2018年12月19日水曜日

最終兵器の聖典 尾張王朝・天皇王朝4

 「もろすみ」宮は賀茂氏と物部氏と尾張氏が重なった宮だったが、その宮の所在地はもちろん大彦の姫の御間城姬が居る磯城謂瑞籬宮に物部氏の天皇が入宮した地の磯城で、崇神朝で三輪神を祀った賀茂氏の大田田祢古の前の世代は建飯賀田須、尾張氏の建諸隅の妹は崇神天皇妃、物部氏の武諸遇は「磯城瑞籬宮御宇天皇即位六十年詔・・・命使分明檢定獻奉覆命之時乃爲大連」と崇神天皇に大連を与えられている。
ちなみに、物部氏の天皇は紀元前157年から春日宮で大倭と呼ばれ、葛城氏や饒速日が侵入し、建御名方や都味齒八重事代を追い出したのは紀元前214年で神倭と呼ばれ、輕地境原宮で物部氏宇摩志摩治・賀茂氏天日方奇日方の共同統治が始まり、多紐文鏡が出土する天照の磐戸隠れの世界だ。
そして、尾張「七世孫建諸隅命此命腋上池心宮御宇天皇御世爲大臣」と羸津世襲から続く磯城王の妹が崇神天皇の妃の実質天皇の皇太子以上の権限を持つ大臣に建諸隅がなり、正統な後継者で義兄の沙本毘古から政権を奪って纏向に遷ったりが、今のところ135年から230年の桃の種が出土しているので纒向珠城宮で、景行天皇からは葛城氏の宮の年代も予想されるので尾張氏の宮は『日本書紀』から確定できない。
纒向珠城宮の天皇は「八世孫倭得玉彦命 亦云市大稲日命 此命淡海國谷上刀婢爲妻生一男伊我臣祖大伊賀彦女大伊賀姫生四男」と淡海國や伊賀に宮を遷し、淡海國は成務天皇の宮である。
『日本書紀』神功皇后摂政元年忍熊王との戦いで「返屯於住吉・・・紀伊水門・・・船直指難波・・・忍熊王復引軍退之。到菟道而軍之」と難波に向かっていて、「即以山背根子之女葉山媛令祭」と山背根子の娘を宮殿で祀り、「玉勝山代根古命 山代氷主雀部連軽部造蘇冝部首等祖」と尾張氏九世の娘が神功皇后のようで、仁徳天皇は難波高津宮御宇天皇である。
應神天皇「三十年・・・大鷦鷯尊為太子輔之令知國事矣以物部斤葉連公為大臣」と應神天皇の時に皇太子から終焉の大臣となり、別朝廷の大臣物部印葉で滅び妹物部山無媛が「輕嶋豐明宮御宇天皇立為皇妃」で娘「矢田皇女次嶋鳥皇女其矢田皇女者難波高津宮御宇天皇立為皇后」と物部氏の王の象徴の女王を難波高津宮御宇天皇は得ることができた。
そして、尾張氏「十三世孫尾綱根・・・妹尾綱真若刀婢命此命嫁五百城入彦・・・次妹金田屋野姫命此命嫁甥品色真若王生三女・・・仲姫命立爲皇后誕生・・・次大萑天皇・・・品太天皇御世賜尾治連姓爲大江大連」と尾張氏の皇子が仁徳天皇で尾綱根の子たちが尾治連姓と天皇でなくなった。
五百城入彦は『日本書紀』景行天皇四年「八坂入媛爲妃 生七男六女 第一曰稚足彦天皇 第二曰五百城入彦皇子」と垂仁と八坂入媛の子で、八坂入媛は『日本書紀』成務天皇即位前紀「皇后曰八坂入姫命。八坂入彦皇子之女也」と八坂入彦の娘、八坂入彦は『日本書紀』崇神天皇元年「尾張大海媛・・・生八坂入彦命」と尾張七世孫建諸隅の妹である。
共に尾張氏の皇子仁徳天皇は男系も足仲彦王は「大足彦天皇第二皇子童名小碓命日本武尊第二王子足仲彦王尊諱名也母日兩道入姬皇女活目入彦天皇皇女也」と活目入彦天皇の直系、神功皇后は「氣長足姬尊立爲皇后開元(化)天皇兒彦坐皇子命兒山々代大筒城真若王兒迦尓氣長姫命是 朱雷王児息長宿祢女五世」と尾張氏坐王の子孫で、尾張氏十四世「尾治弟彦連次尾治針名根連次意乎巳連此連大萑朝御世爲大臣」と仁徳朝の皇太子で政権を失う。
尾張氏は高倉下が磯城に侵入し、天彦が入り婿してその子孫羸津世襲家が磯城の王者になり、尾張七世孫建諸隅家が物部氏から政権を奪い、仁徳が政権を失った。
そして、『日本書紀』垂仁天皇二年「于斯岐阿利叱智于岐。傳聞日本國有聖皇」と朝鮮から日本と国名を、聖皇と王を呼ばれ、『日本書紀』景行天皇元年「太子即天皇位。因以改元」と改元した王朝が尾張天皇王朝で、淡夜別 大八椅・大縫・小縫・乎止与には氏姓が無く天皇に苗字も役職名もいらない。

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