倭得玉を叔父に持つ垂仁天皇は神倭王家と
羸津世襲家の嫡流の丹波道主王の父坐王の娘を『古事記』「日子坐王・・・又、娶春日建国勝戸売之女、名沙本之大闇見戸売、生子、沙本毘古王・・・次、沙本毘売命、亦名佐波遅比売 此沙本毘売命者、為伊久米天皇之后」と皇后にし、春日氏は『古事記』「天押帯日子命者、春日臣・・・之祖也」とやはり神倭王家・羸津世襲家の姫の子でもあり、その兄の神倭王朝で物部氏の娘婿である羸津世襲の正当な継承者狹穗彦を『日本書紀』垂仁天皇五年「狹穗彦與妹共死于城中」と壊滅させた。
『古事記』若倭根子日子大毘ゝ「息長水依比売、生子、丹波比古多ゝ須美知能宇斯王」と沙本毘古の兄弟の多ゝ須美知能宇斯王の子が「美知能宇志王、娶丹波之河上之摩須郎女、生子、比婆須比売命次弟比売命 次真砥野比売命 次朝庭別王」と垂仁天皇の妃で、朝庭別王と分朝廷を継続し物部氏も石上神宮を祀る大連家と実質皇太子の大臣家に分裂し、『日本書紀』景行天皇十二年「物部君祖夏花」が物部膽咋宿祢のようだ。
それが、「大新河命此命纏向珠城宮御宇天皇御世元爲大臣次賜物部連公姓則改爲大連」で大新河は天皇でなくなったのだから物部姓を授けられて大連となったが、「志賀髙穴穗宮御宇天皇御世元爲太臣次爲宿祢奉齋神宮其宿祢之宮始起此時奉齋矣」と宿殿を祀る宿祢になって「物部膽吐宿祢為大臣也都志賀髙穴穗宮」、「大鷦鷯尊為太子輔之令知國事矣以物部斤葉連公為大臣」と分朝廷の天皇として成務天皇から仁徳天皇まで続いた。
分朝廷は「物部山無媛連公此連公輕嶋豐明宮御宇天皇立為皇妃誕生太子莵道稚郎皇子次矢田皇女次嶋鳥皇女其矢田皇女者難波高津宮御宇天皇立為皇后」と仁徳天皇が婿入りして終了し、莵道稚郎の義弟稚野毛二泒皇子の子孫、「品太天皇五世之孫」と五世之孫が物部後期王朝を復活させて「秦王国」と呼ばれる。
ここに、神倭王朝と物部王朝と尾張家の血を引く垂仁天皇が誕生して沙本毘古の姪を皇后に迎え卑弥呼の宮と呼ばれる纒向珠城宮に入城し、「八世孫物部膽咋宿禰」は「志賀髙穴穗宮御宇天皇御世元爲太臣次爲宿祢奉齋神宮其宿祢之宮始起此時矣 市師宿祢祢(?祖)穴大足尼女比咩古命爲妻」と記述して成務天皇の時代としている。
このように、膽咋宿禰には足尼がすでに終了しているように、孝昭天皇時代の説話が混じり、同じ八世武諸遇は「磯城瑞籬宮御宇天皇即位六十年詔」と崇神天皇末、垂仁天皇時代の人物で、尾張氏の七世孫建諸隅は「腋上池心宮御宇天皇御世爲大臣供奉葛󠄀木直祖大諸見足尼女子諸見巳姫生」と孝昭天皇の時代で妹大海姫は「亦名葛󠄀木髙名姫命 此命礒城瑞籬宮御宇天皇立爲皇妃誕生」と崇神天皇の時代と入り混じっている。
すなわち、ほぼ同世代に漢字が導入されたばかりなので、名前はひらがなで解釈しなければならない時代に同姓同名が存在し偶然とは思えず、賀茂氏の建飯勝命・建甕尻・建飯賀田須、物部氏の武建・武諸遇、尾張氏の建額赤・・・建稲種は尾張氏を中心に姻戚関係となり、同じ地域「たけ」という地域に住んだのではないのだろうか。
すなわち、「もろすみ」宮で尾張氏と物部氏が血縁関係になり、同じ宮を尾張氏と物部氏に記述していると考えた方が辻褄が合い、『日本書紀』崇神天皇六〇年「矢田部造遠祖武諸隅 一書云 一名大母隅也」と『先代旧事本紀』「弟物部大母隅連公 矢集連等祖 巳上三連公志賀髙穴穗宮御宇天皇御世並爲侍臣供奉」と、崇神天皇から成務天皇まで「もろすみ」宮が続いている。
そして、「もろすみ」宮は「大諸見足尼」が足尼の存在できる孝昭天皇時代の「出石心大臣命此命掖上池心宮御宇天皇御世爲大臣奉齋大神新河小楯姬為妻」と出石心の配下になり、出石心の妻が新河氏の姫で「大新河命此命纏向珠城宮御宇天皇御世元爲大臣次賜物部連公姓則改爲大連奉齋神宮」と大新河が「奉齋神宮」で新河の宮が垂仁天皇時に神宮を祀っていて、出石心と大新河は4世代の差とは考えられなず、大新河は初代の新河の意味で、この場合は初代物部連の新河宮の家長の意味なのだろう。
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