2018年11月9日金曜日

最終兵器の聖典 筑紫倭国5

 前項で倭国の神武天皇が紀元前186年に建国したと述べたが、『漢書』「樂浪海中有倭人,分為百餘國」と漢初紀元前200年頃、倭人が千戸程度(魏志倭人伝で1国千戸)の国が群立状態だったが、紀元前186年頃、『後漢書』「使驛通於漢者三十許國」と複数国の代表が生まれ、その中に篠栗の神武が建国し、『後漢書』「其大倭王居邪馬臺國」とその中の代表「大王」になったのが、「建武中元二年」より以前の前漢の時代、私は紀元前100年頃と考えている。
なぜなら、実質の記事が記述されるのは『日本書紀』「惟我皇祖。諸天皇等。光臨宸極者。豈爲一身乎。蓋所以司牧人神經綸天下」の記事の紀元前94年で、漢皇帝に認められ、漢から文字記録を習い、元号というものを覚えたのが紀元前100年から始まった仮名孝昭の宮の初代大王と考えられるからだ。
『先代旧事本紀』の磯城彦・葛城彦・大彦の「羸津世襲」も『日本書紀』の孝昭天皇の時代に当てはめているのは偶然とは思えない。
そして、初代倭大王(大君)が紀元前100年に誕生したが、『古事記』「「神八井耳命者、意富臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君」・『先代旧事本紀』景行天皇「草木命 日向君祖」・『肥前國風土記』 「磯城瑞籬宮御宇御間城天皇之世・・・賜姓名曰-火君健緒純,便遣治此國因曰火國」と不思議なことに筑紫君が応神天皇より前に出現せず、畿内の日本国とは別国ということが解る。
そして、『日本書紀』応神四一年「阿知使主等自呉至筑紫。時胸形大神有乞工女等。故以兄媛奉於胸形大神。是則今在筑紫國御使君之祖支。」と阿知使主が筑紫國御使君之祖と記述され、「使主」は「おみ」と訳されるが、「臣・おみ」とは読めず、「ぬしつかい」で畿内日本国の支配下でない国の記述法で、実質は臣で、臣とは多数の主を使役する立場の意味となり、「使君」は同じく「きみつかい」で複数の君(王)を使役する大王の意味だ。
すなわち、後に筑紫大君になる阿知が織物の職人を連れてきたということで、応神紀を記述した500年頃筑紫大君と呼んでいたことがわかるが、『日本書紀』応神三年「百濟國殺辰斯王以謝之。紀角宿禰等便立阿花爲王而歸」応神三年が392年と対応し、応神四一年は430年で『宋書』元嘉七年「是月 倭國王遣使獻方物」と対応し、都加使主が実質大王の皇太子賛と考えられる。
それは、『日本書紀』履中天皇「圍太子宮。時平群木菟宿禰・物部大前宿禰・漢直祖阿知使主、三人、啓於太子。太子不信」、『古事記』履中天皇「阿知直白、墨江中王、火著大殿。」と阿知使主が400から405年の履中天皇に記述されていることから、430年に子の都加使主が活躍する年代とわかる。
さらに、筑紫大君の祖阿知使主が『日本書紀』応神天皇二十年「倭漢直祖阿知使主。其子都加使主。並率己之黨類十七縣而來歸焉。」と十七縣(国)を引き連れて畿内日本に帰順したと記述するが、対倭国戦に勝利したが、臣や君と呼んでいないので名目上の配下で筑紫国を認めた程度、物部氏が認めるのは、磐井を国造と呼んで、葛子から筑紫君と認められた。
古田氏は『筑後國風土記逸文』「昔此堺上,有麤猛神,往來之人,半生半死。其數極多。因曰人命盡神。于時,筑紫君、肥君等占之,令筑紫君等之祖甕依姬,為祝祭之自爾以降,行路之人,不被神害」から甕依姬が卑弥呼と述べるが、卑弥呼には子が無くおそらく台与のことで、『日本書紀』継体天皇二一年「磐井掩據火豐二國」と火・豊を占領するが豊君等之祖と記述していないことから、筑紫君は「筑紫君葛子恐坐父誅。獻糟屋屯倉。求贖死罪」と糟屋郡を献上しているので火国・福岡平野西部と磐井の墓が八女にあるので筑後までが俀国領域のようだ。
そして、磐井が国造と呼んだのは秦王国で、巨勢氏は墨江中王 との戦いで働きがあったので筑紫君と認めたのが雄略天皇から仁賢天皇までの間まで大君で、巨勢氏と筑紫君対物部・蘇我連合との戦いで、勝った蘇我氏が糟屋屯倉・熊襲以東・安芸以西を得て糟屋に宮を置き、倭国を名乗り、物部氏が吉備以東を手に入れた可能性が高い。

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