦國押人の娘「姪押媛」を皇后にして大日本根子彦太瓊(孝霊)が生まれ、神倭王朝に尾張氏が姻戚になった。
息石耳は瀛津世襲とおそらく「おき」の同郷で、世襲足姬の子天彦國押人は天氏で四世世襲足姬の時代五世「孫建斗禾命 天戸目命之子」で天彦國押人と天戸目が同一人物の可能性がある。
大日本根子彦國牽(孝元)は「母日皇后細媛命磯城縣主大目之女也」と孝霊は磯城彦の娘婿で当然この天皇の宮は磯城に遷り磯城王磯城彦で、孝元は物部氏欝色謎命を皇后にして「兒大彦命次稚日本根子彦大日日尊」と大彦と稚日本根子彦大日日(開化)が生まれ、大彦は磯城彦と物部氏の姫の子で正室は「河内青王繫埴安姬」と埴安姬で長男武埴安彦で河内の戸見の長髄邑の王である。
物部氏は「乘天磐舩而天降坐於河内國河上哮峯則遷坐於大倭國鳥見白庭山天降」と鳥見(鵄)に天降り(鵄降り)、「長髓彦妹御炊屋姬爲妃」と武埴安彦の妹を妃とするのだから、欝色謎の兄欝色雄が「活目長砂彦妹芹田真誰姬」と芹田真誰姬が御炊屋姬で活目長砂彦が長髓彦になり、河内の鳥見の長髄邑は活目という地域でもある。
その活目は宇摩志麻治が「活目色五十呉桃女子帥長姫為妃」と活目に婿入りし、葛城氏は「伊久米伊理毘古伊佐知」と活目の長官になっている。
そして、本来の神倭王家は稚日本根子彦大日日ではなく武埴安で「和珥臣達祖姥津命之妹姥津媛生彦坐王」と初めて王が付加される坐が『日本書紀』孝昭天皇六八年「天足彦國押人命此和珥臣等始祖」とこれも世襲足姬の家系の姫からうまれていて、大彦との戦いの前で実際に戦った人物である。
欝色雄が「活目長砂彦妹芹田真誰姬為妻」と武埴安彦に婿入りしていて、その妹鬱色謎に神倭の分家の開化が婿入りし、物部氏と神倭王朝の血統の子が「春日宮御宇天皇」(開化)で、 春日宮御宇天皇も欝色雄の子の武建の妻の妹で大綜杵の子伊香色謎に婿入りして生まれた子が「磯城瑞籬宮御宇天皇」(崇神)だ。
神倭王磯城彦の武埴安彦は『古事記』「大毘古命者、遣高志道、其子建沼河別命者、遣東方十二道而・・・又、日子坐王者、遣旦波国、令殺玖賀耳之御笠」と新たに領地を拡げたが、『古事記』「建沼河別与其父大毘古」のように、領地を拡大したのは大彦親子で、大彦が反乱を起こして武埴安彦親子を駆逐して坐王は「彦坐皇子命子丹波道主王」と丹波に逃れた。
日本では、力があって王を倒したからと言っても王とは認められず、国をまとめるためには血統が重要で、神倭王家とその姻戚物部氏との皇子「磯城瑞籬宮御宇天皇」(崇神)を「御間城入姬即大彦皇子命之女也」と迎え入れ、「纏向珠城宮御宇天皇」(垂仁)が皇位に就いて大彦の王朝が樹立された。
そして、前項で述べたように、『日本書紀』孝元天皇七年「大彦命・・・伊賀臣 凡七族之始祖也」及び「八世孫倭得玉彦命・・・伊我臣祖大伊賀彦女大伊賀姫生四男」と倭得玉彦が大彦の娘婿となって、御間城入姬は倭得玉彦の兄弟で大彦の宮は60年間に3から4世代世襲している。
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