宇摩志麻治は「橿原宮御宇天皇御世元爲足尼」と物部王朝の神武天皇で、足尼は漢字の無い倭語としては「タラシネ」の意味で国を支配する王の意味と思われ、配下に大尼(尼の中の尼)・『日本書紀』大田田根子・山背根子・眞根子・難波根子等は「尼」の配下である。
三世出雲醜大臣は三河国造の祖、子たちがいくつかの連の祖と領地を広げ、天日方奇日方の子建飯勝の妃が「出雲臣女子沙麻奈姫」、醜の父彦湯支も出雲色多利姫を妃として出雲氏の姫で醜は出雲氏を名乗り、大田田祢古も出雲神門氏の女を妃、子の大御氣持の妃も出雲氏だ。
『古事記』では垂仁天皇「若坐出雲之石くま(石+冋)之曽宮、葦原色許男大神」と出雲氏、開化天皇「朝庭別王者、三川之穂別之祖」と丹波之河上之摩須郎女の皇子朝庭別王も三河の祖で、姉妹の比婆須比売は景行天皇の母、このように、三輪・賀茂氏と物部氏・尾張氏が接点を持ち、これが物部王家の始まりで、紀元前88年から紀元前25年のことだ。
物部氏は「六世孫武建大尼命 欝色雄大臣之子」「七世孫建膽心・・・弟大新河・・・賜物部連公姓」「弟建新川命 倭志紀縣主等祖」とやはり武(たけ)氏を名乗ってから物部姓を使い始める。
賀茂氏は天日方奇日方の弟「四世孫建飯勝」「五代孫建甕尻」「六世孫豊御氣主命 亦名建甕依命」「八世・・・次建飯賀田須此命鴨部美良姫為妻」、尾張氏は「四世孫羸津世襲命・・・次建額赤命此命葛󠄀城尾治置姫為妻」・・・「七世孫建諸隅」と建(たけ)姓が続く。
そして、「八世孫倭得玉彦命」と倭得て璽を持つ王と初代の王名で、後、苗字が無くなり、「十三世孫尾綱根命・・・賜尾治連姓爲」と尾治姓を使い始める。
すなわち、賀茂氏・物部氏・尾張氏は建御名方から続く磯城の王者の後ろ盾がない限り王権を維持できず、王になったときは当然氏姓等は無いが、王を追放されたとき「たけ」氏を名乗るということは「たけ」氏に婿入りしていたため、氏が「たけ」氏だったということで、王を追放されたら不遇になるので、賀茂氏・物部氏・尾張氏に身を寄せて、王家につながる名誉ある人物であり、氏族にとって名誉である為、それぞれの氏を皇子が継いで行くのである。
「建飯勝命此命娶出雲臣女子沙麻奈姫」・「彦湯支命・・・出雲色多利姬為妾」と賀茂氏建飯勝が王位を追放されたとき、出雲氏の姫に彦湯支が婿入りして出雲醜大臣が誕生して長男大祢が王位を継ぎ、出雲醜が皇太子だ。
出雲醜は出雲からやってきた宇摩志麻治で大臣に、それと同時に、「世襲足姬命大臣瀛津世襲」「瀛津世襲・・・次建額赤」と葛城の弟が建氏を名乗り始める瀛津世襲が天日方奇日方で共に大臣で、醜は大臣を続け、瀛津世襲は大臣でなくなるが、妹は皇后で皇子が足彦天皇・率川宮の歴史でこの時の天皇は長髄彦である。
「七世孫建諸隅・・・御世爲大臣供奉葛󠄀木直祖大諸見足尼女子諸見巳姫」と追放される大新河・十市根も前に述べたように葛󠄀木氏の志紀彦の皇子で尾張氏建諸隅が葛城氏に婿入りして皇太子・大臣になった。
伊香色雄「倭志紀彦女真鳥姫爲妾」は出雲醜も「倭志紀彦妹真鳥姬爲妻」と妾ではなく妻にしていて、伊香色雄と出雲醜は親子の物部氏の神武天皇で、伊香色雄は「石上邑則天祖授饒速日尊自天受來天璽瑞寶同共蔵齋号日石上太神以為國家」と天皇の璽を祀ったと述べている。
このように、物部氏は彦湯支命「大神早部馬津名久流久美女阿野姫為妻」・「出雲色多利姬為妾」とこの大神は神倭大神の姫で、出雲氏は大巳貴や饒速日の出身地で出雲・神倭2氏の力と「出雲醜・・・倭志紀彦妹真鳥姬爲妻」と記述するように磯城彦の力で大祢が王位を得て弟
出雲醜が皇太子となりそれが懿徳天皇にあたるとしている。
『古事記』懿徳天皇「娶師木県主之祖、賦登麻和訶比売命、亦名飯日比売命」とこの時磯城彦は縣主になっておらず出雲醜が王位を継いだ時県主になったと考えられる。
『以爲大臣奉齋大神其大臣之号始起此時也』と王家の子以外の実力者が王家の皇太子に成り代わって出雲醜が国を統治する体制が出来上がり、大臣という名が付き、国を統治する権限が移った時、その権力はもう戻らず、物部氏が王権を簒奪した。
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