史書には倭国王を筑紫君と呼び、『隋書』では大君と呼ばれているが、中臣氏の系図を見ると、中臣烏賊津使主が大臣、中臣勝海連が大連を名乗ったようで、中央では臣や連でも地元では大臣・大連と自称しており、『筑後國風土記逸文』「縣南二里,有筑紫君磐井之墓」と君でも地元では自称大君と呼び、部下にも大君と呼ばせ、「君が代」も「王の代」で「天皇の代」ではない。
そして、磐井の宮は494年から553年まで続いていて、『梁書』天監元年502年「鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍」と武の時代が含まれ、武は『南齊書』建元元年479年「倭王武號爲鎮東大將軍」と記述され、この王朝は478年から始まっているので、武・磐井・葛子三代以上が長男相続を行った。
そして、『日本書紀』応神天皇二十年「倭漢直祖阿知使主」、応神41年「阿知使主等・・・今在筑紫國御使君之祖支。」と安康天皇までを書いた510年頃までの時代に、『先代旧事本紀』雄略「東漢掬直曰大泊瀨天皇之遺・・・軍士圍繞大藏自外拒閇縱火燔殺」と漢直という氏姓ができ、その祖阿知使主が連れてきた宗像に住む工人は筑紫大君の支配で、『日本書紀』崇峻天皇五年「東漢直駒東漢直磐井子也。」と賛に東漢直を授与して磐井は筑紫君、長男葛子も筑紫君で次男が東漢直、三男が倭漢直の氏姓を得たということだ。
日本側にとって筑紫君は歴史的な敵国中国の配下で、日本側の現在呼んでいる呉にたいして漢を使って、また筑紫君自ら将軍位を授与され『漢委奴国王』から倭の漢の配下の王を自負し西の漢に対する東の漢とした可能性もある。
そして、東漢直は元々糟屋王で戦いに敗れて糟屋屯倉とともに蘇我氏の配下となり、『日本書紀』崇峻天皇五年「東漢直駒弑于天皇。或本云。東漢直駒東漢直磐井子也。」と馬子の命令で崇峻天皇を暗殺した。
「東漢直駒偸隱蘇我娘嬪河上娘爲妻。河上娘。蘇我馬子宿禰女也。」と馬子の娘を隠れて強奪と記述するが、崇峻紀を記述しているのは馬子で、しかも、
河上娘は馬子の宮に住んで、駒が通ってきているのだから常識として知らないはずがなく、言い訳で、どのみち、馬子の天下なのだから何を言われても気にもしないだろう。
継体天皇二五年531年の敗戦により筑紫本体の俀国と倭国発生地糟屋郡の倭国が分裂し、俀国は『日本書紀』欽明天皇十七年「別遣筑紫火君 百濟本記云 筑紫君兒 火中君弟」と記述されるように、欽明天皇十五年554年葛子の次男火君が新しい宮で立太子、さらに、568年火君の弟火中君が立太子して俀国筑紫君を継いだ。
分裂は『隋書』俀国伝「大業三年・・・明年・・・復令使者随淸來貢方物 此後遂絶」と俀国との交流を絶ったが、『隋書』煬帝上「大業四年 三月辛酉,以將作大匠宇文愷為工部尚書。壬戌,百濟、倭、赤土、迦羅舍國並遣使貢方物。六年春正月 己丑,倭國遣使貢方物。」と俀国でない倭国と交流している。
唐と倭国の交流は『旧唐書』倭國「貞觀五年,遣使獻方物・・・至二十二年,又附新羅奉表」と631年から交流しているが、『日本書紀』舒明天皇四年632年「唐國使人高表仁等到干難波津」と対応し、『旧唐書』日本「日本舊小國,併倭國之地」と倭国王馬子が崇峻天皇を殺害して倭国が日本を奪ったこと、そして、倭国が小国で元倭国の俀国によって670年に奪われたことを証明している。
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